11’
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そこは、懐かしい場所だった。
記憶は、まだ霞がかかったように曖昧だ。
過ごしたのは十歳の頃、ほんの一月ほど。
旅芸人として一座とともに滞在した、西の貿易都市。
港には大小さまざまな船が並び。
朝になれば、潮風に乗って鐘の音と船乗りたちの威勢のいい声が街中へ響いた。
白い石造りの建物が陽の光を反射し。
赤や青の屋根が連なる街並みは、東にはない鮮やかさで溢れていた。
港へ続く石畳。
花が飾られた窓辺。
潮の香りを運ぶ風。
市場に並ぶ異国の果物や香辛料。
どれも断片的にしか思い出せない。
それでも、不思議だった。
馬車の窓から街並みが見えた瞬間。
胸の奥が、ふわりと温かくなった。
身体が覚えているのだ。
頭では忘れてしまった景色を。
この風の匂いも。
潮騒も。
石畳を馬車が走る心地よい音も。
すべてが、どこか懐かしい。
侯爵邸の前で馬車を降りる。
海風が黒髪を優しく揺らした。
思わず小さく息を吸う。
胸いっぱいに広がる潮の香りに、自然と頬が緩む。
(….懐かしい。)
この街へ帰ってきたのだと。
身体だけは、確かにそう感じていた。
思わず立ち止まったインユーへ、数歩先を歩いていたルーカスが振り返る。
「どうした。」
『……なんでもない。』
本当は違う。
泣きそうになっただけだった。
理由は自分でも分からない。
あまり、覚えていないはずなのに。
身体だけが、この場所を覚えていた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
インユーは小さく笑って誤魔化す。
ルーカスはそれ以上何も聞かない。
問い詰める男ではないことを、もう知っていた。
「行くぞ。」
『……うん。』
二人は並んで屋敷の中へ足を踏み入れる。
ここが。
これからインユー・グレイとして生きる場所になる。
◇◇◇
――しかし。
感傷に浸っている暇など、一瞬たりともなかった。
「インユー様! こちらへご署名を!」
「侯爵様、この決裁もお願いいたします!」
「旦那様、港から急ぎの報告です!」
「税の確認書類が届いております!」
「王都から使者がお見えです!」
『……。』
インユーは呆然と立ち尽くした。
広い執務室。
立派な机。
その上には。
羊皮紙。
羊皮紙。
また羊皮紙。
積み上げられた書類の山が、机を完全に占領している。
『……何これ。』
思わず本音が漏れた。
隣ではルーカスが慣れた様子で椅子へ腰を下ろしている。
「仕事だ。」
『見れば分かる。』
「じゃあ聞くな。」
『聞いてない。』
即座に言い返す。
屋敷に来て数日。
このやり取りにも、少しずつ慣れてきた。
そんな二人を見て、執事が苦笑する。
「実は、……。」
言いづらそうに咳払いを一つ。
「旦那様が長年、侯爵としてのお務めからお隠れなっておりましたので……。」
『……。』
インユーはゆっくりとルーカスを見た。
『……逃げてたの?』
「ああ。」
悪びれる様子は一切ない。
「海の方が性に合ってた。」
『堂々と言うな。』
「事実だ。」
『威張るな。』
侍女たちが苦笑している。
誰一人否定しない。
本当に逃げ続けていたらしい。
『最悪だ……。』
額へ手を当てる。
『なんで私が、その尻拭いをしなきゃいけないの。』
「夫婦になるから。」
『便利な言葉だな。』
「便利だ。」
即答だった。
インユーは机へ突っ伏す。
海賊だとは聞いていた。
悪魔だとも聞いていた。
まさか侯爵の仕事まで放り出していたとは思わなかった。
婚約した途端。
その全部が、自分のところへ押し寄せてきたのである。
巻き込まれ事故にも程がある。
すると。
「インユー様。」
執事が新しい書類を差し出した。
「港よりご報告です。」
『港?』
「李商会より、本日も積荷が到着しております。」
『……。』
思考が止まる。
李商会。
兄、ユンジンが率いる商会だ。
書類を開けば。
茶葉。
香辛料。
絹織物。
薬草。
陶磁器。
保存食。
高級酒。
護衛付きの商隊。
さらに細かな帳簿まで添えられている。
「今月だけで六隻目です。」
『六隻!?』
「はい。」
『兄様……。』
思わず遠い目になる。
はりきり過ぎにも程がある。
「お前らほんとに仲がいいな。」
ルーカスが書類を眺めながら呟く。
『違う。』
「違うのか。」
『兄様は心配性なの。』
嫁入りする妹を。
世界一心配しているだけだ。
薬が届く。
食材が届く。
布が届く。
職人まで届く。
そして、それらはすべて商売では一級品。
李商会とグレイ侯爵領。
双方に利益をもたらす絶妙な品揃えだった。
商人の妹として育った癖なのか。
頭の中では自然と利益計算まで始まってしまう。
『最高……。』
思わず呟いた。
しかし。
目の前には相変わらず書類の山。
『……いや、最悪。』
ルーカスは吹き出した。
本当に。
この男は。
最高で。
最悪な結婚相手だった。
