第24話「最初の姉の最後の日」
家族にとって本当に向き合うのが難しいのは、失ったという事実だけではない。長い年月のあとで、あの日、誰かが選び、誰かが迷い、そして別の道もあり得たのだと認めることなのかもしれない。
【須佐之男の仮住まい】
朝。
床に一枚の木板が置かれていた。
そこには、あまり上手とは言えない字で七つの名前が並んでいる。
稲世。稲音。稲澄。稲葉。稲乃。稲月。稲羽。
須佐之男と奇稲田姫は、その板を挟んで向かい合っていた。昨日までなら、須佐之男が思いついたことを口にし、奇稲田姫がそれを止めることのほうが多かった。だが今朝は違った。二人とも、まず何を確かめるべきなのかを考えていた。
須佐之男は一番上の名前を指した。
「稲世」
「うん」
「まず、この人から調べる」
奇稲田姫が顔を上げる。
「どうして?」
「最初だから」
それだけ言ってから、須佐之男は少し考えた。
「最初に起きたことが、後の形を決めたんだろ」
奇稲田姫は黙って聞く。
「もし最初の年から、俺たちが思ってるのと違ってたなら」
須佐之男は七つの名前を順に見た。
「後の七年も、全部見直さないといけない」
奇稲田姫はしばらく彼を見ていた。
以前なら「珍しく考えたね」とでも言ったかもしれない。
今日は言わなかった。
ただ、頷いた。
「じゃあ、稲世から」
二人の最初の調査が始まった。
⸻
【出雲・村西の穀倉】
午前。
稲世が建てるのを手伝ったという古い穀倉では、宗太が戸の修理をしていた。
須佐之男が近づく。
「聞きたいことがある」
「最近そればっかりだな」
「稲世の最後の日」
宗太の手が止まる。
「会ったか?」
宗太はすぐには答えなかった。
奇稲田姫を見る。
その視線には、言うべきか迷う色があった。
やがて。
「ああ」
「どこで?」
「ここだ」
奇稲田姫が古い穀倉を見る。
「祭りの日に?」
「そうだ」
須佐之男も眉を寄せた。
祭りへ送られる日に、なぜ稲世はここへ来たのか。
宗太は一本の古い柱まで歩き、根元に手を置いた。
「何かを取りに来た」
「何を?」
「知らない」
宗太は首を振る。
「俺は十四だった。稲世に、誰にも言うなって言われた」
須佐之男が聞く。
「言った?」
「言ってたら今こんな話してない」
奇稲田姫が柱の根元を見る。
「それから?」
「ここを掘ってた」
須佐之男がすぐしゃがむ。
「何か埋めてた?」
「そこまでは見てない」
土は七年分の雨と人の足で固く締まっている。
須佐之男が手をかけると、宗太がすぐ言った。
「倉を倒すなよ」
「倒さない」
「お前、前もそう言って――」
「分かった」
須佐之男は途中で遮ったものの、掘る手は少しだけ慎重になった。
奇稲田姫も隣にしゃがる。
しばらくして。
指先に硬いものが触れた。
石ではない。
須佐之男が土を払う。
古い木片だった。
奇稲田姫が受け取り、表面の泥を丁寧に拭う。
文字はない。
代わりに、いくつかの線が刻まれていた。
村。
川。
北の山。
そして、山道の途中に一つの印。
奇稲田姫の目が止まる。
「道……?」
須佐之男も覗き込む。
「たぶん」
宗太の顔からも、いつもの軽さが消えていた。
奇稲田姫は木片を握る。
「姉さん」
「逃げようとしてたんだ」
宗太が小さく言った。
「そういえば、あの晩」
二人が振り返る。
「足名椎さんの家、しばらく誰もいなかった」
奇稲田姫の表情が変わる。
「家ごと?」
「ああ」
「私も?」
宗太は記憶を探すように眉を寄せた。
「お前はまだ小さかった。たぶん一緒だった」
奇稲田姫は何も言わなかった。
自分自身もそこにいた。
なのに。
何一つ覚えていない。
⸻
【奇稲田姫の家】
木片を見た瞬間。
足名椎の顔から血の気が引いた。
手名椎も、すぐにそれが何なのか分かったらしい。
「どこで見つけたの」
「谷倉」
奇稲田姫が答える。
足名椎は目を閉じた。
須佐之男は回りくどく聞かなかった。
「逃げるための道か?」
