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第20話「雨宿りの縁」

挿絵(By みてみん)


朝食を終える頃には、王城の窓から差し込む光が、白い石壁を明るく照らしていた。


昨夜まで続いていた弔いと祝宴の気配は薄れ、廊下では普段どおりに使用人たちが行き交っている。


司の前には、空になった皿と、小さな革袋が置かれていた。


革袋の中には、国王から支度金として渡された一万ピエールが入っている。


《現在確認できる王都の平均物価から換算すると、長期滞在費として十分な額です》


「全部持ち歩く必要はないな」


《盗難および紛失時の損失を考慮し、必要額のみの携帯を推奨します》


司は革袋から十数枚の硬貨を取り出し、残りを机の引き出しへ入れた。


引き出しには簡単な錠が付いていたが、司にとっては、開けようと思えば指先だけで壊せる程度のものだった。


それでも、王城の客室で盗難を警戒する必要は低い。


「城下へ行くの?」


寝台の端へ腰を下ろしていたエルザが尋ねた。


プラチナブロンドの髪は、まだ戦闘時のように編み込まれていない。


細い櫛を持ったミレアが、その長い髪を後ろから丁寧に整えていた。


「ああ。しばらく王都にいることになったからな」


「最初に街を見ておきたい」


「案内しようか?」


「今日は一人で歩く」


「地図もある。危険な場所も少ないんだろう」


「危ない場所は、ほとんどないよ」


エルザは少し考え、付け加えた。


「ただ、観光客を相手に高く売る店はあるから、値段には気をつけてね」


「分かった」


「あと、知らない女の人に声をかけられても、全部ついていったら駄目だよ」


「それは危険なのか?」


「危険ではないけど、日が暮れるまで戻れなくなるかもしれないから」


エルザが楽しそうに笑う。


昨夜、司の寝台で三人の専任侍女が眠っているのを見ても、彼女は怒らなかった。


この国で暮らしてきたエルザにとって、誰かと身体を重ねることと、相手を大切に思うことは矛盾しないらしい。


司は、まだその感覚を完全には理解できていなかった。


「エルザ様も、本日はご予定がございましたね」


ミレアが髪を留めながら確認する。


「うん。私も少し出てくる」


「どこへ行くんだ?」


「帰ってきたら話すよ」


エルザはそれだけ答え、司へ振り返った。


何かを隠しているというより、司が自分で気づくことを楽しんでいる顔だった。


◇


エルザが部屋を出たあと、司はレプリケータを床へ置いた。


王城の外を歩くのに、走行スーツと装甲服では目立ちすぎる。


昨夜の祝宴で着た濃紺の上着も、日常の外出着としては上等すぎた。


「周辺の男性が着ている服を基準に、外見を設計しろ」


《現在までに取得した映像から、王都の平民男性用衣服を抽出》


《生成素材は強化炭素繊維を使用しますか?》


「使え」


「銃弾を至近距離から受けても貫通しない強度を保て」


《了解》


《外観、重量、柔軟性および接触時の質感を、現地の麻布と獣毛織物へ近似させます》


「見ただけでなく、触られても分からないようにしろ」


《実行します》


レプリケータの側面が、蛇腹状にゆっくりと広がった。


本体は通常時の一・四倍ほどまで伸び、内部から低い作動音が聞こえ始める。


数分後、生成口から、生成り色の上着、濃茶色のズボン、腰帯、短い外套が押し出された。


手に取った布は柔らかい。


重さも、街で見た衣服と大きく変わらなかった。


だが、内部の繊維は幾層にも編み込まれ、銃弾や刃物の力を広い面へ逃がす構造になっている。


《想定防護性能、拳銃弾の至近距離射撃に対して貫通なし》


《ただし衝撃そのものは着用者へ伝達されます》


「俺なら問題ない」


《一般人が着用した場合、骨折または内臓損傷の可能性があります》


「一般人に渡す予定はない」


司は走行スーツを脱ぎ、生成した衣服へ着替えた。


拳銃一丁と予備弾倉だけは腰帯の内側へ固定し、短い外套で完全に隠した。


鏡に映る姿は、武装した異世界の兵士には見えない。


黒い髪と黒い瞳だけは隠しようがなかったが、服装は城下町を歩く男たちと大きく変わらなかった。


続いて、レプリケータの本体を縮める。


蛇腹構造が内側へ収まり、通常時の七割ほどの大きさになった。


表面には、焦げ茶色の革と粗い布を模した外装が形成される。


背負えば、少し大きめの旅用リュックにしか見えない。


