第2話「海の子」
力を持つことと、その力を任せてもらえることは、同じではない。
【高天原・東の海】
須佐之男が海で迎える最初の朝は、思っていたより静かだった。
夜のあいだ荒れていた波は、いつの間にか穏やかさを取り戻している。水平線の向こうから昇った朝日が細い光の道を作り、その先には、昨日まで遠くから眺めるだけだった高天原が雲の向こうに霞んでいた。
須佐之男は黒い礁石の上に立ち、しばらくその方向を見ていた。
結局、昨夜は戻らなかった。
戻れなかった、と言ったほうが近いのかもしれない。
父に海を任せると言われたその日に高天原へ帰ってしまえば、自分から何かに負けたような気がした。
何に負けるのかは、須佐之男自身にもよく分からなかった。
「須佐之男殿」
背後から声がした。
振り返ると、年長の神使が一人立っていた。衣はきちんと整えられ、腰には海域を巡る者の印が下がっている。夜を礁石の上で過ごした須佐之男とは違い、髪の一本まで乱れていなかった。
「潮津彦と申します。伊邪那岐様より、殿の海務を補佐するよう命を受けております」
須佐之男は男を見上げた。
「補佐?」
「はい」
「見張りじゃなくて?」
潮津彦はわずかに間を置いた。
「必要であれば、それもいたします」
須佐之男は眉を寄せた。
気に入らない。
けれど言い返すより先に、潮津彦が細長い木杖を差し出した。
「本日はまず、東の海域をご覧いただきます」
須佐之男は杖を受け取った。
「見るだけ?」
「最初は」
「父上は海を任せるって言った」
「海を任されたからこそ、先に海を知っていただきます」
須佐之男は海へ目を向けた。
「知ってるよ」
「昨日からです」
須佐之男が振り返る。
潮津彦の顔には冗談の気配がない。
「……嫌なやつだな」
「よく言われます」
あまりにも平然としているので、それ以上腹を立てるのも馬鹿らしくなった。
二人は海岸沿いを歩き始めた。
朝の海では、すでに多くの神使たちが働いていた。潮の高さを測る者。岩礁のあいだを流れる水を確かめる者。遠くの舟へ旗を振る者。流木を拾い上げる者。
須佐之男が通ると、皆が一度手を止めて頭を下げる。
そのたびに、須佐之男の背中は少しだけ伸びた。
昨日まで、高天原で自分へ向けられる目には、いつもわずかな警戒が混じっていた。
また何かするのではないか。
壊すのではないか。
怒らせるのではないか。
ここでは違う。
少なくとも今は、自分が海を任された者として見られている。
そのことが、思ったより悪くなかった。
「今日は満ち潮です」
潮津彦が言った。
二人は潮の入りやすい小さな湾へ着いていた。
「三か所、潮位を整えます」
「どうして?」
「入りすぎる場所と、足りない場所があるからです」
「じゃあ、全部上げればいい」
潮津彦が須佐之男を見る。
「全部上げれば、低い浜は沈みます」
「じゃあ下げる」
「舟が出られなくなる場所があります」
須佐之男は海を見た。
昨日までは、ただ大きな水にしか見えなかった。
潮津彦はそこに、いちいち違いを作る。
高い。
低い。
速い。
遅い。
入る。
引く。
須佐之男には、少し面倒だった。
「今日は満ちるんだろ」
「はい」
「なら、満ちさせればいい」
「放っておいても満ちます」
「遅い」
須佐之男は木杖の先を海へ入れた。
潮津彦の表情が変わった。
「殿」
「少しくらいならいいだろ」
「まだ流れをご覧になっておりません」
「だから今見る」
須佐之男は目を閉じた。
昨夜のことを思い出す。
腹の底に何かが溜まって、言葉にできないまま海へ向けて吐き出したとき、波は大きくなった。
自分がそうしたのか。
たまたまだったのか。
確かめたかった。
杖の先に冷たい水を感じる。
須佐之男は小さく息を吸った。
「来い」
何も起こらない。
眉を寄せる。
もう一度。
今度は少し強く意識する。
水面が揺れた。
湾の外から一つの波が寄ってきた。
須佐之男が目を開ける。
「……動いた」
潮津彦は波を見る。
「殿、そこまでです」
けれど須佐之男は笑った。
もう一度手を上げる。
水が先ほどより大きく持ち上がる。
胸の奥に、昨日とは違う熱が広がった。
父に決められた海。
最初は嫌だった。
けれど、その海が自分のほうを向いたような気がした。
「もう少し」
