第12話「始まりのルミエール」
豪雨は、翌日の夕方まで降り続いた。
厚い雲が東へ去ったあとも、森の枝葉からは絶え間なく水滴が落ちていた。
川は茶色く濁り、水位も大きく上がっている。
だが、司が高台へ設営したテントの周囲には、ほとんど水が残っていなかった。
排水溝が雨水を斜面の下へ流し、地面から浮かせた床も完全に乾いている。
「ツカサのテント、すごかったね」
エルザは外側の防水膜を外しながら、満足そうにうなずいた。
「あれだけ降ったのに、どこからも水が入らなかった」
「雨量が予想の範囲内だったからな」
《総雨量は、地球の単位へ換算して三百二十七ミリメートルでした》
《通常の野営設備であれば、浸水または流失していた可能性があります》
「エルザの予測がなければ、通常のテントを張っていた」
《現地住民の経験則が、観測機器を上回る好例です》
彼女は上機嫌で支柱を一本抱え、レプリケータの回収口へ運んでいた。
濡れた森に、薄い朝日が差し込む。
司は増水した川を避ける経路を算出し、二人は始まりのルミエールへ向けて旅を再開した。
◇
豪雨が過ぎてから、さらに六日が経過した。
森の様子は少しずつ変わっていた。
巨大な原生林は次第に疎らになり、人の手で管理された林が増えている。
川沿いには石を積んだ護岸が現れ、ところどころに木製の船着き場も設けられていた。
獣が踏み固めただけだった道は、やがて二台の荷車が並んですれ違えるほどの幅になった。
路面には細かな砕石が敷かれ、雨のあとにもかかわらず、深いぬかるみはない。
「ずいぶん立派な道になったな」
「ここからは、王都へ荷物を運ぶ人が多いから」
エルザは懐かしそうに周囲を見回した。
「もうすぐ、大きな街道と合流するよ」
その言葉どおり、一時間ほど進むと、森の向こうから複数の車輪が立てる音が聞こえてきた。
二人の進む道が、さらに幅の広い街道へ接続している。
そこには、司がこの世界へ来てから初めて見るほど多くの人々がいた。
荷台へ大きな酒樽を積んだ荷車。
布や木箱を運ぶ商隊。
色鮮やかな外套をまとった旅人。
長い耳を持つ者も多かったが、エルザとは服装も髪の結い方も異なっている。
「あの人たちも、ルミエール士族なのか?」
「違うよ。たぶん、グラミエールの人たち」
エルザは旅人たちの外套に刺繍された、青い鳥の紋章を指さした。
「始まりのルミエールには、ほかのエール系士族からも大勢の人が来るの。観光だったり、商売だったり、王族への用事だったり」
すれ違う一団には、長い耳を持たない者も混じっていた。
頭の上から三角形の耳を生やし、腰の後ろで長い尾を揺らす者。
ルミエール人よりも頭一つ低いが、肩幅が広く、太い腕を持つ者。
角の生えた者や、顔の一部を短い毛で覆われた者もいる。
《複数の知的種族を確認》
《アーカイブ内の生物資料と照合を開始します》
司は行き交う人々を観察した。
誰もが互いの違いを気にすることなく、同じ街道を歩いている。
珍しいのは彼らではなく、黒い走行スーツと見慣れない武器を身につけた司の方だった。
通り過ぎる者たちが、何度も振り返る。
子供の猫人族が、母親の手を引きながら司を指さした。
「お母さん、あの人、何族?」
「指をさしてはいけません」
母親はそう注意しながらも、自分も司を見つめていた。
「やっぱり目立つな」
《現在の装備で目立たない方が困難です》
「分かっている」
エルザは楽しそうに笑った。
「大丈夫。王都にはいろんな人がいるから、すぐに慣れるよ」
「俺ではなく、周囲が慣れるのを待つのか?」
「うん」
エルザは当然のように答えた。
◇
街道の前方から、六台の荷車で構成された商隊が近づいてきた。
荷台には木箱と布の包みが積み上げられ、その周囲を十人ほどの武装した猫人族が歩いている。
先頭を進むのは、灰色の耳と尾を持つ女性だった。
革と金属板を組み合わせた軽装鎧を身につけ、腰の左右へ湾曲した短剣を下げている。
彼女はすれ違う直前、右手を上げて商隊を止めた。
金色の瞳が、司の背中にあるライフルへ向けられる。
