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出雲の雨  作者: 幕神成


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第6話 ほどけた糸

 織殿へ戻ると、灯りは半分ほど消されていた。


 昼間は絶えず鳴っていた織機も、今は止まっている。台の上には布が掛けられ、使いかけの糸が籠へ収められていた。


 奥で、一人の神使が戸締まりをしていた。


「須佐之男様。何かお忘れですか」


「姉さんは?」


「先ほどお戻りになりました」


 須佐之男は廊下を振り返った。


 途中ですれ違わなかったのは、別の道を通ったからだろう。


「もう終わり?」


「今夜は。真紗が向こうを片づけたら、火を落とします」


 神使は灯りを一つ持ち上げた。


「戸を閉めて回りますので、失礼します」


 須佐之男は頷いた。


 戻れば、天照に会えるかもしれなかった。


 けれど、隣の部屋には、まだ布が掛かっている。


 窓から入る風が端だけを揺らし、奥までは届いていなかった。


     *


 布を乾かす部屋には、昼の湿気が残っていた。


 須佐之男は一枚の裾へ触れた。


 冷たい。


 指先に、布の中の水が分かった。


 海のように流れてはいない。細い糸の間にとどまり、少しずつ空気へ逃げている。


 それを手伝えばいい。


 彼は窓を開けた。


 外の風が入り、いちばん手前の布を持ち上げる。


 須佐之男は掌を上へ向けた。


 風を少し奥へ送る。


 布が一枚ずつ膨らんだ。


 強くはない。昼間、岸で受けていた風よりもずっと弱い。


 部屋の隅にたまっていた湿った空気が動き始めた。


 須佐之男は裾をつかんだまま、少し待った。


 さっきより軽くなっている気がした。


「須佐之男様?」


 戸口に真紗が立っていた。


 腕に、畳んだ布を抱えている。


「風を通してるだけだ」


 須佐之男は先に言った。


「熱くしてない。縮まないだろ」


 真紗は布の揺れを見た。


「いったん、お止めください」


「少し乾いてきた」


「掛け方を確かめます。こちらは夜のあいだ置いておくためのものですから、風を当てるなら――」


 彼女は布を台へ置いた。


 須佐之男は窓から入る風を弱めた。


 まだ、完全には止めなかった。


「これくらいなら平気だろ」


 真紗は返事をせず、奥の布へ手を伸ばした。


「こちらは留めてあります。先に外さないと」


 柱の間に渡された竿へ、幅の広い布が何枚も掛かっている。


 裾が別の棒へ結ばれていた。


 皺を伸ばすためだったのだろう。


 須佐之男は初めて気づいた。


 その布だけが、風を逃がさずに膨らんでいた。


     *


 戸締まりをしていた神使が、廊下の向こうで扉を閉めた。


 木の音が響く。


 入ってきた風の抜け道が変わった。


 須佐之男の指先に、急な重みがかかった。


 天幕を支えたときに似ていた。


 彼は反射的に風を上へ逃がした。


 布が大きく張った。


 竿の端で、縄が鳴る。


「離れて」


 須佐之男が言った。


 真紗はすでに手を引いていた。


 だが、出口へ向かうには布架の横を通る必要があった。


 低い音がした。


 一本の支えが床の上を滑る。


 須佐之男は風を止めた。


 膨らんでいた布が落ち、傾いた竿へ重さが戻った。


 今度は、竿そのものが外れた。


 真紗が後ろへ下がる。


 須佐之男は右手を伸ばし、落ちる木を風で押さえた。


 木は止まった。


 片端だけが。


 反対側が回り、隣の布架を払った。


 白い布が視界を塞ぐ。


 何かが倒れた。


 織機の軋む音に続いて、短い叫びが聞こえた。


 須佐之男は動けなくなった。


「……真紗?」


 布の向こうで、誰かが息を吸っていた。


 うまく吸えていないような音だった。


 須佐之男は布を払いのけた。


     *


 真紗は織機の脇に座り込んでいた。


 右腕を伸ばしたまま、身体だけが横へ傾いている。


 倒れた木枠が、織機との間に彼女の手を挟んでいた。


 須佐之男は木枠へ手をかけた。


「今、どかす」


 持ち上げようとした途端、真紗が声を上げた。


 彼は手を止めた。


