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出雲の雨  作者: 幕神成


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第3話「姉」

人は、ある日突然いなくなるわけではない。ただある日、その人の時間が、もう自分だけのものではないと気づく。

【高天原・東の海】


須佐之男が海彦を助けてから、一日が過ぎていた。


そのあいだ、海は穏やかだった。


須佐之男も以前のように、試しに大きな波を作ろうとはしなかった。潮津彦に言われた通り、水の流れを見て、風を感じ、自分の呼吸が乱れたときには一度手を止める。


昨日、天照も短い時間ではあったが海まで来た。


忙しそうにしていたが、帰り際には言った。


「明日の稽古が終わったら、古樹のところで会おう」


須佐之男はその言葉を、朝から何度も思い出していた。


夜が明けて間もない海に、彼は膝まで浸かっている。


目を閉じ、両手をゆっくり持ち上げる。


足元の水がわずかに揺れた。


急がない。


高くしすぎない。


胸の内側にあるものを先に確かめる。


一つの波が静かに持ち上がった。


以前のように勢いよく膨らむことはない。


須佐之男が手を止めれば、波もそこで止まる。


ゆっくり手を下ろす。


水も元へ戻った。


少し離れた礁石から潮津彦が見ていた。


「もう一度」


須佐之男は素直に従う。


二度目は、少し高く。


それでも乱れない。


最後まで呼吸を崩さず、水が落ち着くのを待った。


長い沈黙のあと。


「……よろしいでしょう」


潮津彦が言った。


須佐之男はすぐに目を開ける。


「今、褒めた?」


「昨日よりは、という意味です」


「じゃあ褒めてるじゃん」


「そう受け取られるのであれば」


須佐之男は満足そうに笑った。


数日前なら、海を高く持ち上げられたことを褒めてほしかった。


今日は違う。


きちんと戻せたことを見てもらえたのが、少し嬉しかった。


ふと空を見る。


朝日はすでにかなり高い。


「今、何刻?」


「辰の刻を少し過ぎました」


須佐之男の表情が変わった。


「先に言えよ!」


海から飛び出す。


「殿、まだ東側の巡察が――」


「今日は後でやる!」


「後では潮が変わります」


須佐之男は片足で跳ねながら履物を履いた。


「じゃあ早く戻る!」


「どちらへ」


須佐之男はもう走り出している。


「姉さんのところ!」


潮津彦は遠ざかる背中を見た。


小さくため息をつく。


「……戻ってくると言えるようになっただけ、ましですか」


誰にも聞こえない声だった。


⸻


【高天原・古樹の丘】


神殿から少し離れた丘には、三人が幼い頃から知っている古い木が一本立っていた。


誰かに叱られたあとに隠れたこともある。


天照が持ってきた握り飯を三人で分けたこともある。


月読が眠っていると思い、須佐之男が顔に葉を並べ、本気で怒られたこともあった。


高天原がまだ「神々の国」ではなく、三人にとってただの家だった頃からある場所だった。


須佐之男は木の下へ敷物を広げた。


握り飯を二つ。


小さな杯も二つ。


握り飯の形は少し歪んでいる。


今日は自分で用意したからだ。


一つを見る。


もう一つを見る。


「……まあ、食えれば同じだろ」


誰に言うでもなく呟く。


木にもたれ、遠くの道を見た。


まだ誰も来ない。


空を見る。


約束の時刻を少し過ぎたくらいだった。


須佐之男は気にしなかった。


天照は忙しい。


最近、それくらいは分かっている。


しばらくすると、一羽の小鳥が降りてきた。


白くはない。


どこにでもいる鳥だった。


鳥は須佐之男より先に握り飯を見つける。


「駄目」


一歩近づく。


「お前のじゃない」


さらに一歩。


須佐之男は天照の分の握り飯を自分の側へ寄せた。


「これは姉さんの」


鳥はしばらく須佐之男を見たあと、諦めたように木の枝へ戻っていった。


「最初からそうしろ」


須佐之男は少し得意そうに言った。


そして、また道を見る。


⸻


【高天原・議事殿】


