第5話 姉のいる場所
翌朝、須佐之男は負傷した男の家へ行った。
戸口には、泥を落とした板が二枚、立てかけてあった。昨日、男を運ぶときに使ったものだった。
中から話し声が聞こえる。
須佐之男が声をかけると、妻が出てきた。
目の下に疲れが残っていた。
「脚は」
「眠っています。夜は何度か起きましたけど」
「治るのか」
「骨がつくまで、動かさないようにと」
「どれくらい」
「しばらくは、仕事に出られないそうです」
女は戸を少し開けた。
男は部屋の奥で横になっていた。脚の下に布が重ねられ、昨日よりもしっかり板が当てられている。
須佐之男は敷居の前で膝をついた。
声をかけるつもりだった。
けれど、眠っている顔を見ていると、起こしてまで何を言えばいいのか分からなくなった。
「薪が要るなら、割る」
妻が彼を見る。
「運ぶものでもいい」
「……裏に、濡れた薪があります。軒の下へ移したいんですが」
「分かった」
須佐之男は立ち上がった。
裏庭には、流れてきた泥と一緒に薪が散らばっていた。
濡れたものを拾い、乾いたものと分ける。軒の下を片づけ、下に木を渡してから積んだ。
途中で何度か、家の中へ目が向いた。
男は起きてこなかった。
*
昼前に戻ると、潮津彦が包みを用意していた。
穀物と薬を求めるための書付だった。
「高天原へ届けます」
須佐之男は、その包みを見た。
「俺が持っていく」
「途中で、北の蔵のことも聞かれるでしょう」
「話す」
潮津彦は頷いた。
手渡された包みは薄かった。
蔵から運んだ袋と比べれば、ほとんど重さがない。それなのに、須佐之男は両手で受け取った。
「海彦は?」
「川沿いに残っています。夕方には戻る予定です」
「分かった」
須佐之男は戸口へ向かった。
潮津彦が呼び止める。
「食事はしましたか」
「あとで」
「朝も食べていません」
「食うよ」
返事だけして外へ出た。
高天原へ続く道は、昨日と同じだった。
昨日は、早く着きたかった。
今日は何度か足を止めた。
*
天照の部屋には、人が集まっていた。
開いた戸の向こうで、神使が絵図を広げている。天照はその前に座り、一人の話を聞きながら、隣の者へ短く何かを尋ねていた。
須佐之男は戸口に立った。
天照が気づいた。
彼を見ると、すぐに手元の板を伏せた。
「須佐之男」
立ち上がりかける。
しかし、話していた神使が言った。
「南へ出す荷ですが、本日中でよろしいでしょうか」
天照は一度、そちらへ向き直った。
「ええ。薬を先に。穀物は濡れないように包んで、運ぶ舟と受け取る人を確認して」
須佐之男は、持ってきた包みを見た。
もう話は届いていた。
神使が出ていくと、天照が近づいてきた。
「怪我は?」
「俺はしてない」
「そう」
彼女は弟の顔を見た。
「眠れた?」
「寝た」
少し嘘だった。
天照はそれを確かめず、包みを受け取った。
「潮津彦から?」
「ああ」
「座って。今、これを――」
「姉さん」
声が重なった。
天照が顔を上げる。
須佐之男は、言おうとしていたことを忘れた。
いや、忘れたわけではなかった。
ここへ来る途中では、いくつも考えていた。
舟を見捨てることはできなかった。
川の水は、思っていたより増えていた。
自分だけが決めたわけではなかった。
どれも、今、姉の顔を見て言うことではない気がした。
「……何でもない」
天照は少し迷ったあと、部屋の奥を指した。
「そこで待っていて。これを確かめたら、話そう」
須佐之男は頷いた。
*
待つ場所は、天照が普段、食事をする小さな部屋だった。
昨日の朝も、ここに座っていた。
椀は片づけられている。
須佐之男は壁にもたれ、膝を立てた。
戸の向こうから、声が聞こえた。
「濡れた穀物は、どれだけ使えますか」
「まだ確かめております」
「先に人数を。足りない日数が分からなければ、送る量を決められません」
天照の声だった。
続いて、知らない男の声がした。
「舟の者たちは、須佐之男様に助けられたと申しております」
須佐之男は顔を上げた。
少し間があった。
「そのことも、報告に残してください」
天照が答えた。
「ただ、川沿いの被害と合わせて確かめます。助かった人がいるからといって、そちらを省くわけにはいきません」
須佐之男は膝から手を下ろした。
そのとおりだった。
