第23話「木剣の決闘と赤髪の好奇心」
《睡眠時間、六時間三十二分》
《身体機能に異常なし。通常活動へ移行可能です》
司が目を開けると、窓の外はすでに明るくなっていた。
隣では、エルザがまだ眠っている。
長いプラチナブロンドの髪が枕と寝台へ広がり、昨夜の名残を隠すように肩へ掛かっていた。
ニーナ、レイミー、ジーナの三人は、司が目を覚ますより先に仕事へ戻ったらしい。
水差しと新しい布が用意され、乱れていたはずの室内も、いつの間にか整えられている。
司が身体を起こしたところで、扉が三度叩かれた。
「ツカサ様。ミレアでございます」
「入ってくれ」
扉が開き、濃緑色の使用人服を着たミレアが入ってくる。
淡い茶色の髪は後ろでまとめられ、左耳に並ぶ三つの小さな銀色のイヤリングが、朝の光を受けてわずかに輝いていた。
ミレアは寝台の様子を見ても表情を変えず、窓際まで歩いてカーテンを開いた。
光が差し込み、エルザが眩しそうに顔を背ける。
「エルザ様。お起きください」
「もう少しだけ……」
「ラルス殿下とセレナ様がお待ちです」
「あとで行く……」
「先ほども、そうお伝えしました」
エルザが寝具の中から片目だけを出した。
「先ほどって、いつ?」
「お二人がお見えになったのは、少し前でございます」
「それなら、まだ待てるよ」
「ラルス殿下は、これで三度目のお越しです」
エルザの両目が開いた。
「三度目?」
「はい」
ミレアは穏やかに笑った。
「四度目になる前に、お支度をお願いいたします」
エルザは諦めたように身体を起こした。
「帰ってきた次の日くらい、ゆっくりさせてくれてもいいのに」
「十日も王城を空けておられましたので、皆様、お話があるのでしょう」
「ラルス兄様は、きっと説教だよ」
「その理由については、私から申し上げることはございません」
「ミレアも、ラルス兄様の味方なんだ」
「私はエルザ様の味方でございます」
ミレアはそう答えながら、すでにエルザの着替えと髪を整える道具を用意していた。
長年世話をしてきただけあって、エルザが次に何を求めるのか、言葉にされる前から理解している。
《ミレアのエルザに対する行動予測精度は、九十三パーセント以上と推定されます》
司は脳内で答えた。
(俺より付き合いが長いからな)
◇
支度を終えた司とエルザが小応接室へ入ると、ラルスとセレナが長椅子へ座って待っていた。
ラルスは腰まで届く銀髪を後ろで束ね、王都守備隊の深緑色の外套を身に着けている。
その隣では、鮮やかな赤い髪のセレナが、古びた記録箱を大切そうに抱えていた。
卓の上には、質問を書き連ねた紙が何枚も置かれている。
「遅い」
ラルスがエルザへ言った。
「昨日戻ったばかりなんだから、少しくらいいいでしょ?」
「三日か四日の予定を十日へ延ばした者の言葉とは思えないな」
「戻ってきたから問題ないよ」
「結果だけで済ませるなと、以前にも言ったはずだ」
「ラルス兄様。その話はあとにしない?」
セレナが待ちきれない様子で割り込んだ。
「今日は私が先に約束していたの」
「何の約束だ?」
エルザが尋ねる。
セレナは司へ顔を向けた。
「ツカサ。前に言ったでしょ。あとで装備を詳しく見せてくれるって」
「覚えていたのか」
「忘れるわけないよ」
セレナは卓上の紙を手に取った。
「聞きたいことも、調べたいことも、こんなにあるの」
「観察だけだ」
ラルスが先に釘を刺す。
「分解も、無断で触れることも認めない」
「まだ分解するなんて言ってません」
「お前の『まだ』が心配なのだ」
セレナが不満そうに頬を膨らませる。
《ラルスの警戒は妥当です》
(お前まで乗るな)
セレナは質問を書いた紙へ目を落とした。
「最初に、地下で使ったマイクロ・アトミックシャワーについて――」
「セレナ」
ラルスが低い声で名前を呼ぶ。
「構造を聞きたいわけではありません。名前の意味と、どうして光ったのかを――」
「その質問は、お前の閲覧範囲を越えている」
「名前は正式な戦闘記録に書かれていました」
「記録院の責任者には、あとで私から確認しておく」
「どうして?」
「見習いに、どこまで見せたのかを確認するためだ」
