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2.


2.






夕暮れ。


 港から、慌ただしい鐘の音が響いた。


 屋敷の外がいつもより騒がしい。




 李商会の使用人たちが慌ただしく走り回り、門が大きく開かれる。





『何かあったんですか。』







 回廊へ出たインユーは、駆け込んできた船員たちを見て息を呑んだ。




 皆、血だらけだった。


 腕を吊った者。


 額を裂いた者。


 仲間に肩を貸され、ようやく立っている者。






 それでも。


 探している姿だけがない。
















『……兄様は?』









 誰も答えない。


 沈黙だけが流れる。






 嫌な予感が、胸を締めつけた。


 やがて、年配の船員が震える声で口を開く。








「若様は……。」






 その一言だけで十分だった。


 足元が揺れる。





「西南の海で海賊に襲われました。」


「船は沈められ……。」


「生きて戻れたのは、俺たちだけです。」





 その場にいた全員が俯いた。






『兄様は……。』


「多分、もう.......。」


 その言葉と同時に、インユーの頭の中で、遠い記憶が弾けた。


 燃える港。


 黒い帆。


 砲声。


 伸ばした幼い手。







 まただ。


 また、大切な人が目の前からいなくなる。


    




 あの時は、何もできなかった。  


 泣くことしか。


 叫ぶことしか。


 今度まで。


 何もできないままで終わるなんて、嫌だった。







『相手は……。』




 



 



 船員が悔しそうに拳を握る。





「ーーー西海の悪魔。」






 その名を聞いた瞬間。


 屋敷の空気が凍りつく。


 世界中の海を震え上がらせる史上最悪の海賊。





 東の大国が最も危険視する男。


 港を焼き。


 船を沈め。


 国ですら手を焼く、海の災厄。



 

 その男に、ユンジンは襲われた。








 インユーは何も言わなかった。


 静かに頭を下げると、自室へ戻る。






 部屋の扉を閉める。


 鏡の前に立った。







 腰まで伸びた黒髪が映る。




 兄が綺麗だと言ってくれた髪。




 大切に手入れをしてきた髪。

  




 静かに短刀を抜く。







 ためらいはなかった。




 さらり。




 長い黒髪が床へ落ちる。





 一本。




 また一本。


    