「見ない顔だね。北から来た人間かい?」
敵意は感じられない。
だが、身体の重心は低く、何かあればすぐに武器を抜ける姿勢だった。
「北ではない。遠い土地から来た」
「遠い土地?」
「説明すると長くなる」
猫人族の女性は、鼻先をわずかに動かした。
司の匂いを確かめているようだった。
「人間の匂いはする。でも、鉄の匂いもずいぶん強い」
「失礼だよ、シアラ」
エルザが一歩前へ出た。
「ツカサは私の仲間。始まりのルミエールへ行くところなの」
「その声……エルザか?」
シアラと呼ばれた女性は、エルザの顔をまじまじと見つめた。
次の瞬間、警戒していた耳がぴんと立つ。
「本当にエルザじゃないか。ずいぶん長く王都へ戻っていなかったね」
「少し遠くまで行ってたから」
「少し、で済む顔じゃないよ。城の連中が捜していたぞ」
エルザは聞こえなかったふりをして、視線を逸らした。
「知り合いなのか?」
司が尋ねると、シアラは白い牙を見せて笑った。
「王都で護衛をしていれば、嫌でも顔を覚える相手さ」
「余計なことを言わなくていいの」
エルザの耳が、少しだけ横へ伏せた。
シアラは面白そうにその様子を眺めてから、司へ右手を差し出した。
「猫人族のシアラ。商隊護衛をしている。王都で仕事が必要なら声をかけな」
司は差し出された手を握った。
細い指だったが、手のひらには硬い剣だこがある。
シアラも司の手を強く握り返した。
一瞬、腕へ力を込める。
司は反応せず、同じ位置で手を止めた。
「……なるほど」
シアラの尾が、興味を示すように大きく揺れた。
「見かけだけじゃなさそうだ」
「何の確認だ?」
「ただの挨拶さ」
シアラは何事もなかったように手を離した。
《握力による能力試験と推測します》
「分かっている」
荷車の御者台から、一人の男が顔を出した。
年齢は五十歳前後。
日焼けした顔に短いひげを生やし、厚手の外套を着ている。
司は、その顔を見てわずかに目を見開いた。
長い耳も、獣の耳や尾も、鱗もない。
顔立ちも体格も、地球で暮らしていた人々と何ら変わらなかった。
《外見上、地球人類との差異は確認できません》
「あなたは、人間なのか?」
男は不思議そうに司を見返した。
「そうだが……お前も人間だろう?」
「この世界へ来てから、自分以外の人間を見るのは初めてだ」
「自分以外の人間を見たことがない?」
男は司の黒い走行スーツと、背中のライフルを見回した。
エルザが横から説明する。
「ツカサは、ものすごく遠い国から来たの」
「なるほど。北方では見たことのない格好だと思った」
男は完全には納得していない様子だったが、それ以上は追及しなかった。
「王都へ入るなら、身分証は持っているか?」
「俺は持っていない」
「それなら、城門で保証人が必要だ。人間は特に詳しく調べられる」
「なぜ、人間だけ詳しく調べられる?」
男は申し訳なさそうに肩をすくめた。
「五百年前の戦争を、まだ気にしている者が多いからな」
「戦争?」
「昔、北方の王が領土を広げようとして、この国へ大軍を送り込んだそうだ。だが、人間軍は惨敗した。今では商売だけの付き合いだが、こちらを嫌う者がいるのも仕方がない」
「北には、人間の国があるのか」
「ああ。俺もそこから交易に来ている」
「それでも、王都へ来る人間は増えているんだよ」
シアラが言った。
「商売に関しては、人間の右に出る種族は少ないからね。王都の店も、北方の品物なしでは困るようになっている」
商人は荷台を振り返った。
箱の中には、薄く織られた布地、ガラス製品、乾燥させた香辛料などが収められている。
「人間だからといって、いきなり捕まることはない。規則を守って、余計な騒ぎを起こさなければ大丈夫だ」
「忠告に感謝する」
「エルザが一緒なら、心配はいらないだろうけどね」
シアラが、また意味ありげに笑った。
エルザは彼女の背中を軽く叩いた。
「もう行って。荷物を待ってる人がいるんでしょ」
「はいはい。また王都で会おう」
シアラは商隊を再び動かした。
六台の荷車が通り過ぎていく。
