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1.ー西海の悪魔ー

1.





 昔。


 歌うことが、仕事だった。





 街から街へ移動する日々。  


 一つの場所が終われば。


 潮風を受けながら次の街を目指す。


 昼は雑用をこなす。


 衣装を畳み。


 舞台で使う小道具を運ぶ。


 夜になれば、一座のみんなと一緒に舞台へ立つ。


 それが、幼い私の日常だった。





「サクラ、もうすぐ出番だよ。」


『はい。』




 返事をすると、一座のみんなが笑う。


「今日もとびきりなのを頼むよ。」


「ほら、髪が乱れてる。」


 踊り子のお姉さんが櫛を入れ、赤い紐で長い黒髪を結い直してくれる。


「今日も可愛い。」


『ありがとう。』


 団長のおじさんが大きな手で頭をぽんぽんと叩いた。


「今日も頼んだぞ、うちの歌姫。」


『はい。』


 その言葉が嬉しくて、胸を張って舞台へ向かった。


 舞台といっても立派なものじゃない。


 港町の酒場。


 樽を並べ、その上に板を渡しただけの小さな舞台。


 それでも、私にはこれが世界の全てだった。




 芝居が終わる。


 踊り子たちが舞い終える。


 最後に私が舞台へ上がると、酒場は自然と静かになった。


 大人たちがお酒を置く。


 子どもたちは目を輝かせる。


 私は深呼吸を一つして、歌い始めた。


  


 歌うことが好きだった。


 歌えばみんなが笑ってくれる。


 拍手してくれる。


 「すごい」と言ってくれる。


  



 それが嬉しくて。


 それだけで幸せだった。


 歌い終わると、大きな拍手が響く。


 一層深く頭を下げた。


『ありがとうございました。』


 舞台を降りると、一座のみんなが迎えてくれる。





「よく頑張った。」


「今日も最高だったぞ。」


「腹減ったろ。飯にしよう。」




 血は繋がっていなかった。


 けれど、私にとってはここが家。


 ずっと、この旅が続くと思っていた。


 あの日までは。    






     ◇◇◇







 とある西の港町。


 その夜、一座は貴族の宴へ招かれた。


 豪華な料理。


 煌びやかな装飾。


 見たこともないほど大きな屋敷。


 最初はいつも通りだった。


 芝居を演じ。


 踊りを披露し。


 最後に私が歌う。


 拍手が起きる。


 それで終わるはずだった。



 


「もう一曲。」

  



 一人の貴族が言う。   





『はい。』




 笑顔で頷いた。





 二曲目。


 三曲目。


 四曲目。

 

 


 喉が少し痛かった。


 それでも歌う。

    




「もう一曲だ。」



 投げられる硬貨。





 終わらない。


 何度歌っても。


 何度頭を下げても。




「この娘の声は本当に美しい。」


「もっと歌わせろ。」





 笑い声が響く。


 私はまた息を吸う。


 団長が前へ出た。



「申し訳ございません。この子の喉はもう……」


「今日はこの辺りでーーー」



「黙れ。」



 冷たい一言だった。


  



「金は払う。」


「歌わせろ。」




 団長は唇を噛み締める。


 一座のみんなも動けない。




 逆らえば、殺されるかもしれない。


 貴族は貴族以外を同じ”人”として見ていない。


 そんなことは、子どもでも知ってる。


 この世界の常識。



 だから、小さく笑った。






『……私は大丈夫。』





 私が歌えばいい。


 それでみんなが助かるなら。


 そう思った、その時だった。







「叔父上、もう十分でしょう。」

  



 静かな声が宴の空気を変えた。


 誰もが振り返る。


 一人の少年が立っていた。


 金色の髪。


 海のように澄んだ碧い瞳。





 白い上着を纏った姿は、

 まるで物語に出てくる王子様のようだった。




「この子は人です。」





 少年は穏やかに言う。




「モノではありません。」




 宴席が静まり返る。


 私はただ、その人を見つめていた。



 初めてだった。

 

 貴族に”人”として扱われたのは。


 

 少年はルカと名乗った。


 西の国海軍提督の甥だった。



 

     ◇◇◇




 それから数日。


 ルカは港へよく顔を出すようになった。




「サクラ、会いにきたよ。」


『ルカ!』


 色んな話をした。


 西の国の話。


 海の話。


 東の国の話。


 ルカは物知りだった。


 私は知らないことばかりで、毎日が新鮮だった。




 ある日。


 ルカは小さなペンダントを差し出した。


「君に。」


 中には、一輪の薄桃色の花が大切に納められていた。


『きれい……。』


「サクラっていう花なんだ。」


 私は首を傾げる。   





『サクラ?』


「知らない?」

  


