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出雲の雨  作者: 幕神成


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第7話「太陽と海」

人が変わり始めたあと、難しいのは変わり続けることだけではない。自分が変わったからといって、相手がすぐに信じ直してくれるとは限らない――その時間を受け入れることだ。

【高天原・東の海】


朝の海は、何事もなかったように満ちていた。


大きな波はない。乱れた流れもない。


潮津彦は数柱の海神使を連れ、海面と河口の状態を順に確かめている。必要なときだけ短く指示を出し、それ以外はほとんど海へ触れない。


それでも潮は予定の高さまで満ち、舟の通る場所には十分な水があり、浅瀬も残されていた。


少し離れた礁石に、須佐之男が座っていた。


海務殿を出たのは、つい数刻前のことだった。夜明け前まで自分で記録を書いていたせいで、ほとんど眠っていない。


それでも部屋へ戻る気にはなれず、そのまま海へ来た。


昨日までなら、自分もあの中にいた。


今日は呼ばれない。


手の中の小石を海へ投げる。


水面に小さな輪ができ、すぐに消えた。


「今日は静かですね」


隣から声がした。


海彦だった。


背中にはまだ流木に打たれた痕が残っている。動くと少し顔をしかめるが、本人は気にしていないようだった。


「うん」


「潮津彦様、やっぱりすごいですね」


須佐之男が横目で見る。


海彦は、しまったという顔をした。


「もちろん、須佐之男殿も――」


「付け足さなくていい」


「……はい」


二人はしばらく海を見る。


潮津彦は、ほとんど何もしていないように見えた。


時々神使を呼び、どこかを指す。


それだけで、それぞれが動いていく。


須佐之男がぼそりと言った。


「あいつ、何もしてないじゃん」


海彦は少し考える。


「たくさんしてますよ」


「どこが」


「あっちの潮口は夜のうちに調整してました。河口の水量も朝になる前に確認してましたし、舟が出る時間も昨日のうちに聞いてました」


須佐之男は海彦を見る。


「つまり?」


海彦は遠くの潮津彦を見た。


「何か起きる前に、だいたい終わってるんだと思います」


須佐之男は返事をしなかった。


妙に腹が立った。


自分は何かが起きれば、海へ飛び込んだ。


人を助けた。


大きな水を止めた。


それなら、何をしたのか誰にでも分かる。


潮津彦は違う。


何も起こさない。


だから、仕事をしているところさえ見えにくい。


それなのに。


海は今日のほうが静かだった。


⸻


潮津彦が巡察を終えて岸へ戻ってくると、須佐之男は礁石から立ち上がった。


「いつ戻れる?」


潮津彦が足を止める。


「どちらへでしょう」


「海の管理に決まってるだろ」


「分かりません」


須佐之男の眉が寄った。


「暫定なんだろ」


「はい」


「じゃあ、いつか終わる」


「そうでしょう」


「いつ?」


潮津彦は記録を神使へ渡してから、改めて須佐之男を見る。


「須佐之男殿」


「何」


「今、一番したいことは何ですか」


「海を管理すること」


潮津彦は少し間を置く。


「海をきちんと管理したいのですか」


須佐之男が黙る。


「それとも、自分の席へ戻りたいのですか」


須佐之男の表情が変わった。


「同じだろ」


「同じなら、今の海を見て安心できるはずです」


須佐之男は海を見る。


穏やかだった。


何も問題は起きていない。


それでも、面白くない。


自分の海なのに。


自分がいなくても、ちゃんと動いている。


「……嫌な言い方するな」


「申し訳ありません」


全く申し訳なさそうではなかった。


潮津彦は頭を下げ、そのまま歩き出す。


須佐之男は追いかけて文句を言いたくなった。


二歩。


三歩。


そこで止まった。


海彦が後ろで何も言わず待っている。


須佐之男は長く息を吐く。


「……行かない」


「何がですか」


「追いかけて殴りに」


海彦が少し笑った。


「進歩ですね」


「お前も最近、言うようになったな」


⸻


【高天原・議事殿】


須佐之男が議事殿へ入ったのは、午前の議事が始まってしばらくしてからだった。


殿内には天照を囲むように神々が座っている。思兼神のほか、まだ須佐之男が名前を覚えていない者も多かった。


その中に、髪や衣の端が絶えず風に揺れている男がいた。


須佐之男がためらいなく殿内へ入ると、何柱かが一斉に顔を上げた。


思兼神の眉がわずかに動く。


