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第22話「指南役と北への道」

挿絵(By みてみん)


木製の短剣が、乾いた地面を滑った。


ロインは反射的に手を伸ばしかける。


「拾うな」


司の声に、指が止まった。


「実戦なら、武器を落とした時点で相手は待ってくれない」


「はい、師匠」


ロインは短剣から視線を外し、素手のまま構え直した。


「次はどうする?」


「距離を取ります」


「逃げ道は?」


ロインが一瞬、背後を見る。


その隙に、司は半歩踏み込んだ。


胸元へ伸びた手を、ロインが慌てて払う。


しかし、注意が上へ向いた直後には足を掛けられ、身体が宙へ浮いていた。


ロインは教わったとおりに顎を引き、背中全体で地面へ落ちた。


乾いた音が響く。


前のように後頭部を打つことはない。


司が追撃する前に身体を転がし、両手を地面へついて立ち上がる。


「今のは?」


「最初に倒されたときより、うまく受けられました」


「違う」


「え?」


「逃げ道を確認するために、相手から目を離した」


「あ……」


「視線だけで見るな。店の壁、荷箱、地面の傾きは、始める前に頭へ入れておけ」


「戦いが始まってから周囲を探せば、その瞬間が隙になる」


ロインは裏庭を見回した。


「もう一度、お願いします」


「先に短剣を拾え」


「さっき、拾うなと言いませんでしたか?」


「今は訓練が止まっている」


「はい、師匠」


ロインは短剣を拾い、最初の位置へ戻った。


昼の営業が終わった「やみつき亭」の裏庭には、木剣と木製短剣、藁を詰めた袋が並べられている。


司が指南役となってから、ロインは毎日、夕方の仕込みが始まるまでここで訓練していた。


まだ我流の癖は残っている。


攻撃へ意識が集中すると、足が止まる。


力で相手を動かそうとして、重心を前へ預けすぎる。


それでも、受け身と足運びは目に見えてよくなっていた。


何より、一度注意されたことを、自分なりに考えて次へ生かそうとしている。


《訓練開始時と比較し、転倒時の頭部負傷確率は七十二パーセント低下しています》


「まだ実戦へ出せる水準ではないな」


《肯定します》


《ただし、学習速度は同年代の人間の平均を上回っています》


「ああ、筋がいい」


ロインは何も知らず、木製短剣を構えた。


「行きます」


「予告するな」


「はい」


「返事もいらない」


ロインが口を閉じる。


今度はすぐに飛び込まず、司の肩と腰を見ながら、足を小さく動かした。


司はわずかに右肩を引いた。


その動きへ反応し、ロインが左へ回る。


直後、司の足先が、ロインの木製短剣を軽く蹴り上げた。


短剣が手から離れ、空中で回転する。


ロインは追わなかった。


素早く二歩下がり、両腕で顔と胸を守る。


司は追撃せず、その場で止まった。


「今のは悪くない」


ロインの顔が明るくなる。


「本当ですか?」


「武器を捨てて生き残る方を選んだ」


「ただ、下がった先に壁があれば終わっていた」


ロインが背後を確かめる。


石塀までは、あと三歩ほどしかない。


「まだ三回くらい死んでいますか?」


「今日は二回だ」


「減った」


ロインは倒されたことより、回数が減ったことを喜んだ。


「だが、護衛としてはまだ失格だ」


「どうしてですか?」


「今のお前は、自分が倒されないことしか考えていない」


司は裏口の横に立つニナイへ目を向けた。


「ニナイ。少し手を貸せ」


「私かい?」


「そこに立っているだけでいい」


ニナイは水差しを足元へ置き、ロインの後ろへ移動した。


「次は、ニナイを護衛対象とする」


「俺がニナイの肩へ触れたら、お前の負けだ」


「母さんに、何かするんですか?」


「触れるだけだ」


「分かりました」


ロインが木製短剣を構える。


司は正面から近づき、右へ動く素振りを見せた。


ロインが進路を塞ぐ。


そこで司は足元の木剣を蹴った。