《偽装完了》


《降水対策を追加しますか?》


司は窓の外を見た。


空は青く、強い日差しが中庭へ落ちている。


「必要ない」


《了解》


それが、この日最初の判断ミスだった。


◇


王城から城下町へ下りる道は、朝から多くの人で賑わっていた。


荷車を引く土鬼族。


水路沿いへ籠を運ぶ猫人族。


色鮮やかな布を肩へ掛けたルミエール人。


観光客らしい人間の一団もいる。


司は急がず、通りの端を歩いた。


地下迷宮へ入る前に通ったときは、国王へ会うことと、王城地下の異変を調べることで頭が占められていた。


今日は違う。


屋台に並ぶ食材。


建物の構造。


人々の服装。


商品の受け渡しに使われる硬貨。


一つずつ観察する余裕がある。


《周辺の警戒反応、低》


《視線の主な理由は、対象の毛髪と瞳の色によるものと推定します》


「分かっている」


司と同じ黒い髪と黒い瞳を持つ人間は、この世界にはいない。


視線を向けられることは避けられなかった。


それでも、走行スーツと武器を身につけていた以前よりは、驚かれる回数が少ない。


午前中、司は大通りから二本外れた市場を歩いた。


買うことが目的ではない。


何が売られ、どれほどの価値を持つのかを知るためだった。


やがて太陽が頭上を越えた。


王城を出る前と変わらず、強い日差しが続いている。


《上空の水蒸気量が急速に増加》


《局地的降雨の可能性――》


大粒の水滴が、司の頬へ当たった。


一滴。


二滴。


次の瞬間、通り全体を叩くような雨が降り始めた。


「遅い」


《警告の発出前に降雨が開始されました》


「それを遅いと言っている」


通りを歩いていた人々は、驚く様子もなく軒下へ移動していく。


商品を並べていた商人は、慣れた手つきで布を被せた。


司だけが、何の準備もないまま雨の中に残された。


生成した服の繊維そのものは水分で劣化しない。


だが、現地の布に似せた表面は水を吸い、数秒で肩と背中が濡れ始めた。


《防水層の追加生成を提案します》


「今から生成している間に、雨がやむ」


司は一番近い建物の軒下へ入った。


木の看板が、風に揺れている。


宿を示す寝台の印と、湯気の立つ皿の絵。


その下に「やみつき亭」と書かれていた。

挿絵(By みてみん)


上着の内側に入れた地図を確認する必要はなかった。


国王が赤い印を付けた場所だった。


「偶然にしては、出来すぎているな」


《降雨を誘導した事実はありません》


「お前には聞いていない」


司は扉を開けた。


◇


「いらっしゃいませ!」


明るい声が、料理の香りに満ちた店内へ響いた。


声をかけたのは、盆を持った若い女性だった。


見た目は人間に近く、年齢は二十歳に届くかどうか。


忙しく動き回っているが、足取りに危なさはない。


「お一人ですか?」


「ああ。雨宿りも兼ねて、食事をしたい」


「どうぞ。奥の席が空いています」


店内は、昼食を取る客でほとんど埋まっていた。


人間だけではない。


猫人族や土鬼族、尖った耳を持つエール系種族も同じ長机へ座っている。


宿屋に併設された食堂というより、城下町の住民が日常的に使う店らしい。


司が案内された席へ座ると、盆を持った女性が濡れた上着へ目を向けた。


「今日は遅かったですね」


「雨のことか?」


「はい。いつもはもう少し早いんです」


「毎日降るのか?」


女性が不思議そうな顔をした。


「この時期だけではなく、一年中、だいたいお昼頃に降りますよ」


《地域気候情報を更新》


《短時間の対流性降雨が日常的に発生すると推定します》


「それは降ってから言う情報ではないのか?」


司は店内の壁へ掛けられた木札を見た。


料理の名前らしい文字が並んでいる。


「初めてなら、スパイシーライスがおすすめですよ」


「この店の名物です」


「それを頼む」


「はい!」


女性は注文を厨房へ伝え、別の客の席へ向かった。


入れ替わるように、四十歳前後の人間女性が司のテーブルへ来た。


左耳には、細い銀色の輪が一つ付いている。


右耳に、子どもを亡くした印はない。


「ずいぶん濡れたね。これを使いな」


乾いた布が差し出された。


「助かる」


「見ない顔だけど、旅の人かい?」


「最近、王都へ来た」


「そうかい。私はここの女将、ニナイだ」

挿絵(By みてみん)


