8.
8.
数日後。
長かった航海を終え、海賊船は久しぶりに港へと入った。
夕暮れの空は茜色に染まり、水平線の向こうへ沈みゆく太陽が、海を黄金色に輝かせている。
港町は活気に満ちていた。
市場では魚屋が威勢よく声を張り上げ。
焼きたてのパンの香りが漂い。
露店では香辛料の効いた肉が焼かれ、湯気が立ち上る。
子どもたちが走り回り。
酒場からは陽気な歌声と笑い声が漏れ聞こえてくる。
その賑わいを見た瞬間だった。
「上陸だぁぁぁ!」
「酒だーっ!」
「女だーっ!」
「飲むぞー!」
「今日は朝まで騒ぐぞ!」
船員たちが一斉に歓声を上げた。
まるで牢屋から解放された囚人のような勢いで、次々と桟橋を駆け下りていく。
誰も彼も目が輝いている。
数週間ぶりの陸だ。
浮かれるなという方が無理なのだろう。
そんな中。
インユーだけが、一番後ろをゆっくり歩いていた。
呆れたようにその背中を眺め、小さくため息をつく。
『……それしか頭にないのか。』
ぽつりと呟く。
すると前を歩いていたガレットが、腹の底から豪快に笑った。
「その通り!」
『威張ることじゃない。』
「海の男はな!」
ガレットは胸を張る。
「喧嘩して!」
「酒飲んで!」
「女に惚れて!」
「また海へ出る!」
『最低だな。』
「褒め言葉だ!」
船員たちがどっと笑う。
「坊主にはまだ早ぇ!」
「あと十年したら分かる!」
『一生分からなくて結構だ。』
「はっはっは!」
また笑い声が上がる。
この船の連中は、本当によく笑う。
悪魔の船だと思っていた。
もっと殺伐としていて、血生臭く、怒号ばかり飛び交う場所だと思っていた。
けれど。
現実は違う。
うるさい。
騒がしい。
馬鹿ばかりだ。
……本当に調子が狂う。
◇◇◇
船員たちが向かった酒場は、この港では顔なじみらしかった。
扉を開けた瞬間。
「お帰りー!」
「グレイ海賊団だ!」
店中が一気に沸き立つ。
樽いっぱいの酒が運ばれる。
豪快に焼かれた肉料理。
魚の香草焼き。
大皿いっぱいのパン。
料理が次々とテーブルへ並べられていく。
酒場の女たちも慣れたものだった。
笑顔で酒を注ぎ。
船員たちの肩を叩き。
再会を喜び合っている。
「ガレットさーん!」
「久しぶりじゃなぁい!」
「寂しかったぁ!」
「おう!」
ガレットは豪快に笑った。
「俺も会いたかったぜ!」
あちこちで笑い声が弾ける。
誰かが歌い始め。
誰かが机を叩いてリズムを取り。
酒場全体が宴会場になっていた。
インユーは、その喧騒から少し離れた隅の席へ腰を下ろす。
皿に盛られた干し葡萄を静かに口へ運ぶ。
『……うるさい。』
そう呟いて、一人で黙々と食事を続ける。
その姿に、一人の女が気付いた。
「あら。」
「ねぇ、見て。」
「すっごく可愛い子がいる。」
その一言で、近くにいた女たちが次々と振り返る。
「本当!」
「東の子?」
「初めて見る顔!」
気付けば三人、四人とインユーの周りへ集まってきた。
インユーは食べる手を止める。
『……?』
「こんにちは。」
女がにっこり笑う。
「お名前は?」
『……インユー。』
「インユー?」
「可愛い名前!」
「リンユー?」
『インユー。』
「リンリン?」
『違う。』
「リンリンだ!」
「可愛い!」
あっという間に呼び名が決まってしまう。
『だから違う……。』
「ねぇリンリン。」
「いくつ?」
『十八。』
「えっ、本当に?」
「信じられない!」
「もっと小さいと思ってた!」
女たちは面白そうに笑う。
一人がインユーの黒髪へそっと触れた。
「髪、すごく綺麗。」
「さらさら。」
『……さわらないで。』
「照れてる!」
「可愛い!」
『やめて。』
今度は反対側から頬をつつかれる。
「綺麗なクリーム色。」
「東の子ってみんなこんな綺麗なの?」
『はなして……。』
あっという間に囲まれてしまった。
普段なら剣を抜いている距離だ。
けれど相手は町の女たち。
敵意はない。
むしろ、子犬でも可愛がるような笑顔ばかりだ。
だから、どう対応していいのか分からない。
『や、やめて……。』
完全に困り切った声だった。
その様子を見ていた船員たちは腹を抱えて笑う。
「坊主、大人気じゃねぇか!」
「羨ましい!」
「俺なんか誰も寄ってこねぇ!」
「なんでお前だけ!」
『かわって……。』
小さく呟く。
「はははは!」
笑いが止まらない。
少し離れた席では。
ルーカスが黒髪の白人女性から酒を注がれながら、その様子を眺めていた。
女がくすりと笑う。
「あの子、人気ですね。」
ルーカスはグラスを受け取り、小さく口元を緩める。
「……たじたじだな。」
その声が聞こえたのか。
インユーが助けを求めるように振り返る。
『……たすけて。』
今にも泣きそうな顔だった。
ルーカスは珍しく肩を震わせた。
「いつもの強気はどうした?」
『ルーカス、...おねがい。』
「...無理だ。」
即答だった。
船員たちはまた大爆笑する。
「船長に見捨てられた!」
「リンリン頑張れ!」
『リンリンじゃない!』
その時だった。
「あ。」
一人の女が、自分の花飾りを取り外す。
「リンリン、これ似合いそう。」