長い沈黙。
やがて。
足名椎が頷く。
「……そうだ」
奇稲田姫は怒鳴らなかった。
ただ父を見た。
「話して」
その一言に。
足名椎は七年前へ引き戻された。
⸻
【七年前・出雲北方】
夜。
雨は今より激しかった。
足元の田はほとんど水に沈み、雷が光るたび、暗闇の中に家族の姿だけが浮かび上がった。
若い足名椎の背には、まだ幼い奇稲田姫がいる。
手名椎は幼い娘たちの手を引き。
一番前を。
稲世が歩いていた。
火は持っていない。
見つからないためだった。
「北へ」
稲世が言う。
足名椎が低い声で返す。
「北の山道は危ない」
「河口はもう見張られてる」
「でも――」
「このまま村にいたら、私は明日死ぬ」
足名椎は何も言えなくなる。
手名椎が言った。
「稲世の言う通りにしよう」
一家は。
北へ向かった。
あの年。
彼らはただ祭りを受け入れたのではない。
本当に。
逃げたのだ。
⸻
【奇稲田姫の家】
「私たちも?」
奇稲田姫が聞く。
手名椎が頷く。
「全員で」
奇稲田姫は父を見る。
足名椎は木片から目を離さない。
「あの頃は」
掠れた声で言う。
「村を出れば、それで終わると思ってた」
奇稲田姫は黙る。
以前。
なぜ逃げなかったのかと。
何度も思った。
答えは。
逃げなかった、ではなかった。
逃げた。
そして。
戻った。
問題はそこだった。
⸻
【七年前・山道】
一家が山へ入ってしばらくしたころ。
木々の間から突然、人影が現れた。
足名椎が身構える。
「誰だ」
現れたのは弥代だった。
今より若い。
だが不機嫌そうな顔は変わらない。
背負っていた包みを、足名椎へ押しつける。
「持ってけ」
「これは」
「米と干した芋。少し塩も入ってる」
手名椎が息を呑む。
「弥代さん……」
「礼なんかいらない」
弥代は周囲を見回す。
「早く行きな」
稲世が頭を下げた。
「ありがとう」
弥代は。
その顔を見ないようにした。
「戻ってくるんじゃないよ」
少し間を置く。
今度は、もっと強く。
「本当に」
「戻ってくるんじゃない」
⸻
【弥代の家】
現在。
弥代は干し菜を並べながら、面倒そうに言った。
「何を今さら」
須佐之男が聞く。
「逃げたこと、ずっと知ってたんだな」
「知ってたよ」
奇稲田姫が言う。
「どうして私には言わなかったの」
弥代の手が止まる。
しばらくして。
「戻ってきたからだよ」
奇稲田姫は目を逸らさない。
「どうして戻ったの」
「それは父親に聞きな」
「うまく話してくれない」
弥代が鼻で笑った。
「話せないんじゃない」
奇稲田姫を見る。
「話したら」
少し間を置く。
「お前に恨まれるのが怖いんだよ」
⸻
【七年前・出雲北境】
夜明けが近かった。
一家は。
ほとんど村の境を越えていた。
雨が。
少しだけ弱くなる。
足名椎は初めて息を吐いた。
手名椎は眠った娘を抱き直す。
あと少し。
そう思ったとき。
遠い村から。
鐘が鳴った。
一度。
二度。
短く。
激しく。
稲世の足が止まった。
「歩け」
足名椎が言う。
稲世は動かない。
また鐘。
山の隙間から。
遠い村が見える。
黒い水が。
田を越え。
家々へ向かっていた。
「村に水が入ってる」
「見るな」
手名椎が言う。
だが。
稲世は見ていた。
「父さん」
「歩け」
「まだ人がいる」
足名椎の声が強くなる。
「俺たちには関係ない」
稲世が父を見る。
足名椎は。
さらに強く言った。
「関係ないんだ!」
娘にではなく。
自分自身に。
そう言い聞かせるように。
稲世は。
何も答えなかった。
⸻
【奇稲田姫の家】
「それで」
奇稲田姫が聞く。
「姉さんが自分で戻るって言ったの?」
足名椎は。
すぐには答えなかった。
「最初は」
奇稲田姫の目が鋭くなる。
「最初は?」
手名椎が夫を見る。
足名椎は、もう隠せないことを知っていた。
「止めた」
須佐之男が聞く。
「それでも戻った?」
足名椎は頷く。
そして。
