第11話「豪雨の休息」
司とエルザがベリシーア号をあとにしてから、二日が過ぎた。
三万八千年もの間、最後の艦長を守り続けた異星の船は、再び深い眠りへ戻っている。
だが、司の電脳には、リベールから受け取った大量の情報が残されていた。
惑星全体の地形データ。
文明の始祖が残した遺跡の位置。
古代の生物、種族、文化に関する調査資料。
そして、地球へ帰還する手掛かりとなるゲートシステムの記録。
目的地は変わっていない。
二人はこれまでどおり、始まりのルミエールを目指して歩き続けていた。
◇
旅を再開して二日目の夕方。
太陽が西の山並みへ近づき、森の中へ長い影が伸び始めていた。
司とエルザは、幅の狭い谷を流れる川に沿って進んでいた。
周囲には巨大な樹木が密生し、枝葉が空を覆っている。
気温は高く、湿度も一日中下がっていない。
司が進行方向の地形を走査していると、前を歩いていたエルザが突然足を止めた。
「どうした?」
エルザは答えず、長いプラチナブロンドの髪を指先ですくった。
風に揺れる髪の感触を確かめるように、何度か指の間を滑らせる。
長い耳が、わずかに動いた。
ぴくり。
さらにもう一度。
「エルザ?」
「ちょっと、空の様子を見てくる」
「空?」
エルザは近くにあった大木へ駆け寄った。
太い幹へ足を掛け、表面のわずかな凹凸を利用して、一気に身体を持ち上げる。
枝から枝へ飛び移り、瞬く間に高い場所まで登っていった。
司はあっけに取られて、その姿を見上げた。
強化装甲を使えば、司にも同じことはできる。
だが、安全装置も命綱も使わず、あれほど軽々と木を登ろうとは思わない。
「いったい、何を見ているんだ?」
《周辺に大型生物の反応はありません》
《彼女は西の方角を観察しているようです》
司は電子眼の倍率を上げた。
エルザは地上から三十メートル近い高さにある枝へ腰を下ろしていた。
左腕の盾を身体の前へ回し、内側に設けられた小さな物入れを開く。
そこから、金属製の短い筒を取り出した。
筒の両端を引っ張ると、三段に伸びる。
小型の単眼鏡だった。
エルザは片目へ単眼鏡を当て、西の空を見つめている。
司も木々の隙間から西の空を確認した。
夕日に照らされた山々。
そのさらに向こう側。
地平線近くに、分厚い黒雲が広がっていた。
雲の下では、遠くの山が白くかすんでいる。
雨が降っているのだろう。
数羽の鳥が、普段よりも低い高度を飛びながら東へ向かっていた。
しばらくすると、エルザは単眼鏡を縮め、盾の物入れへ戻した。
木の幹を滑り降りるようにして、司の前へ戻ってくる。
「ツカサ。今日は、テントをいつもより頑丈に造って」
「何を見てきたんだ?」
「西から大きな雨雲が来てる。明日は大雨だよ」
エルザは、迷いなく言い切った。
「明日はたぶん、ずっと降ると思う。だから移動しないで、ここで休息するの」
「本当なのか?」
司は空を見上げた。
今いる場所には、まだ夕日の光が届いている。
すぐに豪雨が来るようには見えなかった。
《気圧の低下を確認しています》
AIが答えた。
《過去三時間で、低下速度がわずかに上昇しました》
《湿度は高い状態を維持しています。風向も西寄りへ変化し始めています》
「大雨になる可能性は?」
《気象観測衛星がなく、上空の詳細な気流も観測できないため、正確な予測は困難です》
《ただし、雲の状態、鳥類の移動、気圧、湿度、風向を総合すれば、まとまった降雨が発生する可能性は高いと判断します》
AIは一秒ほど間を置いた。
《この環境で長年生活してきた彼女の経験は、十分に信用する価値があります》
「分かった」
司は周辺地形の走査範囲を広げた。
「明日は移動を中止する。一日、休息日にしよう」
「やった!」
エルザが満面の笑みを浮かべた。