地面を滑った木剣へ、ロインの視線が一瞬だけ落ちる。


司は反対側へ回り、ニナイの肩へ指先で触れた。


「終わりだ」


「もうですか?」


「お前は、自分が攻撃されると思い込んだ」


「護衛を襲う必要はない。守る対象へ手が届けば、敵の目的は達成される」


ロインは悔しそうに唇を結んだ。


「もう一度、お願いします」


「今度は、始める前に考えろ」


ロインはニナイと裏口を交互に見る。


「母さん。僕が合図したら、店の中へ入って」


「分かったよ」


「自分で動かすのか?」


司が尋ねる。


「ここで守り続けるより、母さんを逃がした方がいい」


「それでいい」


二度目が始まった。


司が動いた瞬間、ロインは倒そうとせず、ニナイとの間へ入る。


「母さん、今!」


ニナイが裏口へ向かう。


司はロインの手首を取り、身体を横へ流した。


ロインは倒れながらも、空いている腕を司の腰へ絡める。


動きを止めるには弱い。


それでも、ほんの一秒だけ時間を稼いだ。


その間にニナイが店内へ入り、扉を閉める。

挿絵(By みてみん)


司は追わず、ロインの腕を放した。


「合格ですか?」


地面へ横たわったまま、ロインが尋ねる。


「護衛対象を逃がす判断は合格だ」


「ただし、お前は倒された」


「でも、母さんは逃げました」


「それを忘れるな」


司は手を差し出し、ロインを立たせた。


「護衛の仕事は、敵を倒して強さを見せることではない」


「依頼人を、生きたまま目的地へ送り届けることだ」


ロインは何度も、その言葉を確かめるようにうなずいた。


裏口が開き、ニナイが顔を出す。


「私を置いて、話を終わらせるんじゃないよ」


「もう戻っていいぞ」


「あんたに店から追い出されたわけじゃないんだけどね」


そう言いながらも、ニナイはどこか嬉しそうだった。


ニナイは足元に置いていた水差しと布を拾い、二人の前へ戻ってきた。


「二人とも、そろそろ終わりにしておくれ」


「ロインには、夕食を作る仕事もあるんだからね」


「あと一度だけ」


ロインが頼む。


「昨日もそう言って、三度やっただろう?」


「今日は本当に一度だけ」


ニナイは司を見る。


「あんたからも言ってやっておくれ」


「今日は終わりだ」


「はい、師匠」


ロインは残念そうに短剣を置いた。


ニナイから布を受け取り、顔と首の汗を拭く。


「ツカサも使うかい?」


「俺は汗をかいていない」


「そういえば、あれだけ動いてるのに息も乱れてないね」


ニナイの視線が、司の首元から胸へと短く動いた。


現地の服に偽装した強化炭素繊維の下には、人間だった頃よりはるかに強い人工筋肉がある。


見た目だけなら、鍛えられた人間の身体と大きく変わらない。


「異国の軍人は、みんなそうなのかい?」


「俺が少し特殊なだけだ」


「少し、ねぇ」


ニナイは面白そうに笑った。


ロインへ水を渡したあとも、彼女の視線は一度だけ司へ戻った。


◇


司は店内の端の卓へ戻り、ニナイが淹れた茶を飲んでいた。


ロインは厨房で夕食の仕込みを始めている。


アイリは昼の給仕を終えたあとも残り、裏手で洗った布を干すのを手伝っていた。


店内には、二階で休んでいる宿泊客が二人いるだけだった。


そのとき、司の聴覚センサーが、自分の名前を拾った。


声は裏庭よりさらに奥から聞こえる。


石壁と厨房を挟み、普通の人間なら内容を聞き取れない距離だった。


司が意識を向けると、集音機能が自動的に周辺の雑音を分離する。


竈で薪が弾ける音。


通りを進む荷車の車輪。


二階の客が寝返りを打つ音。


それらが小さくなり、ニナイとアイリの声だけが鮮明になった。


「女将さん、ツカサさんのこと、男として見てるでしょ?」


アイリが、楽しそうに尋ねている。


「何だい、急に」


「さっき、ずっと見てたから」


「ロインが怪我をしないか、見てただけさ」


「それだけじゃないでしょう?」


短い沈黙のあと、ニナイが小さく笑った。


「まあ、見てないと言えば嘘になるねぇ……」

挿絵(By みてみん)