名乗られる前から分かっていた。


アルディスが今も愛し、誰にも知られないよう月に一度か二度会いに来る女性。


目の前にいるニナイから、その秘密を感じ取れるものは何もない。


ただ、忙しい食堂を切り盛りする、気の強そうな女主人に見えた。


「俺はツカサだ」


「ツカサ。変わった名前だね」


「異国の生まれだからな」


ニナイはそれ以上、出身地を聞かなかった。


「料理は息子が作ってる。辛いのが苦手なら、今のうちに言いな」


「問題ない」


「なら、楽しみにしておきな」


ニナイは笑い、店の入口へ向かった。


開いた扉から、雨音が大きく聞こえる。


その向こうで、通りが白く霞んでいた。


しばらくして、最初の女性が湯気の立つ皿を運んできた。


淡い色の穀物の上へ、細かく刻まれた肉と野菜を煮込んだ濃い茶色のソースがかけられている。


香りを嗅いだだけで、複数の香辛料が使われていることが分かった。


司は木匙ですくい、口へ運んだ。


辛味。


挽肉の脂。


炒めた野菜の甘み。


舌に残る香辛料の苦味。


記憶にある味と、ほとんど変わらない。


「これって、キーマカレーそのものだな」


《成分分析結果を報告します》


《複数種の乾燥種子、根茎、樹皮――》


「もう分かった」


《説明は不要ですか?》


「俺の方が先に答えへ着いた」


《競争を行っていた記録はありません》


盆を持った女性が、司の反応を見て笑った。


「キーマカレー、という料理に似ているんですか?」


「ああ。俺の故郷にある料理だ」


「こんなに近い味があるとは思わなかった」


「スパイシーライスは、北の人間たちから伝わった料理なんです」


「この香りの粉も、ほとんど人間の国から運ばれてきます」


「この辺りでは作れないのか?」


「エール系の士族が治める土地では、同じ香辛料を扱っていないそうです」


「最近は辛い料理が人気なので、運んでくる商人も増えました」


女性は空いた皿を盆へ載せる。


「あ、私はアイリです。お昼の忙しい時間だけ、ここを手伝っています」


「普段は別の仕事を?」


「実家の手伝いです。うちは靴屋なんです」


厨房から、ニナイの声が飛んだ。


「アイリ、三番の卓へ水を持っていっておくれ!」


「はーい!」


アイリは軽く頭を下げ、足早に離れていった。


司が食事を半分ほど終えた頃、店内の客が少しずつ減り始めた。


雨も弱くなっている。


厨房の布を押し上げ、一人の青年が姿を見せた。


濃い茶色の髪。


右目も同じ濃い茶色。


左側の前髪だけが長く、目元を隠している。


青年は賄いの皿を持ち、司の隣にある小さな卓へ座った。


《毛髪、右目、左目を隠す前髪など、国王から提示されたロイン・ブルックの特徴と一致》


《左前髪の内側に、緑色の眼球を確認》


司は残ったスパイシーライスを食べながら、青年の様子を観察した。


過度に緊張している様子はない。


疲れてはいるが、厨房で働いたあとの自然な疲労だ。


腕や手には、料理人として付いた細かな火傷の跡がある。


それに混じり、拳を硬い物へ打ちつけてできた古い傷も見えた。


アルディスが話していた我流の鍛錬によるものだろう。


「おい」


《何でしょうか》


「潜入時の会話支援を使う」


《対象との接触目的を設定してください》


「警戒させず、土地の習慣を聞く」


《了解》


《質問を連続させず、先に自己開示を行ってください》


《声量は周辺会話より一二パーセント低く、視線は固定しないことを推奨します》


司は水を一口飲み、空になりかけた皿を見た。


「この料理を作ったのは、あんたか?」


青年が顔を上げる。


「はい。口に合いませんでしたか?」


「逆だ。故郷の料理に驚くほど似ていた」


「女将から聞きました。キーマ……何でしたっけ」


「キーマカレーだ」


「それです」


青年の警戒が、わずかに下がった。


《共通の料理を話題の中心に維持してください》


「俺は最近、遠い国から来た」


「この辺りの習慣をほとんど知らない」


「さっきも、昼に雨が降ることを初めて知った」


青年が窓の外を見て、少し笑った。


「それで、あんなに濡れていたんですね」


「誰も教えてくれなかった」


「王都に住んでいると、説明することだと思わないんです」


「俺には、そういうことが多い」


青年は賄いを一口食べた。


「僕はロインです」


「分からないことがあれば、知っている範囲で話しますよ」


「助かる。俺はツカサだ」


名乗りを交わしても、ロインの心拍に大きな変化はない。


司が王の使いだと疑っている様子もなかった。


