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出雲の雨  作者: 幕神成


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第28話 一甕の酒

「どれだけ造れたかと聞かれてもね」


 女は地図の上へ指を置いた。


「米と水と、人手があっての話だよ。甕だけ並べれば酒が湧くわけじゃない」


 須佐之男は頷いた。


「今から造るなら、どのくらいかかる」


「急かしたところで、米は言うことを聞かない。今夜仕込んで明日飲ませるなんてことは、できないよ」


 女は、そこで彼の顔を見た。


「大蛇に飲ませたいんだね」


「ああ。ただ、その前に確かめたい。酒へ寄ってくるのかどうか」


「寄ってきたら?」


「村から離れた場所へ呼べるかもしれない」


「飲んで暴れたら?」


 須佐之男は地図へ目を落とした。


「人のいない場所で試す」


「それでも、酒は要る。失敗すれば、それで一甕なくなる」


 御影が帳面を引き寄せた。


「祭りのために集めたものが、蔵にある」


 奇稲田が顔を上げた。


 自分と一緒に山へ運ばれるはずだった酒。


 御影は彼女を一度見てから、話を続けた。


「村長と造り手に話そう。まだ、どれを使えるかは決められない」


 女が手を出した。


「その酒、私にも見せておくれ。薄いものも酸っぱくなったものも、帳面では同じ一甕だろう」


 御影は頷いた。


「あなたの名も、記録しておきたい」


「佐和」


 女は答えた。


「酒の話を聞くなら、そう呼んでおくれ。鍋を持ってきた婆さんじゃ長いからね」


 奇稲田が思わず笑った。


 佐和も口元を緩めたが、すぐに地図へ目を戻した。


「それで。どこに置くつもりだい」


     *


 祭りの酒は、社の裏の蔵にあった。


 大小の甕が並び、口には布と蓋が重ねられている。縄についた木札には、納めた家の名が記されていた。


 佐和は一つずつ蓋を開け、匂いを確かめた。


 匙ですくって口に含み、少し考える。


「これは若い」


 次の甕へ移る。


「こっちは、もう置かないほうがいい」


「悪くなっているのか」


 御影が尋ねると、佐和は首を振った。


「飲めるよ。ただ、この先よくなる酒じゃない」


 須佐之男も匙を渡された。


 口へ含むと、酸味のあとから強い熱が喉へ落ちた。


 海で働いていた頃、仕事のあとに回ってきた酒を思い出した。あのときは旨さより、皆と同じ椀を受け取ったことのほうが嬉しかった。


「これを使うのか」


「候補にはなる。けど、大蛇の好みまでは知らないよ」


 佐和は蓋を戻した。


 蔵の外では、酒を納めた男と村長が待っていた。


 御影が用途を説明すると、男は長く黙り込んだ。


「娘を出さずに、酒だけ置くのか」


 奇稲田の背が強張った。


 須佐之男は男を見た。


「まず、酒に反応するか確かめる」


「それで、川が鎮まるのか」


「そこまでは、わからない」


 男は甕へ目を向けた。


 自分の家の名が書かれた木札を裏返し、また戻す。


「祭りのために、米を減らして造った酒だ」


「ああ」


「無駄にはしたくない」


 須佐之男は答えられなかった。


 寄ってこなければ、酒は失われる。寄ってきても、それだけで何かが解決するわけではない。


 男は、奇稲田を見た。


 すぐに視線を外した。


「一甕なら、使ってくれ」


 御影が頷いた。


「使った量と結果を、必ず伝える」


「……そうしてくれ」


     *


 その日のうちに、須佐之男たちは古い酒造り場をもう一度見に行った。


 酒は持っていかなかった。


 先に、逃げる道を確かめる必要があった。


 同行した岩彦は、建物の裏の斜面を登り、杖で土を突いた。


「こっちは硬い。三人くらいなら並んで上がれる」


 須佐之男は下の石積みを見た。


 昨日、大蛇の鼻先が触れた囲いがある。


 そこへ酒を置くには、穴に近づきすぎる。


「もっと手前へ置けないか」


