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出雲の雨  作者: 幕神成


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25/29

第25話 鈴のない夜

 最初の知らせは、宗太が持ってきた。


 須佐之男が小屋で手を洗っていると、戸が二度、強く叩かれた。


「川を見てくれ」


 濡れた手を拭く間もなく、戸を開ける。


 宗太の裾は泥に汚れていた。走ってきたらしく、肩で息をしている。


「水が増えたのか」


「逆だ。減ってる」


 須佐之男は、外の空を見た。


 雲の切れ間に星が出ている。山を下りてから、雨は一度も降っていなかった。


「どのくらい」


「洗い場の石が、三つとも出た。夕方には一つしか見えてなかった」


 須佐之男は灯りと縄を取り、宗太について外へ出た。


     *


 洗い場には、御影がいた。


 竿を水へ差し入れ、岸に刻んだ印と比べている。


 須佐之男が近づくと、顔を上げた。


「下がり方が早い」


 川底の石が、灯りの下で濡れて光っていた。


 普段なら水に隠れている葦の根元まで見える。石の間に取り残された小魚が、浅い窪みで跳ねた。


 須佐之男は岸へ膝をつき、水に触れた。


 流れは弱い。


 だが、川下へ抜ける力が弱まっただけではなかった。水の中に、反対へ引かれるような重さが混じっている。


 山の水路で、鈴が鳴る直前に感じたものと似ていた。


「岸から離れよう」


 須佐之男は立ち上がった。


「戻ってくるかもしれない」


「山で見たのと同じか」


「似ている。ここまで同じ動きをするかは、まだわからない」


 御影は竿を抜いた。


 宗太が上流を見やる。


「見に行くか」


「暗いところへ入るな」


 須佐之男はすぐに言った。


「まず、下の家に知らせてくれ。子供と歩きにくい者を、社へ。荷物はあとでいい」


 宗太が御影を見た。


 御影は頷いた。


「私も行く。須佐之男、橋を頼む。人を渡らせないように」


「ああ」


 走り出す二人を見送り、須佐之男は川へ目を戻した。


 水面が、また少し下がった。


     *


 橋の近くでは、岩彦がまだ起きていた。


 戸を叩いて事情を告げると、老人は着物の紐を結びながら外へ出てきた。


「下がったあと、どこまで上がる」


「わからない」


「なら、川べりには近づけんな」


 岩彦は壁に立てかけた棒を取り、須佐之男へ一本渡した。


「人を止めるのはわしがやる。お前は溜め池の口を見ろ」


 村へ来た日に、石橋の詰まりを逃がすために使った水路だった。


 須佐之男は頷きかけ、足を止めた。


「池に、まだ余裕はあるか」


「昼にはあった。だが、畑から枝が流れ込んどるかもしれん」


「確かめる」


 走り出した彼の背に、岩彦が声を飛ばした。


「暗いぞ。足元を照らせ」


     *


 溜め池へ続く溝には、刈り草が引っかかっていた。


 須佐之男は棒でそれを引き寄せた。水へは入らず、岸から届く分だけを掻き出す。


 灯りが一つ、後ろから近づいてきた。


「ここか」


 昼間、稲乃たちの小屋の前で声を荒らげた男だった。


 手には鍬を持っている。


「岩彦に言われた。枝をどけろと」


「助かる」


 須佐之男は場所を空けた。


 男は膝をつき、刈り草の下に噛んでいた枝を引き抜いた。


「女や子供は、もう上へ行かせた」


「家は、川に近いのか」


「洗い場の向こうだ」


 男は草を道へ投げた。


「床下まで来たことがある。あのときは、米を半分駄目にした」


 須佐之男は池の縁へ灯りを向けた。


 水面までは、まだ高さがある。


