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3.


3.






最初に聞こえたのは、波の音だった。


 規則正しく、船底を叩く水音。





 ゆっくりと揺れる感覚。


 鼻をくすぐる潮の匂いと、古い木の香り。




 瞼が重い。



 身体も思うように動かない。



 ゆっくり目を開ける。



 見慣れない木造の天井。



 小さな丸窓。




 揺れるランプ。






 ……船だ。


 その瞬間、意識が一気に覚醒した。










『っ……!』






 飛び起きようとした途端、首筋に鈍い痛みが走る。



 思わず顔をしかめた。



 刀。



 腰を見る。



 ない。



 旅荷もない。



 代わりに、白い包帯が首元に巻かれていた。









 最悪だ。





 海賊船。





 西海の悪魔の船。





 捕まった。












 部屋を見回す。


 


 狭い船室だった。




 質素ではあるが、不思議と清潔に整えられている。






 その時だった。








「お、起きたか。」




 扉が軋み、小柄な老人が入ってくる。




 白髪交じりの髪。




 深く刻まれた皺。




 丸い眼鏡を掛けた、穏やかな目をした老人だった。




 手には薬箱を持っている。






「無茶をするのぉ、若いの。」 



 老人は苦笑しながら椅子へ腰掛ける。








「まだ傷が開く。動くな。」





 インユーは無言で睨みつけた。




 敵意を隠そうともしない。




 老人は困ったように笑うだけだった。







「そんな怖い顔をするな。」


「わしは船医じゃ。」


「名はオズワルド。」


「好きにオズとでも呼んでくれ。」







 船医。


 つまり、この海賊団の仲間。


 インユーは身体を引き、距離を取る。





『……触るな。』



「おや。お前、西の言葉が喋れるのか。」


「発音もいい。」





 老人は肩を竦める。




「どれ、傷を見せなさい。」



 そう言いながら、勝手に包帯をほどき始めた。





『やめろ。』



「傷を見るだけじゃ。」



『信用できない。』



「そりゃそうじゃろう。」




 老人は笑う。




「敵船で目覚めたんじゃ。」



「わしでも信用せん。」






 その言葉に、インユーは返す言葉を失った。




 怒鳴られると思っていた。




 殴られると思っていた。




 だが老人は終始穏やかだった。




 手際よく薬を塗り、新しい包帯を巻いていく。






「若いの。」



「お前さん、なかなか強かったぞ。」



「船長相手にあそこまで向かっていく奴は久しぶりに見た。」




『……。』



「安心せい。」



「命までは取られん。」






 その一言だけが妙に引っ掛かった。



 命までは。




 じゃあ、その先は?



 やはり売られるのだろうか。







 東の人間は、西では高く売れる。



 昔、旅をしたから知っている。



 インユーは静かに拳を握った。















 絶対に逃げてやる。




 兄様を見つけるためにも。


















 そのためだけに、今は力を温存しよう。



 そう決めた時だった。




 コンコン、と扉が叩かれる。















「入る。」




 低い声。



 船室の空気が変わる。



 扉が開き、黒いコートの男が姿を現した。




 ルーカス・グレイ。




 西海の悪魔。


 インユーは反射的に立ち上がる。






インユーは、腕を組み、じろりと目の前の男を睨みつける。




金髪に碧眼の瞳。


西の海で”西の悪魔”と恐れられる海賊、ルーカス・グレイ。



その男は面白そうにインユーを眺めていた。






「さて。」



ルーカスはしゃがみ込み、視線を合わせる。






「名前は?」



インユーは顔を背ける。


そして、口を開いた。




『……我为什么要告诉你?』


(なんでアンタなんかに教えなきゃいけないの?)





ルーカスは首を傾げる。






「あ?」








『滚开。』


(どっか行け。)






「……。」







『变态。』


(変態。)

  





「……。」









『白痴。』


(バカ。)





最後だけは、少しだけ声に力が入った。


ルーカスはしばらく黙っていたが、肩を震わせる。






「全然分からねぇ。」




インユーはふいっとそっぽを向く。


話すものか。


こんな海賊に。






するとルーカスが、ふと思い出したように口角を上げた。





「……お前。」





その一言に、インユーの肩がぴくりと揺れる。







「さっき、普通に西の言葉しゃべってただろ。」





図星だった。


一瞬だけ言葉に詰まる。






しかし次の瞬間には、







『……。』


つーん。



これでもかというほど、すました顔で知らんぷりを決め込む。






「……。」


「……。」


「可愛くねぇ。」




ルーカスが呆れたように笑う。






インユーは鼻を鳴らしただけだった。



その態度が余計に面白い。






「そのまま黙ってるなら――」




ルーカスは悪戯っぽく笑う。





「襲うぞ、この野郎。」




その言葉に。


インユーの眉間へ、深々と皺が寄った。





心底気持ち悪い。


この男、何を言っているんだ。





そこへ。


「ははは。」





穏やかな笑い声が聞こえた。




「ルーカス、その辺にしてあげなよ。」


この船の副船長だった。


名前を セドリック・フェイン。




大きく穏やかな笑みを浮かべながら、二人の間へ入る。





「可愛い顔をしてるもんね。」


苦笑しながらインユーを見る。





「でも、まだ子どもだよ?」


その言葉に。


ルーカスはにやりと笑った。







「だから?」


「……。」


「問題あるか?」




その笑みに。


インユーの背筋がぞわりと震える。






やばい。




男装しても意味がない。




こいつ、ホモだ。




心の底からそう思った。



少し離れた場所では、オズが腹を抱えて笑っている。




「はっ……!」


「はははは!」



笑いすぎて息ができていない。




インユーはそんなオズまで睨みつけた。



そして、小さく吐き捨てる。




『……死ね、ホモ野郎。』



今度は流暢な西の言葉だった。


船室が静まり返る。




ルーカスが目を丸くする。



セドリックも驚いたように瞬きをしたあと、ふっと笑った。





「あ。」


「やっぱり話せるんだ。」




しまった。


インユーは思わず口を押さえた。




遅い。


完全に墓穴を掘った。


セドリックは優しい眼差しで尋ねる。








「君、名前は?」



少しだけ迷ったあと。







『……インユー。』




ぽつりと答える。






「インユーか。」


セドリックは頷き、改めて少年を見つめた。


仕立てのいい服。


手入れの行き届いた靴。


荒れた生活を送ってきた子どもの身なりではない。





指先には傷こそ少ないが、筆を持ち慣れたような細く綺麗な手。


言葉遣いも、どこか育ちの良さを感じさせる。





「もしかして……いいところのお坊ちゃんかな。」





インユーは答えない。






「字も書けそうだね。」


その一言に。


インユーの睫毛が、ほんのわずかに揺れた。


その小さな反応を、ルーカスは見逃さなかった。


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