第8話「父の沈黙」
本当に人を傷つけるのは、否定の言葉とは限らない。勇気を出していちばん大切なことを尋ねたあと、返事がないこともある。
【高天原・東の海】
朝の光が海へ落ちる頃には、何艘かの漁舟がすでに葦原中国の岸へ戻り始めていた。
須佐之男は雲の端に立ち、手元の記録と海面を交互に見ている。
以前のように、すぐ海へ手を伸ばすことはない。
風を見る。
河口の色を見る。
遠くの舟の数を確かめる。
隣には潮津彦がいた。
「南風、昨日より弱い」
須佐之男が言った。
「はい」
「河口の水は多い」
「はい」
須佐之男はしばらく海を眺める。
「午後は、予定より半尺低いほうがいいと思う」
潮津彦はすぐには答えなかった。
須佐之男の横顔がわずかに強張る。
「……違う?」
「理由は」
「昨日と同じ高さまで満たすと、東の浅瀬が沈む。河口から入ってくる水も多いし、午後は舟も少ない」
潮津彦は記録へ目を落とした。
もう一度、海を見る。
「その判断でよいでしょう」
須佐之男が瞬きをした。
潮津彦は淡々と続ける。
「よく見ています」
須佐之男は動かなかった。
「今、何て言った?」
「仕事を続けてください」
「その前」
「聞こえていたのでしょう」
須佐之男の口元が、少しずつ上がっていく。
「もう一回言って」
「必要ありません」
「一回くらいいいだろ」
「須佐之男殿」
「はいはい」
そう言いながらも、須佐之男はしばらく笑っていた。
大きな波を作ったわけではない。
誰かを救ったわけでもない。
ただ海を見て。
考えて。
一つの判断をした。
それを潮津彦が認めた。
そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
⸻
少しして、海彦が神具を運んできた。
須佐之男の顔を見るなり、首を傾げる。
「今日は機嫌がいいですね」
「別に」
「さっきから笑ってます」
「笑ってない」
「潮津彦様と話したあとからです」
須佐之男が海彦を見る。
しばらく迷ってから、結局口を開いた。
「判断、悪くないって」
海彦の目が大きくなる。
「潮津彦様が?」
「そう」
「それはすごいです」
須佐之男の表情が、さらに少し明るくなる。
「そんなに?」
「普段、ほとんど褒めませんから」
「やっぱり?」
「はい」
須佐之男はもう一度海を見る。
風は穏やかだった。
しばらくして、何でもないことのように言う。
「父上も知ってるかな」
海彦が少し考えた。
「潮津彦様から報告が届いているなら、ご存じだと思います」
「知ってるのと、何か言うのは違うだろ」
海彦は返事に困った。
「……そうですね」
須佐之男は小石を拾い、指の間で転がした。
「父上、俺が最近ちゃんとやってるって分かってると思う?」
「分かっておられると思います」
「本当に?」
海彦は一瞬だけ迷った。
須佐之男がすぐ見る。
「今、迷っただろ」
「少しだけ」
「月読みたいになってきたな」
海彦は苦笑する。
須佐之男も笑った。
けれど、その笑みは長くは続かなかった。
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【高天原・日の御殿】
午前。
天照が神務の記録を整理していると、須佐之男が入ってきた。
手には一巻の潮汐記録を持っている。
「姉さん」
「どうしたの?」
須佐之男は記録を天照の前へ置く。
「これ」
天照が開く。
「今日の潮?」
「うん」
「あなたが見たの?」
「潮津彦と」
天照は丁寧に目を通した。
須佐之男は平静を装っているが、明らかに返事を待っている。
「いいと思う」
須佐之男の肩から、少し力が抜けた。
「潮津彦もそう言った」
「それは珍しいね」
「やっぱり?」
天照が笑う。
須佐之男はその笑顔を見ながら、少し迷った。
「父上、今日どこにいる?」
天照の表情がわずかに変わる。
「父上に見せたいの?」
「別に」
「そう」
「……ついでに」
天照の笑みが少し深くなる。
須佐之男は記録を取り戻そうとした。
天照はそれより先に巻き直し、弟へ返す。
「自分で持っていきなさい」
須佐之男の手が止まる。
