第1話「三人の子供」
居場所を与えられることと、そこを自分の居場所だと思えることは、同じではない。
【高天原】
夜明け前の高天原には、まだ色らしい色がなかった。雲海の向こうから滲み始めた淡い光が白い道と神殿の輪郭を少しずつ浮かび上がらせ、石の上に残った夜露が、軒先から一滴ずつ落ちていた。風は弱く、遠くで鳥が鳴いている。神々の住まう場所と呼ぶには、高天原の朝はあまりにも静かだった。
神殿の庭では、天照が昨夜の祭りに使われた祭具を一つずつ片づけていた。まだ少女の面影を残しているが、その手つきには妙な落ち着きがある。白木の器を重ね、御幣を揃え、乱れたものを元の場所へ戻していく。いつからそうするようになったのか、本人にも分からない。ただ、誰かが散らかしたものを見ると、そのままにしておけなかった。
一羽の白い鳥が庭へ降り、彼女のすぐそばまで跳ねてきた。
「また来たの?」
天照が手を差し出した、そのときだった。
頭上で大きな音がした。
白い鳥が飛び去り、積み上げたばかりの祭具が崩れる。天照は驚くより先に目を閉じ、小さく息を吐いた。
見上げると、案の定、神殿の屋根から黒髪の少年が逆さにぶら下がっていた。
「姉さん!」
須佐之男だった。
「降りなさい」
「何を見つけたか当ててみて」
「その前に降りて」
「当てないの?」
「当てない」
須佐之男はわざと大げさにため息をつき、屋根を掴んでいた手を離した。
その身体が真っ直ぐ庭へ落ちてくる。
天照が眉を寄せた直後、地面すれすれで風がふっと膨らみ、須佐之男の身体を受け止めた。彼は何事もなかったように着地すると、得意げに両腕を広げる。
「見た? 飛べるようになった」
天照は須佐之男ではなく、欠けた屋根の端を見た。
「飛べるんじゃなくて、落ちても死なないだけでしょう」
須佐之男は少し考えた。
「……だいたい同じじゃない?」
天照はとうとう笑ってしまった。
それから彼の腕を取り、傷がないか確かめる。
「痛くない?」
「全然」
天照が肘の辺りを軽く押した。
「痛っ」
「痛いじゃない」
「今のは姉さんが押したからだろ」
二人は顔を見合わせ、また笑った。
その頃の須佐之男にとって、天照が笑っている場所は、それだけで自分の帰る場所だった。
しばらくして二人は神殿の屋根へ上がった。眼下には白い雲が広がり、その先は朝の光に溶けて見えない。
須佐之男は懐から何かを取り出した。
掌に収まるほどの黒い石だった。
普通の石よりも黒く、濡れてもいないのに、光を吸い込んでいるように見える。
「下のほうで見つけた」
天照が受け取る。
「下って?」
「雲の切れ目を降りたところ。岩場みたいなところがあった」
「また勝手にそんなところまで行ったの?」
「だから見つけたんだよ」
天照は呆れながら石を光へかざした。
表面には、自然にできた傷とも、誰かが刻んだ跡ともつかない細い筋が走っている。
「何だと思う?」
「分からない。空から落ちてきた石かもしれない」
「食べられる?」
天照は石から目を離し、弟を見る。
「どうして何でも食べようとするの?」
「腹減ったから」
天照は衣の袖から小さな握り飯を一つ取り出した。
須佐之男の目がすぐに輝く。
「俺の?」
「その石は食べないって約束するなら」
「約束する」
返事だけは早かった。
須佐之男は握り飯を受け取り、大きくかじる。しばらく機嫌よく食べていたが、ふと雲の向こうを見た。
「姉さん」
「なに?」
「父上、いつ帰ってくる?」
天照の指先が黒い石の上で止まった。
「分からない」
「姉さんなら知ってるだろ」
「本当に知らないよ」
須佐之男はそれ以上追及しなかった。握り飯をもう一口食べ、少ししてから、何でもないことのように尋ねた。
「父上って、姉さんのほうが好きなのかな」
天照はすぐには答えなかった。
「どうしてそう思うの?」
「だって、姉さんは何でもできるから」
その言葉には嫉妬よりも、自分には何があるのか分からない子供の寂しさがあった。
