第25話 鈴のない夜
最初の知らせは、宗太が持ってきた。
須佐之男が小屋で手を洗っていると、戸が二度、強く叩かれた。
「川を見てくれ」
濡れた手を拭く間もなく、戸を開ける。
宗太の裾は泥に汚れていた。走ってきたらしく、肩で息をしている。
「水が増えたのか」
「逆だ。減ってる」
須佐之男は、外の空を見た。
雲の切れ間に星が出ている。山を下りてから、雨は一度も降っていなかった。
「どのくらい」
「洗い場の石が、三つとも出た。夕方には一つしか見えてなかった」
須佐之男は灯りと縄を取り、宗太について外へ出た。
*
洗い場には、御影がいた。
竿を水へ差し入れ、岸に刻んだ印と比べている。
須佐之男が近づくと、顔を上げた。
「下がり方が早い」
川底の石が、灯りの下で濡れて光っていた。
普段なら水に隠れている葦の根元まで見える。石の間に取り残された小魚が、浅い窪みで跳ねた。
須佐之男は岸へ膝をつき、水に触れた。
流れは弱い。
だが、川下へ抜ける力が弱まっただけではなかった。水の中に、反対へ引かれるような重さが混じっている。
山の水路で、鈴が鳴る直前に感じたものと似ていた。
「岸から離れよう」
須佐之男は立ち上がった。
「戻ってくるかもしれない」
「山で見たのと同じか」
「似ている。ここまで同じ動きをするかは、まだわからない」
御影は竿を抜いた。
宗太が上流を見やる。
「見に行くか」
「暗いところへ入るな」
須佐之男はすぐに言った。
「まず、下の家に知らせてくれ。子供と歩きにくい者を、社へ。荷物はあとでいい」
宗太が御影を見た。
御影は頷いた。
「私も行く。須佐之男、橋を頼む。人を渡らせないように」
「ああ」
走り出す二人を見送り、須佐之男は川へ目を戻した。
水面が、また少し下がった。
*
橋の近くでは、岩彦がまだ起きていた。
戸を叩いて事情を告げると、老人は着物の紐を結びながら外へ出てきた。
「下がったあと、どこまで上がる」
「わからない」
「なら、川べりには近づけんな」
岩彦は壁に立てかけた棒を取り、須佐之男へ一本渡した。
「人を止めるのはわしがやる。お前は溜め池の口を見ろ」
村へ来た日に、石橋の詰まりを逃がすために使った水路だった。
須佐之男は頷きかけ、足を止めた。
「池に、まだ余裕はあるか」
「昼にはあった。だが、畑から枝が流れ込んどるかもしれん」
「確かめる」
走り出した彼の背に、岩彦が声を飛ばした。
「暗いぞ。足元を照らせ」
*
溜め池へ続く溝には、刈り草が引っかかっていた。
須佐之男は棒でそれを引き寄せた。水へは入らず、岸から届く分だけを掻き出す。
灯りが一つ、後ろから近づいてきた。
「ここか」
昼間、稲乃たちの小屋の前で声を荒らげた男だった。
手には鍬を持っている。
「岩彦に言われた。枝をどけろと」
「助かる」
須佐之男は場所を空けた。
男は膝をつき、刈り草の下に噛んでいた枝を引き抜いた。
「女や子供は、もう上へ行かせた」
「家は、川に近いのか」
「洗い場の向こうだ」
男は草を道へ投げた。
「床下まで来たことがある。あのときは、米を半分駄目にした」
須佐之男は池の縁へ灯りを向けた。
水面までは、まだ高さがある。
だが、川の水をすべて受けられる広さではない。ここへ逃がせるのは、溝を通る分だけだった。
男が立ち上がる。
「口をもっと広げるか」
「今は、このままで」
「細すぎるだろう」
「広げて流れが強くなったら、岸が削れる。池の縁も、暗くて確かめきれない」
男は不満そうに溝を見たが、鍬を下ろした。
そのとき、遠くで木を打つ音がした。
二度。
少し間を置いて、また二度。
御影が決めた、川から離れるための合図だった。
須佐之男は灯りを持ち上げた。
「戻ろう」
*
社の前には、すでに何人もの村人が集まっていた。
寝巻きのまま子供を抱く女。米袋を背負った男。片方しか草鞋を履いていない老人。
奇稲田は戸口に立ち、入ってくる者の顔を確かめていた。
「奥に座って。濡れたものは、ここへ」
稲乃が敷物を広げ、稲羽は運ばれてきた水筒を並べていた。
山から下りた者と村に住む者が、同じ狭い部屋で膝を寄せている。
少年が、お登勢の肩へ掛けていた布を少しずらした。
隣に座った小さな子供の足へ、半分を掛ける。
その母親が頭を下げた。
少年は何も言わず、お登勢のそばへ座り直した。
須佐之男は戸口で奇稲田を呼んだ。
「川沿いで、まだ来ていない家は?」
「御影さんが確かめてる。宗太は、下の三軒へ行った」
「ここから川を見に行かせないでくれ」
奇稲田は彼の泥だらけの手を見た。
「あなたは?」
「橋へ戻る。岩彦と交代する」
「一人にならないで」
「ああ」
短く答え、須佐之男は灯りを持ち直した。
社を出るところで、阿弥が立っていた。
「鈴は?」
「聞こえない」
彼女は暗い山を見た。
昼間、避難するときには何度も顔を向けた方角だった。
「鳴らなくなったんだね」
「仕掛けが壊れたのかもしれない」
「静かだと、余計にわからない」