「やっぱり」


「女将さん、美人だし、全然いけるよ。誘っちゃいなよ」


「でも、私みたいなおばさんじゃあね……ははは」


「女将さん、いつも言ってるじゃない。女は度胸だよって」


「それは、あんたがロインを誘えずにうじうじしてたときの話だろう?」


「言ったことは同じです」


「まったく、他人のことだと思って……」


ニナイが布を強く振る音がした。


「まあ、向こうにもその気がありそうなら、考えてみるさ……」


「それじゃあ、いつまでたっても分からないよ」


「急ぐことでもないだろう?」


ニナイは自分をおばさんと呼んでいる。


だが、店へ来る男たちの多くが、彼女を美しい女性として見ていることを、司はすでに知っていた。


常連客だけではない。


初めて店へ入った旅人が、ニナイを見てもう一度振り返ることも珍しくない。


四十一歳という年齢を理由に、彼女を魅力のない女性だと考えているのは、本人くらいのものだった。


《ニナイ・ブルックが、ツカサとの肉体関係を希望する可能性、六十五パーセント》


《なお上昇中です》


「黙ってろ」


《了解》


もちろん、そのやり取りが外へ漏れることはない。


司は何も聞かなかった顔で、茶を口へ運んだ。


やがて、裏口からアイリが先に戻ってくる。


彼女は司の顔を見たあと、奥にいるニナイへ視線を向け、意味ありげに笑った。


続いて戻ってきたニナイは、普段どおりの顔をしていた。


「茶のお代わりはいるかい?」


「まだ残っている」


「そうかい」


目が合った瞬間、ニナイはほんの少しだけ視線を逸らした。


その変化を、アイリは見逃さなかった。


司は気づかないふりを続けた。


◇


その日の夕方、司は王城の奥にある小さな応接室へ呼ばれた。


部屋にいるのは、アルディスと司だけだった。


窓は閉じられ、扉の外には国王が信頼する側近が一人立っている。


ロインについて話すとき、アルディスは必ず人払いをした。


「ロインの様子を報告します」


司が切り出すと、アルディスは机の上の書類を閉じた。


「報告を聞かせてくれ」


「仕事には真面目です。料理人としても、店を任せられるだけの腕があります」


「ニナイを大切にしていて、客との関係も悪くありません」


「そうか……」


アルディスの顔から、わずかに緊張が消える。


国王ではなく、一人の父親として報告を聞いている顔だった。


「護衛になる夢を持っています。母親の故郷へ行くため、以前から我流で身体を鍛えていました」


「あの子が、護衛に……」


「ただ、我流のままでは危険な癖がありました」


司は一度言葉を区切った。


「本人が望んだので、軍隊式格闘術を教えています」


アルディスが目を瞬く。


「ツカサ殿が、ロインへ?」


「はい。事後報告になってしまいました。問題があるなら中止します」


「いいや。続けてやってほしい」


返事は早かった。


「ロインは、そなたを何と呼んでいるのだ?」


「師匠です」


アルディスの口元が緩む。


「ツカサ殿が、師匠か」


「私は教官と呼ばせるつもりでした」


「軍人ではないから、と断られました」


アルディスは声を抑えて笑った。


「あの子らしいのかどうか、私には分からない」


その言葉には、息子の日常を知らない父親の寂しさが混じっていた。


司は訓練内容と、ロインの上達について報告した。


大げさに褒めることも、足りない部分を隠すこともしない。


実戦へ出せる段階ではない。


だが、学ぶ姿勢と判断力は悪くない。


最後まで聞いたアルディスは、静かにうなずいた。


「次に宿へ行くことがあれば、ロインが作ったというカレーパンを食べてやってくれ」


「もう食べました」


「もう?」


「完成まで三日ほど付き合いました。最初は、かなり硬いパンでしたが」


「ツカサ殿も作ったのか?」


「作り方を少し教えただけです。こちらの材料で完成させたのはロインです」


アルディスは、返事をするまでに少し間を置いた。


「味はどうだった?」


「うまかったです」


「私の故郷で食べていたものに、よく似ていました」


「そうか……」


アルディスはそれだけ答えた。


だが、目元には隠しきれない喜びがあった。


「今は店で売っています。カレーパンのほかにも、ロインと新しい料理を二つ作りました」


「いずれ、私も食べてみたいものだな」


「閉店後なら、ニナイに頼めば作ってくれると思います」


司は、アルディスが人目を避けて宿を訪れていることには触れなかった。


国王も、それ以上は何も言わなかった。


◇


報告を終えたあと、司は机の上へ王都から北方までの地図を広げた。


「陛下。もう一つ、聞きたいことがあります」


「何だ?」


司はルミエール王国から北へ延びる街道を指した。


「ニナイの生まれ故郷は、エゾフ王国のミドロフ村で間違いありませんか?」


アルディスの表情が変わる。


「本人から聞いたのか?」


「ロインが、いつか母親の故郷へ行ってみたいと話していました」


「村の名前は、宿へ来る商人から聞きました」


「そうだ。ミドロフは、エゾフ王国にある小さな村だ」


アルディスは地図の一点を示した。


「ニナイは二十年以上前、エゾフ王国から王都へ来た」


「エゾフ王国は人間国家だが、我が国との交易を長く続けている」


「もとは隣接するスローデン王国領だったが、四百年ほど前に独立しエゾフ王国となったのだ」


