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出雲の雨  作者: 幕神成


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4/29

第4話 岸の向こう

 朝の海は、前の日より静かだった。


 須佐之男は杭の横に立ち、水面を見ていた。風は弱く、波も低い。沖へ向かう流れと岸へ寄る流れが、ゆっくり入れ替わっている。


 これなら、北の岸を回ってから南の入り江にも行ける。


 昨日、泥に引っ掛かっていた舟を思い出した。水の道をもう少し広げれば、潮を待たずに通れるようになるかもしれない。


 海彦が板を抱えてやってきた。


「今日は早いですね」


「昨日も早かっただろ」


「昨日は私が呼びました」


「起きてた」


「はい」


 その返事が気に入らず、須佐之男は海彦の板をのぞき込んだ。


 風向きの横に、小さな印がついている。


「それ、何だ」


「北の山に雲が出ています。昼から崩れるかもしれないので」


 須佐之男は北を見た。


 空の端が少し白い。


 雲はあったが、今すぐ何か起こりそうには見えなかった。


「舟は出てるのか」


「三艘。沖の網を上げに行ったそうです」


「戻るのは?」


「昼前には」


 須佐之男は板へ目を戻した。


 昨日より、書いてあることの意味が分かった。


     *


 北の岸は、岩が多かった。


 岬が海へ張り出し、その内側に小さな浜がある。浜の端へ川が流れ込み、川沿いには家と蔵が並んでいた。


 潮津彦は河口で足を止めた。


「ここでは、沖だけを見ないでください」


 須佐之男は川へ目を向けた。


「流れ込んでる」


「普段は。海が高くなれば、出にくくなります」


 河口の脇には、低い土手があった。


 昨日の入り江と違い、舟を引き上げる場所が狭い。大きな波が来れば、川の側へ回り込みそうだった。


 須佐之男はしゃがみ、水へ手を入れた。


 川の水は冷たい。


 海の流れに押されながらも、細く沖へ抜けていた。


「今は大丈夫だ」


「はい。今は」


 潮津彦は川上を見た。


 須佐之男もそちらを見たが、家と木々に遮られ、その先は分からなかった。


 浜では、一人の男が縄をほどいていた。舟を引くための太い縄だった。


「潮津彦様」


 男が立ち上がる。


「朝から川が濁っております」


「山で降っていますか」


「上へ行った者が、まだ戻りません」


 潮津彦は海彦を呼んだ。


「川沿いに確認を。水位と、戻るまでに気づいたことを知らせてください」


「分かりました」


 海彦が走っていく。


 須佐之男は沖を見た。


 白かった雲が、いつの間にか灰色になっていた。


     *


 最初の風は、冷たかった。


 浜に立ててあった幟が音を立てる。


 須佐之男が顔を上げたとき、岬の向こうで波の色が変わった。細かな白い筋が、沖から岸へ続いている。


 男が目を細めた。


「早いな」


「戻ってくる舟は」


 潮津彦が尋ねる。


 男は沖を指した。


 二艘、見えた。


 さらに遠くに、もう一艘。


 最後の舟は、帆を半分ほど下ろしたところだった。


 風が強くなる。


 須佐之男は水の動きを追った。


 岬の先で、二つの流れがぶつかっている。そこを越えれば浜へ入れるが、横から波を受ければ、舟は岩へ寄せられる。


「沖の波を弱める」


 須佐之男が言った。


 潮津彦は舟を確かめ、頷いた。


「岬の外側で。河口は開けておいてください」


「分かってる」


 須佐之男は岩へ上がった。


 風が衣をたたく。


 足元から海へ力を伸ばすと、表面の波の下に重い流れがあった。上だけを押さえようとすれば、波は別の場所で立ち上がる。


 昨日と同じだった。


 流れを止めず、少しずつ向きを変える。


 岬へ寄っていた波が、沖側へそれた。


 先頭の舟が向きを直した。


 浜から声が上がる。


「そのまま! こっちだ!」


 須佐之男は手を広げたまま、二艘目を待った。


 潮津彦が浜の端で水を整えている。岸へ押し上げすぎないよう、入ってくる波を受け流していた。


 一艘目が着いた。


 男たちが駆け寄り、舟を引く。


 二艘目も岬を越えた。


 須佐之男は息を吐いた。


 できる。


 昨日より大きいが、流れはつかめている。


     *


 三艘目が、なかなか近づかなかった。


 帆の端が垂れ、船首が風へ向かない。舟の中で誰かが立ち上がり、すぐ膝をついた。


 浜の男が叫んだ。


「櫂が折れた!」


 須佐之男は沖へ意識を広げた。


 今、押さえている場所より遠い。


 そこまで波を弱めるには、岬の内側へ回している力を動かす必要があった。


「もう少し広げる!」


 潮津彦へ声をかける。


 年長の神は沖を見た。


