第27話 酒を造っていた谷
古い酒造り場へ案内したのは、片方の耳が遠い老人だった。
名を久米といった。
御影が事情を話すと、最初は「今さら、あんなところで酒が造れるか」と言ったが、水の引き口を探していると知ると、自分で草鞋を履き始めた。
「道だけ教えてくれればいい」
須佐之男が言うと、久米は顔をしかめた。
「道を聞いて何がわかる。水の口は、建物の裏だ」
岩彦が横から口を挟む。
「歩けるのか」
「お前と一緒にするな」
「わしのほうが若いぞ」
久米は聞こえなかったらしく、先に歩き出した。
*
酒造り場は、村の北にあった。
川沿いの道を避け、畑の間を抜けてから低い尾根を越える。林が開けると、浅い谷の底に、屋根の半ば落ちた建物が見えた。
その周囲に、石を組んだ四角い槽が並んでいた。
底には枯れ葉が溜まり、一つには若い木が生えている。
須佐之男は斜面の上で足を止めた。
谷の向こうにも、登れそうな道がある。下流側は狭いが、村へ続く川とは別の方角へ口を開いていた。
「ここなら、家から離れているな」
宗太が言った。
「だから酒を造っておったわけじゃない」
久米が答える。
「水が冷たい。夏でもな。冬は手が痛くなるほどだ」
彼は杖で建物の裏を指した。
「あっちだ。屋根の下には入るなよ。落ちても知らん」
建物を大きく回り込むと、石壁に小さな口があった。
そこから細い水が流れ、浅い溝を通って槽のそばへ続いている。
須佐之男は溝の手前へ膝をついた。
水は澄んでいた。
指を浸すと、冷たさが骨まで染みる。
流れは一定だった。昨夜の川のように、反対へ引かれる感触はない。
「これが山に繋がっているのか」
「ああ。だが、中へは入れんぞ。人の肩も通らん」
久米は石壁の脇へしゃがみ、草を引き抜いた。
下から、もう一つ溝が現れた。
「余った水は、こっちへ落とす。槽へ入れる分は、この板で加減する」
板そのものは腐っていたが、差し込むための溝が石に残っていた。
須佐之男が手を伸ばすと、岩彦が先に杖で突いた。
「触るな。縁が浮いてる」
石が一つ、鈍い音を立てて傾いた。
須佐之男は手を引いた。
岩彦は周りも確かめてから、久米を睨んだ。
「歩ける場所くらい教えろ」
「昔は、そんなことになっとらんかった」
「昔の話をしに来たんじゃないぞ」
「昔の水路を見に来たんだろうが」
宗太が咳払いをした。
笑いを隠したのだとわかり、須佐之男も少しだけ口元を緩めた。
*
石の槽は、酒を仕込むためのものではなかった。
「冷やすんだよ」
久米が、宗太の思い違いを正した。
「甕を置く。水を回す。全部同じ温度にすればいいってもんでもないから、口を分けてある」
槽ごとに、水を入れる口と出す口があった。
一つずつ確かめると、土に埋まったものも、石が外れたものもある。だが、谷へ向かう大きな排水溝は残っていた。
須佐之男は地図を広げた。
水の入口を印し、見えている溝だけを書き足す。
宗太が谷の下手を指した。
「あの先は?」
「川へ出る。ただし、村の橋よりずっと下だ」
久米の答えに、須佐之男は顔を上げた。
「途中に家はあるか」
「今は知らん」
「そこは、あとで確かめよう」
岩彦が頷いた。
久米は槽の縁へ腰を下ろし、肩を回した。
「それで、酒は要らんのか」
「今は水路を——」
「御影が、酒のことも聞きたいと言っとったぞ」
須佐之男は筆を止めた。
御影は今朝、祭りの供物について、酒を造ってきた者にも話を聞くと言っていた。久米への説明に、その話も含まれていたのだろう。
「祭りの酒は、ここで造っていた?」
「ここを使っていた頃はな」
「どんな酒だ」
「米の酒だ。水で薄めずに納める。そういう決まりだった」
久米は指で槽の苔を擦った。
「飲んだことはないのか。祭りのあと、残りを村で分ける年もあった」
宗太が首を振った。
「俺はない」
「最近は、残らんのだろうな」
須佐之男は久米を見た。
「納める量が増えたのか」
「昔から同じだ。甕の大きさもな」
「どうして残らなくなった」
「知らん。造って渡すところまでが、わしらの仕事だ」
久米は答え、少し考えた。
「ただ、運ぶ場所は変わった。旧い田の奥から、今の祭場へ。遠くなったと、運ぶ連中が文句を言っておった」
須佐之男は、酒の量と運ぶ場所を紙の端へ書いた。
*
