第21話「故郷の味と最初の弟子」
翌日の昼前、司は再び「やみつき亭」の扉を開けた。
昨日とは違い、空に雲は少ない。
正午頃に降るスコールへ備え、今日はレプリケータで生成した薄い雨具も、偽装したリュックの底へ入れてある。
《昨日の経験が適切に反映されています》
「同じ失敗を繰り返す趣味はない」
《初回の提案を受け入れていれば、経験する必要もありませんでした》
「店に着いた。黙っていろ」
《了解》
頭の中でだけ響く声を切り上げ、司は店内を見渡した。
まだ昼の繁忙時間には少し早い。
卓に着いているのは宿泊客らしい二人組と、朝から酒を飲んでいる土鬼族の男だけだった。
床を掃いていたニナイが、司へ気づく。
「本当に来たね」
「約束したからな」
「ロインなら、朝から厨房で唸ってるよ」
ニナイは箒を壁へ立てかけ、声を落とした。
「先に言っておくけど、歯が折れても宿代には含めないからね」
「そんなにひどいのか?」
「食べれば分かるさ」
奥の厨房から、何か硬いものが木皿へ落ちる音がした。
ごとり、という音だった。
パンを置いた音には聞こえない。
「ツカサさん、来てくれたんですね」
ロインが厨房から顔を出した。
右目には期待があり、長い前髪に隠れた左側はいつもどおり見えない。
両手には小麦粉が付いていた。
「できたのか?」
「一応は」
「その言い方だと、成功ではないな」
ロインは苦笑し、司を厨房へ招き入れた。
作業台の上に、拳ほどの大きさの揚げパンが三つ並んでいる。
外側は濃い茶色で、見た目だけなら悪くない。
だが、一つを持ち上げると妙に重かった。
司は半分に割ろうとした。
指先へ力を加える。
固い。
さらに力を入れると、表面が乾いた音を立てて砕けた。
中には、昨日食べたスパイシーライスの挽き肉部分を水分が少なくなるまで煮詰めた具が入っている。
香りは確かにカレーパンに近い。
問題は、その周囲を覆う生地だった。
一口かじる。
揚げた表面は硬く、中も詰まっている。
噛み切るだけなら司には何の問題もないが、生身の人間なら顎が疲れるだろう。
「どうですか?」
「味は悪くない」
「パンが硬すぎる」
「やっぱり、そうですよね」
ロインも試作品を持ち、力を込めて噛んだ。
少し遅れて、ばり、と音がする。
ニナイが厨房の入口から覗き込んだ。
「それなら旅へ持っていっても、ひと月は腐らなそうだね」
「母さん、食べ物で釘を打つみたいに言わないでくれよ」
「今朝、私が落とした一つは床の方が欠けたよ」
「嘘だろ?」
「床は無事だった、という意味さ」
ニナイが笑い、店へ戻っていった。
ロインは肩を落とした。
「この辺りのパンは、もともと少し硬いんです」
「スープへ浸したり、薄く切って肉を載せたりして食べますから」
「昨日、ツカサさんが言っていた、ふわっとしたパンというのが、よく分からなくて」
司は割れた生地の断面を見る。
気泡は小さく、数も少ない。
地球で食べていたカレーパンとは、明らかに違う。
司自身も、完成した料理を知っているだけで、パン職人ではなかった。
小麦粉をこね、発酵させ、揚げればできる。
知識として持っていたのは、その程度だ。
「おい」
《はい》
「生地を柔らかくする方法は分かるか?」
《使用された材料と作業工程の確認が必要です》
返答が即座に返ってきた。
司はわずかに眉を動かした。
「分かるのか?」
《統合軍行動支援ライブラリには、現地調達可能な食材を利用した調理手順が収録されています》
《作戦地域における栄養状態の維持は、兵員の継戦能力へ直接影響します》
《また、温かい食事および慣れ親しんだ味には、極限環境下のストレスを軽減し、集団の士気を――》
「ロイン、昨日から何をどの順番でやった?」
司はAIの説明を聞き流し、作業台へ身を寄せた。
《説明の途中です》
「朝、小麦粉と塩に、水を入れてこねました」
ロインが粉の入った袋と、水差しを置く。
「少し休ませてから具を包んで、油で揚げました」
「休ませたのは、どのくらいだ?」
「厨房の火を起こして、鍋の準備をする間です。四半刻くらいですね」
《不足しています》
「短すぎる」
