第2話 生存圏
三つの月が、見知らぬ森を青白く照らしていた。
斎藤司は血に濡れたサバイバルナイフを握ったまま、しばらく空を見上げていた。
地球ではない。
その事実を認めた瞬間、胸の奥に奇妙な空白が生まれた。
沖縄基地も、同僚たちも、故郷の神戸も、あまりにも遠い場所になってしまった。
そもそも、この惑星が地球からどれほど離れているのかさえ分からない。
「帰還方法を探す」
司は、自分に言い聞かせるように口にした。
《現時点での帰還方法探索には反対します》
脳内AIが即座に回答した。
「反対?」
《現在地、転移原因、移動距離のすべてが不明です。観測装置も不足しています》
「だから調べるんだろう」
《その前に、生存環境を確保する必要があります》
司の視界に、現在の状況が表示される。
飲料水――なし。
食料――なし。
安全な睡眠場所――なし。
周辺地図――なし。
通信手段――なし。
《現在の装備だけで捜索行動を開始した場合、生存率が大幅に低下します》
「俺は普通の人間じゃない」
《生体脳および生体組織は、水分と栄養を必要とします》
AIは淡々と続けた。
《死亡した場合、地球への帰還成功率はゼロになります》
司は数秒間黙った。
「……正論だな」
《ありがとうございます》
「褒めてはいない」
司は大きく息を吐き、三つの月から視線を下ろした。
「分かった。帰還方法の調査は一時保留。まず衣食住を確保する」
《方針を更新します》
《軍事演習データから、現在の環境に適合するシナリオを検索》
《熱帯・亜熱帯地域における孤立環境サバイバル演習――適合率八十七パーセント》
司の視界に、作業メニューが表示された。
第一項目、安全な場所の確保。
第二項目、飲料水の確保。
第三項目、雨風を防ぐ寝床の設営。
第四項目、火と食料の確保。
第五項目、警戒網の構築。
第六項目、周辺地形の調査。
「演習のときと順番が違うな」
《本演習では、教官および救助部隊の支援を期待できません》
「つまり、今回は本番か」
《その認識で問題ありません》
◇
司は最初に倒した大型獣の死骸から離れた。
血の臭いが、さらに危険な生物を呼び寄せる可能性がある。
脳内AIが地面の傾斜と水分を分析し、川のある方向を推定する。
司はナイフで蔓を切り払いながら、暗い森を進んだ。
十五分ほど歩くと、水の流れる音が聞こえてきた。
川幅は十メートルほどだった。
水は透明で、流れも速い。
だが、透明だから安全とは限らない。
《微生物および寄生生物が存在する可能性があります》
「生で飲むつもりはない」
司は川から少し離れた場所を調べた。
河原に近すぎれば、スコールによる増水に巻き込まれる。逆に離れすぎれば、水の運搬に時間がかかる。
川面から約六メートル高い岩棚に、大きく張り出した岩壁があった。
地面には過去の増水跡がない。
背後と片側を岩に守られ、正面の視界も確保できる。
《暫定拠点として適しています》
「ここにする」
司は携帯型レプリケータを地面へ降ろした。
内部の緊急素材を使い、折り畳み式の容器、軽量支柱、防水膜、ロープ、鍋、簡易濾過器を順番に生成する。
完成した部品を組み立てるのは司自身だった。
レプリケータは万能ではない。
必要な部品を作ることはできるが、森を切り開き、地面をならし、拠点を完成させてくれるわけではない。
司は岩棚から枝や石を取り除き、防水膜を支柱へ固定した。
一人用の簡易テントが完成した頃、森の木々が激しく揺れ始めた。
大粒の雨が落ちてくる。
数十秒後には、視界を遮るほどの豪雨になった。
「早速か」
司は防水膜の端を調整し、雨水を容器へ流し込んだ。
三十分ほどで雨は弱まり、雲の切れ間から三つの月が再び姿を現した。
雨水は十分な量が集まっていた。
濾過器を通した水を鍋へ入れ、火にかけて煮沸する。
火には、湿った倒木の内部から切り出した比較的乾燥した木材を使用した。
司はレプリケータで生成した小型斧を使い、木材を細かく割っていく。
余った薪は岩壁の下へ積み、次のスコールに備えて防水膜をかけた。
《飲料水を確保》
《寝床を確保》
《火を確保》