「姉さんが渡せばいいじゃん」
「自分で」
「別に、そこまで見せたいわけじゃない」
「そうなの?」
須佐之男は答えなかった。
天照もそれ以上はからかわなかった。
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【高天原・伊邪那岐の居所】
昼前。
伊邪那岐は一人だった。
机の上には、古い巻物とは別に、小さな木箱が置かれている。
蓋を開く。
中には一本の古い櫛があった。
長い年月を経ている。
それでも、大切に扱われてきたことだけは分かる。
伊邪那岐はそれを手に取り、指先で歯の部分を静かになぞった。
そのとき。
「父上」
天照の声が外から聞こえた。
伊邪那岐の手が止まる。
櫛を木箱へ戻し、蓋を閉じた。
「入れ」
天照が入ってくる。
「何だ」
「須佐之男のことです」
伊邪那岐は巻物へ手を伸ばした。
「何かあったか」
「今日は何もありません」
伊邪那岐の手が、ほんの少し止まった。
天照は続ける。
「海をよく見ているそうです。潮津彦も、今日の判断を認めました」
「知っている」
天照が顔を上げた。
「知っているのですか?」
「毎日、記録は届く」
天照は少しほっとしたように笑う。
「なら、本人にも言ってあげてください」
伊邪那岐が天照を見る。
「何を」
「見ている、と」
「なぜ」
天照は一瞬、言葉に詰まる。
「須佐之男は、父上がどう思っているかを気にしています」
「それで?」
天照の声が少し強くなった。
「父親に見ていてほしいだけです」
伊邪那岐は黙る。
天照も待った。
やがて伊邪那岐が言う。
「お前はいつまで、あれの代わりに聞く」
天照の表情が止まった。
否定しようとして。
できなかった。
伊邪那岐は続ける。
「聞きたいなら、自分で来ればいい」
天照はしばらく父を見る。
「来たら、答えますか?」
伊邪那岐は答えなかった。
天照はその沈黙を見つめた。
さっきまで閉じられていた木箱へ、一度だけ視線を落とす。
何も聞かず、部屋を出た。
⸻
【高天原・長廊】
午後。
天照は長廊で須佐之男を見つけた。
須佐之男は柱にもたれ、手の中で潮汐記録を弄んでいる。
「父上、中にいるよ」
須佐之男がすぐ顔を上げる。
「何か言った?」
「少し」
「何て?」
天照は隣へ立った。
「自分で聞いて」
須佐之男の顔が露骨に曇る。
「じゃあいい」
「どうして」
「別に、そこまで知りたくない」
「朝から何度も気にしてたのに?」
「朝と今は違う」
天照は弟を見る。
須佐之男は記録の端を指で曲げている。
「須佐之男」
「何」
「父上は、あなたが最近どうしているか知ってる」
須佐之男の指が止まる。
「知ってる?」
「毎日、記録を見てるって」
一瞬。
須佐之男の目が明るくなった。
けれど、すぐにその光は薄れた。
「じゃあ何で何も言わないんだよ」
天照は答えられなかった。
須佐之男は小さく息を吐く。
「知ってる」
何を知っているのか。
天照には聞けなかった。
⸻
【高天原・月の池】
夕方。
月読は池の縁に座っていた。
須佐之男が来て、その隣へ腰を下ろす。
「父上、お前のこと褒めたことある?」
月読は少し考えた。
「覚えてない」
「一回も?」
「たぶん」
「気にならなかった?」
月読は水面を見る。
「昔は」
須佐之男がすぐ横を見る。
「昔は?」
「気にした」
「じゃあ、どうした」
「何もしなかった」
須佐之男の顔が曇る。
「それで平気になった?」
「平気にはなってない」
月読は水へ指先を触れる。
「慣れただけ」
須佐之男はすぐに言った。
「俺は慣れたくない」
月読が見る。
「大事なら、大事って言えばいい」
「うん」
「よくできたなら、よくできたって言えばいい」
「うん」
「嫌いなら嫌いって言えばいい」
「うん」
須佐之男が眉を寄せる。
「何で今日は全部賛成なの」
月読は少し考えた。
「間違ってないから」
それだけだった。
須佐之男はしばらく水面を見る。
「父上が言えないのは、父上の問題だろ」
「そうだと思う」
「じゃあ俺は悪くない」
「うん」
須佐之男は少し安心したように息を吐いた。