「そんなに休みたかったのか?」
「うん。ツカサと一日中、テントの中でごろごろできる」
「……それが目的なのか?」
「もちろん」
エルザは、うれしそうに司の腕へ抱きついた。
何がそこまで楽しいのか、司にはいまひとつ理解できなかった。
だが、エルザが喜んでいるのであれば、悪いことではない。
◇
豪雨に備えるなら、川の近くへテントを張ることはできない。
司は川岸から約二百メートル離れた場所に、平坦な岩盤を見つけた。
川面よりも五メートル以上高い。
周囲の木々には、過去に増水した痕跡も残っていない。
地形は緩やかに傾斜し、雨水がテントの周囲へたまりにくい。
「ここにする」
司は携帯型レプリケータを地面へ降ろした。
《野営地の安全性を確認》
《予想される降雨量が不明なため、通常よりも大きな安全率を設定することを推奨します》
「そのつもりだ」
司は、いつもより太い骨組みを生成した。
強化樹脂製の支柱。
地中へ深く固定する長いアンカー。
二重構造の防水膜。
地面から三十センチ浮かせる床材。
排水用の溝を形成する細い部材。
風を受けにくくするため、テント全体の高さも通常より低くした。
司が骨組みを組み上げる横で、エルザは生成された部材を運んだ。
「これは、どこ?」
「その支柱は反対側だ」
「こっち?」
「ああ。そこへ置いてくれ」
「これは?」
「床を固定する部品だ」
「じゃあ、これは?」
「……一度に聞くな」
エルザは楽しそうに笑った。
二人で作業を始めてから、約一時間。
岩盤の上に、豪雨と強風を想定した低いドーム型テントが完成した。
防水膜は二重に張られ、二枚の間には空気の層が設けられている。
外側の膜を通過した水が内側へ到達しないよう、下部には排水経路も造られていた。
床は完全に地面から浮いている。
内部には、二人が並んで眠れる幅の簡易ベッドが固定されていた。
入口は風下となる東側へ向けている。
さらにテントの周囲へ浅い排水溝を設け、流れ込んだ雨水が斜面の下へ抜けるようにした。
「これなら、多少の雨では問題ない」
エルザはテントの膜を両手で押した。
「いつものより硬いね」
「強い雨だけじゃなく、風も考えてある。夜中に外へ出る必要がないよう、水と食料も中へ入れておくぞ」
「うん」
司が装備品の防水処理を始めると、AIが話しかけてきた。
《休息を取るのであれば、私はベリシーア号から受信したアーカイブを整理したいと考えています》
「まだ終わっていなかったのか?」
《想定していた以上に圧縮率が高く、情報形式も複雑です》
《安全性を確認しながら展開しているため、解析には時間を要します》
「どれぐらいだ?」
《全体像を把握するだけでも数日必要です》
《ただし、警戒用レーザースキャナ、生体反応センサー、気象センサーは独立して常時監視します》
《司とエルザは、ゆっくり休息していただいて問題ありません》
「分かった。そうさせてもらう」
司は固定アンカーの状態を確認した。
「すぐに使えそうな情報が見つかったら、その都度知らせてくれ」
《承知しました》
《それでは、アーカイブの展開と分類を開始します》
◇
野営地の準備を終えた頃には、太陽が山の向こうへ沈みかけていた。
雨雲が到達するまでには、まだ少し時間がある。
司とエルザは川へ向かった。
ただし、装備品はすべて高台のテントへ置き、警戒センサーだけを周囲へ配置する。
二人は川辺で衣服を脱ぎ、流れの緩やかな浅瀬へ入った。
一日歩き続けた身体から、汗と土を洗い流す。
冷たい水が、火照った肌に心地よかった。
エルザは長い髪を水へ浸し、両手で丁寧に洗っている。
最初の頃であれば、司は彼女の裸体を意識して視線の置き場に困っていただろう。
