第1話 三つの月
かつて、核兵器は「使用できない兵器」と呼ばれていた。
使用すれば報復を招き、やがて人類そのものを滅ぼす。
その恐怖が、辛うじて世界の均衡を保っていた。
だが、核弾頭の小型化と放射性物質の低残留化が進んだことで、その均衡は崩れた。
一人の要人だけを殺害する精密兵器が存在する時代に、国家はあえて都市を焼いた。
敵国の国民を無差別に殺害し、生き残った者たちに恐怖と絶望を植えつける。敵の戦意を根元からへし折るため、小型核兵器を戦略的に使用する。
それが、もはや特別な決断ではなくなっていた。
旧中国は崩壊し、沿岸部の独立国家は日本を中心とする大東亜連合国へ加わった。内陸部では、現在も複数の勢力が終わりの見えない紛争を続けている。
朝鮮半島では核兵器の暴走によって国家そのものが消滅した。海を渡った避難民の多くは島根県や鳥取県へ流入し、数十年が経過した現在も地元住民との軋轢が残されている。
北九州も戦場となり、今なお復興の途上にある。
東京は核攻撃によって廃墟と化した。
大東亜連合国の首都は京都へ戻され、経済の中心は大阪と台北へ移っていた。
一方、北米大陸では旧国家の枠組みが解体され、NAU――North American Unionが成立していた。
NAUと大東亜連合国は、太平洋地域における最大の同盟国である。
両国は定期的に合同軍事演習を実施していた。
その日もまた、ひとつの演習が終わろうとしていた。
◇
NAUパールハーバー宇宙基地。
黒い耐熱装甲に覆われた軍用輸送機が、夕焼けを背にして発進区画へ移動していた。
機体名は、ハイパーオスプレイV。
垂直離着陸能力と高高度巡航能力を併せ持ち、太平洋上の主要基地間を短時間で結ぶ軍用輸送機である。
貨物室には、合同演習を終えた大東亜連合国軍の特殊装備兵たちが乗っていた。
その一人が、斎藤司だった。
二十八歳。神戸市出身。
大東亜連合国・沖縄基地所属。
黒い強化装甲服に身を包み、座席に深く身体を預けている。背中には、大型の軍用リュックにしか見えない携帯型レプリケータが固定されていた。
司の向かい側では、別の兵士が演習結果を表示した端末を眺めていた。
画面には、赤い円がいくつも表示されている。
想定核攻撃地点。
推定死者数。
放射線汚染範囲。
それらは天気予報の降水確率と変わらない調子で並べられていた。
「今回の想定被害、民間人が八万を超えているな」
兵士の一人が言った。
「許容範囲だろ。首都機能を三時間で止められる」
別の兵士が、何の感情も見せずに答えた。
誰も反論しなかった。
司も黙っていた。
兵士である以上、命令には従う。
だが、端末に表示された八万という数字を、単なる演習結果として受け入れることはできなかった。
人間の命を数字へ置き換えなければ、戦争を続けられない。
数字へ置き換えた結果、人間の命を感じられなくなった。
どちらが先だったのか、司には分からなかった。
機内放送が流れる。
『当機は間もなく高高度巡航へ移行する。沖縄基地到着まで、各員は待機せよ』
機体が上昇を開始した。
加速による振動が装甲服を通して伝わってくる。
司は目を閉じた。
彼の意識下では、生体情報と機体情報が半透明の文字列となって流れていた。
心拍、正常。
呼吸、正常。
電脳補助系、正常。
ナノマシン循環率、正常。
機体姿勢、安定。
外気圧、低下中。
すべてが予定どおりだった。
沖縄基地へ戻れば、装備点検と報告書の作成が待っている。
いつもと変わらない演習帰りになるはずだった。
機体が突然、大きく沈み込んだ。
「なんだ?」
誰かが声を上げた。
直後、ハイパーオスプレイVが激しく跳ね上がった。
貨物室内に警報が鳴り響く。