 鏡の中の少女は消え、少年のような見た目に。


 胸を晒で固く巻く。


 男物の旅装束へ着替える。







 最後に、壁へ掛けられていた一本の刀を手に取った。


 ユンジンが護身用に与えてくれた刀。













「女でも自分の命ぐらい、自分で守れ。」





 ぶっきらぼうに言われた日のことを思い出す。


 柄を強く握り締める。








『いま、迎えに行きます。』






 その声は震えていなかった。







『必ず。』






     ◇◇◇










 三日後。


 インユーは李家を発った。





 目指すは西。


 西海の悪魔を追う。





 東の国から西へ向かう大型商船へ乗り込み、船員として働きながら旅を続けた。





 旅芸人だった頃に鍛えた身のこなしは、船の上でも役に立った。





 帆を張る。


 綱を結ぶ。


 高いマストへ登る。





 誰よりも身軽なその動きに、船員たちは感心した。



 二か月が過ぎた頃。


 西の海は、静かだった。


 あまりにも静かで。


 その静けさが、不気味なほど。










「船影!」







 見張りの叫びが響く。









「海賊だ!!」






 その一言で、船上の空気が一変した。





船上に緊張が走る。


 穏やかだった海風が、一瞬で冷たく感じた。







「船員、戦闘準備!」






 船長の怒号が飛ぶ。


 船員たちが慌ただしく持ち場へ散っていく。







 インユーも腰の刀へ手を掛けた。


 水平線の向こうから現れたのは、一隻の海賊船。





 船体は傷だらけ。


 掲げられた旗には見覚えのない紋章。


 黒い髑髏が風に揺れている。





「ついてないっ……!」


「よりによって海賊か!」




 商船へ横付けされると同時に、海賊たちが次々と飛び移ってきた。








「荷を置いて失せろ!」











「抵抗する奴は殺す!」











 怒号が飛ぶ。


 船員たちは必死に応戦するが、たかが商船。


 戦い慣れている者は少ない。






 あっという間に押され始めた。




 インユーは静かに息を吐く。






 刀を抜いた。





 銀色の刃が陽光を受けて光る。







 一人。


 踏み込んできた男の懐へ滑り込む。






 足を払う。





 体勢を崩したところへ柄で顎を打ち抜く。






 男はそのまま甲板へ倒れ込んだ。





 続けざまに二人。





 三人。





 舞台で舞っていた頃と同じ足運び。






 身体は自然と動いた。






 相手の力を受け流し、最小限の動きで斬り伏せていく。






「な、何だこいつ!」




「ガキじゃねぇのか!」









 海賊たちの顔に焦りが浮かぶ。







 インユーは一歩も引かない。









 気付けば、甲板には海賊たちが何人も倒れている。




 残った者たちは後ずさった。







「くそっ……!」



「退け!」





 インユーは刀を構え直す。



 ――弱い。







 これなら港まで逃げ切れる。







 そう思った、その時だった。






 沖合から、重く低い汽笛が鳴り響いた。












 ボォォォ――。









 腹の底まで震えるような音。


 その場にいた海賊たちの顔色が、一斉に変わる。








「……まさか。」





 一人が呟く。






「嘘だろ……。」




「なんで、こんな所に。」











 彼らは恐怖に震えながら沖を見つめた。

















「西海の悪魔だ……!」





 その言葉とともに、巨大な影が霧の向こうから姿を現す。







 漆黒の船体。





 風を孕んだ黒い帆。





 船首に掲げられた狼の意匠。





 圧倒的な威圧感。






 まるで海そのものが近づいてくるようだった。








 商船も。


 海賊たちも。


 誰一人として動けない。







「に、逃げろ!」




「悪魔が来る!」






 先ほどまで威勢の良かった海賊たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。







 インユーだけは動かなかった。





 黒い船を見つめる。





 胸の奥がざわつく。






 あの船だ。





 みつけた。





 兄を奪った海賊。





 史上最悪の海賊。





 西海の悪魔。






 船が横付けされる。






 静かに渡された一枚の板。






 その上を、一人の男がゆっくりと歩いてくる。









 長い黒いコート。




 金色の髪。




 鋭い海の底のように碧い瞳。





 三十代前半ほどだろうか。






 噂していたより、ずっと若い。






 そして――驚くほど整った顔立ちだった。









 悪魔というより、一国の王に見える。












 けれど。




 その目だけは違う。





 底知れない闇を湛えた瞳。





 何人もの命を見送ってきた者だけが持つ目だった。






 男は甲板に転がる海賊たちを一瞥し、最後にインユーへ視線を止める。






 その瞬間だった。





 男の目が、わずかに見開かれる。







「……。」




 一瞬の沈黙。




 次の瞬間。





 口元だけがゆっくりと吊り上がった。




 面白いものを見つけたように。




 楽しそうに。












 笑った。














 インユーは刀を強く握る。





『悪魔が……。』






 兄の仇。






 西海の悪魔。









『返して。』   






 低く呟く。






『兄様を返せ。』










 次の瞬間、インユーは一直線に駆けた。









刀を握る手に力が入る。




 相手は兄を奪った男。




 西海の悪魔。





 ルーカス・グレイ。








『返せ。』








 声を低くする。




 旅に出てから、ずっと男の話し方を真似してきた。





 笑い方も。




 歩き方も。




 癖も。





 もう誰も、自分を娘だとは思わない。

  




 目の前の男も同じだった。






『兄を返せ。』






 西の国の言葉で尚も紡ぐ。






 けれど。





 ルーカスは返事をしない。





 碧眼で、じっとインユーを見つめている。







 その視線が気に食わなかった。







 品定めされているようで。







 腹が立った。







『聞こえなかったのか。』







 踏み込む。






 低く。








 一気に間合いを詰める。







 舞うような剣ではない。




 旅の途中で覚えた、殺すための剣。




 首を狙う。




 鋭い一閃。








 しかし。


 キィン――。





 金属音が甲板に響いた。




 いつ抜いたのかも分からない。





 黒い鞘に収まっていた剣が、いつの間にかインユーの刀を受け止めていた。







『……っ!』






 重い。





 受け止められた瞬間、腕が痺れる。





 男は表情一つ変えない。






「終わりか。」





 低い声。




 その一言に、インユーは歯を食いしばる。





『まだだ!』





 連続で斬り込む。





 一太刀。




 二太刀。




 三太刀。





 すべて受けられる。







 いや。




 受けるというより、遊ばれている。







 焦りが募る。




 どうして当たらない。





 どうしてこの男は動かない。











 その時だった。


 ルーカスが一歩だけ踏み込む。







『――!』






 速い。





 視界から消えた。





 次の瞬間には背後。











 首筋に、軽い衝撃。




 世界がぐらりと揺れる。









『……しまっ……。』









 膝から崩れ落ちる。






 刀が甲板を転がった。






 意識が暗闇へ沈んでいく。






 最後に見えたのは。


 見下ろす碧眼の瞳だった。







     ◇◇◇










「船長。」





 積み荷を運び終えた船員が、倒れたインユーを見下ろす。






「コイツ、どうします?」





 細身の東洋人の少年。






 年は十一、十二といったところか。



 黒髪に黒い瞳。




 顔立ちは整っているが、まだ幼さが残る。



 それなのに、さっきまで十人近い海賊を相手に一人で立ち回っていた。








「ずいぶん腕の立つガキでしたぜ。」




「ありゃ素人じゃねぇ。」




「どっかで剣を習ってる。」




 ルーカスは無言でインユーの前にしゃがむ。







 短く切られた黒髪。




 自分とは違う色の肌。




 閉じた瞼。




 じっと見つめる。





 やがて、小さく口元を緩めた。






「……こいつは。」







 立ち上がる。





「俺がもらう。」





 一瞬、船員たちは顔を見合わせる。



 そして一人が肩を竦めた。








「あーあ。」



「また始まった。」



「船長、こういう東の奴、好きっすよね。」




「言うなよ。聞かれたら海に捨てられるぞ。」




「でも実際そうじゃねぇか。」




「でも、コイツ、男だけど」



「「….綺麗な顔してるな」」





「「「.........。」」」



「......ま、船長の趣味は昔から分かんねぇ。」







 どっと笑いが起こる。



 ルーカスは呆れたように振り返り、低い声で言った。








「……積み荷は終わったのか。」



「へい。」



「なら帰るぞ。」




  



 その一言で船員たちの表情が引き締まる。


 誰もそれ以上は口にしなかった。




 ただ、船長自ら肩へ担ぎ上げた東洋人の少年を見て、


 ――またか。





 と、心の中で苦笑する者が何人もいた。

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