4.
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「インユー。」
その名を一度だけ口にすると、ルーカスは口元を歪めた。
獲物を見つけた獣のような笑みだった。
「お前。」
「西の言葉、分かるのか。」
インユーは眉をひそめる。
『…少しなら。』
旅芸人だった頃、西の港を巡ることも多かった。
普通に生活できるぐらいには話せる。
「読み書きも?」
『…できる。』
「ほぉ。」
ルーカスは満足そうに頷いた。
「ちょうどいい。」
『……何が。』
「人手不足だ。」
そう言うと、分厚い帳簿を机へ置いた。
続いて羊皮紙。
封書。
地図。
次々と積み上がっていく。
インユーは呆然とそれを見る。
『……は?』
「手伝え。」
『……。』
「この船。」
「字も読めねぇ連中ばっかだからな。」
廊下から船員たちの笑い声が聞こえる。
「船長ー!」
「俺ぁ自分の名前ぐらいは書けるぜ!」
「昨日まで逆さまだったろ。」
どっと笑いが起こる。
ルーカスは肩を竦めた。
「見ろ。」
「この有様だ。」
「書類仕事が進まん。」
インユーは思わず言葉を失う。
もっと恐ろしい命令を想像していた。
奴隷として売られる。
拷問される。
そう思っていたのに。
『……俺に、帳簿を?』
「ああ。」
「今日からお前の仕事だ。」
『断る。』
「断る権利はねぇ。」
ルーカスは当然のように言う。
「飯は食わせる。」
「寝床もある。」
「その代わり働け。」
『…悪魔の下で働く気はない。』
「そうか。」
あっさりと返したルーカスは、小さなインユーを見下ろし、顎へ指を添えた。
くい、と持ち上げる。
自然と視線が交わる。
距離が近い。
近すぎる。
灰色の瞳が愉快そうに細められた。
「じゃあ、夜伽でもいいぞ。」
にやり。
「それとも、書類仕事か。好きな方を選べ。」
『…………』
一瞬、思考が止まる。
そして。
ぞわぞわぞわっ!!
背中を悪寒が駆け抜けた。
『死ね! 悪魔!!』
「元気でよろしい。」
ルーカスはあっさり手を離した。
その様子を見ていたオズが腹を抱えて笑い始める。
「はははっ! 船長、嫌われたなァ!」
「知ってる。」
「そこは落ち込まないんだ。」
そこへ、副船長セドリックが苦笑しながら大量の羊皮紙を抱えて現れた。
「船長。」
「ん?」
「この子、あまり泣かせないでください。」
「泣いてない。」
『泣くか!!』
「ほら。」
「怒ってますけど。」
「元気だろ?」
「そういう問題じゃありません。」
セドリックはため息をつくと、抱えていた紙束をどさり、とインユーの前へ積み上げた。
山。
山である。
いや、小山だ。
『…………』
インユーは無言で紙の山を見つめる。
もう一度見る。
やっぱり山だった。
『……これ、何。』
「書類。」
『見れば分かる。』
「船の積み荷一覧。」
「補給品の管理。」
「寄港地の記録。」
「航海日誌の清書。」
「会計帳簿。」
「報告書。」
「それから――」
『まだあるの!?』
セドリックはにこりと笑う。
「あります。」
『悪魔だ……。』
「船長より?」
『…副船長も悪魔だった。』
オズは再び吹き出した。
「インユー、それ正解じゃ。」
「失礼ですね。」
セドリックは笑顔のまま、さらに一冊の分厚い帳簿を置いた。
どん。
『増えた!?』
「今、私を悪魔と言いましたから。」
『根に持つな!』
「冗談です。」
そう言いながら、もう一冊置いた。
どん。
『また増えた!!』
「手が滑りました。」
『絶対わざとだ!!』
船内は笑い声に包まれる。
ルーカスは腕を組みながら、その様子を眺めていた。
「で、夜伽と書類仕事。」
「結局どっちを選ぶ?」
インユーは即答した。
『書類だばか!!!』
「そうか。残念。」
そう、言いながらもルーカスは満足そうだった。
小さく頷く。
「契約成立だ。」
『全然成立してない!!』
「じゃあ、今日から会計係な。」
『誰が!?』
「お前。」
『海賊になる気はない!!』
「安心しろ。」
ルーカスは肩を叩く。
「俺もない。」
『いや、お前は船長だろ!!』
再び船内に大爆笑が響いた。
その日から。
“西の悪魔”を討ちに来たはずのリ・インユーは、なぜか海賊船で帳簿と格闘する毎日を送ることになった。
剣より先に羽ペンを握るとは、本人も夢にも思っていなかった。