赤い非常灯が点滅し、固定されていた装備品が一斉に軋んだ。
『乱気流発生! 全員、耐衝撃姿勢!』
操縦席から怒鳴り声が届く。
だが、それは通常の乱気流ではなかった。
機体が上昇しているのか、落下しているのかさえ分からない。
重力の方向が、目まぐるしく変化する。
司の視界を警告表示が埋め尽くした。
《衛星測位信号消失》
《軍用通信網との接続消失》
《慣性航法装置に異常》
《機体外部に未識別重力場を検出》
「この高度で、こんな乱気流があるか!」
兵士の一人が叫んだ。
機体の中央を、青白い光が走った。
司の電脳が、それを観測しようとした。
だが、光を認識した瞬間、すべてのセンサーが同時に飽和した。
音が消えた。
警報も、兵士たちの声も、エンジンの振動も消失した。
自分の身体だけが、深い水の底へ沈んでいく。
そんな感覚があった。
《重大障害を検出》
《意識保護処理を開始》
《生体脳活動を強制低下》
《緊急休止モードへ――》
そこで、司の意識は途切れた。
◇
暗闇の中に、一行の文字が浮かんだ。
《電脳補助系――再起動》
続いて、無数の情報が流れ始める。
《生体ユニットの状態確認を開始》
《頭部損傷――軽微》
《左肩関節――損傷》
《胸部生体組織――複数箇所に内出血》
《脊髄接続系――正常》
《主電源――正常》
《記憶領域――連続性を確認》
《ナノマシンによる緊急修復を開始》
司の体内で、数億のナノマシンが活動を始めた。
裂けた血管が塞がり、損傷した筋繊維が接合される。
左肩の人工関節が自動的に補正され、ずれていた骨格が元の位置へ戻っていく。
《生命維持に支障なし》
《運動能力、七十二パーセントまで回復》
《意識覚醒を許可》
司は目を開いた。
最初に見えたのは、濡れた黒い土だった。
顔のすぐ横を、見たことのない青い甲虫が歩いている。
鼻を刺す湿った植物の臭い。
遠くから聞こえる、低く震えるような鳴き声。
司はゆっくり上体を起こした。
そこは輸送機の中ではなかった。
巨大な樹木が空を覆い、太い蔓が幾重にも絡み合っている。
葉の形も、幹の色も、司の知識にある熱帯植物とは微妙に異なっていた。
「……ハイパーオスプレイは?」
返事はない。
周囲に機体の残骸は見当たらなかった。
同乗していた兵士たちもいない。
操縦士も、乗員も、誰一人として存在しなかった。
司の背中には、携帯型レプリケータだけが残されている。
個人火器は失われていた。
《軍用通信網へ接続できません》
脳内AIが報告する。
《衛星測位信号を受信できません》
「非常用周波数で呼びかけろ」
《全周波数帯で応答なし》
司は立ち上がろうとした。
身体が予想以上に軽く持ち上がる。
「重力が軽い?」
《推定重力、地球標準の七十四・八パーセント》
「測定異常の可能性は」
《低いと判断します》
そのときだった。
茂みの奥で、何かが動いた。
司は反射的に姿勢を低くした。
一つではない。
左右の茂みから、複数の気配を感じる。
何かが司を観察していた。
品定めするように。
獲物として食べられるかどうか、判断しているように。
脳内AIが警告を発した。
《大型生物の接近を検出》
《推定体長、三メートル以上》
《高い攻撃性を確認》
《戦闘モードに移行せよ》
司の視界が切り替わった。
周囲の輪郭が強調され、熱源が赤く表示される。
最も近い茂みの中に、巨大な四足動物が潜んでいた。
地球の虎によく似ている。
だが、毛皮には縞模様ではなく、黒と灰色の不規則な環状模様が浮かんでいた。
前脚は異様に太く、口元からは二対の長い牙が伸びている。
司と獣の視線がぶつかった。
獣は低く唸った。
司はレプリケータを起動した。
《生成対象を指定してください》