最後尾を歩いていた猫人族の傭兵が司へ会釈し、そのあとを追った。
「猫人族は、みんな傭兵なのか?」
「みんなじゃないよ。でも、戦う仕事を選ぶ人は多いかな」
エルザは歩きながら答えた。
「王国軍に入ったり、商隊を守ったり。森で獣を狩って、肉や毛皮を売る人も多いよ」
「身体能力が高い種族なのか」
《先ほどの個体は、一般的な地球人女性を大幅に上回る筋力を有していました》
《反射速度についても、簡易観測ではエルザと同程度です》
「戦士の種族というわけか」
「うん。ちょっと勝負好きだけど、仲良くなると頼りになるよ」
司は、遠ざかるシアラの灰色の尾を見送った。
◇
昼を少し過ぎた頃、街道沿いに複数の屋台が並ぶ休憩所へ到着した。
木製の長椅子と水場が設けられ、大勢の旅人が食事を取っている。
辺りには、焼いた肉と香草の匂いが漂っていた。
「お腹すいた」
エルザは迷うことなく、一軒の屋台へ向かった。
店に立っているのは、司の胸ほどの身長しかない土鬼族の男性だった。
短い身体に似合わないほど太い腕を持ち、顎には胸元まで届く赤茶色のひげを蓄えている。
鉄板の上では、太い腸詰めが脂を弾かせながら焼かれていた。
「焼きたてだぞ。王都へ入る前に一本どうだ」
「パンを二つ。それと腸詰めを一本ください」
「五ピエールだ」
エルザは小さな革袋から、金属製の硬貨を五枚取り出した。
硬貨はほぼ同じ大きさだったが、表面に刻まれた紋章は一枚ずつ異なっている。
樹木。
青い鳥。
交差する二本の槍。
店主は紋章を気にすることなく受け取り、焼いた腸詰めと丸いパンを渡した。
「それが、この国の通貨か?」
「ピエールのこと?」
エルザはパンを一つ、司へ差し出した。
「エール系の国なら、どこでも使えるよ」
「紋章が違うようだが」
「通貨を造る権利は、それぞれの士族の王族が持ってるの。でも、大きさも重さも価値も全部同じ」
店主が会話へ加わった。
「どこの王が発行したピエールでも、一ピエールは一ピエールだ。王家が価値を保証しているからな」
司は受け取ったパンを観察した。
手のひらより少し小さく、表面は香ばしく焼かれている。
「このパンが一ピエールか?」
「そうだよ」
エルザは腸詰めを半分に割り、片方を司へ渡した。
「普通の朝ご飯なら二ピエールぐらい。お昼は三ピエール、夕食は五ピエールぐらいかな」
《現地での購買力を、大東亜連合国の通貨へ暫定換算します》
《一ピエールは、およそ百円に相当します》
「物価は地球より低いな」
《平均所得が不明なため、単純な比較はできません》
司はエルザへ尋ねた。
「王都で働く者は、一か月にどれぐらい稼ぐ?」
「普通の仕事なら、千ピエールぐらいじゃない?」
屋台の店主がうなずいた。
「職人ならもう少し稼ぐ。見習いなら七百から八百だな」
《平均月収を約十万円と推定》
《食料品の価格を基準にすれば、生活は成立します》
エルザはパンへ腸詰めを挟み、大きな口でかじった。
「それとは別に、王都に住んでる人は、毎月百ピエールの人頭税を払うの」
「収入の約一割か」
「道や水路を直したり、兵士を雇ったりするために使うんだって」
「払えない者はどうなる?」
エルザは口の中のものを飲み込んでから答えた。
「二回続けて払わなかったら、炭鉱の強制労働場へ送られるよ」
「二回で?」
「うん。二か月か三か月働いたら解放されるけど」
司は、思っていた以上に厳しい制度へ眉を寄せた。
《租税の回収制度としては、極めて強権的です》
《住民管理機構と強制力を持つ行政組織が存在すると推測されます》
「観光都市の裏側には、相応の統治機構があるということか」
エルザは司の表情を見て、首を傾げた。
「ツカサの国には、人頭税がないの?」
「似た税金はある。だが、二か月滞納しただけで炭鉱へ送られることはない」
「そうなんだ」
エルザにとっては、生まれたときから存在する当たり前の制度なのだろう。
それ以上、疑問を持っている様子はなかった。
司は腸詰めを口へ運んだ。
粗く刻んだ肉に香草が練り込まれ、強い塩味と肉汁が口の中へ広がる。
「うまいな」