「ごめん。今――」


「動かさないで」


 彼女の声は細かった。


 須佐之男は木枠をつかんだまま、膝をついた。


 下を見る。


 どこが引っ掛かっているのか、分からない。


 木と木の間へ指を入れようとしたが、隙間がなかった。


 布に、赤いものがにじんでいた。


 足音が近づいてきた。


 さっきの神使が戸口で立ち止まり、顔色を変えた。


「人を」


 須佐之男が言った。


 声が出ているか、自分でも分からなかった。


「呼んでくれ」


 神使が走り去る。


 須佐之男は真紗を見た。


「もう少しだけ」


 真紗は目を閉じていた。


 左手で、床に落ちた布を握っている。


 須佐之男は何か言おうとした。


 大丈夫。


 すぐ終わる。


 どちらも、言えなかった。


     *


 最初に来た二人が、倒れた布架を支えた。


 続いて、道具を持った神使が膝をつく。


 木枠を少しずつ浮かせ、その下へ短い木片を入れた。挟まっている場所が動かないよう、別の者が織機を押さえる。


 須佐之男も手を伸ばした。


「そのまま支えていてください」


 言われて、止まった。


 何も変えず、ただ木枠を持っていた。


 腕が震えた。


 力が足りないのではなかった。


「もう少し上げます」


 真紗が小さく頷いた。


 木がきしむ。


 彼女の左手が、布を強く握った。


 須佐之男はその手を見ていた。


 昼間、絡んだ糸をほどいて見せてくれた手だった。


 ようやく右手が抜けたとき、真紗の身体から力が落ちた。


 神使が肩を支え、別の者が傷へ布を当てた。


 須佐之男は木枠を持ったままだった。


「もう、下ろして大丈夫です」


 言われてから、ゆっくり床へ置いた。


     *


 天照が来たのは、真紗を運ぶための板が用意された頃だった。


 戸口で一瞬、足を止めた。


 倒れた布架。


 壊れた織機。


 床に広がった布。


 それから、真紗の右手へ巻かれたものを見た。


「灯りをこちらへ。歩かせないで、そのまま運んで」


 神使たちが動いた。


 天照は真紗のそばへ膝をついた。


「真紗。聞こえる?」


 彼女が目を開けた。


「はい」


「手当てのできる者を呼んでいる。今、部屋へ移るから」


 真紗は頷いた。


 須佐之男は天照へ近づいた。


「姉さん、俺」


 天照が顔を上げた。


 彼の手が伸びかける。


「そこで止まって」


 須佐之男は足を止めた。


 天照はすぐ真紗へ向き直った。


「ほかに痛いところは?」


「肩を、少し」


「分かった」


 真紗が運ばれていく。


 戸口を通るとき、彼女の視線が一度、須佐之男へ向いた。


 何か言われると思った。


 けれど、彼女は目を伏せただけだった。


 天照も一緒に出ていった。


     *


 織殿には、片づけのための人が残った。


 誰も大きな声を出さなかった。


 須佐之男は倒れた竿を起こそうとした。


 神使が近づいてくる。


「こちらでやります」


「持てる」


「ほかの支えも緩んでいるかもしれません。先に確かめますので」


 須佐之男は手を離した。


 床の布を拾った。


 乾かすつもりだった布だった。


 泥も水も入っていないのに、もう北へ送れない色がついている。


 彼は折り畳もうとした。


 手が止まった。


 別の神使がそっと受け取った。


「それは、分けておきます」


 須佐之男は空になった手を見た。


 何も持っていないと、立っている場所がなかった。


     *


 廊下へ出ると、月読がいた。


 夜の務めから呼び戻されたらしく、外套を着たままだった。


「どこ」


 須佐之男が尋ねた。


 月読は廊下の奥を見た。


「東の部屋。今、手当てしてる」


「俺も行く」


 歩き出すと、月読が横へ並んだ。


 止めはしなかった。


 二人で戸の前まで行く。


 中から、低い声が聞こえた。


 湯を。


 布を替えて。


 もう少し灯りを近くへ。


 須佐之男は戸へ手を伸ばした。


 月読が言った。


「今は待って」


「謝らないと」


「手当てが先」


 須佐之男は月読を見た。


 月読も彼を見ていた。


 いつもの眠そうな顔ではなかった。


