9.
9.
それから数日後。
ルーカス・グレイ率いる海賊船は、西海でも有数の大国、その王都港へと入港した。
夜明けから穏やかだった海は、港へ近づくにつれて賑わいを増していく。
石造りの巨大な岸壁。
林立する帆柱。
香辛料や果実の匂いを運ぶ風。
異国の言葉が飛び交い、荷を担ぐ男たちが忙しなく走り回っていた。
商船。
軍艦。
貴族の豪奢な遊覧船。
そして、海賊船。
本来ならば港の隅へ追いやられるはずの黒い船は、まるで当然のように中央の岸壁へ横付けされる。
誰一人、異を唱える者はいない。
兵士たちは黒い帆を見るなり姿勢を正し、自ら道を開けた。
その光景を、インユーは甲板の端から黙って見つめていた。
『……海賊船が、こんな堂々と港へ入っていいのかよ。』
近くで積荷を確認していたガレットが、豪快に笑う。
「うちは特別だからな。」
『特別?』
「女王陛下公認ってやつだ。」
『……。』
「言ってなかったか?」
ガレットは大きな手で、ぐしゃぐしゃとインユーの頭を撫で回す。
『やめろ。』
「怒んな怒んな。」
その手を鬱陶しそうに払いながらも、インユーの視線は港から離れなかった。
女王直属海賊――《エンペリアルスカル》。
最初に聞いた時は冗談だと思った。
海賊が国に認められているなど、笑い話にもならないと思っていた。
だが、この一か月で嫌というほど思い知らされた。
ルーカス・グレイは、ただの海賊ではない。
王国に従う犬でもない。
女王が国境の外で振るう、一本の黒い刃。
法では裁けぬ者を沈めるためだけに存在する悪魔。
それでも。
まだ全てを信じたわけではなかった。
ただ一つだけ。
この船に乗る者たちが、ただ略奪だけを繰り返す海賊ではないことだけは、もう理解していた。
兄を奪ったのが、この男たちではないのな
ら。
――自分は、何を追ってここまで来たのだろう。
そんなことを考え始めた、その時だった。
「インユー。」
低い声。
振り返れば、黒いコートを肩へ羽織ったルーカスが立っていた。
「来い。」
『……どこへ。』
「会わせたい奴がいる。」
『誰。』
「来れば分かる。」
『説明が足りない。』
「足りなくても歩け。」
『……ほんと嫌いだ、お前。』
「そうか。」
興味もなさそうに返すと、ルーカスはさっさと歩き始める。
インユーは不満そうに眉を寄せながらも、その背中を追った。
◇◇◇
港を抜けると、街並みは一変した。
白い壁。
青い屋根。
石畳を馬車が静かに走り、広場では吟遊詩人が竪琴を奏でている。
花壇には色鮮やかな花が咲き、笑い合う親子の姿がある。
飢えた子どもはいない。
焼け落ちた家もない。
戦火の匂いもない。
あまりにも穏やかなその街並みは、逆にインユーを落ち着かなくさせた。
やがて辿り着いたのは、城へほど近い壮麗な屋敷だった。
白い大理石。
手入れの行き届いた庭園。
門には女王の紋章。
兵士たちはルーカスを見るなり胸へ手を当て、一礼する。
インユーは思わず横目でルーカスを見る。
『……お前、本当に何者なんだ。』
「海賊。」
『海賊は兵士に頭を下げられない。』
「別に頼んでねぇ。」
『……性格悪い。』
「知ってる。」
相変わらずだった。
何を言っても、この男は揺るがない。
屋敷の中は驚くほど静かだった。
磨き上げられた床。
高い天井。
窓から差し込む午後の陽光。
どこか薬草の香りが漂っている。
ルーカスは迷うことなく廊下を進み、一つの部屋の前で立ち止まった。
扉の前には兵士が二人。
二人は無言で扉を開ける。
「入れ。」
胸がざわつく。
理由は分からない。
けれど、この扉の向こうに、自分の運命を変える何かが待っている。
そんな予感だけがあった。
一歩。
また一歩。
部屋へ足を踏み入れる。
薬の香り。
白い寝台。
窓辺に揺れる薄いカーテン。
そして。
一人の男が、椅子に腰掛けていた。
黒髪。
黒い瞳。
左腕には幾重にも巻かれた包帯。
頬には薄い傷。
少し痩せた横顔。
それでも。
見間違えるはずがなかった。
『……。』
呼吸が止まる。
心臓だけが激しく鳴る。
男がゆっくり顔を上げる。
黒い瞳がインユーを映した。
その瞬間。
男の表情が凍りつく。
「……桜雨?」
その一言で。
張り詰めていた心が音を立てて崩れた。
『哥哥………。』
(兄様…….。)
震えた声が零れる。
次の瞬間には走っていた。
『哥哥ーーっ!』
(兄様ーーっ!)