司はAIの言葉を、そのまま自分の判断として伝えた。
「それと、水が少ない」
「これ以上入れると、手に付いてしまいますよ」
「付くくらいでいい。最初はな」
《正確には、使用されている粉の吸水率を測定したうえで――》
「まず少量で試す。水を足せ」
司が言うと、ロインは迷わず水差しを取った。
粉へ少しずつ水を注ぎ、二人で生地をこねる。
これまでより柔らかい生地は、ロインの言ったとおり指へまとわりついた。
それでも、押し、折り、向きを変えて、また押す。
しばらく続けるうちに、表面の荒れが消えていった。
《発酵には、厨房内で使用されている種を転用できます》
司は視線を巡らせた。
棚の端に、酸味のある匂いを放つ小さな壺がある。
「あの壺は何だ?」
「パン種です。いつものパンにも少し使います」
「今までと同じ量を入れたのか?」
「はい」
《低温かつ短時間では、十分なガスが生成されません》
「量を少し増やす。それから、火の近くで長く休ませる」
「どのくらいですか?」
《現時点の厨房温度なら、一次発酵に約――》
司はAIが示した時間を伝えた。
ロインは濡れ布を生地へ被せ、竈から少し離れた棚へ置く。
「これで、ふわっとするんですか?」
「理屈ではな」
《私の算出に重大な誤差がなければ、現在の試作品より軟らかくなります》
「少なくとも、床を傷つけるパンにはならない」
「そこまで硬くないですよ」
「さっき、お前も噛む前に少し覚悟しただろう」
ロインは否定できず、笑った。
◇
昼の客が入り始めると、試作は一度中断になった。
司も厨房を出て、昨日と同じ端の卓でスパイシーライスを食べた。
アイリが水差しを持って店内を回っている。
「今日も来たんですね」
司の卓へ水を置きながら、アイリが笑った。
「約束がある」
「カレーパンですか?」
「今のところ、パンの形をした鈍器だ」
「鈍器?」
「ツカサさん!」
厨房からロインの声が飛んだ。
アイリは口元を押さえて笑い、すぐに別の卓へ向かった。
繁忙時間が終わる頃、生地は最初の二倍近くまで膨らんでいた。
濡れ布を取ったロインが、目を見開く。
「こんなに膨らむんですか」
「中に空気が入ったまま焼ければ、昨日よりは柔らかくなる」
《厳密には、発酵によって生成された二酸化炭素です》
「細かいことはいい」
司は生地を押し、溜まった気体を抜いた。
小分けにした生地で具を包み、再び布を掛ける。
二度目の発酵を待ち、油へ入れた。
一つ目は、昨日より軽く膨らんだ。
二つ目も、表面が丸みを帯びていく。
ロインの顔へ期待が浮かんだ、そのときだった。
三つ目の側面が裂けた。
中の具が油へ流れ出し、激しく泡立つ。
「危ない!」
ロインが身を引くより早く、司は鍋の前へ腕を伸ばした。
跳ねた油が手の甲へ当たる。
現地の布に似せた袖が油を弾き、下の人工皮膚にも損傷はない。
司は火を弱め、裂けた生地を金網ですくい上げた。
「火傷していませんか?」
「問題ない」
「でも、今、かなり油が」
「服が弾いた」
ロインは不思議そうに袖を見たが、司は鍋へ視線を戻した。
残った二つも、片方は口を閉じた部分から具が滲み、もう片方は揚げ色が付く前に形が崩れた。
生地そのものは、昨日より明らかに柔らかい。
しかし、カレーパンとしては失敗だった。
「今度は、中身が出ましたね」
ロインが、金網の上で崩れた試作品を見つめる。
《具材の温度および含水量が過剰です》
「具が温かすぎた。それと、まだ水分が多い」
「生地には水を増やして、具からは水を減らすのか」
「そういうことらしい」
《他人事のように表現しないでください》
司は返事をしなかった。
ロインは裂けなかった部分を少しちぎり、口へ入れた。
「でも、パンは違います」
「昨日より、ずっと柔らかい」
司も一口食べた。
まだ地球のパンほどではないが、内側に小さな気泡ができている。
方向は間違っていない。
「明日は、具を先に作って冷ましておけ」
「水分も、もう少し飛ばします」
「生地は今日と同じだ。二度休ませる」
「はい」
ロインの返事に、落胆はなかった。
失敗した原因が分かれば、次に直せる。