阿弥は自分の腕を一度擦り、社の中へ戻った。
*
橋へ着く前に、水音が変わった。
低かった流れの音に、石がぶつかるような響きが混じる。
須佐之男は足を止めた。
灯りの届く範囲で、水面が持ち上がった。
白く泡立つ波ではなかった。
黒い水が、川幅いっぱいに盛り上がってくる。その先に枝や草が集まり、岸へ擦れながら流れてきた。
「岩彦!」
「見えてる!」
橋の手前で、老人が棒を振った。
川を覗きに来ていた男二人が、慌てて道を戻る。
須佐之男は岩彦の腕を取り、一緒に高い側へ上がった。
水が橋脚へ当たった。
鈍い音がした。
橋は揺れなかったが、枝が横向きに引っかかった。その後ろへ、さらに細い枝が絡みつく。
須佐之男は手を伸ばしかけた。
水を横へ押せば、外せるかもしれない。
だが、橋のすぐ下には家へ続く低い岸がある。ここで流れを曲げれば、そちらへまともに当たる。
彼は手を下ろした。
「詰まるぞ」
岩彦が言った。
「ああ。上から棒は届くか」
「今、橋へ乗る気か」
老人の声は鋭かった。
須佐之男は橋を見た。
道具を持った者が一人立つだけで、その者を守る仕事が増える。
「乗らない。横から届く場所を——」
言い終わる前に、引っかかった枝が折れた。
水が一気に抜け、下流へ走った。
橋の脇から溜め池への溝にも、水が流れ込む。
須佐之男はそちらへ灯りを向けた。
岸は崩れていない。
ただ、溝の中の水は、見覚えのない速さで流れていた。
「池を見てくる」
「わしも行く」
二人は川から離れ、畑の端を回った。
*
溜め池は、半分ほどまで水を受けていた。
先ほど草を除いた口から、濁り水が入り続けている。
男が一人、畑の畔に立っていた。鍬を持った、あの男だった。
「ここを切れば、向こうへ逃がせる」
彼は足元を指した。
その先には、刈り入れの終わった畑が広がっている。
「誰の畑だ」
須佐之男が尋ねた。
「俺のだ」
「その先は?」
「古い溝がある。下の川へ出る」
岩彦が首を振った。
「今の下流へ落とせば、そっちで溢れるかもしれん。切るのは待て」
男が鍬の柄を握り締めた。
池の水面が、足元へ近づいてくる。
須佐之男は流れ込む水へ目を凝らした。
速さが落ち始めていた。
溝の縁まで来ていた水が、少しずつ下がる。
「止まる」
彼は言った。
「まだ、切らなくていい」
男は動かなかった。
三人で水面を見守った。
しばらくして、池へ流れ込む水は細くなった。
岩彦が大きく息を吐く。
「一度きりなら、これで済む」
須佐之男は、山のほうを見た。
そこに、灯りが一つ揺れていた。
上流の道だった。
「誰かいる」
岩彦も顔を上げた。
灯りが激しく動いた。
「おい、こっちだ!」
宗太の声だった。
*
上流の三軒は、すでに空になっていた。
宗太は最後に戸口を確かめ、戻ろうとしたところだったという。
「川の中に、木が倒れてると思ったんだ」
彼は畑道で待っていた。
灯りを持つ手が、震えている。
「何を見た」
須佐之男が尋ねる。
「首だ」
宗太は唾を呑んだ。
「蛇の。けど、あんな太い蛇なんて」
須佐之男は彼の灯りを受け取った。
「どこだ」
宗太が川の曲がり角を指した。
ここから先は、岸へ近づかずとも、少し高い畑から川を見下ろせる。
須佐之男は岩彦へ灯りを一つ預けた。
「宗太とここにいてくれ。上の畔まで見に行く」
「下りるなよ」
「下りない」
彼は姿勢を低くし、木の陰から川を覗いた。
月が雲から出た。
水面に、長い影が横たわっていた。
倒木に似ていた。
だが、流れに逆らって動いていた。
黒い表面に、水が筋を引いて落ちる。
影の先が持ち上がった。
大きな頭だった。
石橋の橋脚ほどもある首が、水面からゆっくり起き上がる。顎の下から水が滴り、月明かりの中で、目だけが濡れて光った。
須佐之男は息を止めた。
頭は、村のほうを向いていた。
その横で、水が割れた。
もう一つ、頭が現れた。
二つの首は違う向きへ揺れたあと、同じ水の暗がりへ続いていた。
身体は見えない。
川の幅では、収まるはずがない。
それでも水の下には、まだ何かが動いていた。
須佐之男は一歩、後ろへ退いた。
足元の草が鳴る。
一つの頭が、わずかに傾いた。
彼は動きを止めた。
風が、川から畑へ吹いていた。
泥と、腐った木の匂いがした。
やがて頭は水面へ沈み、長い首もあとを追った。
水が岸へ押し寄せる。
須佐之男は身を翻し、畔を戻った。
「いたのか」
宗太が尋ねた。
「ああ」
須佐之男は、彼の肩へ手を置いた。
「村へ戻る。今夜は誰も、川へ近づけるな」
岩彦が、彼の顔を見た。
「何だった」
須佐之男は答える前に、もう一度だけ川を振り返った。
見えるのは、流れる水と月の光だけだった。
「蛇だ。首を二つ、見た」
宗太の口元が歪んだ。
須佐之男は続けた。
「ほかにも動いていた。身体がどこまであるのか、見えなかった」
岩彦が灯りを持ち直した。
三人は、社へ続く道を急いだ。
背後の川で、重い水音がした。