椅子へ飛び込むように抱きつく。
勢いでユンジンの身体が僅かに揺れる。
「喂,伤员。
(おい、怪我人だぞ。)」
呆れたような声。
けれど、その腕は迷うことなくインユーの背へ回された。
強く抱き締めない。
傷が開くから。
それでも。
確かな温もりだった。
生きている。
本当に、生きている。
『哥哥……哥哥っ。』
(兄様…….兄様っ。)
涙が止まらない。
止めようとしても止まらない。
生きていると信じていた。
兄様が負けるはずがないと、
ずっと思っていた。
それでも。
夜になるたび怖かった。
目を閉じれば、
最悪の想像ばかりが浮かんだ。
「……….。」
ルーカスは二人の様子を黙って見ていた。
いつもは誰より気丈な少年が。
幼い娘のように声を上げて泣いている。
ルーカスは何も言わない。
ただ静かに、その再会を見守っていた。
ユンジンはしばらく黙ったまま妹の背中を撫でていた。
やがて、小さく息をつく。
「别哭。
(泣くな。)」
『……做不到。
(…….無理。)』
「我活着。
(俺は生きてる。)」
『……っ。』
「所以别哭。
(だから泣くな。)」
その優しい叱責が、かえって涙を溢れさせる。
インユーは兄の服をぎゅっと掴んだ。
『……云云
(……ユンユン。)』
二人きりの時だけ呼ぶ、幼い頃からの愛称。
ユンジンは一瞬だけ目を細める。
「……别像熊猫一样叫我。
(パンダみたいに呼ぶな。)」
泣きながら思わず吹き出す。
『现在说这个?
(今それ言う?)』
「说。
(言う。)」
『笨蛋……
(ばか……。)』
「你才是。
(お前がな。)」
そう言いながら、ユンジンは指先でインユーの涙を拭った。
その仕草は昔と何一つ変わらない。
ふと、その手が途中で止まる。
短く切られた黒髪。
かつて腰まで届いていた艶やかな長い髪。
今は、肩にも届かない。
ユンジンの眉が険しく寄った。
「……头发。(髪。)」
インユーは視線を逸らす。
『剪了。(切った。)』
「看得出来。(見れば分かる。)」
『为了女扮男装……不对,是男装旅行。
(男装して旅をするため。)』
「一个人?
(一人で?)」
『嗯。
(うん。)』
「从东边来到西边?
(東から西まで?)」
『嗯。
(うん。)』
「拿着刀?