天照も気づいた。


「どうしたの?」


「話がある」


「今?」


須佐之男は周囲を見る。


「駄目?」


天照は少し考えた。


それから、外を示すのではなく、自分の脇へ視線を向ける。


「そこに座って」


「え?」


「終わったら聞くから」


須佐之男は追い出されると思っていた。


少し拍子抜けしながら座る。


思兼神は何も言わず、議事を続けた。


「北方第三域ですが、雨量が不足しています。このまま七日ほど続けば、秋の実りに影響が出ます」


天照が尋ねる。


「雲は?」


「あります。ただ、西から運ぶ風が弱い」


そこで、先ほどの男が口を開いた。


「二日ほど早めれば動かせる」


天照が見る。


「志那都比古。北へ?」


「西風を少し北寄りにすれば」


須佐之男は思わず口を挟んだ。


「じゃあ、吹かせればいいじゃん」


殿内が一瞬静かになる。


須佐之男は周囲の視線に気づいた。


だが、もう言ってしまった。


志那都比古は怒る様子もない。


むしろ少し面白そうに須佐之男を見る。


「西風を北へ送る」


「うん」


「その風、どこから持ってくる?」


「……西?」


「西から来る前に、南を通る」


須佐之男は答えを待つ。


「北へ多く送れば、南へ残る風が減る。南の雲が留まるかもしれない」


須佐之男は眉を寄せた。


「じゃあ南にも――」


言いかけて止まる。


志那都比古が見る。


須佐之男は少し考えた。


「……その風も、どっかから持ってこないと駄目?」


「そういうこと」


須佐之男は深く息を吐いた。


「面倒だな」


志那都比古は初めて笑った。


「俺もそう思う」


思兼神が次の記録を開く。


「では、南方の雲量と海から入る湿気を含め、もう一度見直しましょう」


須佐之男は無意識に海のことを考えた。


潮を上げれば、河口が変わる。


浅瀬が変わる。


舟が変わる。


風も同じらしい。


どこか一つだけを見て動かすことはできない。


⸻


議事はなかなか終わらなかった。


雨。


日照。


河川。


農作物。


祭祀の日程。


神使の配置。


須佐之男は最初、何度も欠伸をしそうになった。


けれど、少しずつ口を挟まなくなった。


天照は、誰かが困っているからといって、すぐに「そうしよう」とは言わない。


なぜ必要なのか聞く。


他の場所へ何が起きるのか聞く。


分からなければ、調べさせる。


ときには、助けを求めてきた相手にすぐ答えを出さない。


一柱の小さな神が慌てて入ってきた。


「天照様。東方の山裾で火が出ています。人々が雨を求めています」


天照は顔を上げる。


「火の広がりは?」


「まだ確認中です」


「風向きは?」


志那都比古が記録を見る。


「今は東へ流れている」


天照は少し考える。


「近くの河神へ先に伝えて。開けられる水路は開く。火の範囲が分かり次第、もう一度知らせてください」


「雨は?」


「それから決めます」


小さな神は不安そうだった。


それでも頭を下げ、殿を出た。


須佐之男は天照を見た。


すぐ雨を降らせればいい。


少し前なら、そう言っていた。


けれど今は何も言わなかった。


岩を崩す前。


自分も、待つことのほうが間違っていると思った。


天照は須佐之男の視線に気づいたが、何も言わず次の報告を聞いた。


⸻


【高天原・議事殿の長廊】


昼になり、ようやく短い休みが入った。


天照は長廊の端に座り、簡単な食事を取っていた。


須佐之男も隣へ座る。


量は驚くほど少ない。


「それだけ?」


天照が見る。


「何が?」


「飯」


「また後で食べる」


「絶対食べないやつじゃん」


天照が少し笑った。


須佐之男も笑う。


しばらくして、須佐之男は議事殿を見る。


「毎日、あんな感じ?」


「だいたい」


「ずっと人が来る」


「うん」


「よく嫌にならないな」


「なるときもあるよ」


須佐之男が意外そうに見る。


「なるの?」


「なる」


天照は小さく一口食べる。


「でも、来る人たちは私を困らせたいわけじゃないから」


須佐之男は黙った。


少しして。


「……だったら、言えばよかったのに」


天照が横を見る。


「何を?」


「何で忙しいのか」


天照の手が止まる。


「俺、知らなかった」


「そうだね」


「ずっと『神務がある』って、それだけだった」


天照はしばらく黙った。


やがて、少し視線を落とす。


「ごめん」


須佐之男が逆に驚く。


「え」


「私も、勝手に決めてた」


「何を」