「河口の流れを残してください」


「ああ」


 須佐之男は、川から海へ抜ける細い水を確かめた。


 まだ通っている。


 そこを避けて、力を沖へ伸ばした。


 波がほどける。


 傾いていた舟が持ち直した。


 須佐之男の肩から力が抜けかけた、そのときだった。


 強い風が岬を越えた。


 沖の舟が横を向く。


 下から持ち上がった波が、船腹を押した。


 須佐之男はとっさに水を受け止めた。


 舟が止まった。


 ほんの一瞬だった。


 その一瞬を保とうとして、さらに力をかけた。


 海面が広く盛り上がる。


「須佐之男殿、岸へ寄せすぎないで!」


 潮津彦の声が聞こえた。


 須佐之男は水を沖へ逃がそうとした。


 けれど、手を緩めれば舟が流れる。


 船縁にしがみついた男の顔が見えた。


 こちらを見ていた。


「もう少し」


 須佐之男は呟いた。


 舟の下へ水の道を作る。


 岬の先を回り、浜へ。


 船首が動いた。


 岸から縄が投げられる。


 舟の男がつかんだ。


 須佐之男は、そこでようやく力を緩めた。


     *


 海彦の声は、浜の歓声に半分かき消された。


「川があふれています!」


 須佐之男は振り返った。


 走ってきた海彦は、腰まで濡れていた。


「上の水が増えています。河口から出られなくて、蔵のほうへ――」


 須佐之男は川へ意識を向けた。


 流れが消えていた。


 さっきまで細く沖へ抜けていた水が、海に押し返されている。


 自分が持ち上げた水だった。


「下げる」


 須佐之男は岩を下りた。


 潮津彦が腕をつかんだ。


「急に引かないでください」


「川が出られないんだろ!」


「一度に出せば、今度は下流へ走ります」


 須佐之男は潮津彦の手を振りほどきかけた。


 その向こうで、海彦が息を切らしている。


 舟は三艘とも浜へ着いていた。


 だが、川沿いの家の間から、濁った水が流れてきていた。


「どうすればいい」


 声が、自分でも驚くほど細くなった。


 潮津彦は河口を見た。


「沖の高さを少しずつ戻してください。こちらで川の出口を支えます」


 須佐之男は頷いた。


「海彦、蔵へ。人を高いところへ上げてください」


 海彦が走った。


 須佐之男は、持ち上げていた海を下ろした。


 少しずつ。


 舟のときより、ずっと難しかった。


 早く戻したかった。


 川沿いで何が起きているのか、見に行きたかった。


 それでも、手を離せなかった。


     *


 水が引き始めてから、須佐之男は川沿いへ走った。


 低い場所にあった蔵の戸が外れていた。


 中から、濡れた藁と穀物が流れ出している。袋を抱えた男が、膝まで泥に浸かって立っていた。


 須佐之男が近づくと、男は袋を差し出した。


「そっちへ運んでくれ!」


 受け取った。


 水を吸って、重い。


 石段の上へ置き、戻る。


 もう一袋。


 その次は、崩れた棚の下から箱を引いた。


 誰も、彼を神だとは呼ばなかった。


 蔵の裏で、人が集まっていた。


 若い男が地面に座り、片脚を両手で押さえている。すぐ横に、流されてきた太い材木があった。


 海彦が布を裂いていた。


 須佐之男は足を止めた。


「何が」


「水に押されて、材木との間に脚を挟まれました」


 海彦は顔を上げずに答えた。


 若い男の脛は、明らかに形が違っていた。


「動かさないで」


 海彦が言う。


 男は頷こうとして、痛みに息を詰めた。


 須佐之男はしゃがんだ。


 何かできることがあるはずだった。


 水は引いた。


 舟も戻した。


 けれど、目の前の脚をどうすればいいのかは分からなかった。


「その板を取ってください」


 海彦に言われ、振り返った。


「長いほうです」


 須佐之男は板を拾った。


 泥を袖で拭き、渡した。


 海彦が男の脚へ当てる。


 布を結ぶたびに、男の指が地面をつかんだ。


     *


 雨が降り始めた。


 負傷した男は、川から離れた家へ運ばれた。


 須佐之男も担いだ。


 敷居を越えるとき、男が小さく声を上げた。慌てて持ち上げ直す。


 家の中から女が駆け寄ってきた。


「どうしたの、その脚」


「材木に」


 男はそれだけ答えた。


 女は膝をつき、布の巻かれた脚を見た。触れようとして、手を止める。


「治るの?」


 海彦が、手当てのできる者を呼びに出た。


 須佐之男は戸口に立っていた。


 女が彼を見る。


「水、急に来たんです。朝はまだ、あそこまで上がってなかったのに」


 須佐之男は口を開いた。


 女は返事を待たず、男の濡れた衣を脱がせ始めた。


「誰か、乾いた布を」


 須佐之男は外へ出た。


 頼まれたものを取りに行くふりをして、戸口から離れた。


 雨が顔へ当たった。


     *