二つ目の波が立つ。
「須佐之男殿」
須佐之男は聞かなかった。
「もっと」
波が重なる。
風が礁石を抜けた。
海面に小さな渦が生まれ、白い泡がゆっくり中央へ引かれていく。
須佐之男は思わず笑った。
「見た?」
「止めてください」
「できるだろ」
「できることは分かりました」
潮津彦の声が少し強くなる。
「ですから、止めてください」
須佐之男はようやく振り返った。
「なんで?」
「その水は、どこから来ました」
「海からだろ」
「どこの海です」
須佐之男が黙る。
潮津彦は湾の外を指した。
「ここへ寄せた分だけ、どこかから水が動いています。その先に舟があるかもしれない。浅瀬があるかもしれない。殿は、それをご覧になりましたか」
須佐之男は答えられなかった。
胸の奥に、先ほどとは違う熱が生まれる。
渦が一度、大きく回った。
潮津彦の目が海面へ向く。
それから須佐之男を見る。
「……殿」
「何」
「まず、手を下ろしてください」
「だから俺は――」
声を強くした瞬間、沖の波が岩へぶつかった。
白い飛沫が高く上がる。
須佐之男は黙った。
さっきまでより、海が荒れている。
自分の手を見る。
潮津彦もすぐには何も言わなかった。
やがて静かに口を開く。
「一度、離れましょう」
「逃げるの?」
「違います」
潮津彦は須佐之男から木杖を取った。
「分からないまま続けることを、やめるだけです」
須佐之男は不満そうに海を見た。
けれど今度は、杖を取り返さなかった。
⸻
【高天原・神殿】
午前のうちに、東の海の異変は高天原へ伝わった。
天照は父から渡された神務の記録を読んでいた。
高天原を任された者。
そう呼ばれることには、まだ慣れない。
それでも朝から、いくつもの神使が彼女のもとを訪れていた。
祭祀の予定。
雲路の修繕。
神殿の備え。
昨夜までなら父のもとへ運ばれていた報告が、今日は天照の前へ置かれている。
「天照様」
一人の神使が膝をついた。
「東の海で、一時、潮の流れが大きく乱れました」
天照の指が止まった。
「被害は?」
「今のところ、ございません」
「原因は?」
神使がわずかに黙る。
天照はその顔を見た。
「須佐之男?」
神使が頭を下げた。
天照はすぐに立ち上がった。
二歩ほど進んだところで、机の上に積まれた記録が目に入る。
足が止まる。
昨夜、自分は須佐之男と約束した。
会いに行く、と。
だから海へ行くことに迷いはない。
ただ、今までのように、また何かをした弟を連れ戻せば終わるわけではない。
須佐之男に海が与えられたように、自分にも高天原が与えられた。
天照は机へ戻り、開いていた記録を閉じた。
一瞬だけ迷う。
それから神使へ言った。
「残りは、戻ってから読みます」
「承知しました」
天照は神殿を出た。
机の上には、まだ読まれていない記録がいくつも残っていた。
⸻
【高天原・東の海】
昼前、天照が海辺へ着いたとき、須佐之男は礁石に座っていた。
潮津彦は少し離れた場所で、朝に乱れた潮の記録をつけている。
天照は弟の隣へ行った。
「来たよ」
須佐之男が顔を上げた。
ほんの少しだけ、その表情が変わった。
「……本当に来た」
「約束したでしょう」
須佐之男は海へ視線を戻した。
天照も隣へ座る。
「何をしたの?」
「海を動かした」
「聞いた」
「怒らないの?」
「まだ全部知らないから」
須佐之男は少しだけ笑った。
「父上と違うな」
天照が横を見る。
須佐之男の笑みはすぐに消えた。
「ちゃんと動いたんだ」
「うん」
「俺がやった」
「うん」
返事があまりにも静かなので、須佐之男はかえって落ち着かなくなった。
「もっと驚かないの?」
天照は少し考えた。
「驚いてるよ」
「見えない」
「じゃあ、もっと驚いた顔をしたほうがいい?」
須佐之男は不満そうに海を見る。
しばらくして、小さく言った。
「父上にも見せたかった」
天照は答えなかった。
須佐之男は膝を抱える。
「姉さんは高天原」
「うん」
「月読は夜と月」
「うん」
「俺は海」
少し間があった。
「だったら、ちゃんとできるって分からせたかった」
天照は海を見た。
「父上に?」
須佐之男は頷かなかった。
否定もしなかった。
しばらく波の音だけが続いた。
天照は考えてから言う。