『は?』
返事を待たず。
黒く艶やかな髪へ、小さな花飾りが留められた。
「わぁ!」
「似合う!」
「かわいい!」
別の女が、指先でほんの少しだけ唇に紅を乗せる。
「これくらいなら。」
『ちょ、ちょっと……。』
酒場が静まり返った。
「…………。」
「…………。」
「…………。」
誰も言葉が出ない。
象牙色の肌。
黒髪。
大きな黒い瞳。
花飾りをつけたその姿は、あまりにも整っていて。
少年というより、美少女。
「……きれい。」
誰かが思わず漏らす。
その沈黙を破ったのは、椅子を引く音だった。
ルーカスが立ち上がる。
ゆっくり歩いてきて。
インユーの髪から花飾りを外した。
「その辺にしとけ。」
低い声。
女たちは「あら、ごめんなさい」と笑う。
ルーカスはインユーの唇を指で拭うと、軽く頭を小突いて言った。
「あんまり、うちのをいじめるな。」
「「「 はーい。 」」」
女たちは素直に引き下がる。
インユーはようやく大きく息を吐いた。
『……たすかった。』
その情けない一言に、酒場中がまた笑いに包まれる。
すると、その時だった。
「船長さん。」
先ほど酒を注いでいた黒髪の女性が、ルーカスの腕に抱きつく。
ルーカスは一度だけその女性を見ると、自然に立ち上がった。
女の腰へ軽く手を添える。
「行くぞ。」
「ええ。」
二人は並んで酒場の奥へ歩き。
階段を上り。
二階へ姿を消していった。
インユーはその背中を見送りながら小さくため息をつく。
すぐに察した。
『……最低。』
ぼそり。
その一言を聞いたガレットが酒を吹きそうになる。
「ぶっ!」
「はははは!」
「そんな顔すんな!」
『きもちわるい。』
「お子ちゃまにはまだ分かんねぇか。」
「インユーはウブだなぁ。」
『うるさい。』
ぷい、と顔を逸らす。
ガレットは面白そうに酒を煽った。
「まぁでもな。」
「船長の好みなんだよ。」
『好み?』
「黒髪。」
「黒い瞳。」
「細身。」
「昔っから全然変わらねぇ。」
インユーは思わず二階を見上げた。
そう言われれば。
西では金髪や茶髪ばかりだ。
黒髪は珍しい。
「だから東の人間見ると、船長ちょっと機嫌いいんだよな。」
『……。』
「お前も気を付けろよ。」
『なんで。』
「綺麗な顔してるから。」
『……男だ。』
間髪入れず返す。
一拍。
そして。
「ぶはっ!」
「はははは!」
周囲の船員たちが一斉に吹き出した。
「いやぁ。」
「お前ならいける気がする。」
「船長、顔しか見てねぇんじゃね?」
「東の美少年ってやつ!」
『……死ね。』
「怒った!」
「さっき止めたのも絶対アレだよな。」
「だな。」
「違いない。」
『…アレ?』
「「 やきもち。 」」
『……..。』
「あれ?照れてる?」
「リンリン照れてる?」
『ーー死ね。』
「ぎゃははは!」
酒場中に笑い声が響く。
インユーは額を押さえた。
本当に、この船はどうかしている。
するとガレットが、ふと思い出したように首を傾げた。
「そういや坊主。」
『?』
「お前、いくつなんだ?」
「さっき、女たち驚いてたろ?」
「あれ、よく聞こえなかった。」
「十。」
「いや、十一?」
「十二くらいか?」
『…………は?』
思わず聞き返す。
『俺が?』
「違うのか?」
「十三?」
「いや、十二までだな。」
「酒飲んでるから十四?」
「でも顔は十二。」
「いや十一。」
好き勝手な予想大会が始まる。
インユーは呆然と全員を見回した。
『……俺。』
一拍置いて。
『十八だ。』
酒場が静まり返る。
笑い声が止み。
歌も止まり。
誰もが口を半開きにして固まった。
「…………。」
「…………。」
「…………。」
そして。
「えぇぇぇぇぇぇっ!!」
酒場中がひっくり返るほどの大合唱。
「嘘だろ!?」
「十八!?」
「お前が!?」
「ハァー!?」
「ガキじゃねぇのか!?」
ガレットは本気で頭を抱えた。
「俺ぁ本気で十二だと思ってた!」
「俺も!」
「十三でもギリ!」
「十八はねぇ!」
インユーは頬を引きつらせた。
『……。』
ようやく理解する。
だからだったのか。
皆、自分を「坊主」と呼び。
頭を撫で。
皿に勝手に肉を盛り。
危険な仕事から遠ざけ。
弟のように面倒を見ていた。
東の人間は、西では幼く見られやすい。
それは知っていた。
だが。
まさか六つも七つも年下に見られていたとは。
『……そんなにか。』
思わず漏れる。
ガレットは真顔で何度も頷いた。
「そんなに。」
「むしろ十八って聞いた今でも信じられねぇ。」
「飯ちゃんと食ってるか?」
『毎日お前らと同じ量食ってる。』
「足りねぇんじゃね?」
『知らん。』
「もっと肉食え!」
「牛一頭いけ!」
「酒も飲め!」
『それは関係あるのか。』
「ある!」
「知らんけど!」
また酒場中が笑いに包まれる。
インユーは深々とため息をつき、額に手を当てた。
『……本当に。』
この船へ乗ってから。
毎日、毎日。
思い描いていた海賊像が壊され続けている。
『……調子が狂う。』
小さく漏らしたその呟きは、船員たちの賑やかな笑い声の中へ静かに溶けていった。




