6.
6.
一か月。
気が付けば、そんな月日が流れていた。
最初の数日は、食事をすることすら腹立たしかった。
息をするたびに思い出す。
兄を攫った男。
西海の悪魔。
ルーカス・グレイ。
その顔を見るだけで、胸の奥から怒りが込み上げてくる。
だから。
隙さえあれば、刀を抜いた。
甲板でも。
船倉でも。
航海中でも。
どこにいようと関係ない。
視界に入れば斬りかかる。
『……死ね。』
鋭い一閃。
だが。
カンッ──。
乾いた金属音が響いた。
抜き放ったはずの刀は、いつの間にかルーカスの剣に止められている。
しかも片手で。
男は欠伸でもしそうな顔をしていた。
「終わりか?」
『っ……!』
力任せに押し込む。
びくともしない。
次の瞬間には視界がぐるりと回り、気付けば甲板へ転がされていた。
受け身を取る暇もない。
『……っ。』
背中を打ち、肺から空気が抜ける。
刀は数歩先へ滑っていった。
「また一本。」
ルーカスが足元へ刀を放る。
カラン、と乾いた音が鳴った。
『……いつか殺す。』
「へぇ。」
『その余裕、後悔するぞ。』
「まぁ、頑張れ。」
まるで子どもの負け惜しみでも聞くような返事だった。
そのやり取りを見守っていた船員たちが、一斉に吹き出す。
「また始まった!」
「今日は昼飯前か!」
「坊主、今日は何秒だった?」
「一秒も保ってねぇ!」
「昨日より0.2秒長かったぞ!」
「成長してるじゃねぇか!」
甲板中に笑い声が響く。
インユーは刀を拾い上げ、小さく舌打ちした。
調子が狂う。
本当に。
調子が狂う。
普通、
海賊はもっと残酷だ。
反抗した捕虜など、その場で殺される。
少なくとも東ではそう聞いてきた。
なのに、この男は。
何度斬りかかっても怒らない。
殴り返すこともしない。
ただ、あっさり転がして終わり。
まるで犬でも相手にしているようだった。
それが一番腹立たしい。
◇◇◇
史上最悪の海賊。
西海の悪魔。
ルーカス・グレイ。
そう聞いていた。
だから。
もっと血に飢えた化け物の巣窟を想像していた。
酒と暴力。
略奪と殺戮。
女や子どもが泣き叫ぶような船。
そう思っていた。
だが。
実際にこの船で暮らしてみると、
見えてきたものは噂とはまるで違っていた。
船が狙う相手は決まっている。
海賊船。
人攫い。
奴隷商人。
港を支配し、民から搾取する貴族。
賄賂で私腹を肥やす役人。
罪のない商船には、一切手を出さない。
ある日など、小さな漁船とすれ違った。
船員が手を振る。
向こうの漁師も笑って手を振り返した。
「大漁かー!」
「ぼちぼちだ!」
「酒飲み過ぎんなよ!」
「お前らこそだ!」
笑いながら離れていく。
『……。』
理解できなかった。
海賊を見て。
逃げない。
悲鳴も上げない。
それどころか世間話までしている。
そんな光景があるなど思いもしなかった。
戦利品として積み上げられた金貨にも、違和感があった。
「北の港へ送れ。」
「孤児院の修繕費に回す。」
「余った食料は村へ。」
「薬は診療所へ。」
ルーカスは短く指示を出すだけ。
誰も理由を尋ねない。
当然だからだ。
皆、それがいつものことだと知っている。
インユーだけが、その様子を不思議そうに見つめていた。
数日考え続け。
とうとう我慢できず、甲板で樽を運んでいたガレットへ声を掛ける。
『……一つ聞いていいか。』
「お。」
ガレットが目を丸くする。
「珍しいな。」
『……一か月ほど前。』
『東の商船を襲ったか。』
その瞬間。
ガレットは本気できょとんとした。
「東?」
『李商会だ。』
「いや?」
あまりにも迷いのない返事だった。
「その頃、俺ら北の海だったぞ。」
近くで海図を広げていたシリウスが顔を上げる。
「航海日誌にも残っている。」
「港への入港記録も一致している。」
「一度も東へは向かっていない。」
『……。』
インユーは言葉を失った。
兄を攫ったのは。
西海の悪魔。
そう聞いた。
だから信じた。
だから命を懸けて海を渡った。
なのに。
違う?