「さっき働いていたアイリは、普段からここで働いているのか?」


「昼の忙しい時間だけです。アイリは普段は実家の靴屋を手伝っています」


「学校には通っていないのか?」


「一般学院は、もう卒業しています」


「ルミエール人も同じ年頃に学院を出るのか?」


「いいえ。十三歳くらいまでは、僕たち人間とほとんど同じだそうです」


司は匙を置いた。


「成長速度が、それほど違うようには見えない」


「そこから少しずつ、身体の成長も年の取り方も遅くなります」


ロインは、自分の長い前髪へ無意識に触れた。


「僕も半分はルミエール人ですが、身体は人間に近いみたいです」


「半分?」


「母が人間で、父がルミエール人だと聞いています」


嘘ではない。


ただし、父親が誰なのかは知らされていない。


「学院も種族で分かれているのか?」


「最初は同じです。六歳から十三歳まで、みんな一般学院へ通います」


「人間も、猫人族も、ルミエール人もです」


「費用は?」


「学院へ払うお金はありません。教材も普通のものなら国が出します」


「人間や亜人は、一般学院を出たあと、それぞれの仕事を覚えます」


「ルミエール人は十四歳から十六歳まで継続課程へ進んで、そのあと上級学院へ行く人が多いですね」


「上級学院では何を学ぶ?」


「何でもです。医術、政治、宝玉の扱い、建築、言葉、商い……」


ロインは少し考えた。


「勉強だけではなく、将来付き合っていく人を見つける場所でもあるそうです」


「上級学院も無料なのか?」


「はい。一般学院と同じです」


「友人や仕事仲間か?」


「それもありますし、恋人もです」


ロインの視線が、店内を動くアイリへ向いた。


口元が、わずかに緩む。


《対象の感情変化、好意と推定》


「アイリと付き合っているのか?」


ロインが匙を止めた。


「どうして分かったんです?」


「見れば分かる」


「そんなに顔へ出ていましたか」


「少しな」


ロインは前髪の下へ視線を隠しながら、照れたように笑った。


「最近、恋人になりました」


「昼だけ手伝いに来てくれるのも、母を助けるためだと言っていますけど……たぶん、僕に会うためでもあります」


「本人には確認したのか?」


「できませんよ。違うと言われたら困ります」


「そういうものか」


「ツカサさんの国では違うんですか?」


「違うところもあれば、同じところもある」


司は、故郷の家族制度をどこまで話すか考えた。


《対象は自己開示への返礼を期待しています》


「俺の国には、結婚という制度がある」


「男女が家族になることを公に登録し、多くの場合は同じ家で暮らす」


「一人の相手だけと関係を結ぶのが基本だ」


ロインが目を丸くした。


「必ず、一人だけなんですか?」


「制度上はな」


「ずっと同じ家で?」


「そういう家族が多い」


「それは……窮屈ではないんですか?」


司は返答に迷った。


「人による」


「こちらでは、子どもは母親と住むことが多いのか?」


「多いですね。でも、決まりではありません」


「父親は、子どもが大きくなるまでお金を出すのが普通です」


「一緒に住む人もいますが、少ないと思います」


「親に扶養する余裕がない場合は?」


「近い親族が助けます。それも無理なら国が引き受けます」


「学院も治療も、親にお金がないから受けられない、ということはありません」


「治療には、どれくらいの金がかかる?」


「薬や治療に使った材料の分は払います。でも、医師が診ただけで高いお金を取ることはありません」


「それも払えなければ、国の補助を受けられます」


「四十歳になる前のルミエール人に子どもが生まれた場合は?」


「本人には、まだ扶養する責任を負わせません」


「その人の親や、子どもを養える親族が育てます。頼れる人がいなければ、やはり国が引き受けます」


ロインは当然のことのように話した。


王城地下で人頭税を二度滞納すれば強制労働へ送られると聞いた。


罰則の厳しい国でありながら、子どもと医療に対する保護は手厚い。


地球の基準だけで、単純に進んでいるとも遅れているとも言えない社会だった。


「ツカサさんの故郷には、ほかにどんな食べ物があるんです?」


ロインが尋ねた。


会話支援が示す目的は、既に達成している。


それでも司は、話を切り上げなかった。


「このスパイシーライスに近い料理なら、カレーパンがある」


「カレーをパンにするんですか?」


「水分を少なくしたカレーをパン生地で包み、油で揚げる」


ロインの表情が変わった。


料理人の顔になっている。

挿絵(By みてみん)


