7.
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次の日の夜からだった。
西の空を茜色に染めていた夕日が、ゆっくりと水平線の向こうへ沈む。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、船は穏やかな波に揺られていた。
甲板では船員たちが仕事を終え、それぞれ思い思いに夕食を囲んでいる。
大鍋で煮込まれたシチューの香り。
焼きたての黒パン。
酒瓶を回しながら笑い合う声。
誰かが下手な鼻歌を歌えば、別の誰かが茶々を入れる。
海賊船とは思えないほど、どこか家族のような賑やかさだった。
そんな中。
「インユー。」
低く落ち着いた声が響く。
船員たちが一斉に振り返る。
船長室の扉が開き、その前には黒い外套を羽織った男が立っていた。
ルーカス・グレイ。
西海の悪魔。
史上最悪と恐れられる海賊。
その碧眼が、真っ直ぐインユーだけを見る。
「来い。」
それだけ言うと、返事も待たずに踵を返し、船長室へ戻っていく。
『……またかよ。』
インユーは深々とため息をついた。
ここ数日、このやり取りが毎晩続いている。
『なんなんだ、あの野郎……。』
ぼそりと呟けば、近くにいた船員が肩を震わせた。
「今日も呼ばれたのか。」
「毎日だな。」
「船長のお気に入り。」
『違う。』
即座に否定する。
『断じて違う。』
「はいはい。」
「早く、行ってこい。」
「どやされるぞ。」
背中を押されるようにして歩き出す。
その小さな背を、何人もの船員が笑いながら見送っていた。
◇◇◇
船長室は昼間とほとんど変わらない。
大きな机には、山のような書類。
航海図。
海図。
取引先の一覧。
積荷の記録。
隅には開きっぱなしの分厚い帳簿。
その横には、飲みかけの酒瓶が一本。
窓は少しだけ開いていて、夜風が潮の香りを運んでくる。
ルーカスは窓際の椅子へ腰掛けたまま、海を眺めていた。
月明かりが横顔を照らしている。
こちらを見ようともしない。
「歌え。」
短い一言。
『……。』
インユーは眉間を押さえた。
『人前で歌うなって言ったの、誰だった。』
「俺だ。」
『だったら。』
「ここは人前じゃねぇ。」
『……はぁ?』
意味が分からない。
本当に。
意味が分からない。
『歌うなって言ったり。』
『歌えって言ったり。』
『意味分かんねぇ……。』
ぶつぶつ文句を言いながら、胸いっぱいに息を吸う。
静かな船室。
波の音だけが遠くから聞こえる。
聞いているのは、一人だけ。
ルーカスは椅子へ深く腰掛けたまま、酒をゆっくり口へ運ぶ。
何も言わない。
急かさない。
催促もしない。
ただ、待っている。
インユーは小さく目を閉じた。
歌が静かに流れ始める。
東の国の言葉。
幼い頃から歌ってきた、懐かしい子守歌。
波に溶けるような柔らかな旋律が、船長室いっぱいに広がっていく。
夜風がカーテンを揺らした。
酒の香り。
木造船の軋む音。
海の匂い。
その全てを包み込むように、歌声だけが静かに流れていた。
ルーカスは最後まで、一言も発さなかった。
目を閉じることもなく。
酒を飲む手さえ止めたまま。
ただ黙って耳を傾けている。
それは不思議な時間。
歌い手も。
聴き手も。
何も語らない。
それでも、その沈黙はどこか心地良かった。
やがて最後の一音が消える。
静寂が戻った。
『……終わり。』
インユーがぽつりと呟く。
数秒の沈黙。
そして。
「帰れ。」
『……。』
思わず額に手を当てる。
『一言くらいないのか。』
「ない。」
『良かったとか。』
「……。」
『下手だったとか。』
「……。」
『普通だったとか。』
「……。」
『何かあるだろ。』
「ない。」
『なんなんだ、本当に。』
扉を閉めながら、今日も首を傾げるしかなかった。
◇◇◇
そんな夜が。
一日。
二日。
三日。
気付けば毎晩続いていた。
船員たちは当然、その異変に気付く。
「また船長室か。」
「毎晩だな。」
「今日は何歌うんだろ。」
夕食後になると、皆が当たり前のようにインユーを見るようになった。
インユー本人は心底うんざりしていた。
『アイツ、頭おかしい。』
食後、甲板の樽へ腰掛けながらぼやく。
『歌うなって言ったのに。』
『夜になると歌えって呼びに来る。』
『意味分かんねぇ。』
その言葉に、ガレットが吹き出した。
「ぶはっ!」
「はははは!」
腹を抱えて笑う。
『笑うな。』
「いや、悪い悪い。」
涙まで浮かべながら肩を震わせる。
「まぁ、船長らしいっちゃ船長らしい。」
『どこがだ。』
「照れくさいんだよ。」
『……は?』
思わず聞き返す。
ガレットは酒瓶を揺らしながら、愉快そうに笑った。
「お前の歌、すげぇだろ。」
『……。』
「俺ぁ初めて聞いた時、鳥肌立った。」
近くで酒を飲んでいた船員たちも、一斉に頷く。
「分かる。」
「酒飲む手が止まった。」
「俺なんか泣きそうだった。」
「母ちゃん思い出した。」
「お前、それ毎回言ってるな。」
笑いが広がる。
ガレットは肩を竦めた。
「だからじゃねぇか?」
『だから?』
「自分だけのもんにしたいんだろ。」
『……。』
「人前じゃ歌わせねぇ。」
「でも自分は聞きたい。」
「船長、昔から独占欲だけは強ぇし。」
「宝も酒も、お気に入りは絶対人に触らせねぇ。」
別の船員も笑いながら口を挟む。
「子どもなんだよ、あの人。」
「見た目だけ立派だけどな。」
「昔、酒樽一つで本気の喧嘩してたし。」
「あったあった!」
どっと笑いが起きる。
インユーは呆れたように息を吐いた。
『幼稚……。』
言われてみれば。
思い当たる節が、なくもない。
インユーが斬りかかれば、律儀に相手をする。
『いつか殺す』と言われても笑って流す。
酒を飲みすぎて甲板で寝る。
船員相手にくだらない賭けを始める。
負ければ本気で悔しがる。
勝てば子どもみたいに笑う。
そして夜になると。
「歌え。」
それしか言わない。
『……子どもか。』
「はははは!」
ガレットは腹を抱えて笑った。
「その台詞、本人に聞かれたら海へ放り込まれるぞ。」
『別にいい。』
「言うようになったなぁ、インユー。」
大きな手が、くしゃりと黒髪を撫でる。
最初なら振り払っていた。
刀を抜いていたかもしれない。
けれど今は。
『髪、ぐしゃぐしゃになる。』
そう文句を言うだけだった。
「悪い悪い。」
ガレットは笑う。
そのやり取りを見て、周りの船員たちも笑う。
東から来た敵だった少年は。
いつしか同じ鍋を囲み。
同じ酒盛りを眺め。
同じ冗談に呆れ顔をするようになっていた。
それでも。
ルーカス・グレイだけは違う。
昼間は何事もなかったように書類へ目を通し。
部下へ指示を飛ばし。
夜になると決まって船長室へ呼びつける。
歌を聴き終えれば。
何一つ感想を言わず。
「帰れ。」
その一言だけ。
『……本当に。』
夜空を見上げながら、インユーは小さく呟いた。
『何を考えてるんだ、あの男は。』
潮風だけが、その疑問を静かにさらっていった。