 須佐之男は手を下ろした。


 壁際へ座る。


 戸の向こうで真紗が声を抑えた。


 須佐之男は膝の上で両手を握った。


     *


 天照が出てきたとき、夜はかなり更けていた。


 袖に、薄い染みがついていた。


 須佐之男は立ち上がった。


「どうだった」


 天照はすぐには答えなかった。


「骨が傷んでいる。しばらく動かせない」


「治る?」


「まだ分からない」


「でも、手は――」


「分からないの」


 天照の声が少し強くなった。


 須佐之男は口を閉じた。


 彼女は一度、息を整えた。


「何があったのか、聞かせて」


 須佐之男は廊下の床を見た。


「布を乾かそうとした」


「どうして」


「北へ送るって。まだ足りないから」


 天照は黙っていた。


「風を通すだけなら、早くなると思った。最初は弱くしてた。真紗が来て、掛け方を見るって言って」


「止めるように言われた?」


 須佐之男は答えられなかった。


 天照が待った。


「……言われた」


「止めた?」


「弱くした」


「止めなかったのね」


 彼は頷いた。


 戸の内側で、器を置く音がした。


 須佐之男はそちらを見た。


「そのあと、風の向きが変わって、布が張った。竿が落ちたから、押さえようとして」


 手を上げかけた。


 天照の目がその手へ向いたので、下ろした。


「片方だけ止めた。反対側が回って……」


 続きは言えなかった。


 天照は目を閉じた。


 長くはなかった。


 開いたとき、彼女は須佐之男ではなく、廊下の先を見ていた。


「姉さん」


「聞いている」


「俺、仕事を減らせると思ったんだ」


 その言葉を口にしてから、須佐之男は顔を上げた。


 天照が彼を見た。


 初めて、はっきりと怒っているのが分かった。


「真紗は、止めてと言ったのでしょう」


 須佐之男は動かなかった。


「今は、あの人の話をしているの」


     *


 天照は、もう一度部屋へ戻った。


 須佐之男は座れなかった。


 廊下の壁へ背をつけたまま、戸を見ていた。


 月読が水を持ってきた。


 受け取ると、器が小さく鳴った。


 自分の手が震えていた。


「飲める?」


 須佐之男は頷いた。


 口へ運んだが、少ししか飲めなかった。


「布を運んだんだ」


 彼は言った。


 月読は聞いていた。


「糸も、ほどいた。真紗が教えてくれて」


 言葉が続かなくなった。


 月読は器を受け取った。


 今度は、何も言わなかった。


     *


 夜明け前、伊邪那岐が来た。


 廊下にいた者たちが頭を下げる。


 須佐之男も壁から離れた。


 父は彼を見ると、足を止めた。


 須佐之男は口を開いた。


 伊邪那岐は、その先の戸へ目を向けた。


「今は、真紗に会う」


 須佐之男は道を空けた。


 父が部屋へ入る。


 しばらくして、天照と二人で出てきた。


 低い声で何かを話し、それから伊邪那岐が須佐之男へ向き直った。


「今日は、この宮を離れずにいなさい」


「海は」


「潮津彦へは知らせる」


「俺が説明する」


「説明は、ここで聞く」


 父の声は静かだった。


 須佐之男は頷いた。


 伊邪那岐が去ったあと、天照も神使に呼ばれて歩いていった。


 須佐之男は、その背を呼び止めなかった。


     *


 明るくなった織殿は、夜に見たときより壊れていた。


 外れた竿は床へ下ろされ、布架は壁際に寄せられている。織機の一つには、深い傷が残っていた。


 その横に、須佐之男が使っていた小さな台があった。


 昨日ほどいた糸が、籠へ収められていた。


 まだ絡んだままの束も残っている。


 須佐之男は台の前に座った。


 一つ取ろうとして、手を止めた。


 真紗に教わった場所を思い出す。


 引っ張るのではなく、先に輪を抜く。


 指を入れたが、うまく動かなかった。


 糸の端が、掌に残った小さな傷へ引っ掛かる。


 彼は無理に引かず、そっと外した。


 ほどけなかった束を、元の場所へ戻す。


 隣の部屋から、布を数える声が聞こえていた。


 足りない分を、もう一度確かめているのだった。

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