だが、毎日のように一緒に水浴びを続けているうちに、それも二人にとって自然な習慣になっていた。
「ツカサ。背中、洗って」
エルザが司へ背中を向ける。
「ああ」
司は布を受け取り、エルザの肩から背中へ滑らせた。
濡れた金髪が、細い腰の近くまで流れている。
「もう少し右」
「ここか?」
「うん。そこ」
エルザは満足そうに目を閉じた。
《周囲百メートル以内に危険な生体反応はありません》
「今は報告しなくていい」
《安全確認は重要です》
「分かっている」
エルザが振り返る。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
エルザは不思議そうに首を傾けたあと、笑いながら司の胸へ水をかけた。
◇
水浴びを終えた二人はテントへ戻り、夕食の準備を始めた。
ワイバーンの干し肉。
エルザが持ってきた芋の粉で作る平焼きパン。
川辺で採取した香草。
司は干し肉を細かく切り、水と香草を加えて煮込んだ。
肉が柔らかくなったところで、エルザが焼いた平たいパンを添える。
食事をしている間にも、西の空から黒い雲が近づいていた。
夕暮れの赤い光が雲へ遮られ、森全体が普段より早く暗くなっていく。
風も少しずつ強くなっていた。
木々の枝葉が、ざわざわと音を立てる。
「明日は本当に降りそうだな」
「だから言ったでしょ?」
「ああ。疑って悪かった」
「私は森のことなら、ツカサより詳しいよ」
「認める」
司が素直に答えると、エルザは満足そうに胸を張った。
◇
夕食を終えると、司はいつもどおり夜空の観測を始めた。
三つの月は、まだ雲に隠れていない。
最も大きな月。
その右上に浮かぶ、二番目の月。
そして、機械的な模様を持つ最も小さな人工天体。
司は電子眼を望遠モードへ切り替え、月と恒星の位置を記録していく。
ベリシーア号から星図を入手したとはいえ、地球側の座標系と対応させる方法は見つかっていない。
自分たちが銀河のどこにいるのかを特定するには、観測を続ける必要があった。
エルザも、しばらく司の隣へ座っていた。
肩と肩を触れ合わせ、同じ空を眺める。
しかし、風が強くなると、エルザは司の腕へ頬を寄せた。
「寒くなってきた」
「先にテントへ入っていろ」
「ツカサは?」
「あと二十分ぐらいで終わる」
「また二十分?」
「ああ」
「分かった。ベッドで待ってる」
エルザは立ち上がった。
数歩進んだところで振り返る。
「今日は、あまり待たせないでね」
「努力する」
「絶対だよ」
エルザは念を押してから、テントの中へ入っていった。
司は再び空を見上げた。
西側では、恒星が次々と雲の中へ消えている。
予定していた観測項目を急いで記録し、データを保存した。
約二十分後。
司は警戒装置と排水設備を確認し、テントへ戻ろうとした。
そのときだった。
《有益と思われる情報を発見しました》
AIが突然告げた。
司は足を止めた。
《聞こう》
《ベリシーア号のアーカイブには、この惑星に住む複数の知的種族に関する生物学的、文化的調査資料が含まれていました》
「それは確かに有益だな」
《ルミエール系種族に関する資料も存在します》
「エルザたちのことか?」
《はい》
《まず、彼女たちの耳介には、地球人よりも高密度の感覚神経が分布しています》
「それで遠くの音が聞こえるのか?」
《聴覚性能にも関係しますが、触覚器官としても極めて敏感です》
「触覚?」
《親密な相手との接触において、耳先へ優しく触れる行為は、強い信頼と愛情を示す場合があります》
司はテントへ向けていた足を止めた。
「……それが、今すぐ必要な情報なのか?」
《即応性の高い情報と判断しました》
「どういう基準だ」
《これから司は、彼女と親密な時間を過ごすのですよね?》
「相変わらず、遠慮というものがないな」
