第4話 岸の向こう
朝の海は、前の日より静かだった。
須佐之男は杭の横に立ち、水面を見ていた。風は弱く、波も低い。沖へ向かう流れと岸へ寄る流れが、ゆっくり入れ替わっている。
これなら、北の岸を回ってから南の入り江にも行ける。
昨日、泥に引っ掛かっていた舟を思い出した。水の道をもう少し広げれば、潮を待たずに通れるようになるかもしれない。
海彦が板を抱えてやってきた。
「今日は早いですね」
「昨日も早かっただろ」
「昨日は私が呼びました」
「起きてた」
「はい」
その返事が気に入らず、須佐之男は海彦の板をのぞき込んだ。
風向きの横に、小さな印がついている。
「それ、何だ」
「北の山に雲が出ています。昼から崩れるかもしれないので」
須佐之男は北を見た。
空の端が少し白い。
雲はあったが、今すぐ何か起こりそうには見えなかった。
「舟は出てるのか」
「三艘。沖の網を上げに行ったそうです」
「戻るのは?」
「昼前には」
須佐之男は板へ目を戻した。
昨日より、書いてあることの意味が分かった。
*
北の岸は、岩が多かった。
岬が海へ張り出し、その内側に小さな浜がある。浜の端へ川が流れ込み、川沿いには家と蔵が並んでいた。
潮津彦は河口で足を止めた。
「ここでは、沖だけを見ないでください」
須佐之男は川へ目を向けた。
「流れ込んでる」
「普段は。海が高くなれば、出にくくなります」
河口の脇には、低い土手があった。
昨日の入り江と違い、舟を引き上げる場所が狭い。大きな波が来れば、川の側へ回り込みそうだった。
須佐之男はしゃがみ、水へ手を入れた。
川の水は冷たい。
海の流れに押されながらも、細く沖へ抜けていた。
「今は大丈夫だ」
「はい。今は」
潮津彦は川上を見た。
須佐之男もそちらを見たが、家と木々に遮られ、その先は分からなかった。
浜では、一人の男が縄をほどいていた。舟を引くための太い縄だった。
「潮津彦様」
男が立ち上がる。
「朝から川が濁っております」
「山で降っていますか」
「上へ行った者が、まだ戻りません」
潮津彦は海彦を呼んだ。
「川沿いに確認を。水位と、戻るまでに気づいたことを知らせてください」
「分かりました」
海彦が走っていく。
須佐之男は沖を見た。
白かった雲が、いつの間にか灰色になっていた。
*
最初の風は、冷たかった。
浜に立ててあった幟が音を立てる。
須佐之男が顔を上げたとき、岬の向こうで波の色が変わった。細かな白い筋が、沖から岸へ続いている。
男が目を細めた。
「早いな」
「戻ってくる舟は」
潮津彦が尋ねる。
男は沖を指した。
二艘、見えた。
さらに遠くに、もう一艘。
最後の舟は、帆を半分ほど下ろしたところだった。
風が強くなる。
須佐之男は水の動きを追った。
岬の先で、二つの流れがぶつかっている。そこを越えれば浜へ入れるが、横から波を受ければ、舟は岩へ寄せられる。
「沖の波を弱める」
須佐之男が言った。
潮津彦は舟を確かめ、頷いた。
「岬の外側で。河口は開けておいてください」
「分かってる」
須佐之男は岩へ上がった。
風が衣をたたく。
足元から海へ力を伸ばすと、表面の波の下に重い流れがあった。上だけを押さえようとすれば、波は別の場所で立ち上がる。
昨日と同じだった。
流れを止めず、少しずつ向きを変える。
岬へ寄っていた波が、沖側へそれた。
先頭の舟が向きを直した。
浜から声が上がる。
「そのまま! こっちだ!」
須佐之男は手を広げたまま、二艘目を待った。
潮津彦が浜の端で水を整えている。岸へ押し上げすぎないよう、入ってくる波を受け流していた。
一艘目が着いた。
男たちが駆け寄り、舟を引く。
二艘目も岬を越えた。
須佐之男は息を吐いた。
できる。
昨日より大きいが、流れはつかめている。
*
三艘目が、なかなか近づかなかった。
帆の端が垂れ、船首が風へ向かない。舟の中で誰かが立ち上がり、すぐ膝をついた。
浜の男が叫んだ。
「櫂が折れた!」
須佐之男は沖へ意識を広げた。
今、押さえている場所より遠い。
そこまで波を弱めるには、岬の内側へ回している力を動かす必要があった。
「もう少し広げる!」
潮津彦へ声をかける。
年長の神は沖を見た。
「河口の流れを残してください」
「ああ」
須佐之男は、川から海へ抜ける細い水を確かめた。