帰る前に、谷の出口を見ることになった。
久米は高い場所で待ち、三人が排水溝に沿って歩いた。建物から離れると、溝は石組みから自然の流れへ変わっていた。
そこに、泥が溜まっていた。
まだ湿っている。
昨夜まで、ここにも水が来たのかもしれなかった。
岩彦が屈み、草の倒れ方を見る。
「下から押し上がっとる」
宗太が、すぐに周囲へ目を走らせた。
須佐之男も足を止めた。
少し先で、灌木が折れていた。
一本だけではない。谷の片側に沿って、低い枝がまとめて削ぎ落とされている。
その下に、滑らかな跡があった。
川岸で見たものより細いが、人の身体よりははるかに太い。
「……ここにも来たのか」
宗太が呟いた。
須佐之男は、跡を目で追った。
下流から入ってきて、途中で向きを変えている。酒造り場の建物までは届いていない。
折れた枝に、黒い欠片が挟まっていた。
須佐之男は棒の先でそれを外し、地面へ落とした。
掌より大きい、湾曲した鱗だった。
縁の一部が裂け、薄くなったところは光を通していた。
宗太が手を伸ばす。
「待て。端が鋭い」
須佐之男は布を広げ、棒を使って包んだ。
布の上からでも、硬い感触があった。
岩彦が谷の上を見た。
「戻るぞ。ここを寝床にしていないとは限らん」
三人は来た道を引き返した。
高い場所で待っていた久米は、包みを見ると口を閉じた。
須佐之男が何を拾ったか話すと、老人は酒造り場を振り返った。
「昔も、甕が割られたことはあった」
「誰に?」
「わからん。夜に来て、朝にはいなかった。猪にしては壊し方がひどいと思ったが」
久米の目が、布の包みへ戻った。
「ここを捨てたあとまで、来ていたのか」
*
昼過ぎ、社の脇へ人が集まった。
御影が机を出し、その上に祭りの記録を並べた。須佐之男は拾った鱗を、皆から離れた端へ置いた。
宗太が説明すると、近くにいた男が包みを覗き込み、すぐに身を引いた。
誰も、見間違いだとは言わなかった。
御影は古い帳面を開いた。
「酒の量は、記録のある限り変わっていない」
甕の数と、米の量。
須佐之男は久米から聞いたことと照らし合わせた。
「祭りのあとの酒は?」
「昔は、回収した甕と残りの量も書いてある。今の祭場へ移ってからは、翌日に空の甕を回収したとだけある年が多い」
そばにいた稲乃が、顔を上げた。
「私の年は、割れてた」
御影が筆を取った。
「どこで見た?」
「逃げたあと。何日かして、阿弥と通ったときに、離れたところから。石の台の下に、甕の破片があった」
阿弥も頷いた。
「酒
**第二十七話 酒を造っていた谷**
酒造り場への道を知っていたのは、岩彦だけではなかった。
社へ戻って行き先を話すと、戸口で草鞋を繕っていた年嵩の女が顔を上げた。
「上の酒屋へ行くのかい」
山から鍋の蓋を持って下りてきた女だった。
須佐之男が頷くと、彼女は膝の上の草鞋を脇へ置いた。
「あそこは裏から入ったほうがいい。正面の坂は、石が浮いてる」
「行ったことがあるのか」
「若い頃は、あそこで米を蒸してたよ」
岩彦が目を細めた。
「お前、あの大きな甑のところにいたのか」
「大きいだけで、火の回りが悪くてね。毎朝、下の米は煮えて、上は硬かった」
女は立ち上がろうとした。
「私も——」
膝に手をついたところで、顔をしかめる。
昨日の山道が、まだ脚に残っているらしかった。
須佐之男は地図を机へ広げた。
「道を教えてくれ。今日は、場所を確かめたい」
女は少し不満そうだったが、床へ座り直した。
指先で、山裾の道を辿る。
「この曲がり角に、二股になった椎の木がある。そこから上へ行く。建物の裏に出たら、石垣より下へは降りないこと」
「水路がある?」
「深い水槽がある。蓋の板が残っていても、踏むんじゃないよ。長いこと替えてないだろうから」
須佐之男は、その場所へ印をつけた。
女はしばらく地図を見つめ、それから言った。
「竈が残ってたら、見てきておくれ」
「何か置いてあるのか」
「何も。ただ、どうなったかと思って」
彼女は草鞋を膝へ戻した。
「そこで二十年、働いたからね」
*
同行したのは、岩彦と奇稲田だった。
御影は村に残り、古い水路の記録を探す。宗太は川下の家々を回り、昨夜どこまで水が来たのかを確かめることになった。
奇稲田は、小さな籠に食べ物と布、それに筆を入れていた。