けれど、すぐにまた黙った。
月読はその横顔を見た。
それ以上は何も言わなかった。
⸻
【高天原・伊邪那岐の居所】
夜。
須佐之男は父の居所の前に立っていた。
長いこと動かない。
記録を持った手を上げる。
扉を叩こうとして。
やめる。
また上げる。
「入れ」
中から声がした。
須佐之男の身体が固まった。
少しして、扉を開ける。
伊邪那岐はいつもの場所に座っていた。
須佐之男はなるべく軽い声を出す。
「外にいるって分かってた?」
「足音がうるさい」
「月読にも言われる」
伊邪那岐は答えない。
須佐之男は向かいに座った。
父との間には、広すぎるほどの空間がある。
「何の用だ」
「別に」
伊邪那岐は巻物へ目を戻す。
「なら戻れ」
「待って」
須佐之男の声が少し大きくなった。
伊邪那岐が見る。
須佐之男は手にしていた記録を置く。
「今日の」
伊邪那岐は手を伸ばさない。
「見た」
須佐之男が止まる。
「……見た?」
「ああ」
「いつ?」
「潮津彦から届いたときだ」
須佐之男の目に、一瞬だけ期待が浮かんだ。
「じゃあ」
言葉が続かない。
伊邪那岐は待っている。
須佐之男は視線を外した。
「どうだった?」
「何が」
須佐之男の眉が寄る。
「記録」
「問題はない」
「……それだけ?」
伊邪那岐が須佐之男を見る。
「他に何がいる」
須佐之男は少し笑った。
嬉しい笑いではなかった。
「そっか」
⸻
しばらく、どちらも話さなかった。
須佐之男は膝の上で指を組み直す。
「姉さんは毎日、あんなにたくさんのこと決めてる」
伊邪那岐は黙って聞いている。
「月読も、夜ずっと働いてる」
「そうだな」
「二人は昔から、ちゃんとしてた」
伊邪那岐が須佐之男を見る。
「何が言いたい」
須佐之男は少し苛立った。
「父上が姉さんに高天原を任せた」
「そうだ」
「月読に夜を任せた」
「そうだ」
「俺には海」
「海に不満があるのか」
「違う!」
声が強くなった。
須佐之男はすぐに口を閉じる。
少し呼吸を整えた。
「海は嫌いじゃない」
「なら」
「そうじゃなくて」
須佐之男は父を見る。
何度も口を開きかける。
やめる。
最後には、逃げるための言葉を全部捨てた。
「俺のこと」
伊邪那岐の目が動く。
「父上は、どう思ってる?」
部屋が静かになった。
須佐之男は父を見る。
今までなら、質問した直後に冗談でごまかしたかもしれない。
今回はしなかった。
ただ、待った。
伊邪那岐も須佐之男を見ている。
長い。
あまりにも長い。
須佐之男の顔から、少しずつ期待が消えていく。
代わりに不安が現れる。
さらに待つ。
その不安を隠すように、表情が硬くなる。
「そんなに難しい?」
ようやく。
伊邪那岐が口を開いた。
「お前はまだ、お前がなるべきものになっていない」
須佐之男は瞬きをした。
「……何それ」
「そのままの意味だ」
「何になればいい」
「それは自分で見つけろ」
須佐之男が短く笑った。
「またそれ」
伊邪那岐の眉がわずかに動く。
「何がだ」
「いつもそう」
須佐之男は立ち上がる。
「何も言わない」
声が少しずつ大きくなる。
「それで、俺が勝手に分かるのを待ってる」
「須佐之男」
「間違えたなら間違えたって言えばいい。よかったなら、よかったって言えばいい」
伊邪那岐は黙って聞いている。
「そんなに難しい?」
「世の中は、正しいか間違いかだけではない」
須佐之男はまた短く笑った。
「でも父上が俺を見るときは」
言葉が止まる。
「いつも『まだ足りない』だけに見える」
伊邪那岐の表情が、ほんのわずかに変わった。
須佐之男は気づかなかった。
もう扉へ向かっていた。
⸻
扉の前まで来る。
手を掛ける。
そのまま出ていこうとして。
止まる。
「もう一つ聞いていい?」
伊邪那岐が答える。
「言え」
須佐之男は振り返らなかった。
さっきまでより、ずっと小さな声だった。
「もし俺が海神じゃなかったら」
伊邪那岐の目が須佐之男へ向く。
「父上の息子でもなくて」
須佐之男は一度息を吸う。
「神でもなくて」
長い間が落ちる。
「何もできなかったら」
手が扉から離れた。
「それでも、俺はいていい?」