まだ通っている。
そこを避けて、力を沖へ伸ばした。
波がほどける。
傾いていた舟が持ち直した。
須佐之男の肩から力が抜けかけた、そのときだった。
強い風が岬を越えた。
沖の舟が横を向く。
下から持ち上がった波が、船腹を押した。
須佐之男はとっさに水を受け止めた。
舟が止まった。
ほんの一瞬だった。
その一瞬を保とうとして、さらに力をかけた。
海面が広く盛り上がる。
「須佐之男殿、岸へ寄せすぎないで!」
潮津彦の声が聞こえた。
須佐之男は水を沖へ逃がそうとした。
けれど、手を緩めれば舟が流れる。
船縁にしがみついた男の顔が見えた。
こちらを見ていた。
「もう少し」
須佐之男は呟いた。
舟の下へ水の道を作る。
岬の先を回り、浜へ。
船首が動いた。
岸から縄が投げられる。
舟の男がつかんだ。
須佐之男は、そこでようやく力を緩めた。
*
海彦の声は、浜の歓声に半分かき消された。
「川があふれています!」
須佐之男は振り返った。
走ってきた海彦は、腰まで濡れていた。
「上の水が増えています。河口から出られなくて、蔵のほうへ――」
須佐之男は川へ意識を向けた。
流れが消えていた。
さっきまで細く沖へ抜けていた水が、海に押し返されている。
自分が持ち上げた水だった。
「下げる」
須佐之男は岩を下りた。
潮津彦が腕をつかんだ。
「急に引かないでください」
「川が出られないんだろ!」
「一度に出せば、今度は下流へ走ります」
須佐之男は潮津彦の手を振りほどきかけた。
その向こうで、海彦が息を切らしている。
舟は三艘とも浜へ着いていた。
だが、川沿いの家の間から、濁った水が流れてきていた。
「どうすればいい」
声が、自分でも驚くほど細くなった。
潮津彦は河口を見た。
「沖の高さを少しずつ戻してください。こちらで川の出口を支えます」
須佐之男は頷いた。
「海彦、蔵へ。人を高いところへ上げてください」
海彦が走った。
須佐之男は、持ち上げていた海を下ろした。
少しずつ。
舟のときより、ずっと難しかった。
早く戻したかった。
川沿いで何が起きているのか、見に行きたかった。
それでも、手を離せなかった。
*
水が引き始めてから、須佐之男は川沿いへ走った。
低い場所にあった蔵の戸が外れていた。
中から、濡れた藁と穀物が流れ出している。袋を抱えた男が、膝まで泥に浸かって立っていた。
須佐之男が近づくと、男は袋を差し出した。
「そっちへ運んでくれ!」
受け取った。
水を吸って、重い。
石段の上へ置き、戻る。
もう一袋。
その次は、崩れた棚の下から箱を引いた。
誰も、彼を神だとは呼ばなかった。
蔵の裏で、人が集まっていた。
若い男が地面に座り、片脚を両手で押さえている。すぐ横に、流されてきた太い材木があった。
海彦が布を裂いていた。
須佐之男は足を止めた。
「何が」
「水に押されて、材木との間に脚を挟まれました」
海彦は顔を上げずに答えた。
若い男の脛は、明らかに形が違っていた。
「動かさないで」
海彦が言う。
男は頷こうとして、痛みに息を詰めた。
須佐之男はしゃがんだ。
何かできることがあるはずだった。
水は引いた。
舟も戻した。
けれど、目の前の脚をどうすればいいのかは分からなかった。
「その板を取ってください」
海彦に言われ、振り返った。
「長いほうです」
須佐之男は板を拾った。
泥を袖で拭き、渡した。
海彦が男の脚へ当てる。
布を結ぶたびに、男の指が地面をつかんだ。
*
雨が降り始めた。
負傷した男は、川から離れた家へ運ばれた。
須佐之男も担いだ。
敷居を越えるとき、男が小さく声を上げた。慌てて持ち上げ直す。
家の中から女が駆け寄ってきた。
「どうしたの、その脚」
「材木に」
男はそれだけ答えた。
女は膝をつき、布の巻かれた脚を見た。触れようとして、手を止める。
「治るの?」
海彦が、手当てのできる者を呼びに出た。
須佐之男は戸口に立っていた。
女が彼を見る。
「水、急に来たんです。朝はまだ、あそこまで上がってなかったのに」
須佐之男は口を開いた。
女は返事を待たず、男の濡れた衣を脱がせ始めた。
「誰か、乾いた布を」
須佐之男は外へ出た。
頼まれたものを取りに行くふりをして、戸口から離れた。
雨が顔へ当たった。
*
浜へ戻ると、舟の持ち主が待っていた。