司は質問用紙の二枚目以降へ目を向けた。
小さな文字で、余白がなくなるほど質問が並んでいる。
「あれは城内で見せられるようなものではない。詳しく知らない方がいい」
「試すつもりはないよ」
「試せるものでもない」
「では、レプリケータで作れる物だけでも――」
「その前に、私から一つ頼みがある」
ラルスが立ち上がった。
「ツカサ殿。一度、手合わせを願いたい」
「俺と?」
「地下では、あなたの戦い方を落ち着いて見る余裕がなかった」
「未知の武器を扱う技量だけでなく、本人がどの程度戦えるのかも確かめておきたい」
「模擬戦か」
「木剣を使う。受けてもらえるだろうか」
セレナの緑色の瞳が輝く。
「私も見たい」
「お前のために申し込んだのではない」
「でも、見てもいいのでしょう?」
ラルスは小さく息を吐いた。
「邪魔をしないならな」
「エルザも見るのか?」
司が尋ねると、エルザは当然のようにうなずいた。
「ラルス兄様の本気なんて、久しぶりだもの」
「本気を出すとは言っていない」
「その顔は、出す顔だよ」
◇
王城の東側には、守備隊が使用する広い訓練場がある。
地面は固く踏みならされ、端には弓の標的や、木剣を立てる武器掛けが並んでいた。
訓練中だった兵士たちは、ラルスが木剣を手にしたのを見ると、場所を空けて周囲へ下がった。
司は武器掛けから一本を選ぶ。
現地の剣を模した木剣は、日本刀よりも直線的な形をしていたが、長さと重心は大きく外れていない。
ラルスも同じ長さの木剣を取り、深緑色の外套を兵士へ預けた。
長い銀髪を高い位置で結び直し、訓練場の中央へ進む。
その立ち姿から、先ほどまでの兄としての柔らかさが消えていた。
足の置き方、腰の位置、木剣の角度。
どこにも無駄がない。
《対象の剣術技能を再評価》
《推定技能水準――上位》
《軍務経験を加味した一騎打ちにおける危険度は、高いと判断します》
(遊びのつもりで受ける相手ではないな)
司は人工筋肉の出力上限を、ラルスの推定身体能力に合わせて制限した。
身体能力だけで押し切れば、手合わせの意味がない。
「急所への打撃は寸前で止める。どちらかが有効な一撃を取った時点で終了だ」
ラルスが告げる。
「分かった」
「始め!」
兵士の合図が響いた。
ラルスは、すぐには動かなかった。
木剣を身体の正面へ置き、司の目と肩、足元を静かに観察している。
司も構えたまま、相手の重心を解析する。
先に動いたのはラルスだった。
一歩で間合いを詰め、木剣の切っ先を司の手首へ走らせる。
司が受けようとすると、ラルスの木剣が途中で軌道を変えた。
肩へ向かう。
司は半歩下がってかわした。
だが、ラルスは止まらない。
横から胴を狙い、受けた木剣を滑らせるようにして喉元へ切っ先を返す。
乾いた音が二度、三度と続いた。
司は喉へ迫った切っ先を外へ流し、距離を取る。
《初期評価を修正》
《対象は剣士としても高い完成度を有しています》
ラルスは王族という身分だけで、副将の地位に就いているのではない。
兵士としても、剣士としても一流だった。
「ラルス兄様、本気だ」
訓練場の端で、エルザが楽しそうに言った。
「模擬戦ですよね?」
セレナが尋ねる。
「今のところはね」
エルザの隣に立つミレアは、わずかに眉を寄せて二人を見ていた。
ラルスが再び踏み込む。
今度は司も前へ出た。
二本の木剣が正面からぶつかる。
ラルスは力で押し込まず、木剣を引く動きに合わせて司の手元を崩そうとする。
司は身体をひねって逃れたが、その動きを読んでいたラルスの切っ先が胸元へ迫った。
布地へ触れる寸前で、司が木剣を差し込む。
《現行の軍隊式近接戦闘は、木剣による一騎打ちへの適合率が不足しています》
《一騎打ち用戦技ライブラリを検索》
《推奨――柳生新陰流》
(ロードしろ)
《了解。運動制御系へ展開します》
司の視界へ、足運び、間合い、剣筋への対処が次々に重ねられていく。
それは誰かの記憶ではない。
大東亜連合国が保存してきた剣術資料を、対人戦闘用に再構成した動作ライブラリだった。
人工神経が動きを受け取り、司の姿勢が変わる。