(刀を持って?)」
『嗯。
(うん。)』
ユンジンは額を押さえ、長く息を吐く。
「……头疼。
(頭が痛ぇ。)」
『对不起……
(ごめん……。)』
「知道道歉,当初就别做。
(謝るくらいなら最初からやるな。)」
『可是……我听说哥哥被抓走了。
(兄様が攫われたって聞いたから。)』
「那也不能让一个姑娘独自渡海。
(だからって、女一人で海を渡る奴があるか。)」
『我穿男装了。
(男装してた。)』
「重点不是那个。
(そういう問題じゃねぇ。)」
インユーは唇を噛む。
俯いたまま、小さく呟いた。
『我以为……又失去了重要的人。
(また、大切な人を失ったと思った。)』
『这一次……我不要什么都不做,只能等。
(今度は、何もしないまま待つなんて嫌だった。)』
ユンジンは何も言わなかった。
叱る言葉は、もう出てこない。
代わりに、短くなった髪へそっと触れる。
「……平安就好。
(無事でよかった。)」
その一言だけで。
インユーの瞳は、再び涙で滲んだ。
部屋の隅では、ルーカスが静かに壁へ寄りかかったまま、その兄妹を見つめていた。
言葉は分からない。
それでも。
互いを失ったと思っていた二人が、ようやく再び出会えたことだけは、十分すぎるほど伝わっていた。
しばらくして。
ようやくインユーの涙が落ち着いた頃だった。
ユンジンはゆっくりと妹の肩を離し、その顔を改めて見つめた。
目は真っ赤に腫れ、頬には涙の跡が残っている。
それでも、生きている。
目の前で笑っている。
その事実だけで、胸の奥に張り詰めていた糸が、少しだけ緩んだ。
ユンジンは静かに息を吐く。
『……瘦了。
(痩せたな。)』
インユーはむっと頬を膨らませる。
『哥哥才是。
(兄様こそ。)』
『脸色很差。
(顔色、悪いよ。)』
『是不是没好好吃饭?
(ちゃんとご飯食べてないでしょう?)』
ユンジンは少しだけ目を逸らした。
『……没胃口。
(食欲がなかった。)』
『骗人。(嘘つき。)』
『真的。(本当だ。)』
『骗人。(嘘。)』
泣いたばかりなのに。
そんな他愛ないやり取りが始まる。
幼い頃から変わらない。
心配になると、インユーは兄を叱る。
叱られるたび、ユンジンは困ったような顔をする。
それを見ていたルーカスは、小さく鼻で笑った。
「……兄弟だな。」
二人が同時に顔を上げる。
インユーは慌てて西の言葉へ切り替えた。
『兄様、ごめん。』
「ああ。」
ユンジンも西の言葉で短く返す。
それから改めてルーカスへ向き直り、静かに頭を下げた。
「先ほどは失礼した。」
「会えたことが嬉しくて、礼も言わずにいた。」
ルーカスは肩を竦める。
「気にしてねぇ。」
「だが。」
ユンジンは真っ直ぐルーカスを見る。
「俺は借りを作るのが嫌いだ。」
「この恩は、必ず返す。」
部屋に静けさが落ちる。
ルーカスは数秒、ユンジンを見つめていた。
その碧眼には、相手を値踏みするような鋭さがあった。
「借りなんざ気にするな。」
「お前の弟が毎日うるさかっただけだ。」
インユーがぴくりと肩を震わせる。
『だから、うるさくないって。』
「泣きそうな顔して、毎日兄貴のこと考えてたろ。」
『してない。』
「してた。」
『してない。』
「船員全員知ってる。」
ガレットなら腹を抱えて笑いそうなやり取りだった。
インユーは恥ずかしさで耳まで赤く染める。
『……っ。』
「図星か。」
『違う!』
思わず声が裏返る。
その反応に、ルーカスは珍しく口元だけを緩めた。
ユンジンは二人を見比べ、少しだけ目を細める。
「……。」
何も言わない。
だが、その沈黙に気付いたのはインユーだった。
『兄様?』
「いや。」
ユンジンは短く答える。
「思っていたより、まともな男だ。」
その一言に、ルーカスは眉を上げた。
「悪かったな。」
「西海の悪魔だと聞いていた。」
「その通りだ。」
「だが。」
ユンジンは静かに続ける。
「悪魔なら、リンユーをこんな顔では帰さない。」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ柔らかくなる。