 だが、川の水をすべて受けられる広さではない。ここへ逃がせるのは、溝を通る分だけだった。


 男が立ち上がる。


「口をもっと広げるか」


「今は、このままで」


「細すぎるだろう」


「広げて流れが強くなったら、岸が削れる。池の縁も、暗くて確かめきれない」


 男は不満そうに溝を見たが、鍬を下ろした。


 そのとき、遠くで木を打つ音がした。


 二度。


 少し間を置いて、また二度。


 御影が決めた、川から離れるための合図だった。


 須佐之男は灯りを持ち上げた。


「戻ろう」


     *


 社の前には、すでに何人もの村人が集まっていた。


 寝巻きのまま子供を抱く女。米袋を背負った男。片方しか草鞋を履いていない老人。


 奇稲田は戸口に立ち、入ってくる者の顔を確かめていた。


「奥に座って。濡れたものは、ここへ」


 稲乃が敷物を広げ、稲羽は運ばれてきた水筒を並べていた。


 山から下りた者と村に住む者が、同じ狭い部屋で膝を寄せている。


 少年が、お登勢の肩へ掛けていた布を少しずらした。


 隣に座った小さな子供の足へ、半分を掛ける。


 その母親が頭を下げた。


 少年は何も言わず、お登勢のそばへ座り直した。


 須佐之男は戸口で奇稲田を呼んだ。


「川沿いで、まだ来ていない家は?」


「御影さんが確かめてる。宗太は、下の三軒へ行った」


「ここから川を見に行かせないでくれ」


 奇稲田は彼の泥だらけの手を見た。


「あなたは?」


「橋へ戻る。岩彦と交代する」


「一人にならないで」


「ああ」


 短く答え、須佐之男は灯りを持ち直した。


 社を出るところで、阿弥が立っていた。


「鈴は?」


「聞こえない」


 彼女は暗い山を見た。


 昼間、避難するときには何度も顔を向けた方角だった。


「鳴らなくなったんだね」


「仕掛けが壊れたのかもしれない」


「静かだと、余計にわからない」


 阿弥は自分の腕を一度擦り、社の中へ戻った。


     *


 橋へ着く前に、水音が変わった。


 低かった流れの音に、石がぶつかるような響きが混じる。


 須佐之男は足を止めた。


 灯りの届く範囲で、水面が持ち上がった。


 白く泡立つ波ではなかった。


 黒い水が、川幅いっぱいに盛り上がってくる。その先に枝や草が集まり、岸へ擦れながら流れてきた。


「岩彦!」


「見えてる!」


 橋の手前で、老人が棒を振った。


 川を覗きに来ていた男二人が、慌てて道を戻る。


 須佐之男は岩彦の腕を取り、一緒に高い側へ上がった。


 水が橋脚へ当たった。


 鈍い音がした。


 橋は揺れなかったが、枝が横向きに引っかかった。その後ろへ、さらに細い枝が絡みつく。


 須佐之男は手を伸ばしかけた。


 水を横へ押せば、外せるかもしれない。


 だが、橋のすぐ下には家へ続く低い岸がある。ここで流れを曲げれば、そちらへまともに当たる。


 彼は手を下ろした。


「詰まるぞ」


 岩彦が言った。


「ああ。上から棒は届くか」


「今、橋へ乗る気か」


 老人の声は鋭かった。


 須佐之男は橋を見た。


 道具を持った者が一人立つだけで、その者を守る仕事が増える。


「乗らない。横から届く場所を——」


 言い終わる前に、引っかかった枝が折れた。


 水が一気に抜け、下流へ走った。


 橋の脇から溜め池への溝にも、水が流れ込む。


 須佐之男はそちらへ灯りを向けた。


 岸は崩れていない。


 ただ、溝の中の水は、見覚えのない速さで流れていた。


「池を見てくる」


「わしも行く」


 二人は川から離れ、畑の端を回った。


     *


 溜め池は、半分ほどまで水を受けていた。


 先ほど草を除いた口から、濁り水が入り続けている。


