第29話 稲葉の残した道
窪地の図を見ていた阿弥が、紙の端を指で押さえた。
「ここから出たのかい」
酒造り場の奥にある、大きな水の口だった。
須佐之男が頷く。
「二つとも、ここから出た。ほかに出口があるかは、上からでは見えなかった」
阿弥は紙を回し、山の向きを確かめた。
その隣で、稲乃が黙っていた。
膝の上に置いた手を、何度も握り直している。
「知っている場所か」
須佐之男が聞くと、阿弥は稲乃を見た。
稲乃はすぐには答えなかった。
やがて、小さく頷いた。
「姉さんが調べていた場所かもしれない」
奇稲田の筆が止まった。
「どの姉さん?」
稲乃は妹を見た。
「稲葉姉さん」
*
稲乃は、持ってきた荷から細長い包みを取り出した。
着替えの下に入れてあったものだった。
布をほどくと、薄い板が三枚出てきた。縁が欠け、表面には水に濡れた染みが残っている。
奇稲田はそれを見つめた。
見覚えのある字があった。
姉妹の中で、稲葉は一番、字を小さく書いた。物をしまうときには、包みの端へ必ず中身を書きつけた。誰もが知っている塩壺にまで「塩」と書くので、稲羽がよく笑っていた。
板にも、細かな字と線が並んでいた。
「……姉さんが書いたの?」
「うん」
奇稲田は手を伸ばしかけ、止めた。
板の下端に、黒く塗りつぶされたような跡がある。その上から、何度も文字を書き直してあった。
「会ったの?」
稲乃は頷いた。
「私が山へ入ったとき、助けてくれた」
奇稲田が顔を上げる。
「じゃあ——」
「今は、いない」
稲乃の声が、少しだけ掠れた。
奇稲田の口が開いたまま止まった。
阿弥が座り直す。
須佐之男は机の上の地図を寄せ、板を置く場所を空けた。
稲乃はそこへ三枚を並べた。
「冬になる前に、水に流された」
部屋の外で、誰かが薪を落とした。
乾いた音がして、それきり静かになった。
「私も、阿弥も、その場にいた」
*
稲葉は、道を調べるのが好きだったという。
好きというより、知らないままでいるのが嫌だったのだと、阿弥は言った。
「水が引くと、すぐに出ていこうとした。昨日通れたから今日も通れるとは限らないって、私には言うくせにね」
稲葉が祭場から逃げた夜、山へ入った阿弥は、崩れた道の下で彼女を見つけた。
阿弥自身も帰り道を失い、二人で夜を明かした。
そのあと、山で暮らしていた者たちに拾われた。
「すぐ帰るつもりだったんだよ。二人とも」
阿弥は言った。
「でも、稲葉は足を傷めていた。私は、一緒にいた者を捜したかった。そうしているうちに雨が続いて、村へ下りる道が落ちた」
稲葉の足が治ると、二人は道を探し始めた。
村へ続く道だけではない。
水が来ても使えるところ。荷を運べるところ。怪我をした者が休めるところ。
使えそうな道を見つけるたび、稲葉は板へ書いた。
翌年、祭場へ置かれた稲乃を迎えに行ったのも、その道を使ってだった。
「姉さん、怒ってた」
稲乃が言った。
「私を見た途端、どうしてあんたまで来たのって」
奇稲田は膝の上の衣を握った。
「私だって、来たくて来たんじゃないって言い返した。そしたら、わかってるって。わかってるけど、何か言わないと腹が立って仕方がないって」
稲乃の口元が、一瞬だけ緩んだ。
けれど、すぐに元へ戻った。
「その年の秋に、下の通路へ水が入った。前は雨のあとしか浸からなかった場所だった」
須佐之男は板へ目を落とした。
何本かの道に、後から線が引かれていた。
「皆で荷物を運び直した。濡れたら困るものを、高いほうへ。姉さんは最後まで残って、向こう側から渡してた」
稲乃の指が、自分の袖口をつまんだ。
「私は、もう渡ってた。振り返ったときには、姉さんの立っていた石のところまで水が来てた」
声が途切れる。
阿弥が続けた。
「縄を投げた。届いたよ。稲葉も掴んだ」
阿弥は自分の手を見た。
「だが、足元の石が動いた。大きな石だった。水ごと、横から来た」
須佐之男は何も言わなかった。
どれだけの力があれば支えられたか、今ここで考えても、あの場の誰も助けられない。
「あとで、見つけたの?」
奇稲田が聞いた。
阿弥は頷いた。
「翌朝、下の溜まりで。私が引き上げた」
奇稲田の顔から、かすかに残っていた期待が消えた。
稲乃は妹へ手を伸ばした。
今度は、途中で止めなかった。
「ごめん。早く話さないとって思ってた」
奇稲田は首を振った。
何を否定したのか、自分でもわからなかった。
姉の手を握り返すまでに、少し時間がかかった。
*
しばらくして、奇稲田は板を引き寄せた。
文字を読むために、顔を近づける。
目が濡れていて、細い字が滲んだ。
「これ、何て書いてあるの」
指したのは、板の角にある小さな一行だった。
稲乃が覗く。
「『雨の翌日は通らない』」
「その下」
稲乃が黙った。
それから、少し困ったように笑った。