自分でも、昨夜、板に書いた。
戸の向こうで聞くと、別の言葉のようだった。
立ち上がりかけ、また座った。
ここへ来れば、少し楽になると思っていた。
そのことを天照に知られたくなかった。
*
月読が入ってきた。
須佐之男の前で足を止める。
「いたんだ」
「見れば分かるだろ」
「海から来たの?」
「ああ」
月読は脇に抱えていた布を棚へ置いた。夜の務めに使うものらしく、端に小さな留め具がついている。
須佐之男の隣へ座りかけ、やめた。
「食べた?」
「皆、そればっかり聞くな」
「答えてないからじゃない」
須佐之男は顔を背けた。
月読は戸口へ戻り、しばらくして小皿を持ってきた。
干した果物が載っていた。
「それしかなかった」
「いらない」
月読は皿を置いた。
自分で一つ取り、食べる。
何も聞かなかった。
それが少し気に入らなかった。
「知ってるんだろ」
須佐之男が言った。
月読は彼を見た。
「海のこと」
「聞いた」
「何て」
「舟が戻ったことと、川があふれたこと」
「それだけ?」
「それ以外は、まだ」
須佐之男は皿から一つ取った。
硬く、噛むと少し酸っぱかった。
「皆、分かったような顔する」
「私は、その場にいなかったから」
月読はもう一つ取った。
「分からない」
須佐之男は黙って食べた。
二人で皿を空にした頃、天照が入ってきた。
*
月読は皿を持って出ていった。
天照は須佐之男の向かいへ座った。
「待たせてごめん」
「別に」
「薬と食べ物は、今日中に出す。怪我をした方の家にも、人を送るから」
「もう聞いた」
天照は頷いた。
須佐之男は畳まれた布の端を見た。
「俺が戻さなかったら、舟のやつらは死んでたかもしれない」
「うん」
「最後の一艘、櫂が折れてた。岩へ流されてて」
「うん」
「でも、川のほうも分かってたんだ。開けとけって言われて、最初は残してた」
天照は黙って聞いた。
須佐之男は話し続けた。
沖で風が変わったこと。
舟の男と目が合ったこと。
波を離せなくなったこと。
川の流れを、途中から見ていなかったこと。
話し終えると、喉が乾いていた。
天照が水を差し出した。
須佐之男は受け取ったが、すぐには飲まなかった。
「俺、何もしないほうがよかったのか」
天照は答えなかった。
彼は顔を上げた。
「姉さん」
「分からない」
その返事に、須佐之男の眉が動いた。
「姉さんでも?」
「その場を見ていないもの。今の話だけで、こうすればよかったとは言えない」
「じゃあ、誰に聞けばいい」
「潮津彦と、もう一度確かめよう。舟の人たちと、川沿いにいた人たちにも」
「そういう話はした」
声が少し強くなった。
天照は水の器を見た。
須佐之男の指が、縁をきつく握っていた。
「……うん」
彼女は言った。
「今は、それを聞きたかったんじゃないね」
須佐之男は目を伏せた。
何を聞きたかったのか、自分でも口にできなかった。
大丈夫だと言われたかった。
けれど、脚を折った男は大丈夫ではなかった。
天照が手を伸ばした。
須佐之男の手首に触れる。
「怖かった?」
彼は器を見たまま、しばらく動かなかった。
やがて、ほんの少し頷いた。
天照の指が、そのまま残った。
*
戸口で声がした。
「天照様」
彼女は顔を上げた。
「北へ送る布のことで、ご確認を」
天照の手が離れた。
「今、行きます」
須佐之男は器を置いた。
天照が彼を見る。
「夕方なら、もう少し――」
「いい」
「須佐之男」
「仕事だろ」
彼は立ち上がった。
膝が少し痺れていた。
「俺も戻る」
「今夜、ここに泊まってもいいのよ」
「明日、向こうでやることがある」
それは本当だった。
天照は引き止めなかった。
須佐之男は戸を開けた。
外にいた神使が道を空ける。
廊下へ出ると、思っていたより日が傾いていた。
*
門へ向かう途中で、白い布が運ばれていくのを見た。
長い布を二人で持ち、濡れないように抱えている。
「それ、北へ?」
須佐之男が尋ねると、神使が足を止めた。
「はい。川沿いの家へ。寝具や衣が濡れたと伺いましたので」
「それだけじゃ足りないだろ」
「まだ織殿で用意しています」
須佐之男は門を見た。
海へ戻っても、今日はもう暗くなる。
彼は神使たちと反対のほうへ歩いた。
*
織殿には、木を打つ音が響いていた。