視界の作業メニューに、完了を示す印が付いていく。
最後に司は、手のひらほどの円筒形装置を四基生成した。
岩棚を囲むように地面へ設置すると、各装置が不可視のレーザーを照射し、周辺地形を立体的に走査し始める。
四基のレーザースキャナが連携し、簡易的な警戒線を形成する。
侵入者を検出すれば、その位置と大きさが司の電脳へ直接通知される。
《周辺警戒システム、正常に稼働》
「これで眠れる」
《完全な安全は保証できません》
「少なくとも、寝ている間に食われる可能性は下がった」
司は装甲服のままテントへ入った。
その夜、警報は三度鳴った。
一度目は、人間の腕ほどある多足の爬虫類。
二度目は、木の上を移動する小型の獣。
三度目は、茂みの向こうから拠点を見つめていた大型の肉食獣だった。
大型獣は火とレーザースキャナの動作音を警戒し、しばらくすると森の奥へ消えていった。
司はまとまった睡眠を取れなかった。
それでも、朝まで生き延びた。
それが、この惑星での最初の成果だった。
◇
二日目から、司は食料の確保に取りかかった。
レプリケータで罠を生成し、動物の通り道へ設置する。
川には、網と筒状の仕掛けを沈めた。
数時間後、地上の罠には大型のネズミに似た動物がかかっていた。
地球のカピバラほどの大きさがあり、前歯は鋭く、背中には硬い毛が並んでいる。
川の仕掛けには、ウナギと蛇を合わせたような細長い生物が入っていた。
どちらも司の生物データベースには存在しない。
「食えると思うか?」
《組織サンプルを採取してください》
司は肉片を少量切り取り、携帯分析器へ入れた。
《主要なタンパク質および脂質は、人間の消化器官で処理可能と推定》
《既知の即効性毒物は検出されません》
《未知の微生物および寄生体を確認》
「つまり、よく焼けということだな」
《中心部まで十分に加熱してください》
最初はごく少量だけを口にした。
ナノマシンに消化器官と血液の状態を監視させ、異常がないことを確認してから摂取量を増やした。
大型ネズミの肉は脂肪が多く、十分なエネルギー源になった。
ウナギに似た生物も、見た目に反して臭みが少なかった。
香辛料も調味料もない。
それでも、空腹の司にとっては十分な食事だった。
「地球に帰れたら、これよりましな物を食う」
《帰還後に食事内容を指定しますか》
「今はいい」
《記録を保留します》
◇
数日分の気象データが集まると、この地域の特徴が明らかになった。
夜間の平均気温は十八度。湿度は約六十五パーセント。
昼間の平均気温は二十八度。湿度は約七十パーセント。
一日に二回ほどスコールが発生し、一回につき三十分から四十分続く。
飲料水の確保に困る環境ではなかった。
司は雨水を集める膜を拡張し、複数の貯水容器へ接続した。
川の水も併用したが、取水地点を拠点の上流側に定め、必ず濾過と煮沸を行った。
排泄場所は取水地点から十分に離れた下流側に設け、土壌を汚染しないよう毎回埋め戻した。
食料も豊富だった。
罠を仕掛ければ、小型動物が捕まる。
川へ行けば、魚やウナギに似た生物が取れる。
問題は、肉の保存だった。
夜間でも十八度あるため、血抜きした肉をそのまま吊るしておけば腐敗が始まる。
司は断熱材、冷却装置、密閉容器をレプリケートし、小型の保冷庫を組み立てた。
電力の心配はなかった。
携帯型レプリケータの超小型核電池は、充電なしで約五十年間稼働する。
主要な生成材料となる水と炭素も、この星には豊富に存在していた。
倒木、枯れ葉、木の実、獲物の骨や脂肪。
不要な有機物を素材処理槽へ入れると、レプリケータが生成に利用できる形へ分解する。
司は必要な道具を少しずつ増やしていった。
斧。
鋸。
シャベル。
調理器具。
防水布。
保存容器。
配線。
照明。
警戒用センサー。
簡単な機械や装置はレプリケータで部品を作り、司が自分で組み立てた。
やがて司は、銃火器の生成に着手した。
最初に作ったのは、大東亜連合国軍で採用されている制式自動小銃だった。
司の電脳には、軍用装備の設計図と整備手順が保存されている。
レプリケータで一つずつ部品を生成し、作業台の上で組み立てる。