「今日は、私が書く」
「歩きながら書くなよ」
「あなたに言われたくない」
須佐之男は口を閉じた。
昨日、地図を広げたまま歩き、畑の畔から片足を落としたところを見られていた。
岩彦が先頭で笑った。
道は川から離れ、山の斜面を緩やかに登っていった。
途中、木々が途切れた場所から村が見えた。家々の屋根の間に、社の大きな屋根がある。その向こうを、昨夜大蛇がいた川が流れていた。
高いところから見ると、ひどく細かった。
あの水の下に、二つの首を持ち上げるものがいた。
須佐之男は、見下ろすのをやめた。
*
二股の椎の木は、まだ立っていた。
枝の一本は枯れていたが、もう一本には葉が茂っている。
そこから斜面を登ると、石垣が現れた。
積み石の間から草が伸び、その向こうに崩れかけた屋根が見える。建物の片側は潰れていたが、山に近い壁と軒は残っていた。
「ずいぶん傷んだな」
岩彦が呟いた。
須佐之男は軒の下へ入らず、外から覗いた。
中央に、大きな竈があった。
火を焚く口は煤で黒く、脇には割れた甕が積まれている。屋根から落ちた土が床を覆っていたが、竈そのものは崩れていなかった。
「竈は残ってる」
奇稲田が書き留めた。
「上の縁が、少し欠けてるけど」
「ああ。それも伝えよう」
建物の裏へ回ると、石で囲まれた四角い水槽があった。
表面は枯れ葉に覆われている。縁に渡した板は、片端が腐って落ちていた。
岩彦が棒で枯れ葉を寄せる。
下から、暗い水面が現れた。
「踏んだら抜けるな」
奇稲田は籠を山側へ寄せた。
須佐之男は、水槽へ流れ込む細い水を辿った。
岩の割れ目に、石を組んだ小さな口がある。そこから出た水が浅い樋を通り、水槽へ落ちていた。
水は澄んでいた。
指先に受けると、川より冷たい。
「これは、上から染みてくる水だな」
須佐之男が言うと、岩彦は水槽の反対側を指した。
「余った水は、あっちへ落としていたんだろう」
石の縁に切れ込みがあり、その先へ溝が続いている。
三人はそれを追った。
*
溝の先は、開けた窪地だった。
左右を低い崖に挟まれ、底には石と砂が溜まっている。草はまばらで、中央を細い流れが走っていた。
建物から見て左側には、高い石積みが続いていた。その上には、人が歩けるほどの幅がある。
須佐之男はそこで足を止めた。
窪地の奥に、岩の張り出しがあった。
その下が、黒く開いている。
「水の口か」
岩彦が言った。
須佐之男は頷いた。
「大きい」
朝見つけた川岸の裂け目よりも、ずっと広かった。
入口の半分は水に浸かり、奥は見えない。そこから流れ出た水が窪地を横切り、下の沢へ抜けている。
奇稲田は、足元の石積みを見た。
「ここ、何に使ってたんだろう」
岩彦が屈んだ。
石積みの内側には、四角く区切られた浅い囲いがあった。土で埋まっているものもあれば、片側が崩れているものもある。
「甕を据えた場所かもしれん。地面へ直接置くと、底から冷える」
「こんなに外まで?」
「建物は、前はもっと広かったんだろう」
老人は柱の穴らしい窪みを棒で示した。
須佐之男は、窪地と石積みの高さを見比べた。
水辺へ降りずに、奥の穴を見渡せる。
村へ続く道とは別に、山側へ逃げる斜面もある。
ただ、それだけで安全だとは言えなかった。大蛇が頭を持ち上げた高さを、彼はまだ正確に測れていない。
「ここから下は、今日は行かない」
奇稲田が頷いた。
岩彦も、手にした棒を引いた。
そのとき、窪地の水面が揺れた。
*
須佐之男は奇稲田の前へ手を出した。
彼女はすぐに止まった。
細い流れが、奥へ引き戻されていた。
石の間に引っかかっていた枯れ葉が向きを変え、黒い穴へ近づいていく。
岩彦が低く言った。
「戻るか」
「少し上へ」
三人は石積みから離れ、建物の裏の斜面へ上がった。
水槽が隠れる高さまで登り、太い木の陰へ身を寄せる。
穴の奥で、水が鳴った。
続いて、何かが岩へ触れる音がした。
奇稲田の手が、須佐之男の袖を掴んだ。
黒い水の中から、丸いものが浮かび上がった。
頭だった。
昨夜よりも、はっきり見えた。
濡れた鱗は黒一色ではない。背側には暗い緑が混じり、顎の下は泥を塗ったように白い。鼻先に枯れ草が一本ついていた。
頭は窪地の中央へ進み、ゆっくり持ち上がった。
奇稲田の指に、力がこもる。