「大きく動かせることと、海を任せてもらえることは、たぶん同じじゃないと思う」
須佐之男の眉が寄った。
「またそれ?」
「何が?」
「そういう言い方」
「どういう?」
須佐之男は天照を見る。
「父上みたいだ」
天照が黙る。
須佐之男はすぐに目を逸らした。
「昨日までは姉さんだったのに」
小さな声だった。
天照の胸の奥がわずかに痛んだ。
自分は何も変わっていない。
そう言おうとして、言えなかった。
朝から机の前に座り、神使の報告を聞き、何を先にするべきか考えていた。
昨日まで父がしていたことを、自分はもう始めている。
「……そう聞こえたなら、ごめん」
須佐之男が少し意外そうに見る。
天照は海を見たままだった。
「でも、何でも大丈夫だって言うのも違うと思う」
須佐之男は何も言わない。
「私にも、まだ分からない」
天照は自分の手を見る。
「高天原をどうしたらいいのかも。あなたに何を言えばいいのかも」
須佐之男は姉を見た。
天照は少し困ったように笑った。
「だから、一緒に考える」
しばらくして、須佐之男は海へ目を戻した。
「……それならいい」
声は小さかった。
それでも、さっきより少しだけ近く聞こえた。
⸻
午後になると、潮津彦は予定していた巡察を再開した。
須佐之男は朝ほど乱暴に水へ触れなかった。
潮津彦が「ここは二尺」「この入り江は半尺」と言うたび、理由を聞くようになった。
理解しているわけではない。
納得しているわけでもない。
それでも、聞くようにはなった。
途中、網と舟具を運んでいた若い神使が、須佐之男を見つけて駆け寄ってきた。
「須佐之男殿!」
声が大きい。
潮津彦の眉がわずかに動く。
若者は慌てて頭を下げた。
「海彦と申します」
須佐之男は笑った。
「そんなに大きな声じゃなくても聞こえる」
「すみません」
海彦は顔を上げると、目を輝かせた。
「朝の波、殿が動かしたんですよね?」
潮津彦が口を開くより早く、須佐之男が答えた。
「うん」
「すごかったです」
須佐之男の表情が明るくなる。
「見た?」
「遠くからですが」
海彦は沖を指した。
「あんな大きな海が、人の手に応えるなんて初めて見ました」
須佐之男は朝の感覚を思い出した。
海が、自分だけを見たような瞬間。
「俺も少し驚いた」
「殿でも?」
「少しだけ」
海彦は笑った。
その肩には縄が掛けられている。
須佐之男が尋ねた。
「それ、何するの?」
「沖の網です。今夜、潮が変わる前に見に行きます」
「夜に?」
「魚が掛かりすぎると、網ごと流されますから」
潮津彦が口を挟む。
「海彦。今日は沖の流れが安定していない。無理はするな」
「はい」
海彦は素直に頷いた。
そして須佐之男へ向き直る。
「でも、殿は自由でいいですね」
「自由?」
「海を好きなように動かせるから」
須佐之男はすぐには答えなかった。
朝、潮津彦に聞かれた言葉が残っている。
――その水は、どこから来ました。
「……好きなように、か」
須佐之男は海を見る。
昨日なら、たぶん笑って頷いていた。
今日はなぜか、その言葉が少し重かった。
⸻
【高天原・神殿】
夕方、潮津彦は伊邪那岐へ報告をしていた。
天照もその場にいる。
「被害は」
伊邪那岐が尋ねる。
「ございません」
「止めたか」
潮津彦は少し考えた。
「こちらから中断させました」
伊邪那岐の目がわずかに細くなる。
「自分では止めていないのか」
「まだ、そこまで意識しておられないように見えました」
潮津彦は一度言葉を選んだ。
「ただ、殿の様子が変わるたび、海も落ち着いたり荒れたりしているようには見えます」
天照が父を見る。
「偶然の可能性もあります」
潮津彦は続けた。
「一日だけでは、何とも」
伊邪那岐はしばらく黙っていた。
「なら、見ていろ」
「承知しました」
潮津彦が頭を下げる。
天照は父を見た。
「父上」
「何だ」
「須佐之男には、何も言わないのですか」
伊邪那岐は娘を見る。
「何を言う」
「今日、初めて海があの子に応えたことを」
「それは聞いた」
「なら――」
「天照」
静かな声だった。
「動かせたことより、動かした先を見ていなかったことのほうが、今は重要だ」
天照は口を閉じた。
伊邪那岐は窓の向こうへ視線を移す。
「力があることと、役目を果たせることは違う」
「でも」