ルーカスは小さく鼻を鳴らした。
「褒めても何も出ねぇぞ。」
「褒めたつもりはない。」
「そうか。」
「事実を言っただけだ。」
二人とも無表情のまま。
なのに、どこか似た空気があった。
多くを語らず。
必要なことだけを口にする。
その様子を見ていたインユーは、交互に二人を見比べる。
『……なんか。』
「なんだ。」
『兄様とルーカスって、ちょっと似てる?』
「は?」
「却下だ。」
二人がほとんど同時に答えた。
声まで揃う。
一瞬、部屋が静まり返り――。
『……ふふっ。』
インユーが吹き出した。
くすくす。
肩を震わせながら笑う。
その笑顔を見て、ルーカスは目を見開く。
こんな顔を見るのは初めてだった。
花が咲いたように、優しく笑う横顔。
ころころ、と鈴を転がしたような笑い声。
その昔、そんな人物を知っていた。
「インユーが世話になった。」
それから、深く頭を下げた。
「妹を世話してくれたこと。」
「引き合わせてくれたこと。」
「感謝する。」
インユーは驚いてルーカスを見た。
『……お前が探したのか。』
ルーカスは肩を竦める。
「うるさかったからな。」
『は?』
「毎日、兄貴、兄貴って顔してた。」
『してない。』
「してた。」
『してない。』
「してたな。」
ルーカスは淡々と言う。
「女王に聞いた。」
「一か月前、負傷した東の商人を保護した船があると知った。」
「俺は名を照合しただけだ。」
あまりにも簡単に言う。
まるで、書類を一枚処理しただけのように。
けれど、そんなはずがない。
大国の女王へ直接問い合わせるなど、普通の者にはできない。
探してくれたのだ。
インユーが知らない間に。
ずっと。
ユンジンが静かに話し始める。
「俺の船を襲ったのは、こいつらじゃない。」
インユーは顔を上げる。
『……うん。』
「相手は、女王の名を騙った海賊だった。」
「船を襲い、積荷と人を奪るつもりだったらしい。」
「返り討ちにはした。」
その言い方が、あまりにもユンジンらしくて。
インユーは少しだけ呆れた。
『返り討ちって……。』
「だが、油断した」
「俺も怪我をした。」
「その後、力尽きたところを顔見知りの西の商船に拾われた。」
『だから帰って来れなかったんだ。』
「ああ。」
そうだったのか。
攫われたのではなかった。
殺されたのでもなかった。
ただ、怪我をして、保護されて、連絡が届かなかった。
それだけ。
それだけのことが、インユーには永遠のように長かった。
ルーカスが静かに口を開く。
「襲った連中は調べる。」
「女王の名を使ったなら、こっちの仕事だ。」
ユンジンは頷く。
「そうか。」
「俺も動けるようになったら情報を出す。」
「好きにしろ。」
そう言ったあと、ルーカスはインユーの方へ歩いてきた。
インユーは反射的に身構える。
『……なに。』
大きな手が伸びる。
頭に乗る。
乱暴ではない。
けれど、遠慮もない。
ぽん、と一度だけ撫でられた。
「よく頑張ったな。」
『……。』
言葉が出なかった。
ルーカスはそれだけ言うと、踵を返す。
黒いコートが揺れる。
そのまま部屋を出て行こうとする。
インユーは咄嗟に呼んだ。
『ルーカス。』
足が止まる。
振り返りはしない。
インユーは唇を引き結ぶ。
言いたくない。
でも、言わなければいけない気がした。
『……アリガトウ。』
ぎこちなかった。
けれど、それが今のインユーにできる精一杯だった。
ルーカスは少しだけ肩を揺らした。
笑ったのかもしれない。
「そうか。」
低い声だけを残し、扉の向こうへ消える。
部屋には、静かな光だけが残った。
インユーは閉じた扉を見つめる。
西海の悪魔。
史上最悪の海賊。
ずっと、憎むべき相手だと思っていた。
けれど。
その背中は、
思っていたのとは違っていた。
西海の悪魔と呼ばれる男は。
誰にも言わず。
見返りも求めず。
たった一人で、インユーの兄を探し出し。
何事もなかったような顔で、自分たちを引き合わせてくれた。
胸の奥が、少しだけ痛む。
嫌な痛みではなかった。
名前の付けられない、温かな痛みだった。