もっと小さな声で続ける。
「だが」
「途中で」
喉が詰まる。
「怖くなったんだ」
奇稲田姫が。
動きを止めた。
⸻
【七年前・村へ戻る山道】
祭りの鐘が近づくほど。
稲世の歩みは遅くなった。
最初は前を歩いていた。
やがて父と並び。
さらに。
後ろへ下がる。
手が震えていた。
突然。
立ち止まる。
「……行かない」
足名椎が振り返る。
「稲世?」
涙が。
一気に溢れた。
「行かない」
「私」
息がうまくできない。
「さっきは行けると思った」
「でも」
「今は無理」
手名椎は。
迷わず娘へ向かった。
「じゃあ行かなくていい」
稲世を見る。
「戻ろう」
足名椎は。
動かなかった。
遠くの水を見る。
娘を見る。
何も言えない。
手名椎が言う。
「あなた」
「行くよ」
稲世も。
震えながら頷く。
二人が向きを変えた。
そのとき。
山道の向こうから。
人影が現れた。
若い大原道主と。
数人の村人だった。
全員。
全身ずぶ濡れだった。
誰も稲世へ近づかない。
道主が遠くから言う。
「堤が切れた」
足名椎の顔が白くなる。
「下の家が二軒、流された」
手名椎が言う。
「私たちには関係ない」
道主は。
否定しなかった。
責めもしなかった。
ただ。
一つだけ言った。
「まだ中に」
「子供がいる」
空気が。
変わった。
⸻
誰も。
稲世の腕を掴まなかった。
誰も。
戻れと命令しなかった。
だからこそ。
逃げ道が。
消えていった。
稲世は泣きながら言った。
「もう言わないで」
道主は黙る。
足名椎も。
何も言わない。
村人たちも。
ただそこにいる。
遠くで。
鐘が鳴る。
稲世が震える声で聞いた。
「私が戻ったら」
「本当に水は引くの?」
答えられる者はいない。
当時の祭司が。
やがて言った。
「これまでは」
それだけだった。
稲世の顔が崩れる。
「死にたくない」
手名椎が。
すぐ娘を抱きしめた。
「死ななくていい」
「行こう」
「もう行こう」
けれど。
足名椎だけが。
動かなかった。
稲世は。
母の肩越しに。
父を見る。
父が。
村の方角を見ていることに気づいた。
⸻
【奇稲田姫の家】
「それから?」
奇稲田姫の声が。
もう少し低くなる。
足名椎は。
泣き始めていた。
静かに涙を流すのではない。
言葉を出そうとするたび。
息が崩れる。
「俺は」
長い間。
続きが出ない。
「……もう一度、考えてみろって言った」
奇稲田姫の身体が固まる。
手名椎が目を閉じた。
あの日。
確かに聞いた言葉だった。
足名椎は震えながら続ける。
「戻れとは言わなかった」
「行けとも」
「ただ」
「もう一度」
顔を覆う。
「考えてみろって」
奇稲田姫は。
父を見たまま。
何も言わない。
命令ではない。
だからこそ。
もっと複雑だった。
⸻
【七年前・山道】
稲世は。
父を見ていた。
誰も「お前が行け」とは言わない。
でも。
村は水に沈み始めている。
村人はそこにいる。
妹たちは泣いている。
母は逃げようと言う。
父は。
もう一度考えろと言った。
逃げることも。
戻ることも。
最後は自分の言葉にしなければならなかった。
稲世は。
長い間泣いた。
そして。
涙を手で拭った。
「……戻ろう」
手名椎の顔が変わる。
「稲世」
稲世は母を見なかった。
父だけを見る。
「でも」
「約束して」
足名椎の唇が震える。
「何を」
稲世は。
後ろにいる妹たちを見る。
まだ幼い。
自分がいなくなったあとも。
生きていくはずの妹たち。
「次は」
声が震える。
「この子たちを行かせないで」
足名椎は。
泣きながら。
何度も頷いた。
「約束する」
稲世は。
それを聞いて。
村の方角へ歩き始めた。
⸻
【奇稲田姫の家】
七年前の約束が。
今。
同じ家の中へ戻ってきた。
奇稲田姫が父を見る。
「約束したんだ」
「……ああ」
「それで翌年」
足名椎は目を閉じる。
「稲音が行った」
「……ああ」