天照は言いかける。
父が振り返る。
「でも?」
「……あの子は、父上に見てほしいんだと思います」
一瞬、部屋が静かになった。
伊邪那岐は何も答えなかった。
その沈黙を、天照はどう受け取ればいいのか分からなかった。
怒ったようにも見えない。
困ったようにも見えない。
ただ、いつもの父の顔だった。
天照はそれ以上言わなかった。
父が須佐之男を見ていないわけではない。
今日起きたことも、細かく聞いている。
それなのに、須佐之男が欲しがっているものとは、どこかで噛み合わない。
天照には、その理由がまだ分からなかった。
⸻
【高天原・東の海】
夜になると、海は再び静かになった。
月が水面に長い光を落としている。
須佐之男は礁石に座り、小石を一つずつ海へ投げていた。
後ろから足音がした。
月読だった。
何も言わず隣に座る。
しばらく、二人とも海を見た。
須佐之男のほうから口を開く。
「父上、何か言ってた?」
「知らない」
「姉さんは会っただろ」
「うん」
「何か聞いてない?」
「聞いてない」
須佐之男は小石を投げる。
「お前、ほんとに役に立たないな」
「便利な嘘なら言えるよ」
須佐之男が横を見る。
月読は真顔だった。
「父上はすごいって言ってた、とか」
「……やめろ」
「じゃあ、知らない」
須佐之男は鼻で笑った。
また一つ、小石を投げる。
水面に輪が広がる。
「なあ」
今度は須佐之男から尋ねた。
「夜って、面白い?」
月読が少しだけ眉を上げる。
「急だね」
「だって、お前は夜だろ」
月読は月を見る。
「まだ、よく分からない」
須佐之男が意外そうに振り返る。
「分からないの?」
「うん」
「お前でも?」
「僕は何でも分かるわけじゃない」
須佐之男は少し考えた。
「そう見える」
「それはお前が何も考えずに喋るからだよ」
「喧嘩売ってる?」
「今は売ってない」
須佐之男は少し笑った。
月読も、ごくわずかに口元を緩める。
しばらくして月読が言った。
「でも、今日のお前は少し楽しそうだった」
「見てたの?」
「遠くから」
「じゃあ見に来ればよかったのに」
月読は答えなかった。
須佐之男は海を見る。
「俺にも何かあるって、ちょっと思った」
月読は頷いた。
「うん」
「でも、思ったより面倒だった」
「海が?」
「全部」
月読は少し考えてから言う。
「僕も、たぶんそうなる」
須佐之男が見る。
「何が」
「夜」
月読は月を見上げた。
「綺麗に見えるけど、任されると違うのかもしれない」
須佐之男は何も言わなかった。
やがて月読が立ち上がる。
「帰るの?」
「うん」
「何しに来たんだよ」
「顔を見に」
須佐之男が振り返る。
月読はもう背を向けていた。
「姉上だけ来ると、お前がうるさそうだから」
「余計な一言だろ!」
月読はそのまま歩いていった。
須佐之男はしばらくその背中を見たあと、小さく笑った。
⸻
深夜。
人の気配がなくなってから、須佐之男はもう一度海へ入った。
朝のように大きく動かすためではない。
ただ、同じことがもう一度起こるのか確かめたかった。
足首まで海へ入る。
目を閉じる。
呼吸を整える。
何も起きない。
須佐之男は少し眉を寄せた。
もう一度。
風が弱くなったような気がした。
けれど、もともと弱かっただけかもしれない。
足元の波が少し穏やかになる。
それも、自分がやったのかどうか分からない。
須佐之男は目を開けた。
水面には月が揺れている。
「……分かんないな」
朝なら腹を立てていた。
今は、それ以上動かそうとはしなかった。
そのとき。
沖から、木の軋むような音がした。
須佐之男が振り向く。
暗い海の向こうに、小さな舟が見える。
昼に見た縄。
海彦の舟だった。
「海彦?」
返事の代わりに、舟が大きく傾いた。
「殿――!」
暗い流れが横から船体を押している。
須佐之男は海へ走った。
「海彦!」
胸の奥が強く鳴る。
その瞬間、風が礁石のあいだを抜けた。
波が高くなる。
須佐之男は足を止めた。
「止まれ!」
海へ向かって叫ぶ。
波は止まらない。
舟がさらに傾く。
海彦が船縁へしがみつく。
「止まれって!」
また波が立つ。
海彦の姿が、一瞬その向こうへ消えた。
須佐之男の呼吸が速くなる。
怖い。
胸が苦しい。
朝よりひどい。