《事実確認です》
《資料によれば、耳先へ軽く息を吹きかける、または痛みを与えない程度に甘く噛む行為も、高い触覚反応を引き起こすと記録されています》
「おい!」
《ただし、注意事項があります》
AIは司の抗議を無視して続けた。
《相手の許可なく強く引っ張る行為、耳の内側へ指を入れる行為、根元を強く圧迫する行為は、攻撃または侮辱と受け取られる可能性があります》
「そういう文化的な禁則事項を先に説明しろ」
《失敗の回避よりも、成功率の向上を先に報告しました》
「報告の順番がおかしいだろう」
《今後改善します》
司は右手で頭をかいた。
「ほかにもあるのか?」
《種族文化、家族形態、恋愛観、精神修養、身体的特徴など、多数の資料があります》
「分かった。明日、まとめて聞く」
《要約を作成しておきます》
「頼む」
《それでは、健闘を祈ります》
「何に対してだ」
AIからの返答はなかった。
司は小さくため息をつき、テントの入口を開いた。
内部には暖かな照明が灯っている。
ベッドの上では、エルザが掛け布にくるまり、顔だけを出していた。
司を見るなり、長い耳がぴくりと動く。
「は・や・く」
「二十分と言っただろう」
「待ってる二十分は長いの」
「明日は昼まで寝るつもりじゃなかったのか?」
「だから今日は、いつもより遅くまで起きてても大丈夫」
「最初から、それが目的だったのか?」
「もちろん」
エルザが掛け布を少し持ち上げ、司へ手招きする。
「早くおいで」
司は装備を外しながら、エルザの長い耳を見た。
「どうしたの?」
「いや」
司は口元へ、わずかな笑みを浮かべた。
「今日は、少し試してみたいことがある」
エルザは不思議そうに首を傾けた。
その耳先が、照明の下でわずかに揺れる。
司はテントの照明を消した。
外では風が強まり、枝葉が大きくざわめいていた。
やがて訪れる豪雨を前に、二人だけの長い夜が静かに始まった。
◇
ザザザザザザザザ……。
激しい雨音が、テント全体を包み込んでいた。
外側の防水膜を、大粒の雨が絶え間なく叩いている。
時折、強い風が吹きつけ、骨組みが低く音を立てた。
それでもテントは揺れるだけで、変形してはいない。
雨水は外周の排水溝を流れ、斜面の下へ排出されている。
司は、雨音の中でゆっくりと目を開けた。
《おはようございます》
「……雨か?」
《はい》
《夜明け前から降り始め、現在も継続しています》
《時間雨量は増加傾向です》
「エルザの言ったとおりだな」
《予測は極めて正確でした》
司は身体を起こそうとした。
だが、左腕が動かない。
故障ではない。
エルザが司の左腕を枕にして、すやすやと眠っていた。
長い金髪が司の胸と腕へ広がっている。
昨夜遅くまで起きていたせいか、目を覚ます気配はない。
司は起こさないよう、右手だけを動かした。
「今、何時だ?」
《この惑星における標準時は、まだ定義されていません》
《地球の時刻単位へ換算した場合、午前十一時四十三分です》
「もう昼前か」
司はテントの天井を見上げた。
「どうも、こっちへ来てから一日が早く感じる」
「実際には、地球より一日の時間が短いんじゃないのか?」
《その可能性については、すでに算出済みです》
「本当か?」
《これまで蓄積した太陽の南中時刻、恒星の移動量、二つの自然衛星の軌道変化から、自転周期を推定しました》
《この惑星の一日は、地球時間で約二十三・八五時間です》
「二十三・八五時間……」
《地球の一日より約九分短い計算になります》
「九分だけか」
《はい》
《体感できるほどの差ではありません》
「なら、俺の気のせいか」
《時間を短く感じるのであれば、それは司の現在の生活が充実しているためと推測します》
「充実……か」
司は右手で頭をかいた。