「軍用サバイバルナイフ。最大強度」
《了解》
背中の装置が低く振動する。
内部の緊急素材が分解され、刃を構成する物質へ再配列されていく。
《生成完了まで、一・八秒》
長い。
獣が地面を蹴った。
巨体が茂みを突き破り、司へ飛びかかる。
《回避せよ》
レプリケータの取り出し口が開いた。
司は右手でナイフをつかみ、そのまま身体を左へ沈めた。
頭上を巨大な前脚が通過する。
爪の先端が、司の肩部装甲を削った。
司は踏み込んだ。
通常の人間なら制御できないサイボーグの筋力が、右腕へ集中する。
ナイフの刃が、獣の顎の下へ入った。
そのまま首を横一文字に切り抜く。
骨と筋肉が断ち切られた。
獣の頭部が胴体から離れ、黒い土の上を転がった。
巨体が数歩だけ前進し、地響きを立てて倒れる。
周囲が静まり返った。
司は血の付いたナイフを構えたまま、動かなかった。
茂みの奥にいた別の熱源が、一つ、また一つと後退していく。
《周辺の脅威、離脱》
《戦闘モードを維持します》
「こいつは何だ」
《既知の生物データベースに一致なし》
「遺伝子汚染か、軍用生物の可能性は」
《現時点では否定できません》
司は倒した獣へ近づいた。
血液は暗い赤色だった。
骨格や筋肉の構造は地球のネコ科動物に似ている。しかし、牙の数、関節の構造、毛皮の模様は明らかに異なっていた。
偶然の突然変異だけでは説明がつかない。
司は周辺環境の観測を開始した。
大気は呼吸可能。
窒素と酸素の比率は地球に近い。
気温、湿度、気圧も、人間が生存できる範囲にある。
それにもかかわらず、重力は地球より軽い。
衛星通信はない。
軍用通信もない。
既知の測位衛星からの信号も、民間放送も、航空管制電波も、何一つ受信できない。
「ここが地球だと仮定した場合、考えられる可能性は?」
《大規模な通信障害》
《未知の軍事施設》
《地球外環境を再現した閉鎖実験区域》
《長期間経過後の地球》
「どれも無理があるな」
《同意します》
司は樹木の隙間から空を見上げた。
日はすでに沈みかけていた。
司は周囲を警戒しながら、視界の開けた岩場まで移動した。
やがて、森の向こうから夜が訪れた。
星が現れる。
司の電脳が自動的に星の配置を記録し、軍の天体データベースとの照合を開始する。
《既知の星座と一致しません》
「観測地点が南半球だからじゃないのか」
《全天恒星データとの照合を継続中》
雲がゆっくりと流れていった。
その向こうから、一つ目の月が姿を現した。
地球の月よりも大きく見える、青白い衛星。
続いて、その右上に二つ目の月が昇った。
一つ目より小さく、淡い灰色をしている。
司は言葉を失った。
さらに雲が切れる。
三つ目の月が現れた。
三つの中で最も小さく、表面には自然物とは思えない規則的な模様が走っていた。
脳内AIが、それぞれの軌道と視差を計測する。
《三つの独立した周回天体を確認》
《映像異常ではありません》
《少なくとも二つは、自然衛星と推定》
《最小の天体については構造物である可能性があります》
司は三つの月を見上げたまま、動けなかった。
地球の空に、月は一つしかない。
通信障害でも、軍の実験でも、説明できない。
地殻変動や戦争で月が三つに増えることもない。
《現在地を地球と仮定することは困難です》
脳内AIが、淡々と結論を告げた。
司はしばらく黙っていた。
背後の森から、先ほどとは異なる巨大な鳴き声が響く。
鬱蒼とした木々の奥で、いくつもの赤い目が光っていた。
司は血に濡れたナイフを握り直した。
そして、三つの月を見上げたまま、小さく呟いた。
「……ここは、地球じゃない」
誰も答えない。
見知らぬ星の夜だけが、静かに司を包み込んでいた。
――第一話・終