土鬼族の店主が、誇らしそうに胸を張った。
「当然だ。今朝仕込んだばかりだからな。王都には、これを食べるためだけに来る客もいるぞ」
「お酒と腸詰めは、土鬼族の自慢だから」
「酒も飲んでいくか?」
「まだ歩くから、今はやめておく」
司が断ると、店主は残念そうにひげを撫でた。
「王都へ着いたら、石窯通りへ行け。ここの十倍うまい店が並んでいる」
「自分の店よりうまいと認めるのか?」
「ここは旅人へ腹ごしらえをさせる屋台だ。酒場の本気と比べる方がおかしい」
店主は豪快に笑った。
◇
休憩所を出てから、街道は緩やかな上り坂へ変わった。
周囲の樹木が低くなり、空が大きく開けていく。
行き交う旅人の数は、さらに増えていた。
複数のエール系士族。
猫人族。
土鬼族。
人間。
そして、司にも判別できない亜人たち。
皆、同じ方向を目指している。
坂の上には石造りの展望台があり、多くの旅人が足を止めていた。
エルザは急に歩調を速めた。
「ツカサ、もう見えるよ」
「何が?」
「始まりのルミエール」
エルザは展望台へ続く最後の階段を駆け上がった。
司もそのあとを追う。
視界を遮っていた岩壁が途切れる。
その瞬間、巨大な都市が眼下へ姿を現した。
司は、思わず足を止めた。
大地が、巨大な器のように丸く窪んでいる。
周囲は垂直に近い断崖で囲まれ、幾重もの地層が壁面へ露出していた。
円形の外輪は一部だけ大きく途切れ、そこへ広大な河川が接している。
上空から見れば、断崖は巨大な「C」の形に見えるだろう。
《地形測定を開始》
《窪地の直径は、およそ十・二キロメートル》
《形状から、巨大な衝突クレーターである可能性が高いと判断します》
「この窪地がどうやってできたか、分かっているのか?」
「神代の昔に、空から巨大な火の玉が落ちたんだって」
エルザは断崖の内側を見渡した。
「地面が揺れて、山も森も全部吹き飛んで、こんな大きな窪みができたって伝わってるよ」
「隕石の衝突か」
「いんせき?」
「宇宙から落ちてくる岩だ」
「たぶん、それ。火の玉が何だったのかまでは、誰も知らないけど」
《地形だけを見れば、隕石衝突説に矛盾はありません》
クレーターの中央には、周囲より一段高い岩山があった。
その上に、白灰色の巨大な城が築かれている。
幾本もの尖塔。
高い城壁。
城門から放射状に延びる大通り。
王城を取り囲むように、赤茶色の屋根を持つ建物が何重にも並んでいた。
市街地の外側には、整然と区切られた農地が広がっている。
水路が畑の間を通り、クレーターの開口部にある大河へつながっていた。
大河沿いには港が築かれ、大小の船が絶え間なく行き交っている。
外輪山の内側。
中央の王城。
同心円状に広がる市街地。
農地と水路。
そして、大河へ開かれた巨大な港。
第三のルミエールにあった八人の小さな集落とは、何もかもが違っていた。
「これが……始まりのルミエールか」
「うん」
エルザは誇らしそうに胸を張った。
「私たちの王都」
《市街地全域から、極めて多数の生体反応を確認》
《正確な人口の算出は困難です》
司はエルザへ尋ねた。
「どれぐらいの人が住んでいる?」
「十万人ぐらい住んでるよ」
「ルミエール人が二万人。土鬼族と猫人族が三万人ずつ。鱗人族と人間が一万人ずつだったかな」
「ルミエールの王都なのに、ルミエール人は二割しかいないのか」
「昔から、いろんな種族を受け入れてきた街だから」
エルザは外輪山の一部を指さした。
崖の途中には、遠目にも分かる巨大な穴がいくつも開いている。
自然にできた洞窟とは思えないほど大きい。
「あの中には土鬼族の家や工房もあるの。地上から見えない街が、山の中にも広がってる」
次に、大河と市内水路がつながる港を指さす。
水面には多数の浮き桟橋が設けられ、その間を人影が泳いでいた。
「川と水路の中には、鱗人族の街があるよ。水の下にも家やお店があるから、地上からは全部見えないけど」
電子眼の倍率を上げる。
人間に似た上半身と、大きな魚の尾を持つ者たちが水面を進んでいる。
腕や肩には色鮮やかな鱗があり、髪の色も青、緑、銀とさまざまだった。