「私も、機会があれば行ってみたいと考えています」


「人間の国を、自分の目で見たいのか?」


「はい。ここで聞いた話だけでは、実態を判断できません」


「人間社会は地球と似ている部分が多い一方、北へ行くほど他種族への扱いが悪くなると聞きました」


「ならば、エゾフを見ることには意味があるだろう」


アルディスは少し考えてから答えた。


「異なる国の暮らしを知ることは、見聞を広める」


「エゾフは、人間国家の中でも我が国へ友好的だ。最初に訪れる国としては悪くない」


「ありがとうございます」


司は、地図上でさらに北へ指を動かした。


「もう一か所あります」


指先が止まったのは、モンドローグ地方だった。


「ここにあるダンジョンについて、何か知っていますか?」


「モンドローグダンジョンだな」


アルディスは、迷わず名前を口にした。


「知っている。詳しく説明しよう」


◇


モンドローグダンジョンは、スローデン共和国のモンドローグ地方にある。


開拓者モンドローグが、未開だった山地に初めて道を拓いた際に発見した。


その名は、ダンジョンだけでなく、周辺の地方全体へ残されている。


内部には古くから魔物が棲みつき、一定の間隔で異常増殖を起こす。


増えた魔物が地上へ溢れる前に、兵士と討伐者を送り込み、数を減らす。


それが、長年繰り返されてきたという。


「街で聞いた話と同じです」


司は言った。


「最近は、異常増殖の間隔が短くなっているとも聞きました」


「その報告は、私のところへも届いている」


「奥にある、喋る石については?」


「それも知っている」


現地では、ほかの呼び名を付けず、そのまま喋る石と呼んでいる。


灰色で、岩に半ば埋もれ、表面だけが不自然なほど滑らかだった。


意味の分からない言葉を発したあとに魔物が増えることから、神託、警告、呪いなど、さまざまに解釈されている。


「ダンジョンの管理は、サロディム・ローエングルーデンが行っている」


「スローデン共和国の人間ではないのですか?」


「エール系種族だ。私の母方の遠縁にあたる」


サロディムは、モンドローグ地方総督として、ダンジョンと周辺地域を統括している。


モンドローグ地方はスローデン共和国領だが、ダンジョンの管理はルミエール側へ委託されていた。


「五百年前の侵略戦争で、スローデンは人間側の連合へ加わらなかった」


アルディスが説明を続ける。


「中立を保ち、戦争が終わったあとも交易を続けた」


「我が国が城下のダンジョンを長く制圧、管理してきた実績を評価し、モンドローグの管理を任せたいと申し出たのだ」


「共和国に、国王がいると聞きました」


「メゾフ・フォンラス・スローデン王だな」


「国王であり国家元首ではあるが、政治上の実権は持っていない」


「国の象徴ということですか?」


「その認識で間違いない」


スローデン共和国では、身分、性別、種族にかかわらず、選挙権を得た国民は平等に一票を持つ。


大統領は、その国民投票によって選出される。


国王は、選挙で選ばれた者を正式に大統領へ任命する。


ただし、任命を拒否する権限はない。


国王が担うのは、国民の選択を国家の名で認証する、儀礼的な役割だった。


「現在の大統領は、ロッツ・バーモント。五十五歳の人間だ」


「どのような人物ですか?」


「香辛料を扱う商人の息子だ」


アルディスは、少し懐かしそうに語った。


「幼い頃から両親とともに我が国へ来ていた。商人として何度も王都を訪れ、ルミエールの文化や商習慣をよく知っている」


「人間第一主義者ではないのですね」


「少なくとも、他種族を知らずに見下す人物ではない」


「政策としても、我が国との友好と交易を重視している」


「なら、話は通じそうです」


司は王城地下で発見した培養施設と、モンドローグダンジョンの共通点を説明した。


周期的な魔物の増加。


現在の文明では加工できない滑らかな物体。


異常増殖に先行して出力される、意味不明の音声。


「喋る石は、石ではない可能性があります」


「古代文明の装置か?」


「地下施設の端末、宇宙船の残骸、監視装置、警報装置、通信機器」


「現時点では特定できません。ただ、音声を直接取得できれば、脳内AIで解析できます」


《現物へ接触できれば、内部構造および残存機能を調査できる可能性があります》


「現物へ接触できれば、さらに多くの情報を得られます」


司はAIの見解を、必要な部分だけアルディスへ伝えた。


「調査へ行かせてください」


アルディスは、すぐにうなずいた。


「分かった」


「よろしいのですか?」


「そなたでなければ、喋る石の正体を調べることは難しいだろう」


「異常増殖を防ぐ手掛かりになるなら、スローデン共和国にとっても利益になる」


アルディスは机の脇にあった呼び鈴へ手を伸ばした。


「メゾフ王、ロッツ大統領、そしてサロディム総督へ、それぞれ推薦状を用意する」


「メゾフ王には外交上の紹介を」


「ロッツ大統領には共和国領内で調査するための許可を」


「サロディムには、ダンジョンへの立ち入りと現地協力を求める」


「助かります」


「ただし、推薦状だけで共和国の法律を越えられるわけではない」


「現地では、ロッツ大統領とサロディムの指示に従ってくれ」


「承知しました」


北へ続く道が、噂から正式な調査計画へ変わった。

挿絵(By みてみん)