天照は須佐之男の髪に触れた。
「あなたにも、できることはあるよ」
「何?」
天照は真面目に考えるふりをした。
「どこへ行っても、すぐ散らかせる」
「それ褒めてないだろ」
「気づいた?」
須佐之男は笑った。
天照も笑った。
黒い石だけが、二人の間に静かに置かれていた。
⸻
少し後、須佐之男は高天原の水辺で月読を見つけた。
月読は二人より少し年長に見えた。池のほとりに座り、細い枝の先で水面に円を描いている。円は広がり、消える。その上へまた新しい円を作る。それを飽きることなく繰り返していた。
「月読」
返事はない。
「月読」
やはり返事はない。
須佐之男は隣まで行ってしゃがみ込んだ。
「死んだ?」
「死んでない」
「じゃあ、なんで返事しないんだよ」
月読は水面から目を離さなかった。
「お前がずっと喋ってるから」
須佐之男は不満そうに眉を寄せ、その隣へ座った。
少しだけ沈黙が続いた。
「なあ」
「なに」
「父上って、誰が一番好きだと思う?」
「知らない」
「絶対分かってるだろ」
「知らない」
「お前、本当に何も知らないな」
須佐之男は立ち上がった。
その背中に、月読が静かに言った。
「お前が知りたいのは、父上が誰を好きかじゃない」
須佐之男の足が止まる。
「自分を好きかどうかだろ」
須佐之男は振り返らなかった。
何も言わず、そのまま歩いていった。
水面に作られた最後の円がゆっくり消えていく。月読はその背中が見えなくなったあとも、しばらく同じ方向を見ていた。
⸻
昼近くになると、高天原の空気が変わった。
神殿前の雲が左右へ分かれ、その奥から伊邪那岐が姿を現した。
神使たちは一斉に頭を垂れる。
天照は父を迎えた。
「父上。お帰りなさいませ」
伊邪那岐は短く頷いた。
その視線が天照の肩越しへ向かう。
少し離れた場所に、須佐之男がいた。
先ほどまで走っていたのに、父の姿を見た途端に足を止めている。
伊邪那岐も息子を見た。
須佐之男も父を見た。
ほんの短い距離だった。
それなのに、どちらも近づかなかった。
「道中、お疲れでしょう」
天照の声が二人の間に入った。
伊邪那岐はようやく彼女へ視線を戻す。
「高天原に変わりはないか」
「はい。大きなことは何も」
朝、屋根の一部が壊れたことを天照は言わなかった。
伊邪那岐がもう一度向こうを見る。
しかし須佐之男の姿は、すでになかった。
⸻
その日の午後、三人は父の前に呼ばれた。
普段の食事や家族の話とは違うことを、部屋へ入った瞬間に三人とも理解した。
伊邪那岐はしばらく子供たちを見渡したあと、静かに口を開いた。
「お前たちも、もう幼い子供ではない」
「俺はとっくに子供じゃないけど」
須佐之男が小さく言う。
天照が横から見ると、彼は口を閉じた。
「この世界を、いつまでも私一人で守ることはできない」
伊邪那岐はまず天照を見た。
「天照。お前には高天原を任せる」
天照は驚いた様子を見せなかった。
ただ背筋を正し、頭を下げる。
「はい」
「月読。お前は夜と月を司れ」
「承知しました」
そして最後に、伊邪那岐の視線が須佐之男へ向かった。
須佐之男はいつの間にか座り直していた。
「須佐之男」
「うん」
「お前には海を任せる」
須佐之男の表情が止まった。
「……海?」
「そうだ」
期待していたものと違ったのだろう。
彼は天照を見て、それから父へ戻る。
「なんで海なの?」
伊邪那岐は答えなかった。
須佐之男は少し迷ってから尋ねた。
「俺も高天原にいたら駄目?」
天照が弟を見る。
「姉さんを手伝える。俺だって、ここで何かできる」
伊邪那岐はしばらく須佐之男を見ていた。
「それぞれに、いるべき場所がある」
「でも、俺は海に行きたいって言ってない」
「行かなければならない」
須佐之男の顔から期待が消えた。
「なんで?」
答えはない。
「なんで姉さんはここにいられるの?」
「須佐之男」
天照が止めようとした。
「姉さんには聞いてない」