胸の奥がざわつく。
何が本当で。
何が嘘なのか。
分からなくなってきた。
兄様。
本当に。
誰があなたをーーー。
◇◇◇
その夜。
「祝いだー!」
「飲め飲め!」
甲板は宴会になっていた。
大樽がいくつも転がされ。
炭火の上では肉が豪快に焼かれている。
脂が落ちるたび、じゅう、と香ばしい音が響いた。
誰かが笛を吹き始める。
音程は酷い。
それでも周りは楽しそうだった。
酒瓶がぶつかり合う音。
笑い声。
怒鳴り声。
波の音。
夜風。
賑やかな空気が船いっぱいに広がっている。
ガレットはすでに真っ赤な顔だった。
「インユー!」
『なんだ。』
「お前も飲め!」
『断る。』
「真面目か!」
『お前が飲み過ぎなんだ。』
「ぎゃはは!」
船員たちが腹を抱えて笑う。
インユーは少し離れた場所へ腰を下ろした。
一人の方が落ち着く。
皿へ干し葡萄を取り。
静かに食べ始める。
その時だった。
「坊主!」
「なんか面白いことやれ!」
『嫌だ。』
「えー。」
「つまんねぇ。」
『知らん。』
「じゃあ踊れ!」
『嫌だ。』
「芸は?」
『ない。』
「歌!」
その一言に。
フォークを持つ手が止まった。
歌。
その響きだけで。
胸の奥から、懐かしい景色が浮かび上がる。
街角の酒場。
酒を飲みながら騒ぐ旅人。
酔っ払い。
手拍子。
誰も真面目に聞いているわけではない。
それでも。
歌い始めれば。
少しずつ。
少しずつ空気が変わっていく。
笑い声が止まり。
酒を持つ手が止まり。
最後には皆がこちらを見る。
自分の紡ぐ言葉が。
旋律が。
誰かの心へ届く瞬間。
その場を魅了し。
空間そのものを支配する感覚。
あれが好きだった。
歌うことが。
何よりも。
好きだった。
『……断る。』
「一曲だけ!」
「頼む!」
「酒が美味くなる!」
「聞かせろよ!」
しつこい。
本当にしつこい。
ガレットなど肩を組んで離そうともしない。
「歌うまで離さねぇ!」
『……重い。』
「きーかーせーろー!」
『……。』
きっと。
この場にいる誰も期待なんてしていない。
ため息をつく。
『……一曲だけだからな。』
「よっしゃあ!」
歓声が上がる。
甲板中が湧き立った。
インユーは静かに立ち上がる。
聞き惚れろ。
馬鹿ども。
深く息を吸う。
夜風が頬を撫でた。
目を閉じる。
自然と。
歌が零れた。
それは。
普段インユーが話す東の大国の言葉ではない。
もっと柔らかく。
もっと厳かな。
澄み切った響きを持つ、別の言葉。
この場で、その違いに気付いたのは。
ただ一人だった。
船尾で酒を飲んでいたルーカスが、ゆっくり顔を上げる。
碧眼が、大きく見開かれた。
――日出る国。
東の大国とは違う、小さな島国。
何百年も鎖国を続け、他国との交流を絶ってきた謎多き国。
ルーカスでさえ訪れたことはない。
本で読んだ知識しか持たない。
その国の言葉だった。
『──春を知らぬ鳥よ
風を追いかけ 空を渡れ
月の光を道しるべに
明日もきっと 花は咲く
遠く離れても
想いは海を越える
帰る場所を忘れても
心だけは 帰れるように──』
歌声だけが。
夜の海へ溶けていく。
波が静かだった。
風までもが耳を澄ませるように弱まる。
誰も喋らない。
酒を飲む音すら消えた。
ガレットも。
シリウスも。
陽気だった船員たちも。
ただ、呆然と歌に聞き入っていた。
遠く。
ルーカスだけが、まるで何かを思い出したような目で、その歌を見つめ続けていた。
やがて。
最後の一節が夜へ溶ける。
『……終わり。』
その一言だけが静かに落ちた。
しん、と船が静まり返る。
誰も拍手をしない。
いや。
できなかった。
その余韻を壊せなかった。
胸の奥へ染み込んでいく歌だった。
やがて。
「……っはぁ。」
誰かが息を吐く。
その瞬間。
「うおおおおお!!」
「すげぇ!!」
「もう一曲!」
「もっと歌え!」
「頼む!」
一斉に歓声が爆発した。
『やだよ。』
即答だった。
「ハァーーー!!??」
ブーイングが飛ぶ。
その時。
ギィ、と椅子が軋む音だけが響いた。
ルーカスだった。
酒瓶を静かに置き。
ゆっくり立ち上がる。
笑っていた船員たちが、自然と道を開けた。
真っ直ぐ。
迷いなく。
インユーの前まで歩いてくる。
『……なに?』
「来い。」
『やだ。』
返事など聞いていなかった。
腕を掴まれる。
『なっ、やめろ! いたい!』
そのまま強引に船長室へ連れて行かれる。
扉が閉まる。
宴の喧騒が遠ざかる。
次の瞬間。
背中が壁へ押し付けられた。
『っ……!』
息が詰まる。
目の前には碧眼。
今まで見たことのない目だった。
静かなのに。
底知れない圧がある。
初めて。
この男を、本気で怖いと思った。
「……あの歌は何だ。」
低い声。
「お前の国の言葉じゃないな。」
『…………日出る国の歌だ。』
「……誰に教わった?」
『東の人間なら、誰でも知ってる。』
嘘だった。
そんな歌ではない。
インユーは最初から真面目に答える気などなかった。
ルーカスはしばらく何も言わない。
ただ。
じっと、その顔を見つめていた。
やがて。
低く息を吐く。
「……いいか。」
海の底みたいな碧眼が、真っ直ぐインユーを射抜く。
「もう二度と。」
「人前で、歌を歌うな。」
『……なんで。』
「歌うな。」
『理由くらい——』
「歌うな。」
有無を言わせない声だった。
冷たく。
鋭く。
まるで命令ではなく、警告だった。
インユーは言葉を失う。
西海の悪魔。
初めて、その異名がふさわしいと思える目を見た。