「あなたは、こういう話を嫌がるだろうって」


須佐之男はすぐ答える。


「嫌い」


天照が吹き出した。


須佐之男も笑った。


「でも」


笑いが収まってから、須佐之男が言う。


「知らないのは、もっと嫌だったかも」


天照は弟を見る。


以前なら、何か説明しようとするだけで「父上みたい」と言われていた。


今は須佐之男のほうから、自分が見ているものを知りたいと言っている。


「じゃあ午後、少しだけ付き合って」


「まだ仕事あるだろ」


「だから、その仕事」


須佐之男は露骨に嫌そうな顔をする。


「今、嫌いって言ったばっかり」


「聞いた」


⸻


【高天原・雲台】


午後。


天照は須佐之男を高い雲台へ連れていった。


眼下には葦原中国が広がっている。


山。


川。


田畑。


村。


その先には海。


高い場所から見れば、人間の姿はほとんど見えない。


煙。


道。


屋根の集まり。


それだけだった。


天照が尋ねる。


「何が見える?」


須佐之男は少し面倒そうに答える。


「山」


「うん」


「川」


「うん」


「海」


少しして。


「……人」


天照が頷いた。


「ほとんど見えないけど」


「いる」


須佐之男は海図を思い出した。


指先で隠れてしまうほど小さかった村。


しばらく二人で地上を見る。


須佐之男が尋ねた。


「姉さん」


「なに?」


「ああいうの、毎日決めてるの?」


「うん」


「分からないこともある?」


「たくさんあるよ」


須佐之男が横を見る。


「姉さんでも?」


天照が少し笑う。


「私でも」


「それで決めるの?」


「決めなきゃいけないときは」


須佐之男は眼下を見る。


「怖くない?」


天照はすぐには答えなかった。


風が二人の衣を揺らす。


「怖いよ」


須佐之男は完全に黙った。


その答えは予想していなかった。


「だから、聞く。見る。分からなければ調べる」


天照は遠くの地上を見たまま続ける。


「それでも間違えることはある」


須佐之男は少し眉を寄せる。


「そのときは?」


「また見る」


「また?」


「うん」


「ずっと?」


天照は少し考えた。


「たぶん」


須佐之男は顔をしかめる。


「終わらないじゃん」


「そうかもしれない」


須佐之男はしばらく黙っていた。


「管理って、もっと決めたら終わりだと思ってた」


天照が海を見る。


「私も最初は」


須佐之男が横を見る。


天照はそれ以上説明しなかった。


ただ、二人で眼下の世界を見続けた。


⸻


【高天原・東の海】


夕方。


須佐之男は海へ戻った。


潮津彦は一日の記録をまとめている。


須佐之男が近づく。


「何かやることある?」


潮津彦が顔を上げた。


「須佐之男殿は現在、独立した管理から外れておられます」


「知ってる」


「では」


「だから聞いてる」


須佐之男は少し不機嫌そうに言う。


「俺が決めちゃ駄目なのは分かった。決めないでできること」


潮津彦は数秒、須佐之男を見る。


それから一巻の記録を差し出した。


「本日の潮位記録を清書してください」


須佐之男の顔が露骨に曇る。


「……それ?」


「はい」


「もっと海っぽいのないの?」


「これも海です」


「字じゃん」


「今日の潮を、明日の者が知るための海です」


須佐之男は記録を見る。


気に入らない。


それでも手を伸ばした。


「全部?」


「全部です」


「嫌がらせだろ」


「嫌なら結構です」


須佐之男は記録をひったくる。


「やるよ」


潮津彦は何も言わなかった。


⸻


【高天原・海務殿】


夜。


須佐之男は机に向かっていた。


何度目か分からないため息をつく。


海彦は少し離れたところで道具を片づけている。


「東岸、二尺三寸」


須佐之男が読み上げる。


筆を動かしながら止まる。


「二尺三寸って必要?」


海彦が見る。


「何がですか?」


「二尺くらいでいいだろ」


「でも、二尺三寸だったんですよね」


「三寸くらい」


海彦は少し考えた。


「明日の人も、三寸くらいって考えたら?」


須佐之男の筆が止まる。


海彦も止まった。


自分がかなり自然に反論したことに気づいたらしい。


「……すみません」


須佐之男が見る。


「何で謝るの」


「いや」


「前は俺の言うこと、全部『そうですね』だったくせに」


海彦は少し気まずそうに笑った。


「あれは……」


「何」


「須佐之男殿が、何でもできると思ってたので」


須佐之男の表情が少し変わる。