◇◇◇
数日後。
二人の結婚式は、ごくささやかに執り行われた。
王族のような盛大な式ではない。
豪華な招待客もいない。
お互い、呼ぶ親族はいなかった。
集まったのは。
長年グレイ家を支えてきた使用人たち。
そして領民の代表者たち。
華美ではない。
けれど。
この屋敷らしい、温かな式だった。
「旦那様……。」
白髪の執事が涙を拭う。
「本当に……ご立派になられて。」
「ようやくご結婚……。」
「奥様、本当にありがとうございます。」
年配の侍女たちは揃って目を潤ませている。
インユーは思わずルーカスを見た。
本人だけが、照れ臭そうに眉をひそめていた。
「泣くほどか。」
「泣きますとも!」
執事が力強く答える。
「旦那様が一生海の上で暮らされるのではと、皆、本気で心配しておりました!」
「余計なお世話だ。」
「大問題です!」
使用人全員が深く頷いた。
海では『西海の悪魔』。
屋敷では、結婚できるか心配され続けた放蕩侯爵。
その落差がおかしくて。
インユーは小さく笑ってしまう。
その笑顔を見て。
使用人たちも、ルーカスも笑った。
ようやく。
この屋敷に、本当の主人と女主人が戻ってきたのだと。
誰もがそう感じていた。
◇◇◇
そして。
夜。
夫婦になって初めて迎える静かな時間だった。
昼間までの賑わいが嘘のように、屋敷は静まり返っている。
窓の外からは、規則正しく波の音だけが聞こえてきた。
インユーは寝台の端へちょこんと腰掛ける。
『……。』
急に緊張してきた。
ここ数日は忙しすぎた。
この問題について、
考える暇もなかった。
けれど。
今は違う。
部屋には二人だけ。
夫婦になったという事実だけが、静かに胸へ落ちてくる。
ルーカスは上着を脱ぎ、隣へ腰を下ろした。
「疲れたか。」
『……うん。』
「俺もだ。」
その一言が妙に可笑しくて。
二人で小さく笑う。
少しだけ肩の力が抜けた。
ルーカスはそっとインユーの手を包む。
大きく、温かな手。
その温もりに安心しかけた、その時だった。
ふと、海賊船での日々が脳裏をよぎる。
港へ着けば。
酒場へ向かうルーカス。
美女たちに囲まれ。
笑いながら酒を飲み。
そのまま二階へ消えていく背中。
当時は呆れて見送るだけだった。
けれど。
今は違う。
あれはつまり――。
夫婦になれば、自分も迎える夜なのだ。
知識だけはあった。
良家の娘として教えられた最低限のこと。
けれど知識と現実は違う。
頭の中で考えれば考えるほど、顔が熱くなる。
緊張。
覚悟。
羞恥。
様々な感情が次々と表情へ現れる。
ころころと変わるその表情を見て。
ルーカスは堪えきれず吹き出した。
「……。」
やっぱり面白い。
この女は、本当に見ていて飽きない。
海で剣を振るっていた時の勢いはどこへ行ったのか。
今は小動物のように肩を強張らせ、自分の一挙一動にびくりと反応している。
一月前。
輿入れのため、西へ降り立った姿が脳裏に浮かぶ。
だから、わざと意地悪をした。
「逃げるか。」
インユーが目を丸くする。
「今なら、逃がしてやる。」
もちろん。
逃がす気など、最初からない。
ただ。
この負けず嫌いな姫が、どんな顔をするのか見たかっただけだ。
案の定だった。
インユーはきゅっと唇を結ぶ。
真っ直ぐルーカスを見返す。
『……逃げない。』
その瞳に迷いはない。
『私は何からも、逃げない。』
ルーカスは静かに目を細めた。
「そうか。」
それだけ言って。
そっと額へ口づけを落とす。
続いて唇へ。
以前よりも少しだけ長く。
互いの存在を確かめるような、穏やかな口づけだった。
息の仕方も分からず、苦しそうに身じろぐインユーを見て、ルーカスは思わず唇を離す。
「……ガキ。」
『〜っ!!…子ども扱いしないで。』
悔しそうに睨んでくる。
その顔があまりにも愛おしくて、ルーカスは笑ってしまった。
「悪かった。」
そう言って髪を優しく撫でる。
焦らせるつもりはなかった。
怖がらせるつもりもない。
だからこそ、その夜は言葉を交わしながら、ゆっくりと互いの距離を縮めていった。
やがて、ルーカスの手がふと止まる。
「……。」
視線の先。
インユーの背中には、大きな古傷が残っていた。
古く、それでいて深い傷痕。
思わず息を呑む。
その視線に気づいたインユーは、小さく肩を震わせた。
ほんの一瞬だけ。
その表情に、痛みとも悲しみともつかない影が落ちる。
ルーカスは何も聞かなかった。
ただ、その傷跡にそっと指先を添え、痛まないように優しく抱き寄せる。
お互いに。
まだ知らないことが、たくさんある。
海で過ごした時間だけでは知り得なかった過去が、この小さな身体には刻まれている。
それでも。
焦る必要はない。
これから先、いくらでも知っていけばいい。
夫婦になったのだから。
長い夜の終わり。
疲れ果て、気を失ったようにインユーはルーカスの肩へ身を預けた。
窓の外では、変わらず穏やかな波音が響いている。
二人の新しい人生は、静かに、優しく始まった。