「焼くのではなく、油で?」


「そうだ。外側には細かなパンを乾かした粉を付ける」


「噛むと表面が硬く砕けて、中から熱いカレーが出る」


「それは、絶対においしいですね」


ロインは自分の皿へ残っていたスパイシーライスを見た。


「水分を減らして、香りを少し強くすれば……」


「パン生地へ包む前に、肉の脂を調整した方がよさそうだ」


「作ってみるのか?」


「はい。一度、試してみます」


厨房からニナイの声が飛ぶ。


「ロイン! 休憩中まで料理の顔をするんじゃないよ!」


「母さん、今度、新しい料理を試していい?」


「材料を無駄にしないならね!」


ロインが司へ向き直る。


「できたら、食べに来てもらえますか?」


「俺の知っている味に近いか、確かめたい」


「約束ですね」


「ああ」


外を見ると、降り始めてから三十分ほどで、雨はほとんどやんでいた。


司はニナイに代金を払い、席を立った。


「また来る」


「今度は雨に降られる前においで」


ニナイが笑う。


ロインも厨房へ戻る前に、軽く手を上げた。


国王に頼まれ、生活を確かめるために訪れた店だった。


だが、店を出るとき、司の中にあったのは調査を終えた感覚ではない。


次に来る理由が、一つ増えたという感覚だった。


◇


雨上がりの市場には、濡れた石と香辛料の匂いが漂っていた。


司は水溜まりを避けながら、下町の通りを歩いた。


武具を扱う一角では、軒先に弓やボーガン、細身の剣が並んでいる。


ある店の奥には、司の手のひらより大きな黒緑色の板が置かれていた。


「真竜の鱗だよ」


店主が、司の視線に気づいて声をかける。


「自然に抜け落ちたものを、山の許可を取って拾ってきた」


「勝手に剥いだものではないだろうな」


「そんなことをしたら、店ごと焼かれちまう」


店主は笑った。


司は鱗へ手を触れず、電子眼で表面を走査する。


《既知の爬虫類鱗とは異なる多層構造》


《表面硬度は高い一方、内層に弾性を確認》


《加工素材として有用です》


値札を見る。


今日持ってきた硬貨では到底足りなかった。


一万ピエールの支度金をすべて持っていれば買えた可能性はある。


だが、価値も用途も十分に分からないものへ、いきなり大金を使うつもりはない。


隣の店では、短いボーガンを手に取った。


滑車はなく、単純な木製の弓を金属の部品で固定した構造だった。


引き金の仕組みは素朴だが、加工精度は悪くない。


サーベルも、刃の厚みと重心が実戦用に調整されている。


《複数の武具に、実用上十分な品質を確認》


「神代の技術が残っていても、日常の道具は人の手で作るということか」


《宝玉技術と手工業が、用途によって併存していると判断します》


今日は買わない。


少なくとも一か月は王都にいる。


価格と品質を比較する時間は十分にあった。


司が武具店を出ると、向かいの通りからアイリが歩いてきた。


食堂で着けていた前掛けは外し、小さな籠を腕へ下げている。


「ツカサさん」


アイリもすぐに司へ気づいた。


「武器を買うんですか?」


「今日は見るだけだ」


「王都に来たばかりなら、その方がいいですよ。観光客向けの値段を付ける店もありますから」


エルザと同じ注意だった。


「アイリは家へ戻るのか?」


「はい。うちは、すぐそこです」


アイリは司の足元を見た。


レプリケータで生成した靴は、旅用の簡素な革靴を模している。


「その靴、足に合っていますか?」


「歩くのに問題はない」


「でも、少し硬そうです」


「父の店を見ていきませんか?」


「靴屋だったな」


「見るだけでも大丈夫です。父は、買わない人へ無理に勧めませんから」


司は、アイリについて細い路地へ入った。


◇


靴屋は、表通りから少し奥まった場所にあった。


開いた戸口の両側に、革靴、長靴、作業用の厚い靴が並んでいる。


店の奥では、人間の男が低い椅子へ座り、木型へ革を合わせていた。


「父さん、食堂で会ったお客さんを連れてきたよ」


男は手を止め、司へ軽く頭を下げた。


「好きに見ていってくれ。足へ合わせたいものがあれば、声をかけてくれればいい」


それだけ言うと、再び作業へ戻った。


アイリの言ったとおり、売りつけようとする様子はない。


司は棚に並ぶ靴を一足ずつ確認した。


革の厚みが、場所によって細かく変えられている。


体重がかかる部分には丈夫な素材を使い、足首へ触れる場所は柔らかい。


縫い目も均一で、糸の張りにばらつきがない。


《製品精度、同市場で確認した革製品の平均を上回ります》


《長期歩行用として優良》


「腕がいいな」


司が言うと、奥の男が顔を上げた。


「靴を見ただけで分かるのか?」


「長く歩く仕事をしていた」


「悪い靴は、足だけでなく膝と腰も壊す」


男は小さくうなずいた。


「分かっている客なら、こちらも作りがいがある」


司の足に合いそうな靴を一足、棚から出した。