海彦は慌てる。


「今もすごいと思ってますよ」


「付け足すなって」


「はい」


須佐之男は自分の記録を見る。


約二尺。


少し迷う。


線を引いて消した。


二尺三寸。


海彦がそれを見て、何も言わず少し笑った。


⸻


【高天原・月の池】


深夜。


月読は池のほとりに座っていた。


須佐之男が来るなり、その横へ倒れるように寝転がる。


月読が一言。


「今日は何も壊さなかった?」


須佐之男が顔をしかめる。


「もう少し言い方ないの?」


「今日は何も壊さなくて偉い」


「もっと腹立つ」


月読は黙った。


須佐之男も空を見る。


しばらくして。


「今日、姉さんとずっと一緒にいた」


「うん」


「議事って、あんなに面倒なんだな」


「うん」


「風一つ動かすのも、他のところまで考える」


「そう」


須佐之男が横を見る。


「お前、知ってた?」


「だいたい」


「何で教えなかった」


月読も横を見る。


「聞いた?」


須佐之男は口を開く。


閉じる。


また仰向けになる。


「……最近みんなそれ言う」


「たぶん本当だから」


少し静かな時間が続く。


須佐之男が言った。


「俺、記録にも書いた」


「聞いた」


「今日は何も勝手に動かしてない」


「うん」


「潮の記録も書いた」


「うん」


須佐之男が起き上がる。


「なのに、なんでまだ駄目なんだよ」


月読は水面を見る。


「何が」


「海」


「戻してほしい?」


「当たり前だろ」


「今日から?」


須佐之男が止まる。


「……できると思う」


「お前はね」


須佐之男の眉が寄る。


月読は続けた。


「お前が変わったことと、みんながお前を信じ直すことは、同じ日に起きないよ」


須佐之男は黙る。


「今ちゃんとやってても?」


「ちゃんとやってるところを、これから見るんだと思う」


須佐之男の顔にはまだ不満が残っていた。


「いつまで?」


「知らない」


「またそれ」


月読は肩をすくめる。


須佐之男は池のほとりにあった小石を拾う。


投げようとして。


やめた。


そのまま手の中で転がした。


⸻


【高天原・東の海】


翌朝。


潮津彦が巡察を始めようと海岸へ来ると、須佐之男が先に待っていた。


手には、昨夜清書した記録がある。


無言で差し出す。


潮津彦が受け取り、目を通した。


何か所か、墨で書き直した跡がある。


「二か所間違えた。直した」


「はい」


潮津彦は最後まで確認する。


「問題ありません」


須佐之男は待つ。


潮津彦は記録を閉じた。


それだけだった。


「……終わり?」


「はい」


「もう少しない?」


「何がです」


「いや、例えば、よく書けたとか」


潮津彦は少し考える。


「記録を正しく書くのは、記録する者の務めです」


須佐之男の顔が引きつる。


「ほんと可愛げないな!」


踵を返して歩き出す。


数歩。


止まる。


振り返る。


「今日もやるの?」


「何を」


「記録」


「やっていただけるなら」


「どれくらい」


潮津彦は朝の海を見る。


「全部」


須佐之男は目を閉じた。


かなり長く耐える。


「……分かった」


潮津彦は先に歩き出した。


須佐之男には見えないところで。


その口元に、ごく薄い笑みが浮かんでいた。


⸻


【高天原・議事殿】


同じ頃。


思兼神が天照へ東海の記録を渡していた。


「東南海域は、昨日から安定しています」


天照が目を通す。


「須佐之男は?」


「判断には加わっていません」


天照は少し残念そうにも、安心したようにも見えた。


思兼神が続ける。


「ただ、昨日の潮汐記録はすべて彼が清書しています」


天照が顔を上げる。


「全部?」


「はい」


思兼神は記録の一部を見せる。


「誤記も自分で訂正しています」


天照は少し笑った。


思兼神が尋ねる。


「お伝えになりますか」


「何を?」


「天照様が評価しておられた、と」


天照は少し考える。


そして首を振った。


「今はいい」


「なぜです」


天照は記録を見る。


「たぶん今回は」


声が少し柔らかくなる。


「私に褒めてもらうためにやったんじゃないから」


思兼神はそれ以上何も言わなかった。


⸻


【高天原・東の海】


夕方。


須佐之男は潮津彦と一緒に海を巡っていた。


触ることは許されていない。


だから、見る。


最初はそれが一番つまらなかった。


けれど一日記録を書いたせいか、以前より目に入るものが増えていた。