一人の鱗人族が水面から高く跳び上がる。
近くを進む観光船から、大きな歓声が上がった。
「人魚か」
「人魚って、鱗人族のこと?」
「地球の伝承に、よく似た姿の種族が登場する」
《生物学的特徴の詳細分析には、近距離からの観測が必要です》
「街へ入れば、嫌でも近くで見られる」
そのとき、展望台にいた旅人たちが一斉に空を見上げた。
誰かが叫ぶ。
「真竜だ!」
巨大な影が、外輪山の向こうから現れた。
青緑色の鱗を持つ一頭の真竜。
広げた翼は、小型の航空機を思わせるほど大きい。
長い尾を緩やかに振りながら、王都上空へ滑るように進んでいく。
その後方から、黒い真竜と赤銅色の真竜が続いた。
三頭は互いに一定の距離を保ち、王城の尖塔を中心に大きな円を描く。
街から鐘の音が響いた。
港の観光船からも、展望台からも歓声が上がる。
《大型飛行生物三体を確認》
《先頭個体の推定全長、三十八メートル》
《翼開長、推定七十一メートル》
《既知の生物学では、継続飛行に必要な揚力を確保できません》
「宝玉か、別の重力制御技術を使っている可能性は?」
《否定できません》
三頭の真竜は、見物人へ姿を見せるように高度を下げた。
青緑色の真竜が翼を大きく傾ける。
陽光を受けた鱗が、宝石のように輝いた。
「真竜も、この街の住民なのか?」
「数十頭が、外輪山の洞窟で暮らしてるよ」
「人を襲わないのか?」
エルザは驚いた顔で司を見た。
「真竜は獣じゃないよ。私たちよりずっと長く生きて、言葉も話せるの」
「知的種族なのか」
「神代の昔、ルミエール王族と真竜族は盟約を交わしたの」
エルザは王城と、その背後に連なる断崖を見つめた。
「ルミエールが滅びるほどの危機に陥ったとき、真竜族は力を貸してくれる。その代わり、王族は真竜が安心して暮らせる山と狩り場を守る」
「五百年前の人間軍とも戦ったのか?」
「うん。人間たちは、あそこの大河側から攻めてきた」
クレーターの外輪が途切れた、唯一の開口部。
地上の大軍が王都へ進入できる場所は、そこしかない。
「人間軍が城門を攻めている間に、真竜たちが外輪山から飛び立ったの。逃げ道を失った人間軍は、ほとんど戦えないまま降伏したって聞いてる」
「それ以来、人間は警戒されているわけか」
「そう。でも最近は、人間の観光客や商人も少しずつ増えてるよ」
三頭の真竜は王城を一周すると、外輪山の洞窟へ向かって飛んでいった。
見物人たちは満足そうに拍手を送り、再び街道へ戻っていく。
「今の飛行も、観光のためなのか?」
「真竜たちが協力してくれてるの。決まった時間に、何頭かで街の上を飛んでくれる」
「ずいぶん協力的だな」
「見られるのが好きな真竜も多いから」
エルザは笑った。
「始まりのルミエールへ来る人のほとんどは、鱗人族と真竜を見るのが目的なの。王都へ入ってくる観光収入の八割ぐらいが、その二つで生まれてるの」
「残りの二割は?」
「土鬼族のお酒と料理」
先ほどの屋台で食べた腸詰めを思い出し、司は納得した。
「観光で成り立っている都市か」
「宿屋も、お店も、船も、みんな観光客が来るから仕事になるの」
エルザは中央の王城を指さした。
「あれが、始まりの城。私が育った場所だよ」
司は、中央の王城と、その隣に立つエルザを見比べた。
エルザが国王の十三番目の子であることは、第三のルミエールにいた頃から知っている。
それでも、森を歩き、川で水浴びをし、同じ寝床で眠ってきた彼女と、眼下にそびえる巨大な王城は、すぐには結びつかなかった。
「お前が、あの城で育ったのか」
「うん。父が今の国王だから」
「王の十三番目の子だとは聞いていたが、あの城を目の前にすると、改めて王女なのだと実感するな」
「今まで実感してなかったの?」
エルザの耳が、不満そうに横へ傾いた。
「疑っていたわけではない。旅の間、お前が王女らしく振る舞ったことが一度もなかったからだ」
「王女だって、森を歩くし、水浴びもするよ」
「少なくとも、地球の王女とはずいぶん違う」
「変なの」