「『晴れてても、阿弥が駄目と言ったら駄目』」
阿弥が顔を背けた。
「書いておかないと忘れるって言ったんだよ」
奇稲田は板を胸へ抱きかけた。
けれど、そこにはまだ読めていない線があった。
姉が歩いて確かめ、危ないところを消し、また書き足した道。
彼女は板を、机へ戻した。
「これを使ったら、道がわかる?」
須佐之男は板を見た。
「今も通れるかは、確かめる必要がある。だが、探す場所は絞れる」
「じゃあ、写して」
奇稲田は言った。
「父さんと母さんにも、見せたいから。板は持って帰っていい?」
稲乃が頷いた。
「そのためにも、持ってきた」
*
三枚の板は、続けて並べると一つの図になった。
だが、須佐之男たちが書いていた地図とは、向きが違っていた。
阿弥が中央の板を回す。
「ここが、私たちのいた場所。下に描いてあるほうが山の上だ」
御影が紙へ書き写していく。
稲葉の図には、村や畑がほとんど描かれていなかった。
代わりに、水が溜まる場所、狭くて荷を下ろす場所、人が二人すれ違える場所に、細かな印があった。
一本の道の脇には「背負っては無理」とある。
別のところには「左の壁、崩れる」と書かれていた。
奇稲田はその文字を、指で追った。
最後の板に、大きく開けた場所が描かれていた。
端に、四角い印がいくつも並んでいる。
「酒の甕を置くところだ」
岩彦が言った。
阿弥が頷く。
「稲葉は、上まで行ったことがある。私は途中までしか行ってないけど」
須佐之男は、自分たちの地図を隣へ置いた。
酒造り場の窪地。
大蛇が出てきた穴。
その横に、稲葉は別の線を描いていた。
「これは?」
「低い水路だと思う」
阿弥が答えた。
「水が少ないときだけ、入口が見えると言ってた」
線は一本ではなかった。
窪地の周りへ、いくつもの短い道筋が集まっている。ただし、途中で消されたものもあり、すべてが穴なのか、岩の割れ目なのかは読み取れなかった。
須佐之男は二つ目の頭が動いた方角を確かめた。
酒へ向かわず、反対側の斜面へ伸びていった首。
その下には、板に描かれた低い口があった。
「俺たちが見た穴だけじゃなかったのか」
岩彦が図へ顔を寄せる。
「水が増えれば、隠れてしまうな」
御影の筆が速くなった。
須佐之男は待つように手を上げた。
「この線と、この線は、まだ繋げないでくれ。稲葉も、間を空けて描いている」
御影は頷いた。
隣で、稲乃が板の端を指した。
「姉さん、ここへ皆で移れないかって考えてた」
酒造り場の上の斜面だった。
「雨は防げないけど、水から離れられるから。でも、冬までに屋根を作るのは無理だって」
阿弥が目を伏せた。
「結局、元の場所へ残った」
その先は、誰も言わなかった。
*
日が傾く頃、奇稲田は三枚の板を包み直した。
稲乃も一緒に、家へ行くと言った。
父と母に、同じ話をしなければならなかった。
須佐之男は戸口まで見送った。
奇稲田は包みを抱え、しばらく立っていた。
「稲羽姉さんが生きてたから」
ぽつりと、彼女が言った。
「稲乃姉さんにも会えたから、ほかの姉さんもって、思ってた」
須佐之男は頷いた。
「私、都合よく考えてたのかな」
「そう思うだけのことが、続いたんだ」
奇稲田は包みへ目を落とした。
「今日、知れてよかったとは、まだ言えない」
「言わなくていい」
稲乃が隣へ立った。
奇稲田は姉を見て、それから須佐之男へ向き直った。
「写したほう、使ってね」
「ああ」
「姉さん、字を間違えて読まれると、すごく怒るから」
「気をつける」
奇稲田は少しだけ口元を動かした。
二人が道を下っていく。
須佐之男はその姿が家々の間へ消えるまで、見送った。
*
机へ戻ると、阿弥が残っていた。
写した図を見下ろし、指先で一か所を叩く。
「ここは、危ない」
須佐之男も覗いた。
酒造り場から村へ続く、古い坂道だった。
「私たちが使った裏道とは違うな」
「ああ。前に、稲葉と下りた。途中で水が出るところがある」
「今も?」
「わからない。だから、あそこへ大蛇を呼ぶなら、先に見ておいてほしい」
須佐之男は、昨日の二つ目の頭を思い出した。
一つの頭が酒を飲んでいる間に、別の頭が道を探る。
それが村へ通じる水路を見つけたら。
彼は古い坂道へ印をつけた。
「先に確かめる」
阿弥は頷いた。
立ち上がりかけてから、もう一度、図を見た。
「あの子は、帰る道を探してたんだ」
「ああ」
「誰かが死ぬための道には、したくない」
須佐之男は筆を置いた。
「俺も、戻る道を残しておきたい」
阿弥が出ていったあと、彼は図の上へ小石を置いた。
酒を置く場所ではない。
人が立つ場所。
そこから退く道。
途中で誰かが倒れたら、どこへ運ぶか。
一つずつ置いていくうちに、小石が足りなくなった。
須佐之男は外へ出て、もう一握り拾ってきた。