雲の流れ。


沖の舟。


河口の色。


水面を走る細かな皺。


須佐之男が突然、北西を見る。


「風、早くない?」


潮津彦が足を止める。


「どう見えます」


「西北からの風が、予測より早い」


「それで?」


須佐之男は海岸を見る。


「このまま満ちれば、東岸は予定より高くなる」


「では?」


須佐之男の右手がほんの少し上がる。


海を動かしたくなる。


今なら自分で調整できる。


そう思った。


けれど。


手を下ろす。


「……河口の水量を先に見る」


潮津彦は答えない。


須佐之男は続けた。


「あと、志那都比古に聞く。次の二刻も強くなるなら、今の風だけ見ても意味ない」


「他には」


須佐之男は少し考える。


海面を見渡した。


「舟」


潮津彦を見る。


「戻ってない舟があるか確認する」


数秒。


潮津彦は何も言わない。


須佐之男が眉を寄せる。


「違う?」


潮津彦は海岸を指した。


「確認してきてください」


須佐之男が止まる。


「俺が?」


「自分で見たいのでしょう」


「行っていいの?」


「海を動かすなとは言われています」


潮津彦は淡々と言った。


「見るなとは言われていません」


須佐之男の顔に、久しぶりに素直な笑みが浮かぶ。


「待ってろ」


すぐ走り出す。


潮津彦が後ろから声を飛ばす。


「急げとは言っていません!」


「遅いよりいいだろ!」


「それをやめろと言っているんです!」


遠ざかる須佐之男の笑い声が、海風の中へ消えていった。


⸻


【葦原中国・東岸】


夕暮れの浜には、漁から戻る舟が一艘ずつ入ってきていた。


須佐之男は雲の陰に立ち、数える。


一艘。


二艘。


三艘。


浜では家族が帰ってきた者を迎えている。


宗吉もいた。


身体はかなり戻ったらしく、自分で網を引いている。


その隣で、阿国が舟から魚籠を受け取っていた。


須佐之男は遠くから見た。


降りようとはしなかった。


知らせる必要はない。


助ける必要もない。


ただ、舟が全部戻ったか確かめる。


最後の一艘が浜へ入った。


須佐之男は指で数を確かめる。


全部いる。


それでよかった。


そのとき。


阿国がふと空を見上げた。


何かを感じたのかもしれない。


けれど雲の向こうには、もう誰もいなかった。


須佐之男は高天原へ戻っていた。


今回は。


誰にも見つけてもらう必要はなかった。


⸻


【高天原・夕暮れ】


一日の終わり。


天照は高い場所に立ち、沈み始める太陽を見ていた。


須佐之男がやってくる。


隣へ並ぶ。


しばらく、どちらも話さない。


「今日はどうだった?」


天照が尋ねた。


「つまらなかった」


「何したの?」


須佐之男は指を折る。


「風見た。潮見た。河口見た。舟数えた」


少し嫌そうに続ける。


「あと、記録書く」


「そう」


「何も起きなかった」


天照が笑う。


「よかったね」


須佐之男が横を見る。


「何もしてないのに?」


「何も起きなかったのでしょう?」


「うん」


「なら、今日はそれでいい」


須佐之男は夕日に染まる海を見る。


「変な仕事」


「管理って、そういうことも多いよ」


「何も起きないようにしても、誰も気づかない」


「そうね」


「損じゃん」


天照は少し笑った。


「そう思う?」


須佐之男は答えなかった。


下の海は静かだった。


漁舟は帰った。


潮は乱れていない。


誰も須佐之男の名を呼んでいない。


けれど。


今日は、それが少しだけ悪くないように思えた。


「姉さん」


「なに?」


「俺、いつか姉さんよりすごくなるから」


天照は笑う。


「うん」


須佐之男が不満そうに見る。


「それ絶対信じてないだろ」


天照は海へ落ちる光を見る。


「信じるかどうかは」


少し間を置く。


「これから見て決める」


須佐之男は黙った。


少し前なら、すぐに「今信じろ」と言ったかもしれない。


今は。


「……じゃあ、見てろよ」


「見てる」


須佐之男の顔に、久しぶりに子供らしい笑みが戻った。


太陽はゆっくり海へ近づいていく。


金色の光が水面へ長く伸びる。


海は静かに、その光を受けていた。


須佐之男は海を見る。


天照は沈む日の向こうを見る。


二人の視線は、同じ場所には向いていない。


それでも今は。


同じところに立っていた。

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