肩から余分な力が抜け、木剣の切っ先がわずかに下がった。
ラルスが追撃を止める。
「今、構えを変えたな」
「ああ。ここからは、俺の国の剣術で相手をする」
「面白い」
ラルスの緑色の瞳が鋭くなる。
次の瞬間、二人が同時に動いた。
司はラルスの攻撃を正面から受け止めない。
木剣の側面を使い、わずかに剣筋を外しながら懐へ入る。
ラルスは即座に手首を返し、司の首筋へ切っ先を走らせた。
司が頭を下げる。
銀髪と黒髪が、すれ違うほど近づいた。
司の木剣がラルスの脇へ伸びる。
ラルスは肘を締めて受け、身体ごと司の側面へ回り込む。
木剣が打ち合わされるたび、訓練場へ鋭い音が響いた。
最初は近くにいた兵士だけが見ていた。
やがて、音を聞きつけた非番の兵士が集まり、城内の使用人や侍女たちまで廊下や窓から訓練場をのぞき始める。
観客は、いつの間にか訓練場を囲むほどに増えていた。
ラルスが司の足元を狙う。
司は飛び退くと見せかけ、逆に半歩踏み込んだ。
木剣同士が強くぶつかり、大きくしなる。
ラルスが押し返し、司が受け流す。
互いの切っ先が肩、胸、喉元へ迫りながら、どちらも有効な一撃にはならない。
「あれ、本当に木剣よね?」
セレナがつぶやく。
「お二人とも、模擬戦という言葉を覚えておられればよいのですが」
ミレアが心配そうに答える。
「ラルス兄様、そこ!」
エルザが声を上げた。
「エルザ様は、どちらを応援なさっているのですか?」
「両方」
「それは応援になるのでしょうか」
ラルスの呼吸が少しずつ深くなっていく。
それでも剣筋は乱れない。
司は息を切らしていないが、身体能力の上限を合わせたことで、技術だけならほとんど互角だった。
ラルスが木剣を振り上げる。
その肩の動きに、わずかな誘いがある。
司が胴へ入れば、切り返して肩を狙うつもりだ。
司はあえて誘いへ乗った。
ラルスの木剣が振り下ろされる。
司は紙一重で身体をずらし、自分の木剣を相手の剣の側面へ添えた。
力で弾かず、軌道だけを外へ流す。
ラルスが即座に手首を返す。
だが、そのときには司が懐へ入っていた。
動きが止まる。
司の木剣は、ラルスの喉元で静止している。
ラルスの木剣も司の左肩へ迫っていたが、わずかに届いていなかった。
訓練場が静まり返る。
やがてラルスが木剣を下ろした。
「私の負けだ」
「ほんの少しの差だ」
「あなたは、身体の力を私に合わせていたな」
「力の差で勝っても、手合わせにはならない」
「それでも勝ったか」
ラルスは悔しがるのではなく、楽しそうに笑った。
その瞬間、周囲の兵士たちから大きな歓声が上がった。
司に対する兵士たちの見方も、未知の兵器を持つ異邦人から、ラルスと正面から打ち合える戦士へ変わっていた。
セレナが真っ先に駆け寄ってくる。
「今の剣術、何というの?」
「柳生新陰流だ」
「ほかにもあるの?」
「ああ」
「じゃあ、次は別の流派を見せて」
「勝手に次を決めるな」
ラルスが額へ手を当てる。
「私は構わないぞ」
「ラルス兄様まで……」
今度はエルザが驚いた。
ミレアは二人から木剣を受け取り、表面を確認する。
激しい打ち合いによって、何本もの亀裂が入っていた。
「次のお話をなさる前に、まずはこちらを武器庫へお返しする方法をお考えください」
「弁償しよう」
「ツカサ殿。私から申し込んだ手合わせだ。守備隊の経費で処理する」
「俺にも原因がある」
「ならば、半分ずつだな」
「レプリケータなら、同じ物を――」
ラルスが司を見る。
「今の話の直後に、城内で武器を生成するつもりか?」
「許可を取ってからにする」
二人は顔を見合わせ、軍人同士らしい笑みを交わした。
◇
模擬戦のあと、一行は王立記録院の資料を扱うための小部屋へ移った。
石造りの室内には大きな卓が置かれ、窓には記録を日光から守るための薄い布が掛けられている。
ミレアが冷たい飲み物を用意し、ラルスの前へ布を置いた。
ラルスは額の汗を拭いながら、セレナが抱えてきた記録箱を見る。
「それで、これがモンドローグに関する記録なのか?」
「はい。北へ向かう商人が残した古い交易記録です」
セレナは記録箱を卓へ置き、留め金へ手を掛けた。