◇


アルディスが側近を呼ぶ前に、司はもう一つだけ話を切り出した。


「陛下。ロインのことで、お願いがあります」


アルディスの手が止まる。


「何だ?」


「北へ行く際、ロインを私個人の護衛として雇い、同行させたいと考えています」


返事はなかった。


司は続けた。


「現時点では、戦力として期待できる段階ではありません」


「ですが、護衛になるには、店の裏だけでなく実際の街道を経験する必要があります」


「単なる付き添いにはしません。仕事として依頼し、報酬を払い、自分の判断に責任を持たせます」


「危険が迫れば、私が守ります」


アルディスは、地図上の長い道を見つめた。


「ロイン本人には、もう話したのか?」


「まだです」


「先に陛下へ話しておくべきだと考えました」


「公的には、私の許可を得る必要のない青年だ」


アルディスの声が低くなる。


「それでも、父親である私へ尋ねてくれたのだな」


「はい」


アルディスは椅子へ深く座り直した。


ロインが夢見ていた母親の故郷。


息子の夢をかなえてやりたい気持ちはある。


しかし、その先には魔物が異常増殖するダンジョンが待っている。


さらに、王族の血を隠したロインを国外へ出すことには、戦闘以外の危険もあった。


「少し、考えさせてくれ」


「分かりました」


司は結論を急がせなかった。


「推薦状ができる頃に、また報告へ来ます。そのときに返事を聞かせていただければ十分です」


「そうさせてくれ」


アルディスは地図を見たまま答えた。


国王としてではなく、息子を初めて遠くへ送り出すかもしれない父親として、考える時間が必要だった。


◇


応接室を出た頃には、王城の窓から差し込む光が赤く変わっていた。


司は自室へ戻り、専任侍女が用意した夕食を取った。


エルザが城を出てから、今日で十日になる。


三日か四日ほどと聞いていた予定は、いつの間にか十日へ延びていた。


行き先を尋ねるつもりはなかった。


それでも、いつ戻るのか分からない状態が続けば、気にするなという方が難しい。


《エルザのブレスレット信号を、王城内で確認》


AIが告げた直後、廊下から足音が近づいてきた。


扉が開く。


「ただいま、ツカサ」


旅装のままのエルザが、明るく笑っていた。


長いプラチナブロンドの髪は、戦闘時の編み込みを解いたばかりで、肩から背中へ緩く波打っている。


疲れてはいるが、怪我はない。


司は立ち上がった。


「遅かったな」


「数えてたの?」


「三日か四日と聞いていた」


「イーザスが、せっかくだから山の射場でも訓練しようって言ったの」


エルザは司の前まで来ると、両腕を首へ回した。


「それで、少し長くなった」


「少し、か?」


「十日くらいなら、少しだよ」


エール系種族の時間感覚では、本当にそうなのかもしれない。


「訓練だけか?」


司が尋ねると、エルザは隠さず答えた。


「夜はイーザスと過ごしたよ」


「射場にいた、ほかの男の人たちとも、何度か一緒に寝た」


彼女の口調に、後ろめたさはない。


司と交わした約束にも反していない。


エルザは、司がほかの女性と関係を持つことを認めている。


自分についても、隠さず誠実に話すと決めていた。


それでも司の中には、説明しにくい感情がわずかに生まれた。


怒りではない。


裏切られたとも思わない。


ただ、自分が育った地球の価値観と、この国の価値観が、まだ完全には重なっていなかった。


「嫌だった?」


エルザが司の顔を見上げる。


「約束を破ったわけではない」


「うん」


「ただ、十日は長かった」