地球へ帰る。
その目的は変わっていない。
仲間たちの消息も分からない。
自分が軍人であることも忘れてはいない。
それでも、この世界へ来てから過ごした日々を、ただ苦しいだけだったとは思わなかった。
集落の人々を助けた。
未知の生物と戦った。
異星の宇宙船を発見した。
帰還への手掛かりも得た。
そして今、左腕にはエルザが眠っている。
司は、しばらく彼女の寝顔を見つめた。
◇
「昨日の資料整理は、どこまで進んだ?」
司は、声を発することなくAIへ問いかけた。
《全体の〇・七パーセントです》
「一日かけて、それだけか?」
《展開した情報量だけでも、地球の一般的な大型図書館数百施設分に相当します》
《さらに、未知の情報形式を変換しながら分類しています》
「それなら仕方ないな」
《ただし、ルミエール系種族に関する資料の概要は整理できました》
「聞かせてくれ」
《最初に注意事項があります》
《これらは、ベリシーア号の調査団が約三万八千年前に記録した情報です》
《現在の文化へ、そのまま適用できる保証はありません》
「分かっている。参考情報として聞く」
《承知しました》
AIは、整理した内容を説明し始めた。
ルミエール系種族は、森や河川、土地そのものを共同体の一部として考える傾向が強い。
自然を支配するのではなく、必要な分だけ恵みを受け取り、その環境を次の世代へ引き継ぐことを美徳としていた。
個人同士の関係では、嘘をつかないこと。
自分の感情を偽らないこと。
相手の意思と自由を尊重すること。
それらが特に重視されていた。
「家族や結婚についての資料もあるのか?」
《あります》
《ただし、地域差が非常に大きかったようです》
《地球の多くの地域で見られる、二人だけの排他的な婚姻制度は一般的ではありませんでした》
《複数の成人が家族共同体を形成し、子供を共同で育てる例も多数記録されています》
「複数の伴侶を持つことも珍しくなかった?」
《そのようです》
《ただし、人数や関係形式よりも、当事者全員が互いの意思を理解し、何も隠していないことが重要とされていました》
《嫉妬はしないのか?》
《いいえ》
AIは即座に否定した。
《生物学的な感情反応そのものは、地球人と大きく変わりません》
《嫉妬、憎悪、劣等感、優越感などの負の感情も発生します》
《ただし、その感情を理由に相手を束縛すること、傷つけること、自由を奪うことを極めて醜い行為と考えていました》
「感情を持たないんじゃなく、制御するのか」
《正確には、自分の感情を認識し、その責任を他者へ押しつけないための精神修養です》
《幼少期から、感情を言葉へ置き換える訓練や、怒りや嫉妬が生まれた理由を自分自身で考える訓練を受けていたと記録されています》
「感情を殺すわけじゃないんだな」
《感情を消そうとする行為は、自分自身への虚偽とみなされる場合もあったようです》
《彼らが嫌っていたのは、負の感情そのものではありません》
《感情を隠し、正当化し、他者を傷つける行為です》
司は、眠っているエルザを見た。
彼女はいつも率直だった。
うれしいときは笑う。
不満があれば、すぐに顔や耳へ表れる。
司と一緒にいたいと思えば、恥ずかしがることなく口にする。
裏表がなく、自分の気持ちをごまかさない。
それはエルザ個人の性格だけではなく、彼女が育った文化にも由来しているのかもしれない。
「ほかに特徴は?」
《物理的な美しさよりも、精神の美しさを重視していたと記録されています》
《外見が整っているかどうかではなく、誠実であること、弱い者を無意味に傷つけないこと、自分の力を誇示しないことが評価されました》
《裏切り、他者の不幸を喜ぶ行為、自分を優位に見せるための虚偽は、強く嫌われていました》