「モンドローグ地方の喋る石について、街で伝わっている話より詳しく書かれていました」
箱の中には、変色した記録紙が何枚も収められていた。
セレナはあらかじめ書き写しておいた部分を読み上げる。
灰色の石が、意味の分からない音を繰り返したこと。
声が響いたあと、壁の奥で青い光が順番に点灯したこと。
その数日後、ダンジョン内の魔物が急激に増えたこと。
当時の記録官も、その声を神代語ではないと判断していたこと。
「これ、ツカサが探している喋る石のことでしょ?」
「おそらくな」
「なら、もっと詳しく調べた方がいいと思って持ってきたの」
ラルスが付け加える。
「持ち出しの手続きは済ませている。私が監督することを条件に、記録院の責任者から許可を得た」
「ラルス兄様がついてきたのは、私が信用されていないからではありません」
「お前一人なら、許可が下りなかったからだ」
「それは同じ意味では?」
セレナは記録箱を司の方へ寄せようとした。
その瞬間、金属製の留め金が小さな音を立てて折れた。
蓋が傾き、中の記録紙が滑り落ちる。
ミレアが素早く両手を伸ばした。
あらかじめ卓上へ広げていた柔らかな布ごと、記録紙を受け止める。
一枚も床へ落ちなかった。
セレナの顔から血の気が引く。
「ご、ごめんなさい……」
「セレナ様。古い記録を動かすときは、先に留め金をご確認ください」
「はい……」
「記録に謝る前に、次からお気をつけください」
ミレアは強く叱らず、受け止めた記録紙を一枚ずつ卓へ戻した。
セレナも素直にうなずく。
司は折れた留め金を拾い、断面を確認した。
「腐食している。これなら同じ形の物を作れる」
「レプリケータで?」
セレナの表情が、すぐに明るくなる。
司はリュックサックに偽装したレプリケータを石台へ置いた。
本体の蛇腹構造が動き、リュックサックの半分ほどの大きさへ縮んでいく。
折れた留め金を読み取らせ、現地の金属に近い素材で生成を開始する。
低い作動音とともに、本体の温度が上昇した。
セレナが身を乗り出す。
「中では、何が起きているの?」
「必要な物質を分離して、指定した形に組み直している」
「開けて見られる?」
「稼働中に開ければ止まる」
「止まるだけ?」
「故障する可能性もある」
セレナが手を伸ばしかけたところで、ミレアが肩をつかんだ。
「生成中は熱を持つと、先ほどツカサ様が仰っていました」
「あ……そうだった」
「聞いたことは覚えておきましょう」
間もなく生成が終わり、元の部品とほぼ同じ形をした留め金が排出された。
司が冷めたことを確認してから、ミレアへ渡す。
ミレアは壊れた部品と見比べ、記録箱へ取り付けた。
「これでしたら、問題なく使用できます」
「記録紙も同じように複製できる?」
セレナが尋ねた。
「形と材質を読み取れば可能だ」
「だったら、傷みやすい記録を全部複製して――」
「待て」
ラルスが遮った。
「ツカサ殿。その装置は、王印や通貨も複製できるのか?」
「構造と材料が分かれば、形だけなら可能だ」
ラルスの表情が引き締まる。
「それは見過ごせない」
「俺も、この国の通貨や王印を勝手に作るつもりはない」
「あなたを疑っているのではない」
ラルスは、卓上の新しい留め金を指した。
「だが、できることと、してよいことを分ける規則は必要だ」
「王印、通貨、王族用と国民用のブレスレット、城内の鍵」
「それらを生成する場合は、必ず事前の許可を取ってもらいたい」
「分かった」
「記録院の原本を複製するときも同じだ。複製が原本として扱われれば、記録そのものの信用が失われる」
「生成履歴はすべて残っている。軍事機密に触れない範囲なら、必要に応じて確認させる」
ラルスは少し考えてからうなずいた。
「それで十分だ。正式な規則は、私の方でまとめておく」
セレナは残念そうに記録紙を見た。
「全部複製できると思ったのに」
「複製しなくても調べる方法はある」
司は一枚目の記録紙を手に取らず、卓上へ置いたまま目を向けた。
視覚センサーを通常光から複数の波長へ切り替え、表面を走査する。
色あせた文字の下に、肉眼では判別できない濃淡が浮かび上がった。