「その次は稲澄」
「……ああ」
「稲葉」
返事がない。
奇稲田姫の声が震え始める。
「稲乃」
「稲月」
「稲羽」
そして。
自分の胸へ手を置く。
「今度は私」
足名椎は。
もう娘を見ることができない。
奇稲田姫の目から。
ようやく涙が落ちた。
「父さんが本当に姉さんに謝らなきゃいけないのは」
足名椎が。
顔を上げる。
「連れ戻したことだけじゃない」
奇稲田姫は。
泣きながら言った。
「約束したことだよ」
少し間を置く。
「守れない約束をして」
「一度も」
「守れなかったこと」
誰も。
その言葉を否定できなかった。
⸻
【斐伊川】
奇稲田姫は一人で家を出た。
須佐之男は追ったが。
すぐ隣には行かなかった。
少し離れて歩く。
川まで来て。
奇稲田姫が止まる。
須佐之男が聞いた。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃない」
即答だった。
須佐之男は頷く。
「うん」
奇稲田姫が見る。
「またそれ」
「何を言えばいいか分からない」
「じゃあ言わなくていい」
二人は。
川辺に座った。
長い間。
水の音だけを聞いた。
やがて。
奇稲田姫が言う。
「今日ずっと」
「一つだけ期待してた」
「何を?」
「誰かが」
膝を抱える。
「姉さんは無理やり連れ戻されたって言ってくれたらいいと思ってた」
須佐之男は。
意味を理解した。
そのほうが。
誰を恨めばいいのか分かる。
「それか」
奇稲田姫は続ける。
「姉さんがすごく強くて」
「自分で村を救うって決めたとか」
「それでもよかった」
川を見る。
「でも」
「どっちでもなかった」
須佐之男が言う。
「怖かった」
「うん」
「逃げたかった」
「うん」
「でも、他の人が死ぬのも嫌だった」
奇稲田姫は。
また頷く。
須佐之男は少し考える。
「それ」
「すごく人らしいと思う」
奇稲田姫が顔を上げる。
「人って」
須佐之男は川へ小石を投げた。
「逃げたいと思ったあとに戻ったり」
「大丈夫だと思ったあとに怖くなったり」
「勇気が出たと思った次の瞬間に泣いたり」
水面に。
小さな輪が広がる。
「そういうもんじゃないのか」
奇稲田姫は。
泣きながら。
少し笑った。
⸻
「あなたも?」
「俺?」
「そうだった?」
須佐之男は少し考える。
「俺はもっとひどかった」
「どれくらい?」
「それは」
須佐之男は空を見る。
「時間があるときに話す」
奇稲田姫は。
少し黙ったあと。
「私」
「そんなに時間ないかもしれないよ」
空気が。
一瞬で現実へ戻った。
祭りの日は近い。
須佐之男の顔から。
僅かに笑いが消える。
以前なら。
すぐに。
俺が助ける。
俺が何とかする。
そう言っただろう。
今日は。
言わなかった。
代わりに。
「じゃあ」
「調べるの、少し急ごう」
奇稲田姫は。
彼を見た。
そして。
静かに頷いた。
「うん」
⸻
【出雲・旧祭路】
午後。
御影が古い地図を持ってきた。
最初の祭りに使われた場所。
今はもう。
誰も近づかない。
三人で古い道を歩く。
「最初の年はここだった」
御影が言う。
「二年目から場所を変えた」
須佐之男が周囲を見る。
川が近い。
近すぎる。
「どうして変えた」
「翌年、ここが崩れた」
須佐之男はしゃがむ。
地面へ手を置いた。
目を閉じる。
奇稲田姫は。
何も言わず待った。
長い沈黙。
須佐之男の意識は。
土の下を流れる水へ向かっていた。
昔。
海を司っていたころなら。
考えるまでもなく分かったもの。
今は。
もっと遠い。
それでも。
水は消えていない。
須佐之男が突然目を開けた。
「ここ」
「変だ」
奇稲田姫がしゃがむ。
「何が?」
須佐之男は地面を見る。
「下に」
「別の水があった」
御影が眉を寄せる。
「川なら目の前だ」
「違う」
須佐之男は立ち上がり。
ゆっくり歩く。
地面の下を探るように。
やがて。
大きな岩の前で止まる。