その頃、天照は初めて本格的な議事の席に座っていた。


父から高天原を任されて以来、少しずつ報告は増えていた。


だが今日は、その数が明らかに違う。


十数柱の神々が殿内に並び、天照の前にはいくつもの巻物が積まれていた。


その中で、落ち着いた声で報告を続けているのが思兼神だった。


急いで結論を求めることはない。


かといって曖昧なままにもしておかない。


必要なことだけを、順番に天照の前へ置いていく。


「北方の日照ですが、本年は予定より七日ほど少なくなっております」


天照は記録へ目を落とした。


「原因は?」


「雲が長く留まっています」


別の神が続ける。


「このままでは、葦原中国の穀物に影響が出る恐れがあります」


天照の表情が少し変わった。


「雲の動きを見ている者は?」


「志那都比古神が確認しております」


「直接、状況を聞きたいです。来てもらってください」


神使が頭を下げ、殿を出る。


思兼神は次の記録を開いた。


「もう一点」


「はい」


「東海についてです」


天照の指が止まる。


「昨日、一時的に潮が荒れたとの報告がありました」


「今は?」


「安定しております。今朝の稽古も問題なかったと」


天照の肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。


思兼神はそれを見ていた。


「須佐之男殿が心配ですか」


「弟ですから」


天照は自然に答えた。


思兼神は小さく頷く。


「ええ」


それから記録を閉じた。


「ですが、東海には多くの者が暮らしております」


天照は思兼神を見る。


声に責める色はない。


「承知しています」


「なら、よろしいのです」


思兼神はそれ以上言わなかった。


天照も次の記録へ手を伸ばす。


そのとき。


何か忘れているような気がした。


けれど次の報告が始まり、その違和感はすぐに別の考えの下へ沈んでいった。


⸻


【高天原・古樹の丘】


太陽は、ほとんど真上まで昇っていた。


須佐之男は握り飯を一つ食べ終えている。


もう一つには、まだ手をつけていない。


最初はきちんと座っていた。


そのうち木にもたれた。


最後には草の上へ横になった。


足音が聞こえるたびに身体を起こす。


そして、そのたびにまた横になる。


ようやく木立の向こうから誰かが現れた。


須佐之男は勢いよく起き上がる。


「……なんだ、お前か」


月読だった。


月読は足を止める。


「じゃあ帰る」


「待てよ」


「なんだ」


須佐之男は隣を指した。


「座れば?」


月読は何も言わず腰を下ろす。


そして、残っている握り飯へ手を伸ばした。


須佐之男がその手を叩く。


「駄目」


「なぜ」


「お前のじゃない」


月読は握り飯を見る。


空を見る。


最後に須佐之男を見る。


「姉上?」


須佐之男は少し不満そうに答えた。


「今日来るって言った」


「議事中だよ」


「知ってる」


「長くなってる」


「それも分かってる」


須佐之男は木へ背を預けた。


「でも来るよ」


月読は何も言わなかった。


否定もしない。


そのまま隣に座っている。


少しして須佐之男が尋ねた。


「お前、仕事ないの?」


「夜から多い」


「いいな」


「昼もある」


「じゃあなんでここにいるんだよ」


月読は少し考えた。


「一人で待つより、二人のほうがましだと思った」


須佐之男が横を見る。


月読はもう空を見ていた。


須佐之男は何も言わない。


ただ、ほんの少しだけ座る位置を月読の側へ寄せた。


⸻


【高天原・議事殿】


午後になっても、議事は終わらなかった。


北の雲。


祭祀の日程。


神使の配置。


葦原中国から上がってきた報告。


一つ終われば、別のものが置かれる。


天照はできる限り、一つずつ丁寧に聞いた。


途中、一人の神使が静かにそばへ近づく。


「天照様」


「何でしょう」


神使は声を落とした。


「須佐之男殿が、朝から古樹の丘でお待ちです」


天照の手が止まる。


しばらく、その言葉の意味が入ってこなかった。


そして一気に思い出す。


古樹。