価格を聞く。


今日持っている額では足りなかった。


「今日は買えない。また来る」


「急がなくていい。そのときは足を測って、一から作ろう」


「そうする」


店先へ戻ると、アイリが笑っていた。


「父さん、気に入ったみたいです」


「あれでか?」


「興味のないお客さんには、足を測るなんて言いません」


司は、もう一度店内を見た。


ロインだけでなく、アイリの父とも意外な接点ができたらしい。


「ロインも、ツカサさんを気に入ったみたいでした」


「今日会ったばかりだ」


「だからです」


アイリが声を少し落とす。


「ロインは、初めてのお客さんとあんなに話しません」


「厨房へ戻ってからも、カレーパンの作り方をずっと考えていました」


「料理の話が合っただけだろう」


「それだけでも、十分ですよ」


アイリの表情は柔らかかった。


「ロインは、いい男か?」


司が尋ねると、彼女は迷わずうなずいた。


「頼れます。真面目ですし、誰かが困っていると放っておけません」


「少し無茶をするところはありますけど、大切な恋人です」


「少し、という顔ではないな」


「本当に少しです」


アイリは笑ったあと、何でもないことのように続けた。


「身体の相性は、まだあまりよくないですけど」


司は、一度言葉を止めた。


「それも、初対面の相手へ話すことなのか?」


「聞いたのはツカサさんですよ」


「頼れるかどうかを聞いただけだ」


「恋人なら、大事なことでしょう?」


アイリに恥じる様子はない。


この国では、性的な関係も、食事や性格と同じように相性の一部として語られるらしい。


「嫌いになる理由にはならないのか?」


「なりません。ロインは、たぶん経験が少ないだけです」


「私には、ほかにも恋人が二人いますから、その人たちと比べてしまっているのかもしれません」


「ロイン以外にも?」


「はい。二人とも純ルミエール人で、八十歳代です」


「年齢差は気にならないのか?」


「身体を重ねるのに、年の差はあまり関係ありません」


「二人は長く生きている分、すごく上手です」


「ロインは、その二人を知っている?」


「知っていますよ」


「ロインにも、ほかに好きな人ができれば、私へ話してほしいと思っています」


嫉妬がないわけではないのだろう。


だが、それを理由に相手を縛ることを、彼女たちは誠実だと考えない。


エルザが司と三人の侍女を受け入れたことも、特別に寛容だったからではなかった。


この社会で育った者として、自然に振る舞っていただけなのだ。


「アイリは、父親と暮らしているんだな」


「珍しいですか?」


「さっきロインから、子どもは母親と住むことが多いと聞いた」


「そうですね。私みたいに父親と暮らしている方が少ないと思います」


「父親は子どもの生活費を出しても、同じ家には住まないことが多いですから」


「母親は?」


「三番目のルミエールにいます。純ルミエール人で、医師をしています」


「なら、アイリも人間とルミエール人の混血か」


「はい。でも、身体の成長は父に近く、登録も人間です」


三番目のルミエール。


司とエルザが、製鉄拠点を出たあとに立ち寄った集落だった。


「離れていても、連絡は取るのか?」


「時々、手紙が来ます」


「この前も、すごいことがあったと書いてありました」


アイリは一度店の奥へ入り、折り畳んだ紙を持って戻ってきた。


何度も読み返したらしく、折り目が柔らかくなっている。


「精錬施設を新しく造っていた人たちが、ワイバーンの群れに襲われたそうです」


司の視線が、手紙へ向いた。


「ワイバーンは何頭いた?」


「七頭と書いてあります」


間違いない。


司がこの世界で、最初に銃を使って戦った場所だ。


「母は、けがをした人たちの治療を手伝ったそうです」


「そこへエルザ王女殿下と、見たことのない異邦人が現れて、全員を助けてくれたって」


「そうか」


司は、表情を変えないように答えた。


アイリは手紙を開き、続きを探す。


「それだけではないんです」


「その夜、みんなで宴をしたらしくて」


「母は、その異邦人の方と一緒に寝たそうです」


司の記憶に、断片的な映像が浮かんだ。


酒。


火の消えかけた宴席。


エルザの声。


そして、名前を聞く余裕もないまま、同じ場所で夜を過ごした二人の女性。


顔の記憶は、酔いと暗さで曖昧だった。


だが、場所と状況が一致しすぎている。


《三番目のルミエール滞在時の行動記録と一致》


「確認するな」


《生体反応を確認》


《顔面表皮温度が上昇しています》


「報告するな」


「母は、ずいぶん楽しかったみたいです」


アイリは何の疑いもなく笑っている。


「手紙に、わざわざ『すごかった』と何度も書いてありました」


「娘へ話す内容なのか、それは」


「母と娘ですから、普通ですよ」


「ツカサさん、顔が赤くなっていますけど、暑いですか?」

挿絵(By みてみん)


