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出雲の雨  作者: 幕神成


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第26話 その名を呼ぶ

 社へ戻ると、御影は戸口で待っていた。


 須佐之男たちの顔を見るなり、手にしていた名簿を伏せる。


「何があった」


「川に、蛇がいた」


 近くで椀を洗っていた女の手が止まった。


 須佐之男は声を落としたが、もう遅かった。室内にいた者が何人か顔を上げる。


「大きい。首を二つ見た。胴は水の下で、確かめられなかった」


 宗太が隣で頷いた。


「俺も見た。木じゃなかった。こっちへ、頭を上げて」


 奥で、誰かが子供を抱き寄せた。


 御影は一度だけ目を閉じた。


「八岐大蛇」


 その名は、静かな部屋の隅まで届いた。


 阿弥が顔を上げた。


 稲乃の手が、膝の上で止まる。


「八つあったかは、わからない」


 須佐之男は言った。


「今、見たのは二つだ」


「伝えられている名だ。頭と尾が八つあり、谷を埋めるほどの身を持つと」


 御影は棚に目を向けた。


「私は、山の荒れ方を言い表したものかもしれないと思っていた」


「いたぞ」


 宗太の声が強くなった。


 御影は彼を見た。


「ああ。君たちが見たものを、疑っているのではない」


 宗太は口を閉じた。


 持っていた灯りを置こうとして、置き場所が見つからず、しばらく立ち尽くした。奇稲田が近づき、その手から受け取った。


「ここに置くね」


 宗太は頷いた。


 須佐之男は御影へ向き直った。


「今夜、まだ川を渡る者はいるか」


「川沿いの家は、全員ここへ来ている。対岸の家にも知らせた。そちらは裏山へ上がったはずだ」


「確かめに行くな。橋にも、人を残さないほうがいい」


 御影は名簿を開き直した。


「橋を塞ぐだけのつもりだったが」


「あれは、橋を使うとは限らない」


 言ってから、須佐之男は部屋の中を見た。


 子供も、山から下りてきた者も聞いていた。


 曖昧にしておける話ではなかった。


「川岸まで出てくるかもしれない。低い場所から離れていてほしい」


     *


 村長は、社の奥の部屋から出てきた。


 話を聞くと、険しい顔で須佐之男を見た。


「追えるか」


 須佐之男は返事をしなかった。


「水を動かせると聞いた。川下へ押し流すことは」


「川下にも人がいる」


「なら、山へ戻せばいい」


 言い終えて、村長は阿弥たちへ目を向けた。


 阿弥は何も言わなかった。


 須佐之男は首を振った。


「どこまで繋がっているのか、わからない。頭が見えた場所を押しても、別のところから出るかもしれない」


「では、何ができる」


 部屋が静まった。


 須佐之男は、濡れた川岸を思い出した。


 二つの頭。


 その下で、なお動いていた水。


 あれを見たとき、手は出せなかった。力の届く水はあったが、その向こうへ押し返すものの大きさが、まるで掴めなかった。


「今夜は、皆を水から遠ざけたい」


 彼は答えた。


「夜が明けたら、どこを通ったか調べる。橋の幅より太いものが動いたなら、跡は残る」


「それまで待つのか」


「見えない水へ、人を出したくない」


 村長は唇を引き結んだ。


 そばで話を聞いていた岩彦が、床へ腰を下ろした。


「待つ間にも、やることはある。社より上へ行く道を空けろ。いざというとき、暗がりで荷車に躓いたら、それで終わりだ」


 御影が顔を上げた。


「裏の道だな」


「そうだ。灯りと水も分けて置け。全部ここに集めたままでは、持ち出せん」


 村長はしばらく考え、戸口にいた男を呼んだ。


 仕事を割り振る声が、部屋の中へ戻ってきた。


 須佐之男は、ようやく肩から力を抜いた。


     *


 裏道には、薪を積んだ荷車が置かれていた。


 宗太と須佐之男で押そうとすると、車輪が地面へ沈んで動かなかった。


「薪を下ろすか」


「ああ」


 二人で黙々と運んだ。


 何往復かしたところで、宗太が足を止めた。


「さっき、俺、先に逃げたんだ」


 須佐之男は薪を抱えたまま振り返った。


「蛇を見たときか」


「灯りを落としそうになって。後ろも見ないで走った」


「それで俺たちを呼べた」


「そうだけど」


 宗太は足元を見た。


「まだ、膝が変なんだよ」


 須佐之男は薪を下ろした。


「俺も、戻るときは走った」


「見てた。速かった」


「あそこで転ばなくてよかった」


 宗太が、少しだけ息を漏らした。


 笑ったのかもしれなかった。


 二人は残りの薪を運び、ようやく荷車を道の脇へ寄せた。


     *


 夜半になっても、川から大きな音はしなかった。


 だからといって、誰も寝つけなかった。


 子供が一人泣き出すと、その母親は何度も口元へ指を当てた。泣き声で何かが来ると思っているらしかった。


 稲乃が隣へ座った。


「お腹、空いてる?」


 子供は首を振る。


「じゃあ、足が冷たいのかな」


 母親が抱き方を変えた。小さな足先が衣から出ている。


 稲乃は布を掛け、自分の膝を寄せた。


 しばらくすると、泣き声が小さくなった。


 須佐之男は戸口から、その様子を見ていた。


 奇稲田が椀を二つ持ってきた。


「食べられる?」


「何だ」


「粥。もう冷めたけど」


 一つを受け取る。


 口へ運ぶと、思っていたより腹が空いていた。