今日。


約束。


「……今、何刻?」


神使が答える。


天照は外を見た。


陽はすでに傾き始めている。


思わず立ち上がる。


「今日はここまで――」


そこまで言って、止まった。


目の前に積まれた記録。


自分を見ている神々。


まだ判断を待っている者たち。


一柱の神の報告の向こうには、人の世の田畑がある。


別の報告の向こうには、祭祀を待っている者たちがいる。


誰も、残ってほしいとは言わなかった。


思兼神も何も言わない。


ただ、天照の判断を待っている。


その沈黙が、かえって重かった。


弟が待っている。


ここにも、待っている者がいる。


天照は初めて、その二つを同時に見た。


長い一瞬のあと。


ゆっくり座り直す。


「……続けてください」


神使が天照を見る。


天照は小さな声で言った。


「須佐之男には」


一度、言葉が止まる。


「遅くなるけれど、必ず行くと伝えてください」


「承知しました」


神使が去る。


思兼神は何も言わず、次の記録を開いた。


天照も口を挟まなかった。


けれど、その日初めて、巻物の文字が少しだけ読みづらく感じた。


⸻


【高天原・古樹の丘】


夕方。


古樹の影は、朝とは反対側へ長く伸びていた。


須佐之男は草の上へ寝転び、顔に大きな葉を一枚乗せている。


月読はまだ隣にいた。


足音がする。


須佐之男はすぐに葉を取って起き上がった。


しかし来たのは神使だった。


「須佐之男殿」


神使の表情を見ただけで、なんとなく分かった。


「天照様は、本日の議事が長引いておられます」


「遅くなるけど来るって?」


神使が少し驚く。


「……はい。そのように」


須佐之男は頷いた。


「分かった」


それだけだった。


神使は頭を下げ、戻っていく。


須佐之男も再び寝転んだ。


月読が言う。


「帰る?」


「なんで」


「暗くなる」


「姉さんは来るって」


「そう」


「お前こそ仕事だろ」


月読は須佐之男を見る。


須佐之男は笑った。


「月が出るんじゃないの。早く行けよ」


月読はしばらく動かなかった。


やがて立ち上がる。


数歩進んだところで、一度だけ振り返った。


須佐之男は顔に葉を戻している。


「須佐之男」


「何」


月読は何か言おうとした。


けれど。


「……いや」


そのまま去った。


須佐之男も呼び止めなかった。


⸻


夜になる。


古樹の下には須佐之男しかいなかった。


二つ用意した杯。


一つだけ残った握り飯。


もうすっかり冷たくなっている。


枝の隙間から月が見える。


須佐之男は神殿の方角へ目を向けた。


まだ灯りが消えていない。


人が行き来している。


あそこには姉がいる。


分かっている。


いなくなったわけではない。


なのに、ひどく遠く感じた。


須佐之男は握り飯を取る。


食べようとする。


けれど、朝に鳥へ言った自分の声を思い出した。


――これは姉さんの。


少しだけ可笑しかった。


でも、笑えなかった。


握り飯を元へ戻す。


しばらくして、須佐之男は敷物を畳んだ。


握り飯だけは残した。


なぜそうしたのかは、自分でも分からなかった。


⸻


【高天原・議事殿】


最後の神が退出した頃には、夜もかなり深くなっていた。


天照は一人になった殿内で、しばらく動けなかった。


肩が重い。


目の奥も痛む。


最後の記録を閉じようとして。


手が止まる。


古樹。


須佐之男。


約束。


「……あ」


天照は立ち上がった。


外はもう完全な夜だった。


急いで古樹の丘へ向かう。


しかし。


木の下に弟はいなかった。


畳まれた跡の残る草。


そして、一つだけ置かれた握り飯。


天照はゆっくり歩み寄る。


しゃがみ込む。


握り飯を手に取った。


冷たい。


「須佐之男……」


「さっき行った」


暗がりから月読の声がした。


天照が振り返る。


「どこへ?」


「たぶん海」


天照は握り飯を持ったまま俯いた。


「怒ってた?」


月読は少し考える。


「怒ってなかった」


天照の顔がほんの少し緩む。