料理人の顔になった青年は、崩れた生地の断面を熱心に確かめていた。
司は、その横顔をしばらく見ていた。
国王から頼まれたのは、ロインがどのように暮らしているか確かめることだった。
少なくとも、この青年は仕事を嫌ってはいない。
失敗を他人のせいにもせず、次の試作を考えている。
アルディスへ伝えられることが、また一つ増えた。
◇
三日目。
司が「やみつき亭」へ着いたときには、具はすでに浅い皿へ広げられ、十分に冷まされていた。
ロインは昨夜のうちに水分量を調整し、香辛料の配合も少し変えたという。
生地は柔らかくこねられ、一次発酵を終えている。
二人は挽き肉の具を包み、閉じ目を念入りに押さえた。
表面へ細かなパン屑を付ける。
この世界にも、古くなったパンを砕き、衣やとろみへ使う習慣はあった。
それを細かくふるい、外側へ均等にまぶした。
《油温、適正範囲》
「入れるぞ」
ロインがうなずく。
最初の一つを、静かに油へ沈める。
細かな泡が表面を包んだ。
生地は少しずつ膨らみ、丸い形を保ったまま浮かび上がる。
裂けない。
具も漏れない。
薄い色だった衣が、きつね色へ変わっていく。
ロインは一瞬も目を離さず、金網で裏返した。
やがて、一つ目のカレーパンが油から上がった。
続けて二つ、三つ。
どれも形を保っている。
厨房へ、揚げた小麦と香辛料の匂いが広がった。
司は最初の一つを手に取ろうとした。
「まだ熱いですよ」
「分かっている」
人工皮膚の耐熱性能なら問題ない。
だが、中身まで熱いまま噛めば、味を感じる前に口内温度の警告が出る。
少し待ち、半分に割った。
さくり、と軽い音がする。
昨日までとは違う。
薄い衣の内側に、柔らかく膨らんだ生地がある。
中心から、冷ましていたはずの挽き肉の具が、湯気とともに現れた。
司は一口かじった。
外は香ばしい。
中のパンは、わずかな弾力を残しながら柔らかい。
その奥から、肉の旨味と、いくつもの香辛料の辛さが広がる。
地球で食べたものと、まったく同じではない。
粉も違う。
油も、香辛料も違う。
それでも、これは確かにカレーパンだった。
司の動きが止まる。
失われた街の風景が、一瞬だけ脳裏へ浮かんだ。
訓練へ向かう途中に立ち寄った店。
紙袋越しに伝わった熱。
作戦から戻った夜、基地の売店で買った揚げたてのパン。
人間だった頃の舌が覚え、機械の身体になったあとも捨てずに残していた、ありふれた味。
もう二度と食べることはないと思っていた。
「ツカサさん?」
ロインの声で、司は現在へ戻った。
「どうですか?」
司はもう一口食べた。
「これだ」
「成功ですか?」
「ああ」
「俺の故郷で食べていたものと、よく似ている」
ロインの顔が明るくなった。
「よかった」
「本当に、よかったです」
《調理支援ライブラリの有効性が実証されました》
《限られた現地食材から、目標料理の特徴を高い精度で再現しています》
司は残りを食べながら、二つ目のパンを割った。
「閉じ目も問題ない。次は一度に揚げる数を増やせるな」
「油の温度が下がりすぎませんか?」
「鍋を大きくするか、火を調整する」
《私の知識が成功へ大きく寄与した点について、評価がありません》
「衣も、もう少し細かい方がいいかもしれない」
「試してみます」
《報告を聞いていますか?》
司は答えなかった。
ニナイとアイリも匂いにつられ、厨房へ入ってきた。
「今度は床へ落としても大丈夫そうだね」
ニナイが一つ取り、両手で割った。
「熱いから気をつけろ」
「料理人の母親に、熱いものの食べ方を教えるんじゃないよ」
そう言いながら一口食べ、ニナイの目がわずかに大きくなる。
「これは、面白いね」
「外は軽いのに、中はしっかり食事になる」
アイリも小さくちぎって口へ入れた。
「おいしい」
「ロイン、これ、本当にあなたが作ったの?」
「僕とツカサさんで、だよ」
「作ったのは、ほとんどお前だ」
「でも、作り方を考えたのはツカサさんでしょう」
《主要な改善案を提示したのは私です》
「お前は静かにしていろ」
《不当な説明です》
ニナイが残りを食べ、満足そうにうなずいた。
「昼の客にも少し出してみようか」
「今日は試作分しかないよ」