「雨上がりで湿度が高いだけだ」


《現在湿度は、顔面温度上昇の主因として――》


「黙っていろ」


司が自分だと名乗れば、アイリがどんな反応をするかは分からない。


少なくとも、靴を見に来ただけの今日、伝えることではなかった。


「また靴を見に来る」


司は話を切り替えた。


「父親にも、そう伝えておいてくれ」


「はい。ロインのカレーパンも、忘れないでくださいね」


「忘れない」


司は靴屋を離れた。


背中へ、アイリの明るい声が届く。


「次は、雨具も持ってきた方がいいですよ!」


司は振り返らず、片手だけを上げた。


◇


王城へ戻った頃には、空は再び晴れていた。


昼の豪雨が嘘のように、濡れた石畳から白い湯気が上がっている。


司は客室で濡れた外套を脱ぎ、レプリケータへ入れた。


《回収素材として再処理します》


「次からは、雨具も一つ入れておけ」


《本日の外出前に、降水対策の追加を提案しました》


「記録を強調する必要はない」


《事実関係を確認したのみです》


「それを強調していると言う」


夕食は、自室で取った。


硬いパン。


野菜と豆の薄いスープ。


香草を添えただけの焼き魚。


昨夜の祝宴と比べれば、驚くほど質素だった。


だが、司にはこちらの方が落ち着いた。


食事を片づけていたレイミーが、思い出したように口を開く。


「エルザ様から、しばらく王城を空けると伝言をお預かりしております」


「しばらく?」


「三日か四日ほどと伺いました」


「行き先は?」


「私たちは聞いておりません」


ニーナも首を横へ振る。


ジーナは、何か知っているような顔をしていた。


「ジーナは知っているのか?」


「知りませんよ」


「顔がそう言っていない」


「エルザ様が王都へ戻られたら、最初に会いに行く方がいると、侍女たちの間で聞いただけです」


「ボーガンの師か」


「たぶん」


宴でアルディスから聞いた、イーザスという男。


エルザが最初に恋をし、最初に身体を重ねた相手。


今も関係は続いている。


朝、エルザが行き先を答えず笑っていた理由を、司はようやく理解した。


不思議な感覚はある。


だが、裏切られたとは思わなかった。


エルザは最初から、誰かとの関係を隠して司を欺いていたわけではない。


「それで、今夜のご予定ですが」


レイミーが、空になった皿を重ねながら微笑む。


「上湯へ行きませんか?」


「三人で?」


「四人で、です」


ジーナが訂正した。


「昨夜はお部屋のお風呂でしたから、今日は王城のお風呂を案内します」


ニーナが司の着替えを用意し始める。


断る理由はなかった。


◇


上湯は、司が想像していた浴場よりはるかに広かった。


白い石柱が並ぶ室内に、温度の異なる浴槽が幾つも設けられている。


天井は高く、無数の宝玉が柔らかな光を放っていた。


王族。


上級官職。


その者たちに仕える専任侍女。


王家が認めた客人。


利用できる者は限られているが、浴場には数十人の男女がいた。


男女を分ける壁はない。


身体を隠そうとする者も少ない。


一角には、薄いシーツで四方を囲った簡易的な個室が、幾つも並んでいる。


照明の位置によっては、内側にいる者の影が外へ映っていた。


声や物音も、そのまま周囲へ漏れている。


《複数の個室内で、性交と推定される周期運動を確認》


「報告しなくていい」


《周辺状況の分析です》


「分析対象から外せ」


《警戒監視に必要な範囲を除外できません》


三人の侍女は、司とともに身体を洗い、奥にある広い浴槽へ入った。


昨夜と同じく、ニーナが右側、ジーナが左側へ座る。


レイミーは正面から司の肩へ湯をかけた。


「人が多いな」


「今の時間は、まだ少ない方です」


ニーナが答える。


「夜が深くなると、もう少し増えます」


「あの個室も使うのか?」


ジーナが、シーツで囲われた一角を見る。


「そのために来たんですよ」


「入浴だけではないとは思っていた」


「今日は理解が早いですね」


「昨夜、学習した」


四人は湯から上がり、空いている個室へ入った。


中には柔らかな防水布と、身体を休めるための低い寝台が置かれている。


扉も鍵もない。


薄いシーツ一枚が、外からの視線を遮っているだけだった。


レイミーが司へ近づく。


「今夜も、私たち三人を受け入れてくださいますか?」


「三人が望んでいるならな」


「もちろんです」


ジーナが最初に司の首へ腕を回した。


ニーナとレイミーも、左右から身体を寄せる。


周囲の声を隠すものはない。


それでも三人は、聞かれることを気にしていなかった。


司も、昨夜ほど戸惑わなかった。


最初はジーナだった。


彼女は薄い敷布の上へ司を押し倒し、自分から身体を重ねた。


昨夜と同じく声を抑えず、司の肩へ爪を立てる。


動きが速くなるにつれ、薄いシーツへ二人の影が大きく揺れた。


最後には司へ強く抱きつき、その身体の中ですべてを受け止めた。


次はニーナ。


彼女は眼鏡を外し、司の手へ自分の指を絡める。


普段の几帳面な表情は、深く抱かれるたびに崩れていった。


声を抑えようとしても、薄い布の外まで途切れた声が漏れる。


司が離れようとすると、ニーナは脚と腕を回し、もう少しだけと求めた。


司はその願いに応え、彼女の中で最後を迎えた。


レイミーは、二人が落ち着くまで水を飲ませてから、寝台へ横になった。


司を急かさない。


ゆっくりと受け入れ、互いの呼吸が重なる速度で身体を動かす。


司の頬へ触れ、何度も口づけを交わす。


やがて余裕を失うと、首へ両腕を回し、離れないよう強く抱きしめた。


司も彼女の背へ腕を回し、その身体の奥で頂点を迎えた。


三人との時間を終えたあと、四人は寝台と敷布の上へ身体を預けた。


ジーナが、司の腹部を指先でなぞる。


「昨夜より慣れましたね」


「同じことを二度経験すれば、対応はできる」


「そういう言い方をすると、訓練みたいです」


「本人は大真面目ですよ」


ニーナが眼鏡をかけ直しながら言う。


レイミーが水差しから四人分の水を注いだ。


そのとき、個室を仕切るシーツの外から声がした。


「レイミー、少しよろしい?」


レイミーがシーツを開く。


外には、二人のルミエール人侍女が立っていた。


どちらも王城の制服を着ていない。


入浴を終えたばかりで、薄い布を肩へ掛けているだけだった。


二人とも、王城で長く働いている純ルミエール人侍女だった。