須佐之男を見るなり、頭を下げる。
「助かりました。あのままなら、岩へぶつかっていた」
後ろには、最後の舟に乗っていた二人がいた。
一人の腕には、縄で擦れた傷があった。
それでも、二人とも立っていた。
「全員、戻れたんだな」
須佐之男が尋ねると、男は強く頷いた。
「はい。ありがとうございました」
須佐之男は川のほうを見た。
濡れた穀物が、石段の上へ並べられていた。女たちが雨を避けるために布を掛けている。
「あっちは」
彼が言いかけると、舟の男もそちらを見た。
「川のほうまでやられたんですね」
須佐之男は頷けなかった。
男は再び頭を下げ、舟へ戻っていった。
礼を言われた場所に、須佐之男はしばらく立っていた。
*
潮津彦は河口にいた。
流れが戻ったあとも、水の高さを確かめている。
須佐之男はその隣へ立った。
「俺が塞いだ」
潮津彦は顔を上げた。
「舟を押さえたとき、海を上げた。川が出られなくなった」
「はい」
すぐに返事があった。
須佐之男は唇を噛んだ。
「でも、離したら舟が」
「流されていたでしょう」
「じゃあ、どうすればよかった」
声が強くなった。
潮津彦は、すぐには答えなかった。
須佐之男は濁った川を見た。
「待っても危なかった。止めても駄目だった。じゃあ、何をすればよかったんだよ」
「沖で支える場所を、もっと狭く取るべきでした。河口の見張りも、残しておくべきでした」
「言えばよかっただろ」
「伝えきれませんでした。私も、舟を岸へ入れることに気を取られていた」
須佐之男は潮津彦を見た。
責める言葉が、その先へ続かなかった。
年長の神は濡れた袖を絞った。
「何ができたかは、確かめます。ただ、今、分かっていることもあります」
「何」
「山の雨は、私たちが起こしたものではありません」
須佐之男は黙って聞いた。
「川の水が増えたのも、それが大きな理由です。ですが、増えた水が海へ出るのを、こちらで妨げました」
須佐之男は足元を見た。
川から流れてきた藁が、石に引っ掛かっている。
「……脚、折れてた」
「聞きました」
「治せないのか」
「手当てのできる者が診ています」
「俺には」
途中で言葉が切れた。
潮津彦は答えなかった。
須佐之男はしゃがみ、石に絡んだ藁を外した。
次の藁も、その次も取った。
少し下流へ、水が通りやすくなった。
それだけだった。
*
夕方まで、須佐之男は蔵の片づけを手伝った。
濡れた穀物を広げ、使える板を選び、泥の入った器を洗った。
蔵の持ち主に、舟を助けたとき海を高くしたことを話した。
男はしばらく黙っていた。
「どこまでが雨のせいで、どこからがあんたのせいなのか、俺には分からん」
須佐之男は立ったまま聞いた。
「ただ、あれは冬まで持たせる分だった」
男が、濡れた袋を指した。
「乾けば食えるのか」
「全部は無理だろうな」
須佐之男は袋を持ち上げた。
「どこへ運ぶ」
男は軒下を示した。
怒鳴られなかった。
許されたとも思えなかった。
*
東の海へ戻ったときには、もう暗かった。
海彦は負傷した男のところへ残っていた。
須佐之男は濡れた衣を脱ぎ、部屋の隅へ置いた。手を洗うと、爪の間から泥が流れた。
隣で、潮津彦が灯りをともした。
昨日と同じ机に、板が置かれる。
須佐之男は戸口から見ていた。
「今日のも書くのか」
「はい」
潮津彦は炭を持った。
須佐之男は部屋へ入り、その向かいに座った。
風の変わった時刻。
舟が戻った順番。
山からの水が増えていたこと。
潮津彦が一つずつ確かめる。
須佐之男は答えた。
覚えていないところもあった。舟を支えていたあいだ、どれくらい河口の流れを見ていなかったのか、自分でも分からなかった。
「三艘、帰着」
潮津彦が書いた。
須佐之男は、その下の空いたところを見た。
「貸して」
炭を受け取る。
しばらく、先が板に触れなかった。
昨日は、自分の名前を書いてほしかった。
今日は、名前を書けば済むことではなかった。
須佐之男はゆっくり書いた。
河口の水位を上げ、川の流れを妨げた。
蔵一棟に浸水。
負傷者一人。
最後の文字を直そうとして、炭の先が折れた。
潮津彦が新しいものを差し出したが、須佐之男は首を振った。
板を返し、掌についた黒い粉を見た。
拭こうと思った。
少しのあいだ、そのままにしていた。