何とかしなければと思うほど、海の音が大きく聞こえる。
潮津彦の言葉が浮かぶ。
――分からないまま続けることを、やめるだけです。
須佐之男は拳を握った。
目を閉じる。
何もしない。
それが怖かった。
このままでは海彦が沈むかもしれない。
それでも、ただ力任せに海を押すのはやめた。
息を吸う。
吐く。
もう一度。
波の音はまだ大きい。
けれど、さっきより海彦の姿が見える。
須佐之男は目を開けた。
舟のそばに一本、流れがある。
強くはない。
それが自分に向いているのか、たまたまなのか分からない。
須佐之男は海へ手を伸ばした。
「こっちだ」
流れがわずかに変わる。
海彦の身体が舟から落ちた。
「海彦!」
須佐之男は海へ飛び込む。
今度は海全体をどうにかしようとはしなかった。
目の前の一人だけを見る。
波に押されながら腕を伸ばす。
指先が触れる。
一度離れる。
もう一度。
今度は掴んだ。
「離すな!」
「殿……!」
二人は波に押されながら、どうにか浅瀬まで戻った。
須佐之男は膝をついた。
海彦が激しく咳き込む。
須佐之男は自分の手を見る。
震えていた。
海を止められたのか。
流れを動かしたのか。
それとも、運がよかっただけなのか。
何一つ確信できなかった。
ただ一つ分かったのは、朝のようには笑えないということだった。
⸻
【高天原・東の海岸】
空が白み始める頃、須佐之男は海彦とともに岸へ戻った。
潮津彦が待っていた。
その少し後ろに、天照もいる。
約束通り、また来たのだ。
天照は濡れた弟を見ても、すぐには何も言わなかった。
乾いた衣を差し出す。
須佐之男は黙って受け取った。
「海彦は?」
「命に別状はありません」
潮津彦が答えた。
少し離れた場所で、海彦は他の神使たちに身体を温めてもらっている。
須佐之男はしばらく黙っていた。
やがて小さく言う。
「姉さん」
「うん」
「俺……」
言葉が続かない。
天照は待った。
須佐之男は濡れた衣を握った。
「朝は、できると思った」
天照は何も言わない。
「海が動いたから」
須佐之男は海を見る。
「でも、さっきは何も分からなかった」
声が少し低くなる。
「止めたのかも分からない。俺が荒らしたのかも分からない」
天照は弟の横顔を見た。
「怖かった?」
須佐之男はしばらく答えなかった。
「……うん」
天照はそれを否定しなかった。
「私も怖いよ」
須佐之男が顔を上げる。
「姉さんも?」
「高天原を任されてから、ずっと少し怖い」
須佐之男は意外そうに姉を見る。
天照は朝の海へ目を向ける。
「間違えたら、誰かが困るから」
須佐之男は黙った。
しばらくして尋ねる。
「じゃあ、どうするの」
天照は少し考えた。
「知るしかないんじゃないかな」
「海を?」
「海も」
天照は須佐之男を見る。
「自分も」
須佐之男は海へ目を戻した。
昨日から起きたことを、一つずつ思い返す。
腹が立ったとき。
嬉しかったとき。
怖かったとき。
落ち着こうとしたとき。
何かが繋がっているようにも思える。
けれど、まだ分からない。
「姉さん」
「なに?」
「一緒に考えてくれる?」
天照はすぐに答えようとした。
そのとき、ふと高天原の方角を見る。
机の上に残してきた記録を思い出した。
ほんの一瞬だった。
けれど須佐之男は、その間を見ていた。
天照は弟へ視線を戻す。
「うん」
そして静かに続けた。
「できるだけ、一緒に考える」
須佐之男は少しだけ表情を変えた。
第1話のような、迷いのない「約束」とは違った。
けれど何も言わず、小さく頷いた。
遠くの雲の上に、一人の姿があった。
伊邪那岐だった。
須佐之男は気づかない。
天照も気づかない。
伊邪那岐は海岸を見ている。
海彦が起き上がる。
潮津彦がその様子を確かめる。
須佐之男は朝の海を見つめていた。
やがて伊邪那岐は背を向ける。
呼び止める者はいなかった。
朝日が海面に差し込む。
須佐之男の濡れた指先から、一滴の水が落ちた。
小さな輪が広がる。
その外へ、もう一つ。
やがて、大きな海の中へ消えていった。
須佐之男は、その波紋が見えなくなるまで黙って見ていた。
海は自分の言うことを聞くのかもしれない。
そう思った昨日よりも。
今は、海が何を聞いているのか。
そのことのほうが、少し怖かった。