ロインが慌てて止める。
「そうだね。なら今日は、作った者の取り分だ」
ニナイは最後の一つへ手を伸ばしかけたアイリの指を軽く叩いた。
「アイリ。あんたは、もう半分食べただろう?」
「ニナイさんも半分食べました」
「私は店主だよ」
「私は給仕です」
「それは今の時間だけさ」
二人が真剣な顔で最後の一つを見つめる。
ロインは困ったように笑い、半分ずつに切った。
三日かけて完成した故郷の味は、司が想像していたより早く、この店へ馴染み始めていた。
◇
昼の営業が終わったあと、ロインは厨房の片づけをいつもより急いで済ませた。
司は卓に残り、ニナイが淹れた薄い茶を飲んでいた。
しばらくすると、裏口から乾いた音が聞こえてくる。
一定の間隔で、空気を切る音が続いた。
司は茶を置き、店の裏へ回った。
建物と石塀の間に、荷車二台分ほどの空き地がある。
ロインはそこで、木剣を振っていた。
上段から斬り下ろし、横へ払い、踏み込む。
身体はよく動いている。
筋力も、同年代の人間としては高い。
しかし、踏み込むたびに重心が前へ流れ、攻撃の終わりに隙が生まれていた。
「毎日やっているのか?」
ロインが木剣を止めた。
「はい。昼の片づけが終わってから、夕方の仕込みまで」
「この三日は、試作でほとんどできませんでしたけど」
壁際には、木剣のほかに、藁を詰めた細長い袋と、縄を巻いた木の柱がある。
拳や蹴りを当てるためのものらしい。
「誰かに習ったのか?」
「学院で基礎を少し」
「あとは、城の衛兵が訓練しているところを外から見たり、旅の護衛に教えてもらったりしました」
「ほとんど我流か」
「はい」
ロインは木剣を下ろした。
「いつか、護衛の仕事をしてみたいんです」
「母さんの故郷にも行ってみたいし、もっと北の国も見たい」
「でも、今のままでは雇ってもらえません」
昨日までの料理人の顔とは違う。
右目は真っ直ぐに、司を見ていた。
国王の血を引いているからではない。
自分で決めた目標へ、手を伸ばそうとしている目だった。
「構えてみろ」
「え?」
「俺を斬るつもりで来い」
司は空いていた木剣を拾った。
ロインが戸惑う。
「危ないですよ」
「当たらない」
「でも」
「本気で来い。手加減すれば、お前の癖が分からない」
司が木剣を片手で下げたまま立つ。
隙だらけに見える姿勢だった。
ロインはしばらく迷ったあと、両手で木剣を握った。
一歩踏み込み、肩口へ斬り下ろす。
司は半歩だけ動いた。
自分の木剣で受けず、ロインの手首へ軽く触れる。
それだけで軌道が外れた。
続けて足を掛け、流れた重心を横へ押す。
ロインの身体が回り、地面へ倒れた。
木剣が手から離れる。
痛めないように力は完全に制御してある。
それでも、ロインは何が起きたのか分からない顔で空を見上げていた。
「攻撃の前に肩が動く」
司は木剣を拾い、ロインへ差し出した。
「踏み込みが大きすぎる。外されたあとの戻りも遅い」
「それから、相手の武器しか見ていない」
ロインは起き上がり、木剣を受け取った。
「もう一度、お願いします」
「同じ倒され方をするだけだ」
「なら、どうすればいいですか?」
「知りたいか?」
「はい」
返事は早かった。
司は少し考える。
一か月の滞在中、城の書庫や地下施設の記録を調べる予定はある。
だが、一日中それだけをするわけではない。
ロインの暮らしを確かめるという、アルディスの依頼にも反しない。
何より、ロインがこのまま我流で続ければ、実戦で大きな怪我をする可能性が高い。
「俺は異国の軍人だ」
「格闘術にも長けている」
司はロインの立ち方を見ながら続けた。
「お前が本気でやるつもりなら、俺の軍隊式格闘術を教えてやってもいい」
ロインの右目が見開かれた。
「本当ですか?」
「ただし、見栄えのいい剣技ではない」
「生き残るための技術だ。相手を倒して逃げる。武器を奪う。必要なら、動けなくする」
「それでも習いたいか?」
「お願いします」
ロインは木剣を置き、深く頭を下げた。
「僕に教えてください」
「分かった。なら、今日から始める」
「はい、師匠」
「待て」
「何ですか?」