「なるほどな…」
傍らで眠るエルザには、司とAIが会話していることすら分からないはずだった。
そのとき、司の左腕を枕にしていたエルザの耳が、ぴくりと動いた。
やがて、閉じられていた瞼がゆっくりと開く。
緑色の瞳が、すぐ近くから司を見上げた。
司はそこで初めて、実際に声を出した。
「おはよう」
「おはよう、ツカサ」
エルザは眠たそうに答えたが、視線を司の顔から外そうとはしなかった。
「いつから起きていた?」
「少し前から」
「なら、何か言えばいいだろう」
「ツカサの顔を見てたかったから」
「俺の顔なら毎日見ているだろう」
「こんなに近くで、ゆっくり見られる日は少ないよ」
エルザは司の左腕へ頬を寄せたまま、外の雨音へ耳を傾けた。
司は先ほどAIから聞いた内容を思い返した。
自分の感情を偽らないこと。
相手の意思と自由を尊重すること。
負の感情を理由に、他者を束縛しないこと。
古い記録が、現在のエルフにも当てはまるとは限らない。
それでも、目の前にいるエルザの考え方と重なる部分は多かった。
「エルザ」
「なに?」
「お前たちの間では、自分の気持ちを隠すのは、よくないことなのか?」
エルザは少しだけ考えた。
「隠すことが全部悪いわけじゃないよ」
「そうなのか?」
「言いたくないことや、まだ言えないことは、誰にでもあるから」
エルザは右手を伸ばし、司の胸へそっと触れた。
「でも、自分の気持ちを自分で認めないのは、よくないことだって教わった」
「自分の気持ちを認める?」
「好きなら、好きだって自分で分かっていないと駄目なの。嫌なら嫌、寂しいなら寂しいって」
「ずいぶん単純だな」
「難しくするから、分からなくなるんだよ」
「そういうものか?」
「そういうもの」
エルザは微笑んだ。
「それに、誰かを好きになっても、その人を自分だけの物にしようとしちゃ駄目なの」
「なぜだ?」
「好きな人が自由でいることを喜べないなら、それは本当に好きってことじゃないから」
司は答えなかった。
エルザは、司が地球へ帰ろうとしていることを知っている。
帰還方法を見つければ、司がこの世界を去る可能性があることも理解しているはずだった。
「ツカサが故郷へ帰りたいことも、分かってるよ」
エルザは、まるで司の思考を読んだように言った。
「私は、それを邪魔したくない」
「それでも、俺と一緒に来たのか?」
「うん」
「どうしてだ?」
「今、一緒にいたいから」
エルザは迷わず答えた。
「いつか別れるかもしれないからって、今の気持ちまで嘘にする必要はないでしょ?」
司は言葉を失った。
別れの可能性を恐れるあまり、最初から誰かを遠ざける。
地球では、それを賢明な判断だと思う人間もいるだろう。
だが、エルザは違う。
未来がどうなるか分からなくても、今抱いている気持ちを隠そうとはしない。
エルザは司の腕の中で少し身体を起こした。
長い金髪が肩から流れ落ちる。
そして、司の顔をまっすぐに見つめた。
「ツカサ」
「なんだ?」
エルザは柔らかく微笑んだ。
「大好き」
あまりにも真っすぐな言葉だった。
司は何かを答えようとした。
だが、適切な言葉が見つからない。
結局、右手を伸ばし、エルザの髪を優しく撫でた。
エルザは満足そうに目を細め、再び司の左腕へ頬を預ける。
外では、森全体を覆い尽くすような豪雨が降り続けていた。
防水膜を叩く激しい雨音。
谷を流れる水の音。
強風に揺れる木々の音。
そのすべての音よりも、エルザの告げた一言の方が、司の胸にははっきりと残っていた。
地球へ帰る。
その目的は、今も変わっていない。
だが、この世界を去ることが、少しだけ重い意味を持ち始めている。
司は腕の中のぬくもりを感じながら、静かに雨音へ耳を傾けた。
――第十一話・終