 奇稲田は隣に座り、自分の椀を両手で包んだ。


「大蛇を見たって聞いたら、姉さんたちのこと、また何か言われると思った」


「言われたか」


「今は、誰もそれどころじゃないみたい」


 部屋の奥で、稲羽が足名椎へ空の水筒を渡していた。


 父は受け取り、黙って外へ出ていく。


 奇稲田はそれを見送った。


「稲乃姉さん、あの音を聞くたびに、今夜こそ見つかるかもしれないと思ってたんだって」


 須佐之男は椀を膝へ置いた。


「山で暮らしていた間か」


「うん。岩の奥へ隠れれば来ないって、阿弥さんが教えてくれた。でも、本当に来ないかは、誰にもわからなかった」


 奇稲田は一口、粥を飲んだ。


「昨日まで私、姉さんたちが安心して暮らせる場所を見つけたんだと思ってた」


 須佐之男には、すぐに返す言葉がなかった。


 入口の向こうでは、夜風に木の葉が鳴っていた。


「ここは、そういう場所にできるかな」


 奇稲田が聞いた。


 須佐之男は、部屋を見た。


 敷物は足りず、壁際では男が膝を抱えている。鍋を手放した女は、持ってきた蓋を荷物の上へ大事に置いていた。


「少なくとも、今夜は皆で見張れる」


 奇稲田は頷いた。


「じゃあ、少し寝て。次、私が戸口にいるから」


「あとで——」


 言いかけて、須佐之男は口を閉じた。


 椀を空にし、壁へ背を預ける。


「宗太と代わるときに、起こしてくれ」


「わかった」


 目を閉じても、川の二つの頭は消えなかった。


 それでも、人の寝息が聞こえていた。


     *


 朝、川はいつもより濁っていた。


 水位は夜より下がっている。


 橋は残っていたが、上流側の岸が大きく削れていた。土の上に生えていた草が、根ごと川へ垂れ下がっている。


 須佐之男は宗太と御影、それに岩彦を伴い、川から離れた畑道を進んだ。


 昨夜、二つの頭を見た曲がり角まで来ると、宗太が立ち止まった。


「ここだ」


 日が出ていても、その先へ行きたくない顔をしていた。


 須佐之男が先に覗いた。


 岸に、長く引きずった跡があった。


 石が泥へ押し込まれ、その間を太いものが通ったように、地面が滑らかになっている。


 川から上がり、また川へ戻った跡ではなかった。


 跡は岸を横切り、山裾の暗い裂け目へ続いていた。


「あそこに穴があったのか」


 御影が呟いた。


 岩彦が首を振る。


「草と土で隠れておったんだろう。あの崩れ方は新しい」


 裂け目の上では、木の根がむき出しになっていた。


 その下から、水が細く川へ流れ出している。


 須佐之男は近づかなかった。


 川と山が、ここでも繋がっていた。


「御影、地図を」


 紙を広げ、位置を記す。


 古い祭場、塞がれた水の出口、鈴のある水路。そして、今見つけた穴。


 それぞれを線で結ぼうとして、筆を止めた。


 中がどう繋がるかは、まだ見ていない。


 彼は印だけを残した。


 御影が、裂け目を見つめたまま言った。


「祭場を移したあとも、娘は山へ送っていた」


「それが?」


「場所が変われば、大蛇に届かないのではないかと、先代に聞いたことがある」


 須佐之男は顔を上げた。


「何と答えた」


「山の水は、すべてあのものへ通じる、と」


 岩彦が低く息を吐いた。


 御影は紙の印を見下ろした。


「言葉だけ、覚えていた。どの水路なのか、確かめようともしなかった」


 川の向こうで、鳥が鳴いた。


 須佐之男は筆を置いた。


「今から確かめる。ただし、穴へ入るんじゃない。外にある口を探す」


「全部か」


「わかる分を、全部だ」


 御影は頷いた。


     *


 戻る途中、岩彦が石橋の前で足を止めた。


「ここを守るだけでは、足りんな」


 須佐之男も橋を見た。


 川の両側には、人の暮らしが続いている。上流へ追えば山に、下流へ追えば別の家に近づく。


 流れを変えるたび、誰かの場所へ水が向かう。


 宗太が口を開いた。


「あれを、山の奥に閉じ込められないか」


「中にいくつ出口があるかわからない」


「じゃあ、逃げるしかないのか」


 須佐之男は、すぐには答えなかった。


 今の彼には、あれを倒す手立てがなかった。


 大きさすら確かめきれていない。水の力だけで押さえ込もうとすれば、昨夜避けたことを、もっと大きく繰り返すかもしれなかった。


 それでも、毎年一人を山へ送り、残った者が次の雨を恐れて暮らす以外に、道がないとは思いたくなかった。


「追い払うだけでは、また来る」


 須佐之男は言った。


 三人が彼を見る。


「水が増えるたびに、皆で荷を抱えて逃げ続けることになる」


 宗太の喉が動いた。


「殺すつもりか」


 須佐之男は川へ目を向けた。


 濁った水の下には、何も見えなかった。


「あれを止める方法を探す」


 彼は答えた。


「そのために、まず、どこを通っているのか知りたい」


 岩彦が地図を受け取った。


 しばらく眺めたあと、村の北側を指で叩く。


「なら、ここも見ろ。昔の酒造り場だ」


「酒造り場?」


「山から冷たい水を引いておった。田の水路とは、別の口だったはずだ」


 御影が顔を上げた。


「今は、使っていない場所だな」


「川が荒れてから、下へ移した。まだ石の槽が残っとる」


 須佐之男は、指された場所へ新しい印をつけた。


 山の水を知るために見るべき場所が、また一つ増えた。

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