《消去された文字列を検出》
《表面の損傷および残留顔料から復元を実行します》
司の視界へ、削られた一文が再構成されていく。
「何かある」
「どこ?」
セレナが司の視線を追う。
「ここには何も書かれていないよ」
「一度書かれたあと、消されている」
「読めるの?」
「少し待て」
《復元率、八十七パーセント》
《文字列を現地語へ置換します》
司は復元された内容を読み上げた。
「石の声が響くたび、地下の扉が一つずつ開いているように思われる」
部屋の空気が変わった。
ラルスが記録紙を見つめる。
「魔物が増える前に、扉が開いているのか?」
「その可能性がある」
「では、喋る石が魔物を増やしているのではなく、封鎖を解除している?」
セレナが尋ねる。
「まだ断定はできない」
司は記録のほかの部分も走査した。
「警報を発しているだけかもしれない。施設の異常を知らせている可能性もある」
「あるいは、決められた手順に従って、内部の何かを順番に解放している」
《記録内容は、自動制御施設の状態通知と整合します》
《現物の音声および内部構造を確認する必要があります》
司はAIの見解を、三人へ伝えた。
「喋る石は自然物ではない可能性が高くなった」
「やっぱり、私も行く」
セレナが即座に言った。
「認めない」
ラルスも即答する。
「まだ何も説明していません」
「説明を聞く前に結論を出せる」
「私なら古い記録を読めます」
「見習いのお前を、魔物が増殖している場所へ連れていけるか」
「でも、現地で記録が見つかったら――」
「セレナ様」
ミレアが静かに呼びかける。
「まずは王城にある北方の記録を、すべて整理なさってはいかがですか?」
セレナがミレアを見る。
「王城に残る記録を調べずに現地へ向かわれては、必要な知識を持ち出すこともできません」
「それに、セレナ様にしか見つけられない記録が、まだあるかもしれません」
司も同意した。
「現地へ行く前に情報が必要だ。同行するかどうかは別として、記録の整理は頼みたい」
セレナはしばらく考え、やがてうなずいた。
「分かった。モンドローグとスローデンに関係する記録を、全部探す」
「全部を一度に持ち出すな」
ラルスが念を押す。
「分かっています」
「原本へ勝手に印を付けることも禁止だ」
「しません」
「夜通し記録院へ残ることも認めない」
「それは調査と関係ないでしょう?」
「お前は放っておくと、翌朝まで帰らない」
「必要があれば帰りません」
「だから禁止している」
エルザが笑い、ミレアも小さく微笑んだ。
◇
夕食を終えたあと、司とエルザが自室へ戻ると、廊下の向こうから車輪の音が聞こえてきた。
一人の使用人が、小さな台車を押してくる。
その横を、セレナが満足そうな顔で歩いていた。
台車には、厚い記録帳が六冊積まれている。
後ろからラルスとミレアもついてきた。
「一冊ずつ調べるのではなかったのか?」
ラルスが額へ手を当てる。
「モンドローグに関する記録としては、一件です」
「六冊に分かれているだろう」
「付属資料です」
ミレアが台車の後ろから尋ねる。
「もう一台、用意いたしましょうか?」
「必要ない」
ラルスの返事だけが、やけに早かった。
司の部屋に運び込むことを許されたのは、そのうち二冊だけだった。
残りは翌日以降に調べることとなり、ラルスは守備隊の仕事へ戻っていく。
ミレアも記録帳の扱い方をもう一度セレナへ伝え、エルザの夜着を用意してから部屋を出た。
司、エルザ、セレナの三人が室内に残る。
最初の一冊を開き、セレナが古い表現を現在の言葉へ直しながら読み進める。
司は文字を走査し、消された箇所や別の筆記者が書き加えた部分をAIに分類させた。
調査は順調に進んだ。
だが、時間がたつにつれ、セレナの視線が記録帳から外れることが増えていく。
昼間に木剣を握っていた司の手。
現地の服に隠れた肩と胸。
セレナは何度もそこを見てから、記録へ目を戻している。
最初に気づいたのはエルザだった。
「セレナ、まだ何か調べたいの?」
「うん……少し」
「記録のこと?」
セレナは返事をせず、司を見た。