「俺は、師匠と呼べとは言っていない」
「でも、教えてくれるなら師匠でしょう?」
「軍では教官と呼ぶ」
「僕は軍人ではありません」
ロインは真面目に言った。
司は数秒考え、訂正を諦めた。
「好きにしろ」
「はい、師匠」
《新たな上下関係の成立を確認》
「お前まで面白がるな」
《事実を記録しただけです》
司はロインへ向き直った。
「まず、その木剣を置け」
「剣を使わないんですか?」
「最初に覚えるのは、立ち方と倒れ方だ」
「剣を持っていても、足を払われて頭を打てば終わる」
司はロインの足幅を直し、顎を引かせた。
体重を前へ預けすぎず、どの方向にも動ける位置へ置く。
次に、地面へ倒れたときの衝撃の逃がし方を教えた。
初日の訓練は、木剣を一度も振らないまま終わった。
それでもロインは、夕方の仕込みが始まる直前まで、何度も立ち、転び、また立ち上がった。
◇
それから、司はほぼ毎日「やみつき亭」へ通うようになった。
午前中は王城で地下施設の記録や、この世界の地理を調べる。
昼前になると城下へ下り、店の端で食事を取る。
ロインに余裕があれば、新しい料理を試す。
昼の客が帰ったあとは、裏手の空き地で訓練を行う。
最初は、足運びと受け身だけを教えた。
次に、掴まれた腕を外す方法。
相手の手首を制し、身体の向きと重心を利用して倒す方法。
短剣を持った相手との距離。
背後から組みつかれたときの脱出。
司は一つずつ見せ、ロインに繰り返させた。
「力で引くな。相手の親指がある側へ抜け」
「はい」
「足が止まっている」
「はい、師匠」
「返事をする前に動け」
「はい!」
「だから、返事より先だ」
「はい!」
ロインは真面目だった。
真面目すぎて、同じ注意を受けるたびに返事まで大きくなった。
裏口から見ていたアイリが笑う。
「ツカサさん、少し厳しすぎませんか?」
「命がかかる技術だ。曖昧には教えられない」
「でも、ロインは嬉しそうですよ。昨日なんて、寝ているときまで足を動かしていました」
「アイリ!」
ロインの顔が赤くなる。
「なぜ知っている」
司が尋ねると、ロインはさらに赤くなった。
アイリだけが、何でもないことのように笑っている。
「昨日、一緒に寝たからです」
「そうか」
司がそれ以上追及しなかったため、ロインは少しだけ安堵した。
《睡眠中の反復運動は、技能定着の直接的証拠とは限りません》
「今は、お前の分析を求めていない」
《了解》
料理と訓練以外にも、店へ通うことで得られるものがあった。
「やみつき亭」には、王都の住民だけでなく、各地から来た商人や旅人が泊まる。
香辛料を運ぶ人間の商人。
革や鉱石を扱う亜人の行商人。
街道の護衛を仕事にしているルミエール人。
彼らの話には、王城の書物へ記されていない、現在の人間社会が含まれていた。
ある日、司の隣の卓で、二人の香辛料商人が値上がりの相談をしていた。
「また関所税が上がった。今度は荷車一台ごとだ」
「南回りなら安いだろう」
「道が二日延びる。香辛料はまだいいが、生ものは持たん」
「領主が替わるたびに税の名前だけ増えるな」
二人とも人間だった。
ニナイの話では、ルミエール経済圏と接する人間国家は比較的穏健で、交易によって利益を得ることを重視している。
それでも、国境を越えれば領主と貴族がいて、通行税、市場税、護衛税と、さまざまな名目で金を取るという。
別の日には、猫人族の行商人が、予定より四日遅れて店へ入ってきた。
「北東の街道を避けたんだ」
酒を飲みながら、行商人はニナイへ話した。
「あの国じゃ、亜人が荷を持って歩いているだけで、兵士に止められる」
「通行証があってもかい?」
「人間が持つ通行証ならな。俺たちの紙は、字が読めないふりをされる」
行商人は苦く笑った。
「荷を半分取られるより、四日遠回りした方が安い」
ニナイは黙って、酒を少し多めに注いだ。
北へ行くほど、人間を最上位とする考えが強くなる。
人間は、ほかの種族より尊く、賢く、支配する側に生まれた。
亜人は労働へ使うもの。
エール系種族は、美しい外見を愛玩するためのもの。
そう教える国さえあるという。