伊邪那岐の身体が止まった。
須佐之男は待つ。
今度の問いには、褒めてほしいという響きすらなかった。
ただ。
答えてほしかった。
伊邪那岐の唇がわずかに動く。
声にはならない。
その視線が、一瞬だけ机の脇へ落ちる。
閉じられた木箱。
須佐之男には見えない。
彼にはただ。
父が黙っているようにしか見えなかった。
一呼吸。
もう一呼吸。
何もない。
須佐之男が少し俯く。
「……分かった」
扉が開く。
閉じる。
伊邪那岐は呼び止めなかった。
⸻
部屋に一人になる。
伊邪那岐はしばらく、閉じた扉を見ていた。
やがて木箱へ手を伸ばす。
蓋を開く。
古い櫛を取り出した。
指先が触れる。
遠い記憶が、ほんの一瞬だけ蘇る。
長い髪。
振り返らない背中。
そして。
――あなたは、何も言わないのね。
伊邪那岐は目を閉じた。
櫛を持つ指に、少しだけ力が入った。
それ以上、記憶を追わなかった。
ただ。
今閉じたばかりの扉へ、もう一度目を向けた。
⸻
【高天原・神殿の長廊】
須佐之男は速い足取りで長廊を進んでいた。
天照が遠くから気づく。
「須佐之男」
足は止まらない。
天照が追いついた。
「聞いた?」
「聞いた」
「父上、何て?」
須佐之男は突然笑った。
いつもの、少しふざけた笑顔だった。
「すごく褒められた」
天照が止まる。
「本当に?」
「うん」
須佐之男は歩きながら言う。
「最近すごくよくやってるって」
天照は黙った。
「それから?」
須佐之男は振り返る。
笑ったまま。
「高天原で一番立派な息子だって」
天照は何も言えなかった。
須佐之男はそのまま曲がり角の向こうへ消える。
誰からも見えなくなったところで。
顔から笑みが消えた。
⸻
【高天原・月の池】
夜がさらに深くなった頃。
月読は池のそばにいた。
須佐之男が来る。
月読は一度見るだけで、何も聞かなかった。
須佐之男も黙って隣に座る。
水面の月はほとんど揺れていない。
長い時間のあと。
須佐之男が言った。
「一番腹立つの、何か分かった」
「何」
「父上が、俺のこと嫌いだって言えばいいんだよ」
月読が須佐之男を見る。
「そうしたら」
須佐之男は笑わなかった。
「俺も嫌いになれる」
月読は何も言わない。
須佐之男は膝を抱えた。
「でも何も言わない」
「うん」
「だから、ずっと考える」
「何を?」
「本当はどうなのか」
月読は少し黙った。
須佐之男は水面を見る。
「答えがないから、自分で作るしかない」
月読はしばらく隣にいた。
やがて静かに言う。
「僕は、父上がお前を大事にしてると思う」
須佐之男が顔を上げる。
「知ってるの?」
「知らない」
須佐之男の眉が寄る。
月読は水面へ視線を戻した。
「僕がそう思ってるだけ」
須佐之男は少し黙る。
「……それじゃ意味ない」
「うん」
月読は否定しなかった。
須佐之男も、それ以上は何も言わなかった。
二人の前で、月だけが静かに水へ映っていた。
⸻
【高天原・東の海】
夜明け前。
須佐之男は誰より早く海へ来ていた。
潮津彦もまだいない。
神使もいない。
一人で記録を開く。
風向きを書く。
河口を見る。
戻っていない舟がないか確認する。
潮位を測る。
何かを見せる相手はいなかった。
褒める者もいない。
それでも、手は止まらなかった。
やがて東の空が明るくなる。
朝の光が、水平線の向こうから海へ伸びてくる。
須佐之男は顔を上げた。
黄金色の光が、自分のいるところまで届く。
少しのあいだ見つめる。
それから。
また記録へ目を戻した。
海は静かだった。
⸻
そのずっと下。
日の光さえ届かない深海。
黒い石が、変わらず沈んでいる。
暗い水が、その表面を流れる。
刻まれているのか。
ひび割れているのか。
分からない細い筋が。
一つ。
そして、もう一つ。
淡く光った。
少し離れた砂が、ゆっくり持ち上がる。
海底を這う小さな生き物たちが、一斉に向きを変えた。
そのさらに向こう。
深い水の流れが、わずかにずれる。
ほんの小さな変化だった。
海面から見れば。
まだ何も起きていない。
朝の海は、いつもと同じように穏やかだった。