普段の彼女は、古い記録や未知の技術には迷わず近づく。
その一方で、男女の機微には疎く、自分から誰かを求めることもほとんどなかった。
そんなセレナが、珍しく言葉を選んでいる。
「ツカサ」
「何だ?」
「今夜、あなたの部屋にいてもいい?」
「記録の続きか?」
「違う」
セレナは一度エルザを見てから、はっきりと言った。
「今夜は、ツカサと一緒に寝てみたい」
エルザも少し驚いた顔をする。
「珍しいね。セレナが自分からそんなことを言うなんて」
「今日のツカサを見ていたら、もっと近くで知りたくなったの」
《セレナが肉体関係を希望している可能性、九十七パーセント》
(今回は、お前に言われなくても分かる)
エルザは、妹の表情をしばらく見つめた。
冗談でも、単なる調査の延長でもないと分かると、柔らかく笑う。
「じゃあ、私も一緒にしようか」
「姉様も?」
「三人の方が楽しいでしょ?」
「エルザも一緒で構わないのか?」
司が尋ねる。
セレナは少し考えたあと、うなずいた。
「うん。その方が、私も緊張しないと思う」
「お前がそうしたいなら、俺は断る理由はない」
エルザは呼び鈴を鳴らし、部屋の外で控えていたニーナへ、今夜は三人だけで過ごすと伝えた。
ニーナは事情を察したように微笑み、新しい水と布だけを用意して退出した。
記録帳が閉じられ、卓の端へ大切に移される。
◇
寝室へ移ってからも、最初のセレナは好奇心を抑えられなかった。
司の腕へ触れ、人工筋肉の感触を確かめるように指を動かす。
「昼間、力を抑えていたんだよね?」
「ああ」
「どれくらい?」
「今、その話をするのか?」
「気になったから」
エルザが後ろからセレナを抱き寄せる。
「セレナ。今は質問するより、感じた方が分かりやすいよ」
「姉様は、いつもそうしているの?」
「だいたいね」
エルザに促され、セレナは司へ顔を近づけた。
最初の口づけは短い。
一度離れたセレナは、自分の中に起きた変化を確かめるように司を見つめ、今度は自分からもう一度唇を重ねた。
エルザが楽しそうに二人を見守る。
やがて、三人の間に残っていた衣服はなくなった。
エルザはセレナの様子を見ながら、司との間を自然に取り持った。
緊張して動きを止めれば耳元で優しく声を掛け、戸惑えば急がなくていいと教える。
司もセレナの反応に合わせ、無理に先へ進めようとはしなかった。
初めは質問ばかりしていたセレナも、次第に言葉を失っていく。
司と身体を重ねたときには息を詰めたが、すぐにその背中へ両腕を回した。
エルザが隣から手を伸ばし、赤い髪を優しく撫でる。
セレナの声が少しずつ大きくなり、昼間の記録も、喋る石のことも、その間だけは頭から消えていった。
やがて三人は一つの寝台の上で、何度も互いの体温を確かめた。
エルザも司を求め、セレナも遠慮をなくしていく。
姉妹に挟まれた司も、二人の求めへ応え続けた。
長い時間が過ぎ、セレナは満足そうに司の胸へ身体を預けた。
反対側では、エルザが司の腕を枕にして横になっている。
「姉様がツカサを気に入った理由、少し分かった気がする」
「少しだけ?」
「まだ一晩目だもの。全部は分からないよ」
「調べ続けるつもり?」
「うん」
セレナは迷わず答えた。
エルザが声を立てて笑う。
「やっぱり、セレナはセレナだね」
「姉様は、全部分かっているの?」
「私も、まだ調べている途中」
「それなら、一緒だね」
二人は司の胸を挟んで顔を見合わせ、楽しそうに笑った。
昼間はラルスと木剣を交え、セレナと古代の記録を調べ、夜にはそのセレナと新しい関係を結んだ。
王城の中だけで過ごした一日だったが、静かな日は一度もない。
モンドローグ地方へ向かう準備は、少しずつ進んでいる。
喋る石は、ただ意味のない言葉を繰り返しているのではない。
今も地下のどこかで、誰かに異常を知らせ続けているのかもしれない。
だが、その夜だけは、司も北方の謎について考えることをやめた。
赤い髪とプラチナブロンドに挟まれ、二人分の体温を感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
――第二十三話・終