その声に、部屋の空気が張りつめた。
伊邪那岐は怒鳴らなかった。
「お前が、海に必要だからだ」
須佐之男は父の顔を見た。
その言葉をどう受け取ればいいのか分からなかった。
必要とされている、とも聞こえる。
ここには必要ない、とも聞こえる。
やがて須佐之男は小さく笑った。
「……そっか」
俯く。
「俺が選んだんじゃないんだな」
伊邪那岐は答えなかった。
その沈黙を、須佐之男は自分なりの答えとして受け取った。
⸻
【高天原の果て・海辺】
夕暮れになる頃、須佐之男は一人で海を見ていた。
高天原の果てから遥か下へ続く海は、どこまで行っても終わりが見えない。寄せては砕ける波の音だけが、同じ調子で繰り返されている。
天照が後ろからやってきた。
「怒ってる?」
「怒ってない」
「怒ってるとき、いつもそう言うね」
須佐之男は答えない。
天照は隣へ立った。
「綺麗だね」
「嫌い」
「海が?」
「うん」
「どうして?」
須佐之男は長いこと海を見ていた。
「大きすぎる」
天照には意味が分からなかった。
須佐之男は少し俯く。
「こんなに遠くまで来たら、姉さんが見えなくなる」
そこでようやく天照は分かった。
弟が嫌っているのは、海ではない。
離れることだった。
天照はそっと須佐之男の手を取った。
「会いに来るよ」
須佐之男はまだ海を見ている。
「本当に?」
「うん」
「忙しくても?」
天照は少し笑った。
「来る」
ようやく須佐之男も笑った。
「約束だからな」
「約束」
その言葉を、二人ともまだ軽いものだと思っていた。
⸻
【高天原・夜】
日が沈むと、高天原には月が昇った。
月読は高い場所から、遠くの海を見ていた。
天照も神殿を出て、同じ方向を見る。
「行った?」
月読が尋ねる。
「うん」
海辺にはもう須佐之男の姿はない。
天照は無意識に、自分の手を見た。
夕方まで握っていた弟の手の感触が、まだ残っているような気がした。
「すぐ戻ってくる」
月読が言う。
天照は答えなかった。
「どうした?」
「約束したの」
「何を?」
「会いに行くって」
月読は姉を見る。
天照は遠くの海から目を離さない。
「今まで、あの子が私を探したら、だいたい近くにいたから」
その言葉に月读は何も返さなかった。
三人が同じ場所にいることを、彼らはずっと当たり前だと思っていた。
その当たり前が終わった最初の日だった。
⸻
【海域・深夜】
須佐之男は一人で浅い海へ入っていた。
足首を波が洗う。
昼間に見た海とは違い、夜の海には境界がない。空も水も黒く、遠くに高天原の灯だけが小さく残っていた。
須佐之男は振り返った。
ここからでは、誰がそこにいるのか分からない。
天照も。
月読も。
父も。
ただ、光だけが見える。
「俺が必要だから」
父の言葉を口の中で繰り返す。
それから、夕方の姉の声を思い出した。
――会いに来るよ。
須佐之男は目を閉じた。
海は静かだった。
しばらくして、風が少し強くなる。
須佐之男は目を開けない。
「……俺は頼んでない」
波が足首を越えた。
「海なんて」
もう一つの波が来る。
先ほどより高い。
須佐之男はようやく目を開けた。
風が黒い髪を乱している。
遠くで低い音がした。
海面の一部が持ち上がり、暗闇の中で白く砕ける。
須佐之男はその海を見た。
驚いているのか、怒っているのか、自分でも分からない顔をしていた。
「俺は……」
言葉が途切れる。
父に言いたかったのか。
姉に言いたかったのか。
それとも、自分自身に言いたかったのか。
「誰かに決められたくない」
その瞬間、沖の波が大きく膨らんだ。
須佐之男は動かなかった。
ただ、自分の前で形を変えていく海を見ていた。
やがて夜が薄くなり始める。
遥か遠く、高天原の方角から最初の朝日が差し込んだ。
光が海面を一本の道のように照らしていく。
けれど須佐之男は、まだその道を振り返らなかった。
彼に与えられた海で迎える、最初の朝だった。