 男が一人、畑の畔に立っていた。鍬を持った、あの男だった。


「ここを切れば、向こうへ逃がせる」


 彼は足元を指した。


 その先には、刈り入れの終わった畑が広がっている。


「誰の畑だ」


 須佐之男が尋ねた。


「俺のだ」


「その先は?」


「古い溝がある。下の川へ出る」


 岩彦が首を振った。


「今の下流へ落とせば、そっちで溢れるかもしれん。切るのは待て」


 男が鍬の柄を握り締めた。


 池の水面が、足元へ近づいてくる。


 須佐之男は流れ込む水へ目を凝らした。


 速さが落ち始めていた。


 溝の縁まで来ていた水が、少しずつ下がる。


「止まる」


 彼は言った。


「まだ、切らなくていい」


 男は動かなかった。


 三人で水面を見守った。


 しばらくして、池へ流れ込む水は細くなった。


 岩彦が大きく息を吐く。


「一度きりなら、これで済む」


 須佐之男は、山のほうを見た。


 そこに、灯りが一つ揺れていた。


 上流の道だった。


「誰かいる」


 岩彦も顔を上げた。


 灯りが激しく動いた。


「おい、こっちだ!」


 宗太の声だった。


     *


 上流の三軒は、すでに空になっていた。


 宗太は最後に戸口を確かめ、戻ろうとしたところだったという。


「川の中に、木が倒れてると思ったんだ」


 彼は畑道で待っていた。


 灯りを持つ手が、震えている。


「何を見た」


 須佐之男が尋ねる。


「首だ」


 宗太は唾を呑んだ。


「蛇の。けど、あんな太い蛇なんて」


 須佐之男は彼の灯りを受け取った。


「どこだ」


 宗太が川の曲がり角を指した。


 ここから先は、岸へ近づかずとも、少し高い畑から川を見下ろせる。


 須佐之男は岩彦へ灯りを一つ預けた。


「宗太とここにいてくれ。上の畔まで見に行く」


「下りるなよ」


「下りない」


 彼は姿勢を低くし、木の陰から川を覗いた。


 月が雲から出た。


 水面に、長い影が横たわっていた。


 倒木に似ていた。


 だが、流れに逆らって動いていた。


 黒い表面に、水が筋を引いて落ちる。


 影の先が持ち上がった。


 大きな頭だった。


 石橋の橋脚ほどもある首が、水面からゆっくり起き上がる。顎の下から水が滴り、月明かりの中で、目だけが濡れて光った。


 須佐之男は息を止めた。


 頭は、村のほうを向いていた。


 その横で、水が割れた。


 もう一つ、頭が現れた。


 二つの首は違う向きへ揺れたあと、同じ水の暗がりへ続いていた。


 身体は見えない。


 川の幅では、収まるはずがない。


 それでも水の下には、まだ何かが動いていた。


 須佐之男は一歩、後ろへ退いた。


 足元の草が鳴る。


 一つの頭が、わずかに傾いた。


 彼は動きを止めた。


 風が、川から畑へ吹いていた。


 泥と、腐った木の匂いがした。


 やがて頭は水面へ沈み、長い首もあとを追った。


 水が岸へ押し寄せる。


 須佐之男は身を翻し、畔を戻った。


「いたのか」


 宗太が尋ねた。


「ああ」


 須佐之男は、彼の肩へ手を置いた。


「村へ戻る。今夜は誰も、川へ近づけるな」


 岩彦が、彼の顔を見た。


「何だった」


 須佐之男は答える前に、もう一度だけ川を振り返った。


 見えるのは、流れる水と月の光だけだった。


「蛇だ。首を二つ、見た」


 宗太の口元が歪んだ。


 須佐之男は続けた。


「ほかにも動いていた。身体がどこまであるのか、見えなかった」


 岩彦が灯りを持ち直した。


 三人は、社へ続く道を急いだ。


 背後の川で、重い水音がした。

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