エルザは納得していない様子だった。
「お城には兄と妹もいるし、仲のいい使用人もいるよ。みんな、びっくりするだろうな」
「王位を継げるのは男だけだから、私は兄たちより自由なの。それに、王族だって言うと、みんな急によそよそしくなるから嫌」
「俺が態度を変えると思ったのか?」
「ツカサは、最初に少し驚いただけだったでしょ」
「お前がエルザでいいと言ったからな」
エルザは司の腕へ自分の腕を絡めた。
「そういうところ、好きだよ」
司はもう一度、遠くの王城を見た。
第三のルミエールで聞いた「王の十三番目の子」という言葉は、これまで司にとって一つの情報にすぎなかった。
だが、十万人が暮らす王都と、その中心にそびえる王城を目の前にしたことで、エルザが持つ身分の重さを初めて実感した。
《エルザの身分を正式に証明できれば、国王との面会手続きは大幅に短縮されると予測します》
「王の娘が案内役なのだから、門前払いにはされないだろう」
《同意します》
エルザは腕を絡めたまま、街道へ向かって歩き出した。
「行こう。もうすぐ家に帰れる」
◇
展望台から王都の城門までは、緩やかな下り道が続いていた。
土鬼族が造ったという石畳は、重い荷車が何台通っても崩れないほど頑丈だった。
左右には排水路が設けられ、豪雨の痕跡はほとんど残っていない。
高度が下がるにつれ、王都の城壁が大きく迫ってくる。
開口部を流れる大河には、幅の広い石橋が架けられていた。
橋の先に、複数の尖塔を持つ巨大な城門がある。
陸上の入口だけでも六つの通路に分かれ、荷車、住民、観光客がそれぞれ別の列を作っていた。
川側には低い水門があり、鱗人族が泳いだまま検査を受けている。
水門の横には半分水へ沈んだ台が設けられ、オレンジ色の宝玉を備えた装置が並んでいた。
「あれが身分証の読み取り機か?」
「そうだよ」
エルザは荷物の中から、細い金属製のブレスレットを取り出した。
中央には、爪の先ほどの紫色の宝玉が取りつけられている。
彼女はそれを左手首へ装着した。
「普段は持っているだけなのか?」
「王都の外では、つけなくてもいいから。森で失くしたら困るでしょ?」
「王都の中では?」
「住んでいる人は、みんな左手につける決まり」
司は周囲の住民を確認した。
ルミエール人も、猫人族も、土鬼族も、確かに左手首へ同じ形のブレスレットを装着している。
《紫色宝玉から、微弱な情報信号を検出》
《ベリシーア号で確認した宝玉技術と、基本原理が類似している可能性があります》
「個人情報を記録する装置らしい」
《推測どおりであれば、極めて小型かつ大容量の記憶媒体です》
《オレンジ色宝玉は、情報の読み出しと認証を行う装置と考えられます》
列は滞ることなく進んでいた。
住民が左腕を装置へ近づけるたび、オレンジ色の宝玉が光り、その上へ文字が浮かび上がる。
衛兵は内容を数秒確認し、通行を許可する。
「名前や住所だけじゃなく、仕事や税金を払っているかどうかも分かるよ」
「税金の滞納者を、城門で発見できるわけか」
「どこの役所でも読み取れるから、隠すのは難しいと思う」
《地球の電子行政に相当する住民管理が、宝玉によって実現されています》
《社会全体の技術水準に対し、情報管理技術だけが不自然に高度です》
ベリシーア号の生存者が、宝玉の製造装置を持ち出した可能性。
司はリベールの説明を思い出した。
異星文明の技術が、三万八千年を経て王都の行政を支えているのかもしれない。
やがて、二人の順番が来た。
検問を担当しているのは、濃紺の鎧を身につけた猫人族の衛兵だった。
「身分証を」
エルザが左腕を差し出す。
衛兵はブレスレットを、オレンジ色の宝玉へ近づけた。
紫色の宝玉が淡く輝く。
読み取り機の上へ、複数の情報が浮かび上がった。
『氏名――エルザ』
『種族――ルミエール士族』
『身分――ルミエール王族』
『住民資格――有効』
『納税状況――正常』
『身元保証資格――有効』
表示を見た衛兵の耳が、勢いよく立った。
「エルザ王女殿下……!」
周囲の衛兵たちも、すぐに姿勢を正える。