 岩彦が指したのは、石積みの端にある平たい場所だった。


 窪地より高く、裏道からも近い。そこからさらに上へ逃げれば、木々の間へ入れる。


「蛇が届くかは、わからんぞ」


「届かなければ、それもわかる」


 須佐之男は地面に立ち、昨日見た頭の高さを思い出した。


 木の陰へ隠れただけでは十分でない。


 首を伸ばせば、あの石積みの上まで来る。


「見る場所は、もっと上にしよう」


 宗太が斜面を見上げた。


「そこから、甕の中まで見えるか?」


「中は見えなくていい。近づいたかどうかを見たい」


 御影が紙へ道筋を書き込んだ。


 酒を置く場所。


 見張る場所。


 人が戻る道。


 須佐之男は、その三つが重ならないことを確かめた。


 最後に、退くときの合図を決めた。


 誰か一人でも危ないと思ったら、声をかける。理由は上へ戻ってから聞く。


 宗太は何度も頷いた。


「見えなくても、追わないんだな」


「ああ」


「わかった。俺も、追いたくない」


     *


 翌朝、酒は二つの小さな壺へ分けられた。


 大甕のままでは運びにくく、置くにも時間がかかるからだった。


 佐和は蓋を縛りながら言った。


「余計なものは混ぜてない。試すなら、まず、そのままだ」


「ほかに何か入れるつもりだったのか」


「人を眠らせる草でもないかって、昨日、聞いてきた者がいたよ」


 須佐之男の顔が曇った。


 佐和は縄を強く引いた。


「人に効くものが、あれに効くとは限らない。酒まで駄目にされちゃ困るから、断った」


「助かる」


「礼は、帰ってからでいい」


 彼女は二つの壺を前へ押し出した。


「器は返しておくれ。残ったらでいいけどね」


 山へ行くのは、須佐之男、宗太、御影の三人だった。


 岩彦は村の橋を見ておく。奇稲田は麓で、戻る時刻を待つことになった。


 彼女は壺を背負う須佐之男の紐を直した。


「水が引いたら、もう近づかないんでしょう」


「ああ」


「酒を置く前でも?」


「置かずに戻る」


 奇稲田は結び目から手を離した。


「わかった」


     *


 酒造り場の窪地には、朝の光が差していた。


 水は穴から外へ流れている。


 須佐之男は高い場所でしばらく眺め、流れの向きが変わらないのを確かめた。


 御影が斜面の上へ立つ。


 宗太は逃げ道の途中に残った。


 須佐之男だけが、石積みの端へ降りた。


 壺を二つ並べ、蓋を外す。


 酸味を含んだ酒の匂いが、冷たい空気の中へ広がった。


 一つの壺から少しだけ酒を注ぐ。石の上を伝った白い濁りが、下の砂へ染み込んだ。


 それ以上は流さなかった。


 空になった柄杓を腰へ差し、斜面を上がる。


 宗太の横まで戻って、ようやく息を吐いた。


「置いた」


「見てた」


 二人は御影のいる場所まで上がった。


 そこからは、壺の口と穴の入口が見えた。


 誰も話さなくなった。


     *


 長い間、何も起こらなかった。


 鳥が石積みへ降り、酒の匂いを嫌ったのか、すぐに飛び去った。


 陽が少しずつ移る。


 宗太が何度か足を組み替えた。


 御影は、影の位置を紙へ書き留めていた。


 須佐之男は水だけを見ていた。


 やがて、流れが細くなった。


「来るかもしれない」


 声を抑えて伝える。


 三人は立ち上がった。


 逃げ道は背後にある。


 水が止まった。


 穴の奥で、鈍い音がした。


 黒い頭が現れた。


 昨日と同じ頭なのか、須佐之男には見分けられなかった。顎の白い部分が水に濡れ、光っている。


 首が窪地へ伸びた。


 すぐに壺へ向かったわけではなかった。


 大蛇は、昨日探っていた崩れた囲いへ鼻先を寄せる。そこで一度止まり、ゆっくり頭を持ち上げた。


 舌が出た。


 引っ込む。


 頭の向きが変わった。


 酒を置いた場所へ、首が近づいていく。


 宗太の息が、すぐ横で止まった。


 大蛇の鼻先が壺へ触れた。


 一つが倒れた。


 酒が石積みへ流れ、縁から白く滴った。