別の日、北方から来た人間の旅人が、酒に酔いながら話した。
「北の王都の闘技場は見事だったぞ。奴隷を二十人入れて、最後の一人になるまで戦わせるんだ」
同じ卓の男が、下品な声で笑う。
「亜人もいたのか?」
「いたとも。熊人族は強かった。最後は鎖を付けられたエールの女に――」
「その話は、うちではやめな」
ニナイの声が店内を切った。
旅人が振り返る。
「何だ、女将。面白いところだぞ」
「うちには、人間も亜人もルミエール人も来る」
ニナイは笑っていなかった。
「飯を食べて酒を飲むなら客だ。誰かが殺される話で楽しみたいなら、別の店へ行っておくれ」
旅人は何か言い返しかけた。
だが、周囲の視線に気づき、口を閉じた。
王都では、人間の方が少数だ。
二人は残っていた酒を飲み、早々に部屋へ引き上げた。
店内へ会話が戻ったあとも、司は旅人が消えた階段を見ていた。
「珍しくないのか?」
ニナイが空いた器を下げながら、司の向かいへ座る。
「北ではね」
「この国に近い人間の国は、あんな連中ばかりじゃないよ」
「商売相手を鎖でつないだら、香辛料も鉄も入ってこなくなる。互いに得をする方がいいと知ってる」
「お前の故郷もか?」
「そうさ。ここから人間の国をいくつか越えた先だけど、ルミエール王国とは昔から商いがある」
ニナイは階段の方へ一度目を向けた。
「でも、もっと北へ行くと違う」
「王と貴族が土地も民も自分のものだと思ってる。税を取り、奴隷を使い、妻を何人も持つ」
「結婚の決まりも、家を継ぐ決まりも細かい。誰から生まれたかで、できる仕事まで決まる国もある」
地球の歴史に、よく似ていた。
封建制度。
奴隷制度。
王侯貴族による支配。
一夫多妻と、血筋を守るための婚姻。
この国の家族観に戸惑った司にとって、人間国家の仕組みは、むしろ理解しやすい。
理解しやすいからこそ、その歪みも分かった。
《地球史上の封建社会および奴隷制社会と、高い類似性を確認》
「似ているからこそ、嫌な部分も分かりやすい」
《地球でも、人種、民族、宗教および出生階級を根拠とする差別は、長期間にわたり制度化されていました》
「人間は、場所が変わっても似たことをするらしい」
「五百年ほど前には、北の人間たちが、この国へ攻め込んだこともある」
「ルミエールの王家と真竜に追い返されたんだったな」
「よく知ってるね」
「古い記録で読んだ」
「負けたことを、今でも恨んでる貴族がいるらしいよ」
「今度こそ国境を越えて、エールを従わせるんだってね」
「民も、戦いたがっているのか?」
「大半は、今日の飯と明日の仕事で精いっぱいさ」
ニナイは肩をすくめる。
「戦争を始めたがるのは、安全な屋敷にいる連中だよ」
「ただ、人間が一番偉いと、生まれたときから教えられれば、それを疑わない者は多い」
「自分で奴隷を買えないほど貧しくても、亜人やエールを自分より下だと思えば、少しは偉くなった気がするんだろうね」
すべての人間が、進んで他種族を傷つけているわけではない。
だが、差別を当然とする国では、何もしないことも制度を支える力になる。
逆らう者は、今度は自分が異端として扱われる。
人の心だけでなく、社会の仕組みそのものが荒んでいるのだと、司は理解した。
「北へ行くなら、人間だから安全だと思わない方がいいよ」
ニナイが言った。
「黒い髪も黒い目も、あの辺りじゃ珍しい。身分を証明できない強い男は、貴族に目を付けられる」
「覚えておく」
司は答えた。
北へ行く予定は、まだない。
それでも、この世界を調べるなら、いずれ人間国家圏へ入ることになる。
そのとき、外見が同じ人間であることは、完全な安全を意味しない。
「それにしても、ツカサ」
ニナイが司の顔を見た。
「あんた、昼飯を食べに来てるのか、話を聞きに来てるのか、ロインを転がしに来てるのか、分からなくなってきたね」
「ロインを転がしているのは訓練だ」
「昨日は十七回、地面へ転がしただろう?」
「数えていたのか?」
「息子が裏で何をされてるかくらい、母親なら見るさ」
「今日は、自分で立てる範囲にしておく」
「そうしておくれ。夕方は厨房に立ってもらわないと困る」