「ここから下へ」
指を山側へ向ける。
「それから奥へ続いてる」
奇稲田姫が言う。
「地下の川?」
「たぶん」
御影が首を振る。
「記録にはない」
須佐之男は。
当たり前のように答えた。
「川は記録なんか読まない」
奇稲田姫が。
少しだけ彼を見る。
このときの須佐之男は。
いつもの無鉄砲な少年ではなかった。
水を知っている神だった。
⸻
三人で草と泥を除けると。
岩陰から。
小さな穴が現れた。
大きな獣が出入りできるほどではない。
しかし。
奥から。
確かに水の音がする。
奇稲田姫が周囲を見ていたとき。
石の隙間に。
赤いものがあるのを見つけた。
指を入れる。
引き抜く。
その瞬間。
動きが止まった。
古い簪だった。
ひどく腐食している。
それでも。
赤い色が僅かに残っている。
奇稲田姫は。
それを知っていた。
稲世の遺品と。
同じ形。
「……そんなはずない」
御影も息を呑む。
須佐之男が聞く。
「家にあるのは、本当に稲世の?」
「そう聞いてる」
「確か?」
奇稲田姫は。
答えに詰まった。
母から。
そう聞いただけだった。
三人は。
泥に汚れた簪を見る。
七年間。
誰も知らなかった問いが。
一つ増えた。
なぜ。
二本ある。
⸻
【奇稲田姫の家】
夕暮れ。
二本の赤い簪が。
並んでいる。
家に残っていたもの。
旧祭場から見つかったもの。
手名椎は。
それを見るなり。
顔色を変えた。
足名椎が呟く。
「これは……」
手名椎は夫を見た。
そして。
隠さなかった。
「家にあるほうは」
「稲世が最後につけていた簪じゃない」
奇稲田姫が顔を上げる。
「どういうこと?」
手名椎は。
家に残っていた簪へ触れる。
「祭場へ行く前」
「稲世が私に渡したの」
「どうして?」
「何か」
手名椎の声が揺れる。
「何か一つでも」
「あなたたちのところに残したかった」
奇稲田姫は。
その簪を見る。
大切にしまわれていた理由を。
初めて知った。
須佐之男は。
もう一方を見る。
「じゃあ」
泥のついた簪。
「こっちは誰のだ」
誰も答えられない。
そのとき。
足名椎の表情が変わった。
「待て」
全員が見る。
「その年」
何かを思い出そうとしている。
「もう一人いた」
御影が眉を寄せる。
「何の話だ」
「祭場の近くで」
足名椎はゆっくり言った。
「女の子が一人、いなくなった」
奇稲田姫が聞く。
「誰?」
「村の子じゃない」
「川向こうの村だ」
御影の顔が険しくなる。
「そんな記録はない」
「祭りに出された子じゃなかったからだ」
須佐之男がすぐ聞く。
「いつ消えた?」
足名椎が。
二本の簪を見る。
「稲世と」
少し間を置く。
「同じ夜だ」
部屋が。
静まり返った。
最初の祭りで。
消えた娘は。
一人ではなかった。
⸻
【村の寄合所】
夜。
話を聞いた大原道主は。
はっきり言った。
「ここまでだ」
御影が顔を上げる。
「なぜ」
「祭りが早まってる」
「だから調べるんだろ」
「違う」
道主は。
低く言う。
「早まっているからこそ」
「今、人を乱すわけにはいかない」
戸口に立っていた須佐之男が言った。
「知ってるな」
大原道主が見る。
「その娘」
「知ってるだろ」
道主は答えない。
その沈黙で。
須佐之男には十分だった。
「誰だ」
「関係ない」
そのとき。
後ろから声がした。
「ある」
奇稲田姫だった。
部屋へ入る。
「関係ある」
大原道主が低く呼ぶ。
「奇稲田」
彼女は退かない。
「私の姉さんたちは」
「七人の人間だった」
「でも」
道主を見る。
「あなたたちは七回の祭りにした」
誰も口を挟まない。
「だから」
「もう一人を」
「関係のない人にしないで」
大原道主は。
長く奇稲田姫を見た。
やがて。
目を閉じる。
「沙夜」
奇稲田姫が。
その名前を繰り返す。
「沙夜」
須佐之男も。
心の中で覚える。
道主が続けた。
「川向こうの村の娘だ」
「十七だった」