「ツカサ様と、ご一緒してもよろしいでしょうか」


二人の視線は、レイミーではなく司へ向けられていた。


レイミーはニーナとジーナを見る。


ニーナは異論がないというようにうなずいた。


ジーナは場所を空けるため、敷布の端へ移動する。


「私は構いません」


レイミーが答えた。


「ツカサ様はいかがですか?」


司は二人へ尋ねた。


「誰かに言われて来たのか?」


「いいえ」


二人が首を横へ振る。


「私たちがお願いしたくて参りました」


恐怖やためらいは見られない。


脳内AIの分析を待つまでもなく、二人が自分の意思で立っていることは分かった。


「分かった」


「入ってくれ」


二人は嬉しそうに個室へ入り、シーツを閉じた。


最初の侍女は、少し緊張していた。


司がそっと優しく身体へ触れると、次第に力が抜け、自分から口づけを求めるようになった。


司は表情と呼吸を確かめながら抱き、彼女が何度も身体を震わせるまで動きを止めなかった。


最後の瞬間、司は身体を離し、彼女の外へ放った。


侍女は満足そうに笑った。


だが、ほんの少しだけ、残念そうな色が瞳へ残った。


二人目は、最初から積極的だった。


司の肩を押して寝台へ座らせ、自分から跨がる。


周囲にいる三人の専任侍女へ見られることも、外へ声が漏れることも気にしなかった。


司も腰を支え、彼女の動きに合わせる。


やがて侍女が力を失うと、司が向きを変え、最後まで抱いた。


この侍女からも、どこで迎えてほしいとは言われていない。


司は同じように身体を離し、外へ放った。


彼女は荒い呼吸を整えながら、司へ微笑んだ。


「ありがとうございました」


声は満足している。


それでも、視線が一瞬だけ自分の腹部へ向いたことを、司は見逃さなかった。


二人は専任侍女たちへも礼を言い、個室を出ていった。


「何か間違えたか?」


司が尋ねると、ジーナが笑いをこらえるように口元を押さえた。


「間違い、というほどではありません」


レイミーが答える。


「お部屋へ戻ってから、お話しいたします」


◇


客室へ戻った四人は、水を飲んだあと、そのまま寝台へ上がった。


三人とも薄い室内着を持ってきていたが、まだ身につけていない。


ジーナが司の左側へ寝転がり、ニーナが右側へ座る。


レイミーは司の脚の間へ入り、ゆっくりと身体を重ねた。


上湯から続く熱が、まだ残っている。


「先ほどの話だ」


司はレイミーの腰を支えながら尋ねた。


「二人は、最後に不満があったのか?」


「不満ではございません」


レイミーは動きを止めずに答えた。


「お二人とも、十分に満足しておられました」


「ただ、少しだけ残念だったと思います」


「なぜだ?」


ニーナが、司の右手へ指を絡める。


「こちらでは、女性の方から男性へお願いした場合、その女性は中で迎えてほしいと望んでいる、と考えるのが一般的です」


「言葉で確認しなくてもか?」


「はい。ただし、体調や妊娠の事情がある場合は、女性から別の希望を伝えます」


ジーナが司の胸元へ口づける。


「さっきの二人は、自分からツカサ様へお願いしたでしょう?」


「だから、最後まで中で受け止めるつもりだったんです」


「俺は、何も言われていないから避けた」


「地球では、その方が相手への配慮になる場合が多い」


「ツカサ様からお誘いになったのでしたら、その判断で正しいです」


レイミーが答える。


「男性から誘った場合、女性が望むと言わない限り、外で迎えるのが礼儀です」


「誘った側によって意味が変わるのか」


「そうです」


ニーナがうなずく。


「もちろん、知らなかった方を軽蔑するようなことではありません」


「次から気をつけてくだされば、十分でございます」


「こちらの作法を理解している方が、女性からは紳士的に見える、という程度です」


司は、先ほどの二人の表情を思い出した。


満足していながら、わずかに残念そうだった理由が、ようやく分かった。


「相手が人間や亜人の場合も同じか?」


「基本は同じですが、年齢や身体の状態が優先されます」


レイミーが説明する。


「妊娠に危険がある年齢の女性へ、無理に中で迎えることは、紳士のすることではありません」


「ルミエール人は、人間と年の取り方が違いますから、同じ年齢の数字だけでは判断できません」


「覚えることが多いな」


「一か月もいらっしゃるのですから、ゆっくり覚えてください」


ジーナが楽しそうに言った。


「私たちが、何度でも教えます」


「何度でも、か」


「はい」


ニーナまで、真面目な顔でうなずいた。


《現地の性交儀礼に関する情報を更新》


《次回以降、誘いの主体と対象の生体条件から、推奨行動を提示できます》


「今後は、事前に出せ」


《本日は判断基準となる情報が不足していました》


「雨の件も含めて、今日は後から説明することが多いな」


《未知情報を事前に報告することは不可能です》


「分かっている」


レイミーの動きが少しずつ速くなる。


ニーナとジーナも、左右から司へ身体を寄せた。


説明は終わったらしい。


「ツカサ様」


レイミーが、司の首へ腕を回す。


「今度は、間違えませんね?」


「最初から、三人には間違えていない」


「では、お願いいたします」


司はレイミーの身体を抱き寄せ、その願いに応えた。


◇


この日、司が城下町で買ったものは、昼食だけだった。


真竜の鱗も、ボーガンも、サーベルも、靴も買っていない。


それでも、得たものは多かった。


毎日、正午頃に降る雨。


人間の国から運ばれる香辛料。


種族によって異なる、成長と教育の仕組み。


親が同じ家へ住まなくても、子どもを支える家族の形。


そして、地球とは異なる男女の作法。


机の上には、アルディスから渡された地図が置かれている。


赤い印の付いた宿屋は、もう国王の秘密を確認するだけの場所ではなかった。


そこには、カレーパンを作ろうとしている青年がいる。


司の故郷の味を、初めて知ろうとしている料理人がいる。


さらに、その近くの靴屋には、司が名も知らないまま夜を共にした女性の娘がいた。


この世界で生まれた縁は、司が考えているより複雑に、少しずつつながり始めている。


王城で過ごす一か月は、長いと思っていた。


だが、寝台の左右から身体を寄せる三人を見ながら、司は別の意味で短くなるかもしれないと考えた。


――第二十話・終


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