 大蛇は頭を下げた。


 顎が濡れた石へ押しつけられる。口が開き、流れた酒を含むように動いた。


 須佐之男は、胸の内で数を数えた。


 一つ。


 二つ。


 首は動かない。


 三つを数える前に、穴の水面がもう一度割れた。


 別の頭が出た。


     *


 宗太が、須佐之男の腕を掴んだ。


 二つ目の頭は、酒へ向かわなかった。


 最初の首の脇を通り、窪地の反対側へ伸びていく。


 石へ鼻先を寄せ、草を押し分ける。


 そのまま、斜面を上へ辿り始めた。


 御影が一歩退いた。


「戻ろう」


 須佐之男は頷いた。


 酒を飲んでいる頭を、もう一度見たいと思った。


 どれほど飲んだか。


 動きが変わったか。


 だが、二つ目の頭は止まっていない。


 三人は背を低くして、木々の間を上がった。


 急いでも、走りすぎない。


 前の者が踏んだ場所へ足を置く。


 宗太が一度、枝へ衣を引っかけた。須佐之男が外し、背を押した。


 下で、陶器の割れる音がした。


 誰も振り返らなかった。


     *


 二股の椎の木を越え、さらに道を下りてから、三人は止まった。


 御影が幹へ手をついた。


 紙を抱えた腕が震えている。


 宗太は口を開き、深く息を吸った。


「一つ、飲んでたよな」


「飲むように見えた」


 須佐之男も、呼吸を整えた。


「倒れた酒へ、口をつけていた」


「でも、もう一つは」


「動いていた」


 御影が顔を上げた。


「同じ身体なのだろうか」


 須佐之男は答えられなかった。


 昨夜は、二つの首が同じ暗がりへ続いていた。


 今日は、一つが酒へ口を寄せている間に、もう一つが別の場所を探っていた。


 身体の繋がりを、最後まで見た者はいない。


「少なくとも、一つが酒に向いても、ほかは止まらない」


 彼は言った。


 御影は紙を開いた。


 筆を持とうとして、指に力が入らなかったらしい。少し待ち、ようやく書き始める。


 宗太が山を振り返った。


「酔うまで待ってたら、危なかったな」


「ああ」


 須佐之男は濡れた掌を衣へ押しつけた。


 あのまま、一つの頭だけを見続けていたら。


 酒が効くかどうかを確かめることに夢中になっていたら。


 別の首がどこへ伸びたか、気づくのが遅れたかもしれない。


「次は、見る者を分ける」


 口にすると、宗太が彼を見た。


「またやるのか」


「今すぐじゃない」


 須佐之男は答えた。


「今日のことを、皆に話してからだ」


     *


 麓では、奇稲田が道へ出て待っていた。


 空の手を見て、壺が戻らなかったことには何も言わなかった。


 三人の顔を順に見て、脇へ退く。


「水、用意してある」


 社へ着くと、佐和が真っ先に尋ねた。


「寄ってきたかい」


「ああ。一つの頭は、酒に口をつけた」


「一つは?」


 須佐之男は、二つ目の首の動きを話した。


 佐和は腕を組んだ。


「じゃあ、一つの口を塞いでも、ほかがあるんだね」


 その言葉に、御影が筆を止めた。


 須佐之男は地図を広げた。


 八岐大蛇。


 名の通りなら、まだ六つの頭を見ていない。


 伝えられた数が正しいとも限らなかった。


 酒は、少なくとも一つの頭を引き寄せた。


 だが、それだけを頼りに人が近づけば、別の頭が来る。


「全部を、同じ場所で見られないだろうか」


 須佐之男が言うと、誰もすぐには答えなかった。


 佐和が、地図の上の酒造り場を指した。


「酒を分けて置くなら、器も人手も要るよ」


 岩彦はその指の先を見た。


「置ける場所が足りるかも、調べんとな」


 奇稲田は、二つ目の頭が進んだ向きを紙へ書き足した。


 須佐之男はそれを見て、窪地の両側へ印をつけた。


 次に考えるべきなのは、飲ませる酒の強さだけではなかった。


 人が退いたあと、すべての頭をどちらへ向けるか。


 そのための場所が、必要だった。

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