「稲世の祭りの夜に消えた」
「遺体は?」
須佐之男が聞く。
「見つかってない」
「なぜ記録しなかった」
大原道主の顔が。
さらに硬くなる。
「翌朝」
「向こうの村の者が来た」
御影が聞く。
「何を言った」
「探すな、と」
「なぜ」
大原道主は。
一度息を吐いた。
「自分から山へ入ったと言った」
奇稲田姫が聞く。
「どうして?」
「知らない」
また。
知らない。
昨日までなら。
それは話を終わらせる言葉だった。
今は。
違う。
それは。
調べるべき場所を示す言葉になり始めていた。
⸻
【須佐之男の仮住まい】
深夜。
例の木板が。
再び床に置かれている。
七つの名前。
その下へ。
須佐之男が一つ追加した。
沙夜。
その下に。
大きな「?」。
奇稲田姫が隣に座っている。
「大姉さんと会ってたかもしれない」
「かもしれない」
「簪も沙夜のものかもしれない」
「かもしれない」
奇稲田姫が横を見る。
「あなたまで『かもしれない』ばっかりになったね」
須佐之男は木板を見る。
「まだ決めちゃ駄目だろ」
奇稲田姫は。
少しだけ黙った。
十日前の須佐之男なら。
最初に思いついた答えを。
そのまま真実にしていたかもしれない。
今は。
線を引く前に。
止まることを覚え始めている。
奇稲田姫は。
そのことを口にはしなかった。
⸻
【出雲・山中地下水路】
同じ頃。
完全な暗闇。
岩の隙間を。
水が流れている。
地上からは。
誰にも見えない場所。
その奥。
腐りかけた小さな木箱が。
石の間に挟まっていた。
水が触れるたび。
僅かに揺れる。
やがて。
箱の蓋が。
内側から押されたように。
ほんの少し開いた。
中に。
骨はない。
あるのは。
腐りかけた布。
そして。
小さな木札。
水に削られながらも。
まだ読める。
稲世。
暗闇のさらに奥から。
低い呼吸が聞こえる。
一度。
そして。
別の方向から。
ごく小さな音。
人の声にも。
聞こえた。
誰かが。
深い闇の向こうで。
何かを言っている。
だが。
水音に消され。
言葉までは聞き取れなかった。
⸻
【奇稲田姫の部屋】
深夜。
奇稲田姫は。
姉たちの木箱を開いていた。
稲世の赤い簪を手に取る。
七年間。
これは。
姉の最後の姿を残すものだと思っていた。
今は違う。
これは。
死ぬ前の姉が。
家族のもとへ。
自分で置いていったものだった。
奇稲田姫は。
簪を掌に載せる。
「姉さん」
小さく言う。
「あなた」
「あの日」
「何を見たの?」
⸻
【須佐之男の仮住まい】
須佐之男も。
眠っていなかった。
横になったまま。
木板を見ている。
稲世。
沙夜。
二つの名前。
一度。
その間に線を引く。
じっと見る。
そして。
指で擦って消した。
まだ。
繋がったとは限らない。
須佐之男は。
自分に言い聞かせるように呟いた。
「急ぐな」
奇稲田姫に向けた言葉なのか。
自分自身への言葉なのか。
本人にも。
分からなかった。
⸻
【山中地下水路】
水は。
さらに深い場所へ流れていく。
一つ。
二つ。
三つ。
別々の岩間から来た水が。
少しずつ。
同じ暗闇へ集まっていく。
やがて。
八つの流れが。
一つの場所へ。
しかし。
その脇に。
極端に狭い石の道があった。
獣が通るには。
狭すぎる。
壁には。
傷がある。
規則的な傷。
爪でも。
牙でもない。
誰かが。
道具を使って。
岩を削った跡。
人の手だった。
⸻
暗転。
雨音。
そして。
初めて。
稲世の声が聞こえる。
「私は、あの日」
雨の中。
泣きながら立っている若い女の背中が浮かぶ。
「本当に逃げたかった」
暗くなる。
「それでも」
再び。
村の方角を見る稲世。
「本当に、戻ろうとも思った」
また暗転。
水の音だけが残る。
「人は時々」
少し間を置く。
「同じ一日の中で」
声が。
さらに小さくなる。
「まったく反対のことを」
「どちらも本気で選ぶ」
遠く。
地下を流れる水の音。