須佐之男は動かなかった。
大蛇の首が、水の上へ長く伸びる。
身体はまだ穴の中にあった。
頭が左右へ揺れた。
舌が短く出て、引っ込む。
それから、こちら側の石積みへ近づいた。
岩彦が奇稲田の肩へ手を置き、木の陰へもう少し寄せた。
大蛇の鼻先が、崩れた囲いの一つへ触れた。
石が転がった。
その奥から、割れた甕の底が露わになった。
須佐之男は息を詰めた。
大蛇はしばらく、そのあたりを探るように首を動かしていた。
やがて興味を失ったのか、頭を下げる。
長い首が、元来た穴へ引かれていった。
最後に、水が大きく揺れた。
窪地を越えた波が石積みの下へ当たり、白く砕けた。
*
三人が動き出したのは、水面が落ち着いてからだった。
来た道を戻り、二股の椎の木まで下りる。
そこで奇稲田がしゃがみ込んだ。
籠を下ろす手が、うまく動かなかった。
須佐之男も隣へ腰を下ろした。
「息、できるか」
奇稲田は頷いた。
けれど、しばらく声は出なかった。
岩彦が水筒を差し出す。
彼女は両手で受け取り、一口だけ飲んだ。
「……あれが、来るの」
誰にともなく、呟いた。
須佐之男は黙っていた。
「祭場に、座って待ってたら」
水筒を持つ指が白くなった。
稲乃は待てずに逃げたと言っていた。
稲羽も、帰り道を尋ねていた。
そのときの二人を、奇稲田は初めて、少しだけ思い描けた気がした。
「私、走れたかな」
須佐之男は彼女を見た。
「……わからない」
正直に答えた。
奇稲田は目を閉じた。
須佐之男は続けた。
「だが、今日は戻れた。三人とも」
彼女はすぐには返事をしなかった。
やがて水筒を岩彦へ返し、自分の足で立ち上がった。
「忘れないうちに、書く」
籠から紙を取り出す。
筆先は少し震えていたが、文字は読めた。
昼にも出る。
穴から、首を伸ばした。
石の囲いを探っていた。
*
村へ戻ると、鍋の蓋の女が小屋の前にいた。
須佐之男は、まず竈のことを伝えた。
縁は欠けているが、形は残っていた。
そう言うと、女はゆっくり頷いた。
「そうかい」
それだけだったが、膝の上の手が緩んだ。
大蛇を見たことを話すと、表情が変わった。
「あの奥の穴から?」
「ああ」
「昔は、あそこまで水が出てくることは滅多になかったんだけどね」
岩彦が石積みの囲いについて尋ねた。
女は頷いた。
「酒甕を置いてた場所だよ。夏は建物の中より涼しいから」
「蛇が、その一つを探っていた」
女は眉を寄せた。
「何か残ってたのかね」
「割れた甕はあった。食べ物があったかは、近づいていないからわからない」
奇稲田が紙を広げた。
御影もやってきて、三人の話を聞いた。
大蛇が姿を現した穴。
首を伸ばした距離。
波が届いた石積み。
須佐之男が地図へ書き足していると、女がぽつりと言った。
「昔、甕を一つ、駄目にしたことがある」
筆が止まった。
「割れたのか」
「底にひびが入ってた。朝になったら、酒が半分抜けてたんだよ。石の隙間から、窪地へ流れて」
女は記憶を辿るように目を細めた。
「そのあと、水が荒れた。親方が、山のものに酒を飲ませちまったって、えらく怒ってね」
御影が顔を上げた。
「それは、いつ頃のことだ」
「私がまだ若かった頃さ。年までは覚えてない」
「大蛇を見た者は?」
「私は見てない。水が来たから、皆で上へ逃げた」
須佐之男は紙の端へ、その話を書いた。
酒へ寄ってきたのか。
たまたま水が動いたのか。
一度の昔話だけでは決められなかった。
御影が、持ってきた帳面を開いた。
「祭りで供える酒は、年ごとに増えている」
そこには甕の数が並んでいた。
「娘の家に負担させる分と、村で出す分がある。先代は、大蛇を鎮めるためだと言っていた」
須佐之男は、数字を見つめた。
あの大きな身体へ、人の飲む酒がどこまで効くのかもわからない。
ただ、村から離れた場所へ誘い出せるなら。
暗い水の中に隠れたままのものを、こちらから見える場所へ出せるなら。
「今、酒を造っているのは誰だ」
須佐之男が尋ねた。
御影が答える前に、鍋の蓋の女が口を開いた。
「造るほうの話なら、私にもできるよ」
彼女は、膝の上の草鞋を脇へ置いた。
「何を知りたい」
須佐之男は地図を彼女のほうへ向けた。
「まず、あの場所で、どれだけ造れていたのか聞きたい」




