10.
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それから、半月。
ユンジンの傷は、日に日に癒えていった。
左腕の包帯は取れ、歩くことにも支障はない。
まだ剣を振るうには早いと医師は言ったが、商人として東へ帰るには十分だった。
インユーは、その姿を見るたび胸を撫で下ろしていた。
生きている。
目の前にいる。
それだけで十分だった。
◇◇◇
出港の日。
港には二隻の船が並んでいた。
一隻は迎えに来た李商会の大型商船。
もう一隻は、黒い帆を掲げた海賊船。
朝日を受けてもなお、その船だけはどこか夜を纏っているようだった。
甲板では船員たちが慌ただしく荷を運び込んでいる。
その輪の中へ、インユーはゆっくり歩いて行った。
『……。』
何と言えばいいのか分からない。
この船へ乗った日。
悪魔に攫われたと思った。
毎日殺そうとして。
毎日返り討ちに遭って。
書類を書かされ。
夜になれば歌わされ。
腹の立つことばかりだった。
なのに。
別れになると、不思議と胸の奥が静かだった。
「おっ。」
最初に気付いたのはガレットだった。
「坊主。」
『坊主じゃない。』
「最後まで言うか。」
豪快に笑いながら近付いてくる。
「帰っちまうんだな。」
『兄様が帰れるようになったから。』
「ああ。」
ガレットは大きく頷いた。
「良かったな。」
『……うん。』
その返事だけは素直だった。
ガレットは少し目を丸くする。
「お。」
「今日は可愛い返事するじゃねぇか。」
『殴るよ。』
「ぎゃはは!」
船員たちまで笑い始める。
「坊主が照れてる!」
「帰るの寂しいんじゃねぇか?」
『誰が。』
「俺らがだよ!」
また笑い声。
インユーは呆れたようにため息をついた。
『……最後まで騒がしい奴ら。』
そう呟く声は、どこか柔らかかった。
◇◇◇
少し離れた場所。
ルーカスは港を眺めながら煙草を吸っていた。
セドリックが隣へ並ぶ。
「船長。」
「ん。」
「良かったんですか。」
ルーカスは煙を吐く。
「何が。」
「インユーですよ。」
「気に入ってたじゃないですか。」
「毎日歌わせて。」
「毎日書類押し付けて。」
「毎日からかって。」
「せっかく拾ったのに。」
ルーカスは小さく笑った。
「拾った覚えはねぇ。」
「えぇ?」
「勝手に乗ってきただけだ。」
「気絶させて担いで連れてきたの、船長ですけど。」
「そうだったか。」
「忘れたんですか。」
「覚えてねぇ。」
ガレットは肩を竦めた。
嘘だ。
この人は全部覚えている。
昔からそうだった。
忘れたふりだけは上手い。
「……で?」
「帰して良かったんですか。」
ルーカスは煙草を海へ投げた。
静かに笑う。
「また会う。」
「え?」
「縁があれば。」
「ーーそのうちな。」
セドリックは目を瞬かせる。
「それだけ?」
「ああ。」
「随分自信あるんですね。」
「勘だ。」
セドリックは苦笑した。
「船長の勘、当たるんだよなぁ。」
◇◇◇
半年後。
東の国。
李商会。
あの日の出会いは、一つの縁になった。
女王直属の海賊と。
東の大国、最大の商家。
互いに利益があると判断した女王は、正式に交易を申し出る。
西では手に入らない絹。
東では採れない香辛料。
薬草。
鉱石。
交易は瞬く間に軌道へ乗り、両国の港は以前にも増して賑わいを見せ始めた。
そして、その日。
西から一隻の黒い船が東の港へ姿を現す。
「海賊だ……。」
「あれが西海の悪魔。」
港中がざわめいた。
黒い帆。
黒い船体。
誰もが恐れる海賊船。
それなのに。
李商会の港では歓迎の旗が揚がる。
使用人たちが整列し。
楽師が演奏を始める。
まるで国賓を迎えるような歓迎だった。
港の中央では、ユンジンが静かに待っている。
船が接岸する。
渡し板が掛けられた。
最初に降りてきたのはルーカス。
相変わらず黒いコートを翻し、無表情のまま歩いてくる。
「久しいな。」
ユンジンが微笑む。
「ああ。」
短い返事。
握手だけ交わす。
「遠いところ、ご苦労だった。」
「女王の使いだ。」
「仕事だ。」
「それでも、歓迎しよう。」
ユンジンは静かに笑う。
「前回の礼もまだ済ませていない。」
「いらねぇ。」
即答だった。
「借りは作らない主義でな。」
「勝手にやっただけだ。」
「そういう訳にはいかない。」
ユンジンは一歩下がり、丁寧に頭を下げる。
「今日は李家で宴を開こう。」
「せめて、それだけは受けてくれ。」
ルーカスは少しだけ考え、小さく息を吐く。
「……好きにしろ。」
その言葉に、ユンジンはようやく笑った。
「ありがとう。」
ルーカスは何も答えない。
ただ、そのまま屋敷へ向かって歩き出した。