けれど月読は続けた。


「だから、少し心配」


天照が顔を上げる。


「どういう意味?」


「怒ってたら、分かりやすいから」


月読は古樹を見る。


「今日はずっと、大丈夫みたいな顔してた」


天照は何も言わなかった。


握り飯を包む指だけが、少し強くなった。


⸻


【高天原・東の海】


須佐之男は一人で海へ入っていた。


誰かに言われたわけではない。


今日の稽古はもう終わっている。


ただ、古樹の下にいたくなかった。


海へ来れば、少なくともやることがある。


息を整える。


手を上げる。


波が上がる。


下ろす。


波も落ちる。


朝と同じ。


もう一度。


少し高く。


戻す。


できる。


「ほら」


誰もいないのに呟く。


「ちゃんとできる」


三度目。


波を持ち上げる。


その瞬間。


冷たくなった握り飯が頭に浮かんだ。


神殿の灯り。


姉を呼ぶ神々。


――遅くなるけれど、必ず行く。


来なかった。


呼吸が少し乱れる。


波が予定より高くなる。


須佐之男はすぐに手を下ろした。


「……違う」


波が戻りきらない。


「落ち着け」


自分に言った。


海にも言った。


目を閉じる。


けれど閉じるほど、古樹の下で待っていた時間が浮かぶ。


天照は嘘をついたわけではない。


分かっている。


行きたかったはずだ。


それも分かる。


分かるから、どこへ怒ればいいのか分からない。


水が足元で荒れる。


「静かに」


波が岩へ当たる。


須佐之男は息を整えようとする。


うまくいかない。


「静かにしろよ」


もう一度。


さらに高い波。


胸の奥で何かが切れた。


「静かにしろって!」


大きな水音が海岸に響いた。


白い波が砕け、須佐之男は全身に水を浴びる。


荒い息のまま立ち尽くした。


その姿を見つけたのは、古樹から追ってきた天照だった。


天照は少し離れた場所で立ち止まった。


すぐには近づかない。


須佐之男が岸へ上がり、濡れたまま座る。


そこでようやく天照も隣へ来た。


「ごめん」


須佐之男は海を見たまま答えた。


「いいよ」


「忘れてた」


「うん」


「本当に、ごめん」


「分かったって」


声は怒っていない。


だからこそ、天照は苦しくなった。


しばらくして須佐之男が言う。


「姉さん」


「なに?」


「前は忘れなかったよな」


天照は息を止めた。


須佐之男はすぐに笑った。


「別に責めてない」


「須佐之男」


「明日でもいいし」


天照が答えようとして。


止まった。


明日には別の議事がある。


祭祀の準備もある。


その沈黙だけで、須佐之男には分かった。


笑みが少しずつ消える。


「明日も忙しい?」


「……うん」


須佐之男は膝を抱える。


「じゃあ明後日は?」


天照は答えられなかった。


明後日。


その次の日。


これから先。


自分の時間を自分だけで決められなくなっていることを、天照自身もまだうまく受け入れられていなかった。


「この時期が落ち着いたら」


ようやく言った。


須佐之男は海を見る。


「いつ?」


天照は答えられない。


波だけが静かに岸を濡らす。


長い沈黙。


天照は昔のように手を伸ばした。


須佐之男の髪を撫でようとする。


その直前。


須佐之男の身体が、ほんの少しだけ横へ動いた。


避けた。


本人も、そのことにすぐ気づいた。


二人とも止まる。


「……姉さん」


何か言おうとした。


けれど須佐之男は言葉を見つけられなかった。


天照も笑わない。


ただ、宙に残っていた手をゆっくり自分の膝へ戻した。


距離はほんの少しだった。


以前なら、一歩で埋められた。


その夜は。


どちらも動かなかった。


⸻


【高天原・祭場】


翌朝。


高天原では予定されていた祭祀が始まった。


榊が供えられ、白い紙垂が朝の風に揺れている。


多くの神々が並ぶ中、祭壇の中央に立っているのは天照だった。


昨日、弟の隣で言葉を失った姉ではない。


高天原を任された者として、静かに祭祀を進めている。