 浜へ戻ると、舟の持ち主が待っていた。


 須佐之男を見るなり、頭を下げる。


「助かりました。あのままなら、岩へぶつかっていた」


 後ろには、最後の舟に乗っていた二人がいた。


 一人の腕には、縄で擦れた傷があった。


 それでも、二人とも立っていた。


「全員、戻れたんだな」


 須佐之男が尋ねると、男は強く頷いた。


「はい。ありがとうございました」


 須佐之男は川のほうを見た。


 濡れた穀物が、石段の上へ並べられていた。女たちが雨を避けるために布を掛けている。


「あっちは」


 彼が言いかけると、舟の男もそちらを見た。


「川のほうまでやられたんですね」


 須佐之男は頷けなかった。


 男は再び頭を下げ、舟へ戻っていった。


 礼を言われた場所に、須佐之男はしばらく立っていた。


     *


 潮津彦は河口にいた。


 流れが戻ったあとも、水の高さを確かめている。


 須佐之男はその隣へ立った。


「俺が塞いだ」


 潮津彦は顔を上げた。


「舟を押さえたとき、海を上げた。川が出られなくなった」


「はい」


 すぐに返事があった。


 須佐之男は唇を噛んだ。


「でも、離したら舟が」


「流されていたでしょう」


「じゃあ、どうすればよかった」


 声が強くなった。


 潮津彦は、すぐには答えなかった。


 須佐之男は濁った川を見た。


「待っても危なかった。止めても駄目だった。じゃあ、何をすればよかったんだよ」


「沖で支える場所を、もっと狭く取るべきでした。河口の見張りも、残しておくべきでした」


「言えばよかっただろ」


「伝えきれませんでした。私も、舟を岸へ入れることに気を取られていた」


 須佐之男は潮津彦を見た。


 責める言葉が、その先へ続かなかった。


 年長の神は濡れた袖を絞った。


「何ができたかは、確かめます。ただ、今、分かっていることもあります」


「何」


「山の雨は、私たちが起こしたものではありません」


 須佐之男は黙って聞いた。


「川の水が増えたのも、それが大きな理由です。ですが、増えた水が海へ出るのを、こちらで妨げました」


 須佐之男は足元を見た。


 川から流れてきた藁が、石に引っ掛かっている。


「……脚、折れてた」


「聞きました」


「治せないのか」


「手当てのできる者が診ています」


「俺には」


 途中で言葉が切れた。


 潮津彦は答えなかった。


 須佐之男はしゃがみ、石に絡んだ藁を外した。


 次の藁も、その次も取った。


 少し下流へ、水が通りやすくなった。


 それだけだった。


     *


 夕方まで、須佐之男は蔵の片づけを手伝った。


 濡れた穀物を広げ、使える板を選び、泥の入った器を洗った。


 蔵の持ち主に、舟を助けたとき海を高くしたことを話した。


 男はしばらく黙っていた。


「どこまでが雨のせいで、どこからがあんたのせいなのか、俺には分からん」


 須佐之男は立ったまま聞いた。


「ただ、あれは冬まで持たせる分だった」


 男が、濡れた袋を指した。


「乾けば食えるのか」


「全部は無理だろうな」


 須佐之男は袋を持ち上げた。


「どこへ運ぶ」


 男は軒下を示した。


 怒鳴られなかった。


 許されたとも思えなかった。


     *


 東の海へ戻ったときには、もう暗かった。


 海彦は負傷した男のところへ残っていた。


 須佐之男は濡れた衣を脱ぎ、部屋の隅へ置いた。手を洗うと、爪の間から泥が流れた。


 隣で、潮津彦が灯りをともした。


 昨日と同じ机に、板が置かれる。


 須佐之男は戸口から見ていた。


「今日のも書くのか」


「はい」


 潮津彦は炭を持った。


 須佐之男は部屋へ入り、その向かいに座った。


 風の変わった時刻。


 舟が戻った順番。


 山からの水が増えていたこと。


 潮津彦が一つずつ確かめる。


 須佐之男は答えた。


 覚えていないところもあった。舟を支えていたあいだ、どれくらい河口の流れを見ていなかったのか、自分でも分からなかった。


「三艘、帰着」


 潮津彦が書いた。


 須佐之男は、その下の空いたところを見た。


「貸して」


 炭を受け取る。


 しばらく、先が板に触れなかった。


 昨日は、自分の名前を書いてほしかった。


 今日は、名前を書けば済むことではなかった。


 須佐之男はゆっくり書いた。


 河口の水位を上げ、川の流れを妨げた。


 蔵一棟に浸水。


 負傷者一人。


 最後の文字を直そうとして、炭の先が折れた。


 潮津彦が新しいものを差し出したが、須佐之男は首を振った。


 板を返し、掌についた黒い粉を見た。


 拭こうと思った。


 少しのあいだ、そのままにしていた。

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