ニナイは立ち上がり、空いた器を持って戻っていった。
その背中に、息子を心配する様子と、司へ任せてもよいという信頼の両方が見えた。
◇
新しい料理は、カレーパンだけでは終わらなかった。
ある日の昼前、土鬼族の肉屋が、太く長い腸詰めを厨房へ届けに来た。
香草と塩を練り込んだ肉を腸へ詰め、煙で燻したものだった。
ロインが夕食用に切り分けようとしたとき、司は一本を持ち上げた。
「これなら、作れるな」
「何をですか?」
「ホットドッグだ」
ロインが腸詰めを見る。
「犬の肉ですか?」
「違う」
「でも、ドッグは犬でしょう?」
司は少し黙った。
「俺も、なぜそう呼ぶのかは知らない」
《名称の由来には複数の説が存在し、十九世紀末から二十世紀初頭の――》
「由来はどうでもいい」
《説明を開始した直後です》
「長いパンへ焼いた腸詰めを挟む。上から味の濃いソースをかける」
「それだけですか?」
「単純だが、うまい」
カレーパンの試作で覚えた柔らかな生地を、今度は細長く成形する。
油へ入れず、竈で焼いた。
焼き上がったパンへ切り目を入れ、表面を炙った腸詰めを挟む。
ソースは、潰した赤い実を煮詰め、塩と酢、香草で味を整えた。
地球のケチャップとは違うが、肉の脂を受け止める酸味がある。
ニナイが最初の一口を食べた。
「なるほどね。歩きながらでも食べられる」
「皿も匙もいらない」
ロインも自分で作ったものを食べ、何度もうなずいた。
「腸詰めの種類を変えられます」
「辛いものや、香草を多くしたものでも合いそうです」
「パンの大きさで値段も変えられる」
「昼に急いでいる客へ出せるな」
二人がすぐに店の料理として考え始める。
翌日は、別のものを試した。
腸詰めへ小麦粉を使った柔らかな衣を付け、棒を刺したまま油で揚げる。
《衣に卵を加えることで、膨化と保形性が向上します》
AIの助言どおり、卵と少量のパン種を加える。
揚げた衣は、カレーパンよりも少し甘く、内側の塩気が強い腸詰めによく合った。
「これは何というんです?」
アイリが棒を持ち、先端からかじる。
「アメリカンドッグだ」
「アメリカンというのは?」
「俺の故郷にあった土地の名前だ」
「そこでは、犬をよく揚げるんですか?」
「だから犬の肉ではない」
「二つとも犬なのに?」
「俺に聞くな」
《日本で普及した名称であり、英語圏では一般にコーンドッグと――》
「お前にも聞いていない」
ニナイは、カレーパン、ホットドッグ、アメリカンドッグを順に卓へ並べた。
「この三つ、店で売らせてもらってもいいかい?」
「好きにしろ」
「ずいぶん簡単に言うね。あんたの故郷の料理なんだろう?」
「俺は料理を売りに来たわけじゃない」
司はロインを見る。
「この世界の材料で作れる形へ仕上げたのは、ロインだ」
「なら、店でどう扱うかは二人で決めればいい」
「利益の取り分はいらないのかい?」
「必要ない」
《私の貢献も考慮されていません》
「ただし、作ったときは俺にも食わせろ」
ニナイが笑った。
「それなら、王都にいる間の昼飯は、うちで食べていきな」
「毎日来てもか?」
「毎日来なけりゃ、ロインが裏で木剣を持ったまま待ってるよ」
「それは困るな」
「僕は待ちますよ」
ロインが真顔で言った。
「分かった。できる限り来る」
こうして、「やみつき亭」の新しい料理が三つ増えた。
最初は、見慣れない形を警戒する客もいた。
だが、香辛料の匂いに誘われてカレーパンを買い、次の日には家族の分まで持ち帰る者が現れた。
ホットドッグは、昼休みの短い職人や市場の荷運び人に受けた。
アメリカンドッグは、棒を持って食べられる珍しさから、若者や子どもへ広がった。
のちに三つの料理は、王都を訪れた旅人が一度は食べる名物になる。
土鬼族の腸詰めと、人間国家圏から届く香辛料と、ロインが覚えた柔らかなパン。
異なる文化の材料が一つになった料理として語られるようになるが、それは、まだもう少し先の話である。
◇
店で新しい料理を売り始めた頃。
司は昼の客が引いたあとも、端の卓へ残っていた。
ロインは厨房で夕食用のスープを仕込み、ニナイは宿の帳簿を付けている。
裏手での訓練まで、少し時間があった。