エルザは困ったように笑った。
「普通にして。今は検問を受けに来ただけだから」
「しかし、長くお戻りにならないため、王城では――」
「その話は、お城へ帰ってから聞く」
衛兵は何か言いたそうだったが、結局うなずいた。
司は表示とエルザの横顔を見比べた。
「分かってはいたが……本当に王女なんだな」
エルザが振り返る。
「またそれ?」
「疑っていたわけではない。正式な記録と衛兵の態度を見て、改めて実感しただけだ」
「王族だって普通だよ」
「少なくとも、地球の王族は森で裸になって川へ飛び込まない」
「水浴びしない方が汚いよ」
論点が違う。
司はそれ以上説明することを諦めた。
猫人族の衛兵が、司へ視線を移した。
ライフル。
走行スーツ。
腰の装備。
そして人間の顔。
衛兵の表情が、再び職務上の厳しいものへ戻る。
「こちらの方は?」
「ツカサ。私の命を助けてくれた人で、大切な仲間」
エルザは迷うことなく答えた。
「王都での身元は、私が保証する」
「身分証をお持ちですか?」
「持っていない」
司が答えると、衛兵は隣の受付台を示した。
「一時滞在者登録が必要です。武器についても申告していただきます」
「従おう」
受付を担当するルミエール人が、新しいブレスレットを用意した。
エルザのものより簡素な金属製で、同じように小さな紫色の宝玉がついている。
「氏名を」
「ツカサ」
「種族は人間で間違いありませんか?」
司は一瞬考えた。
身体の大半が機械へ置き換えられているとしても、生まれた種族は人間だ。
「人間だ」
「出身士族、または出身国は?」
「この地域には存在しない国だ」
受付のルミエール人が手を止めた。
「国名を記録します」
「大東亜連合国」
聞き慣れない名前に、周囲の衛兵たちが顔を見合わせる。
「訪問目的は?」
「この国の王へ、自分がこの世界へ来た経緯を説明するためだ」
エルザが補足した。
「私が直接、お父様へ案内する」
王女本人の言葉を受け、受付の者はそれ以上質問しなかった。
司はライフル、拳銃、ナイフ、そのほか武器として使用可能な装備を申告した。
受付係は見慣れない名称を一つずつ確認し、読み取り機へ入力していく。
最後に、エルザのブレスレットと司の仮ブレスレットを続けて読み取らせた。
二つの紫色の宝玉が同時に光る。
『登録区分――一時滞在者』
『氏名――ツカサ』
『種族――人間』
『出身――大東亜連合国』
『身元保証人――エルザ(ルミエール王族)』
『武器携行――申告済み』
「登録が完了しました。王都内では、必ず左腕へ装着してください」
司はブレスレットを受け取り、左手首へ固定した。
紫色の宝玉が一度だけ明滅する。
《未知の信号が、司の生体情報を読み取っています》
「危険は?」
《現時点では確認できません》
《ブレスレット単体に、現在位置を外部送信するほどの出力はありません》
《ただし、読み取り機へ接触した際の行動記録は保存される可能性があります》
「ずいぶん徹底した管理だ」
《同意します》
衛兵が城門側へ一歩退き、道を開けた。
「始まりのルミエールへようこそ」
巨大な門の向こうに、王都の大通りが続いていた。
石造りの建物。
軒先を連ねる商店。
荷車を引く土鬼族。
屋根の上を軽々と移動する猫人族。
水路を泳ぎながら、観光客へ手を振る鱗人族。
遠くの空では、先ほどの真竜が王城の上を旋回している。
食べ物を焼く香り。
酒場から聞こえる笑い声。
船着き場へ客を呼び込む声。
十万人の生活が生み出す音と匂いが、司を一斉に包み込んだ。
エルザは司の手を取った。
「行こう、ツカサ」
「どこへ?」
「まずはお城。みんなにツカサを紹介したいの」
王都の中央には、巨大な王城がそびえている。
司はエルザと並び、石畳の大通りへ足を踏み出した。
文明の始祖が残した遺跡。
地球へ帰るためのゲート。
そして、エルザが生まれ育った王都。
この街で、自分の旅が大きく動き始める。
そんな予感があった。
だが、王城の地下深くに何が眠っているのかを、このときの司はまだ知らなかった。
――第十二話・終