拳銃と予備弾倉も用意した。
弾薬についても、薬莢、弾頭、発射薬を軍用規格で生成した。
組み上げた銃を河原へ持ち出し、岩壁を標的にして試射する。
乾いた銃声が、森に響き渡った。
弾丸は狙った位置へ正確に命中した。
《作動状態、正常》
《照準誤差、許容範囲内》
司は銃を下ろした。
「これで、ナイフ一本よりはましだ」
《周辺生物が銃声を警戒しています》
実際、その日から大型の肉食獣が拠点へ近づく回数は減った。
◇
仮設テントだけだった岩棚は、日を追うごとに姿を変えていった。
司は岩壁の窪みを利用し、強風とスコールに耐えられる居住区画を造った。
床を地面から少し浮かせ、雨水が流れ込まないよう排水溝を掘る。
寝床の横には装備棚を設置し、入口付近には作業台を置いた。
外から拠点が見えないよう、人工物には周囲の岩や植物に近い色を施した。
貯水槽。
保冷庫。
調理場所。
薪置き場。
素材処理区画。
武器保管棚。
周辺を囲む警戒センサー。
岩壁に守られたその拠点は、もはや簡易テントとは呼べないものになっていた。
司は完成した拠点を眺めた。
「秘密基地みたいになったな」
《正式名称を登録しますか》
「しなくていい。冗談だ」
《仮称として『秘密基地』を登録しました》
「登録するな」
《登録を取り消します》
司は思わず苦笑した。
この惑星へ来てから、初めて表情を緩めた瞬間だった。
◇
二週間が経過した。
司の生活には、一定の周期が生まれていた。
朝、目を覚ますと、最初に夜間の警戒記録を確認する。
続いて、川の下流側に設けた排泄区画へ向かう。
その後、上流側の取水地点で水をくみ、拠点へ持ち帰る。
水は必ず濾過して煮沸し、レプリケータで生成した水筒へ補充する。
朝食は、前日に狩った獲物だった。
密閉型の保冷庫で血抜きが完了していることを確認し、肉を切り分ける。
金属製の網に載せ、炭火で中心まで十分に焼く。
見た目は、地球で食べていたバーベキューと変わらない。
味付けはなくても、司の身体を動かすための栄養にはなった。
朝食を終えると、周辺調査へ出発する。
AIが森を複数の区画に分割し、司は毎日一方向を選んで探索範囲を約二キロメートルずつ広げていった。
移動中はレーザースキャナで地形を記録し、危険な生物の縄張り、水場、食用可能な動植物、洞窟、見晴らしのよい場所を地図へ追加する。
通信衛星も測位衛星も存在しない。
頼れるのは、司の慣性航法装置と地形情報、そして自分で設置した小型の位置基準器だけだった。
夜になると、三つの月と星空を観測した。
帰還方法の探索は後回しにしただけで、諦めたわけではない。
だが、二週間観測を続けても、地球の位置を特定できる情報は得られなかった。
同乗していた兵士たちの痕跡もない。
ハイパーオスプレイVの残骸もない。
人工的な道路も、建物も、通信電波も見つからない。
この惑星に、司以外の人間が存在する証拠は一つもなかった。
十四日目。
司は拠点の北東にある尾根を調査していた。
予定していた二キロメートルの探索地点に到着し、周囲の地形を記録する。
木々の向こうに、森がどこまでも続いている。
司は遠距離視覚を起動し、地平線付近を拡大した。
そこで、細い煙を見つけた。
森の奥から、一本の灰色の煙が空へ昇っている。
山火事にしては小さい。
スコールの直後にもかかわらず、火勢が安定していた。
《煙を確認》
「自然発火の可能性は?」
《周辺の湿度および降雨記録から判断して低確率です》
《煙の量が一定です。燃焼状態が人為的に管理されている可能性があります》
司は自動小銃を握り直した。
この惑星に来てから、初めて見つけた知的生命の痕跡かもしれない。
それが人間に近い存在なのか。
敵意を持っているのか。
そもそも、話が通じる相手なのか。
何も分からない。
司は地図上に煙の位置を記録した。
「明日、確認に行く」
《危険が予想されます》
「分かっている」
尾根の向こうで、煙は途切れることなく昇り続けていた。
司はしばらくそれを見つめた後、拠点へ戻るため森の中へ足を踏み入れた。
二週間続いた孤独が、終わろうとしていた。
――第二話・終