エルザの表情が柔らかくなる。


「寂しかった?」


司はすぐには答えなかった。


「少しはな」


「そっか」


エルザは嬉しそうに笑い、司へ強く抱きついた。

挿絵(By みてみん)


「私も、最後の二日くらいはツカサに会いたかったよ」


「最初の八日は?」


「訓練と遊びで忙しかった」


「正直だな」


「嘘をついても仕方ないでしょ?」


司も、エルザの腰へ腕を回した。


ほかの男と過ごしたことを隠されるより、何も飾らず戻ってくる彼女の方が、司には信じられた。


エルザが背伸びをして、唇を重ねる。


十日ぶりの口づけは、挨拶だけでは終わらなかった。


◇


その夜、司とエルザは、離れていた時間を埋めるように激しく身体を重ねた。


寝台へ広がったプラチナブロンドの髪が、二人の動きに合わせて揺れる。


エルザは何度も司の名を呼び、司も彼女の身体を強く抱き寄せた。


旅と訓練の疲れが残っているはずなのに、エルザは休もうとしない。


十日間の出来事を途切れ途切れに話しながら、ときには笑い、ときには声を抑えられなくなる。


司も、次の任務や北方のダンジョンを考えることをやめた。


今はただ、戻ってきたエルザが腕の中にいることを確かめた。


しばらくして、扉が控えめに叩かれた。


新しい水と布を持ったニーナ、レイミー、ジーナが入ってくる。


三人は寝台の様子を見て、邪魔をしないように下がろうとした。


「待って」


エルザが呼び止める。


「三人も来る?」


ニーナたちは顔を見合わせた。


最初に笑ったのはジーナだった。


「エルザ様がよろしいのでしたら、喜んで」


「私だけでは、今夜のツカサは満足しそうにないから」


「それは、エルザ様が煽りすぎたのではありませんか?」


レイミーが穏やかに指摘する。


ニーナは眼鏡を外し、机の上へ丁寧に置いた。


三人の意思に迷いがないことを、司は表情と生体反応から確かめた。


「無理はするな」


「しておりません」


ニーナが真面目な顔で答える。


「むしろ、エルザ様がお戻りになるまで、ツカサ様をお預かりしていた責任がございます」


「何の責任だ?」


「きちんとお元気なまま、お返しする責任です」


「十分、元気そうだね」


エルザが笑った。


後半は三人の専任侍女も加わり、寝室はさらに賑やかになった。


エルザとニーナ、レイミー、ジーナ。


司は四人を相手に、長い夜を奮闘することになった。


誰か一人だけを置き去りにせず、求められるたびに応え、休息と水分を挟みながら夜を重ねる。


やがて最初に動けなくなったジーナが寝台の端へ沈み、ニーナも眼鏡を掛け直す余裕を失った。


レイミーは最後まで三人を気遣っていたが、最後には司の肩へ身体を預けた。


エルザは満足そうに司の胸へ頬を載せる。


「やっぱり、戻ってきてよかった」


「次は、予定が延びるなら知らせろ」


「分かった」


「できればね」


「そこは約束しろ」


エルザは答える代わりに、司の胸へ口づけた。


夜が深くなる頃には、四人とも司の周囲で眠っていた。


北方へ続く道は、すでに開き始めている。


メゾフ王、ロッツ大統領、サロディム総督へ宛てた三通の推薦状。


エゾフ王国のミドロフ村。


スローデン共和国のモンドローグダンジョン。


そして、意味の分からない言葉を発する喋る石。


だが、その夜だけは、司も次の調査について考えなかった。


久しぶりに戻ったエルザの体温と、周囲から聞こえる四人分の寝息に包まれながら、司は眠りについた。


――第二十二話・終


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