何台もの織機が並び、その間を糸の束を抱えた者たちが行き来している。窓は開いていたが、人と灯りが多く、部屋の中は暖かかった。
須佐之男が戸口に立つと、一人の女が顔を上げた。
「須佐之男様」
「手伝うこと、あるか」
女は手元の糸を置いた。
「お運びいただくのでしたら、あちらの反物を」
須佐之男は積まれた布を見た。
昨日の花籠を思い出しかけ、やめた。
「どこへ」
「隣の部屋です。乾いたものと、まだ湿っているものを分けてありますので」
布は見た目より重かった。
抱えて運ぶと、腕の中でずれた。床へ落としそうになり、顎で押さえる。
「一度に持たなくても大丈夫ですよ」
女が言った。
「持てる」
「では、戸を開けますね」
彼女は先へ回った。
須佐之男が布を下ろすと、折れた端を静かに直した。
「名前」
彼が尋ねる。
「真紗と申します」
「これ、今日中に送るのか」
「できた分から。全部は難しいと思います」
部屋の奥には、洗った布が掛けられていた。
窓から入る風で、裾がわずかに動いている。
須佐之男はそちらを見た。
「乾けば使える?」
「ええ。ですが、まだ仕上げていないものもあります」
真紗は彼の視線を追った。
「急ぐと、布によっては縮んでしまいます。こちらは私たちで見ますから、まず運ぶほうをお願いできますか」
「……分かった」
須佐之男は元の部屋へ戻った。
今度は半分だけ抱えた。
*
反物を運び終えると、真紗は彼を小さな台の前へ座らせた。
絡んだ糸の束が置かれている。
「これ、ほどくのか」
「はい。引っ張らずに、輪を一つずつ抜いてください」
「全部?」
「できるところまでで」
須佐之男は糸をつかんだ。
すぐに結び目が締まった。
真紗が隣へ座る。
「そちらではなく、ここを先に」
細い指が糸の間へ入り、輪を一つ抜いた。
須佐之男も真似をした。
今度はほどけた。
「それで大丈夫です」
真紗は仕事へ戻った。
須佐之男は糸を見た。
海の流れに比べれば、ずっと小さい。
けれど、どこがどこへつながっているのか、見失うと動かせなかった。
しばらくすると、隣にほどいた糸が積まれた。
戸口で足音が止まった。
天照だった。
「ここにいたの」
「これ、まだ使うんだろ」
須佐之男は糸を持ち上げた。
真紗が顔を上げた。
「助かっています。細かいものが、どうしても後回しになってしまって」
天照は弟の手元を見た。
「ありがとう」
須佐之男は糸へ目を戻した。
「別に。運ぶだけなら、すぐ終わったし」
天照は何か言いかけたが、真紗に呼ばれ、奥へ歩いていった。
送る布の数を確かめる声が聞こえる。
須佐之男は次の糸を取った。
さっきより、少し早くほどけた。
*
灯りを増やす頃になっても、仕事は残っていた。
須佐之男は台から離れ、伸びをした。
肩が固まっていた。
窓の向こうでは、夜の風が木の葉を鳴らしている。布の掛かった部屋はまだ湿っていて、奥の反物には重い皺が残っていた。
天照は別の台で、送る荷を確かめていた。
神使が数を読み上げる。
彼女は頷き、もう一つの板と照らし合わせる。途中で額を押さえたが、すぐに手を下ろした。
須佐之男は近づいた。
「まだ終わらないのか」
「もう少し」
「朝も言ってた」
「そうだったね」
天照は笑った。
疲れている顔だった。
須佐之男は、乾かない布のある部屋を見た。
「あれが済めば?」
「明日、仕立てる分を増やせる。でも、今日はここまででも十分よ」
彼女は弟へ向き直った。
「帰るなら、灯りを持っていって。道が暗いから」
須佐之男は少し考えた。
「今日は泊まる」
天照の顔が和らいだ。
「うん。部屋、そのままだから」
「知ってる」
須佐之男は織殿を出た。
*
自分の部屋には、棚へ戻した石があった。
寝具も、朝、出ていったときのままだった。
須佐之男は戸を開けたまま、中へ座った。
廊下から人の足音が聞こえる。
海の部屋では、夜になれば波しか聞こえなかった。
ここでは、誰かが近くを通る。
それだけで、少し眠くなった。
けれど、天照はまだ戻ってこなかった。
須佐之男は棚の石を手に取り、掌で転がした。
しばらくして、廊下へ顔を出す。
織殿の灯りは、まだ消えていない。
夜風が吹いた。
柱に掛けられた細い飾り紐が持ち上がり、静かに落ちた。
須佐之男はその動きを見た。
それから、織殿へ続く廊下へ目を向けた。