店の中央には、北から来たという人間の商人が二人いる。
一人は香辛料を扱う男で、もう一人は護衛を兼ねて街道を往復しているらしい。
卓の上へ地図を広げ、小声で帰路を相談していた。
「東の道は使うな。また、あの石が喋ったらしい」
護衛の言葉に、商人の手が止まった。
「いつだ?」
「六日前だ。坑夫が聞いた」
「なら、そろそろ魔物が増える」
「前は三日後に、下の坑道が魔物で埋まったそうだ」
二人の声には、酔客の怪談を楽しむ響きがなかった。
司は卓を立ち、隣へ移った。
「話を聞いてもいいか?」
商人たちが司を見る。
黒い髪と黒い目を確かめ、人間だと判断したらしい。
「北へ行くつもりか?」
「まだ決めていない」
「喋る石というのは何だ?」
護衛が、広げた地図の一点を指した。
ルミエール王国から人間国家をいくつか越えた先。
ニナイの故郷よりも、さらに北方へ寄った国だった。
「山の下に、古い迷宮がある」
「中には魔物が棲みついていて、何年かごとに異常に数が増えるんだ」
「地上へ溢れるのか?」
「放っておけばな。だから、国が兵と雇われた討伐者を集めて間引く」
商人が続ける。
「迷宮の奥に、岩へ埋まった石があるらしい」
「宝玉じゃない。灰色で、表面だけ妙に滑らかなんだと」
「削ろうとしても傷が付かず、運び出そうとしても岩から外れない」
「それが、喋るのか?」
「意味の分からん言葉をな」
「声がしたあとに魔物が増えるから、土地の連中は神託だとか、迷宮の呪いだとか言ってる」
司は地図の位置を記憶した。
「決まった間隔で喋るのか?」
「昔は、何十年かに一度だったらしい」
護衛が眉を寄せる。
「ところが、最近は間が短い。前に喋ってから、まだ数年しか経っていない」
「魔物が増える間隔もか?」
「短くなってる」
《王城地下で確認した生物培養施設と、複数の共通点を検出》
AIの声が、司の意識へ響いた。
《周期的な生物個体数の増加》
《現地文明の加工技術と一致しない、滑らかな人工物》
《増加現象に先行する、意味不明の音声出力》
「管理機構が故障した施設か」
《可能性があります》
《ただし、現時点では地下施設、宇宙船残骸、観測装置、警報端末または通信機器のいずれかを特定できません》
「声を聞けば、分析できるか?」
《音声資料が十分な品質であれば、言語構造、反復パターンおよび機械的変調の有無を解析できます》
《端末へ直接接触できれば、さらに多くの情報を取得できる可能性があります》
「調査対象に加えろ」
《登録しました》
司は地図を指す。
「この国は、ルミエール王国と敵対しているのか?」
「いや。少なくとも、今はな」
「間にある国とも商いがある。北の連中ほど、エール嫌いでもない」
護衛は地図を畳み始めた。
「それでも、迷宮へ行くなら国の許可がいる」
「今は魔物が増える前触れが出ている。物見遊山で近づけば、兵に追い返されるぞ」
「分かった。助かった」
司は元の卓へ戻った。
厨房から、ロインが顔を出す。
「師匠、そろそろ訓練できます」
「今日は、短剣を持った相手への対処をやる」
「はい」
ロインは嬉しそうに裏口へ向かった。
司も立ち上がりながら、先ほどの地図を頭の中で呼び出す。
一か月の滞在は、まだ終わっていない。
北へ向かう理由も、許可もない。
だが、魔物が周期的に増える迷宮と、意味の分からない言葉を発する人工物は、偶然として見過ごすには王城地下の施設と似すぎている。
文明の始祖。
エンシェントドラゴンの失敗作。
五万年以上生き続けた失敗作。
この星には、現在の人々が神話や呪いと呼ぶものの中に、古い文明の機械が残っている。
北方の喋る石も、その一つかもしれない。
《訓練開始予定時刻を、二分十三秒超過しています》
裏手では、ロインが木製の短剣を手に待っていた。
「分かっている」
司は思考を切り替え、空き地へ出た。
故郷の味を求めて入った小さな宿屋で、最初の弟子ができた。
その店へ集まる旅人の噂から、今度は北方へ続く、新たな手がかりが見つかった。
王城で過ごす一か月は、静かな休暇だけでは終わりそうになかった。
――第二十一話・終