思兼神が少し離れた場所から全体を見ていた。


夜の務めを終えた月読も、さらに遠くにいる。


祭場の外れには細い水路が流れていた。


須佐之男は祭場の少し離れた屋根の上に座っていた。


来るつもりはなかった。


けれど朝になり、気づけばここまで来ていた。


祭壇の前に立つ天照は、自分の知っている姉と同じ顔をしている。


なのに、近づきにくかった。


多くの神々が天照を見ている。


須佐之男は屋根の上からその様子を眺めていた。


ふと、水路を見る。


細い水が静かに流れている。


昨日までなら、少し触れれば天照はすぐに気づいた。


屋根から落ちたときも。


庭を散らかしたときも。


須佐之男は指をわずかに動かした。


ほんの少しだけ。


水面に小さな波紋が生まれる。


誰も気づかない。


須佐之男はもう一度、水へ意識を向けた。


祭場の端で、水が少し持ち上がった。


それでも天照は祭壇を見ている。


「……もうちょっと」


誰にも聞こえない声で呟く。


その瞬間。


水路の水が予想以上に高く噴き上がった。


須佐之男の表情が変わる。


「え」


神々の声が乱れた。


祭具を避ける者。


濡れた衣を押さえる者。


水路へ走る神使。


一瞬で、整っていた祭場が騒がしくなる。


須佐之男は屋根の上で動けなかった。


こんなに大きくするつもりではなかった。


天照が振り向く。


水路を見る。


すぐに異変だと気づく。


思兼神が神使たちへ指示を出した。


けれど月読だけは、水を見ていなかった。


彼の視線は屋根の端へ向いている。


須佐之男と目が合った。


須佐之男は一瞬、笑おうとした。


昔、いたずらが見つかったときのように。


けれど、うまく笑えなかった。


天照も月読の視線を追う。


姉弟の目が合う。


須佐之男は何も言わない。


天照も。


ただ。


昨日、自分が来なかったこと。


今日、祭場で水が噴き上がったこと。


その間に何かがあるような気がして。


天照の胸に、小さな不安が残った。


⸻


少しして、月読が屋根へ上がった。


須佐之男の隣へ座る。


下では神使たちが水路を元へ戻し、天照も濡れた祭具を確認している。


「お前?」


月読が聞いた。


須佐之男は少し間を置く。


「……ちょっとだけ」


月読が見る。


「ちょっと?」


「水を動かしただけ」


下の騒ぎを見る。


「こんなになるとは思わなかった」


月読は何も言わない。


須佐之男は少し不満そうに言う。


「何だよ」


「別に」


「怒るなら怒れよ」


「僕が怒っても意味ないだろ」


須佐之男は黙る。


二人で下を見る。


天照は濡れた白い布を神使から受け取っていた。


しばらくして月読が言った。


「姉上、こっち見たね」


須佐之男は返事をしない。


「見てほしかった?」


「違う」


すぐに答えた。


月読はそれ以上聞かなかった。


少しして。


「昔も、よくやってたよね」


「何を」


「姉上に気づいてほしいとき」


須佐之男は横を見る。


月読は下を見ている。


「屋根に登ったり。庭を散らかしたり」


「昔の話だろ」


「うん」


月読は頷いた。


「でも、今は昔より大きい」


須佐之男の顔から、少しずつ表情が消える。


下では、天照が水路のそばに立っていた。


やがて顔を上げる。


須佐之男も見る。


遠く離れたところで、二人の目がまた合った。


今度は、どちらも笑わなかった。


朝の風が高天原を抜ける。


白い紙垂が静かに揺れる。


水路の縁から、一滴の水が石へ落ちた。


一滴。


もう一滴。


三滴目が落ちるまでには、少し時間があった。


須佐之男はその音を聞きながら、昨日の古樹を思い出した。


姉を呼べば、来てくれる。


ずっと、そう思っていた。


けれど今朝。


自分は、姉に気づいてほしくて水を動かした。


ほんの少しのつもりだった。


それでも。


祭場では多くの者が走り回っている。


須佐之男は初めて、屋根の上からその全部を見た。


そして、何も言わなかった。

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