 小さく首を振る。




『初めて聞いた。』


 ルーカスは少し驚いた顔をして、それから優しく微笑んだ。


「君の名前と同じ名前の花だよ。」


「東の小国に咲く花なんだ。」


『……私と同じ。』


「うん。」


「春になると、この花が一斉に咲くらしい。」


「風が吹くたび、花びらが空いっぱいに舞って……本当に綺麗なんだって。」


 私は夢中になって押花を見つめた。





『…見てみたい。』


「僕も。…いつか、一緒に見に行こう。」


『うん、約束よ。』





 その約束を。


 幼い私は、疑うことなく信じていた。





 だから。


 あの日の出来事は、今でも夢だったらいいと思う。





 鳴り響く砲声。


 燃え上がる港。


 黒い帆。


 逃げ惑う人々。

  





『ルカ!!』






 伸ばした手は届かなかった。


 海賊たちは、ルカだけを連れ去っていった。





 理由は、幼い私には分からなかった。


 ただ。


 あの日を境に。


 私の人生は、大きく変わった。







◇◇◇





 八年後。


 東の国。


 四方を海に囲まれたこの国は、古くから交易によって栄えてきた。


 港には大小さまざまな商船が並び、朝早くから威勢のいい掛け声が飛び交う。




 絹。


 香辛料。


 陶器。


 薬草。


 世界中から集まる品々が、この港を経由して再び世界へ運ばれていく。


 その交易の中心にあるのが、東の大国最大の商家――李商会だった。


 


 広大な屋敷。


 いくつもの蔵。


 港を埋め尽くすほどの商船。


 東の国でその名を知らぬ者はいない。

  









 その李商会の娘として、一人の女性が静かに暮らしていた。




 リ・インユー(李 桜雨)。


 十八歳。


 艶やかな顔黒髪。


 夜を映したような黒い瞳。


 透き通る象牙色の肌。


 十歳の頃の幼さは消え、どこか儚さを纏った美しい娘へと成長していた。   


  



 その昔、旅芸人だった少女は、

 西の国で東の商人の目に止まった。

 


 愛らしく、特別な声を持っていた少女。



 李家当主が気に入り、養子として迎え入れた。

 


 旅芸人だった頃を知る者は、ほとんどいない。

 


 港で歌っていた歌姫は、今では李家の令嬢として、人々から敬われる存在になっていた。

   




 使用人たちは皆、彼女を慕う。


 商人たちは礼を尽くし。


 港の子どもたちは、姿を見かけると嬉しそうに手を振る。







『おはよう。』





 インユーが微笑み返せば、それだけで周囲の空気まで柔らかくなる。


 そんな娘だった。





 昔のように、人前で歌うことは少なくなった。


 宴の席で客人をもてなす時。


 祭りの日。


 港へ長い航海から船が帰ってきた日。


 そのくらい。





 もう誰かに命じられて歌うことはない。


 もう誰かに笑われながら歌うこともない。


 それが、李家が与えてくれた日常。






「お嬢様。」




 廊下の向こうから使用人が頭を下げる。




「若様がお待ちです。」




『兄様が?』


「はい。」





 インユーは小さく頷いた。





『今、行きます。』



 長い廊下を歩く。





 窓から吹き込む潮風が、黒髪をそっと揺らした。








 食堂へ入ると、一人の青年が朝食を口にしていた。




 リ・ユンジン(李 雲景)。


 二十七歳。


 李商会次期当主。




 切れ長の黒い瞳は鋭く、目つきの悪さから初対面では恐れられることも少なくない。


 口数も多くない。


 必要なことしか話さない男だった。


 だが、その背中を船員たちは誰より信頼していた。





 若くして幾度も荒海を越え、自ら剣を振るって船を守ってきた李商会の若旦那。


 商人でありながら、腕も立つ。


 港では「李家の若様を敵に回してはいけない」と言われるほどだった。








『おはようございます、兄様。』


「ああ。」




 短い返事。


 それでもインユーは嬉しそうに笑う。


 席へ着くと、温かな朝餉が運ばれてきた。






 静かな時間。


 二人とも多くは話さない。


 それでも、この沈黙は心地良かった。







 食事を終えた頃。


 ユンジンが茶を口にしながら言う。






「二週間程度で帰る。」


『商談ですか?』


「ああ。」


『お気をつけて。』


「ああ。」






 


 インユーは優しく微笑んだ。





『帰ったら、二胡を弾いて、お茶を淹れますね。』


「……好きにしろ。」




 ぶっきらぼうな返事。


 けれど、それがユンジンなりの照れ隠しだと、インユーは知っていた。


 だから何も言わず、優しく笑うだけ。


 そんな穏やかな日々が、これからも続くと信じていた。









 ――数週間後までは。

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