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12’


12‘




アルフレッド・クロフォードは、この屋敷に久しく失われていた「希望」というものを見つけた気がしていた。



 長年、グレイ侯爵家の総執事を務めてきた。


 幼い頃から坊ちゃま――いや、今は侯爵となったルーカスを見守り続けてきたのだ。




 だからこそ、誰よりも知っている。


 あの方が、どれほど貴族を嫌い、侯爵家から逃げ続けてきたかを。






 女王陛下に呼び戻されても逃げる。


 書類を積まれては海へ逃げる。


 貴族の集まりがあると聞けば、船を出して数か月戻らない。


 何度ため息をついたことか分からない。







 そんな主君が。


 爵位を継ぎ、さらに妻まで迎えるという知らせを受けた時。


 アルフレッドは正直、喜びよりも不安の方が大きかった。






(……坊ちゃまが、奥様を?)



 仕事柄、海賊として生きてきた男だ。




 酒も飲む。


 喧嘩をする。


 命のやり取りなど日常茶飯事。




 生活など、とても褒められたものではない。


 果たして、どのような女性が嫁いでくるのか。


 気品あふれる名門貴族の令嬢なんて想像できなかった。


 女性の好みに偏りがあるのは知っていた。


 

 だからこそ。


 色々な様々な想像を巡らせていた。











 そして、初めて対面した日のこと。


 馬車から降りてきた少女を見て、アルフレッドは思わず目を瞬いた。 




 小柄で。


 漆黒の髪が陽光を受けて艶やかに揺れ。


 大きな黒い瞳がきょろきょろと屋敷を見回している。



 可愛らしい。


 本当に、驚くほど可愛らしい。


 ルーカスの好みど真ん中だった。


 そして、その姿は。

 


(……坊ちゃまには、あまりにも愛らしすぎる。)



 隣に立つ金髪碧眼の大男。


 西海の悪魔と恐れられるルーカス。


 二人が並ぶ姿を見た瞬間。



(……坊ちゃま。まさか、本当にどこかから攫ってこられたのではありませんよね。)





 執事としてあるまじき考えが、一瞬だけ頭をよぎった。


 あまりにも絵面が危うかったのである。




 年齢差も。


 体格差も。


 何もかもが。





 アルフレッドは静かに頭痛を覚えた。


 しかし。



 その印象は、屋敷で共に過ごす日々の中で少しずつ変わっていく。






 話を聞けば。


 東の大商会――李商会の一人娘。



 貿易の架け橋となるため、公主としてこの国へ嫁いできた少女。


 政略結婚でありながら、不思議と誰も恨まず、毎日を懸命に生きている。





 使用人へも自然に頭を下げ。


 名前を覚え。



 厨房へ行けば料理人へ興味津々。


 庭師とは植物の話。


 厩番とは馬の話。


 誰とでも楽しそうに話している。




 気付けば、屋敷中の使用人が口を揃えて言うようになっていた。

 


「奥様は、本当にお優しい方ですね。」




 その言葉に、アルフレッドも静かに頷く。










 そして迎えた翌朝。



 朝食の席へ現れたインユーを見て、一瞬だけ視線が止まった。





 首筋に、薄く残る沢山の赤い痕。



 隠そうとしているのだろう。


 襟元を少し気にする仕草が初々しい。

  



 対するルーカスはというと、実に機嫌がいい。


 昨日までの不機嫌が嘘のようである。



 

(……仲睦まじいのは、大変結構でございます。)



 そこまでは良い。



(ですが、坊ちゃま。)


(少々、加減というものを覚えていただきたい。)



 幼い可憐な奥様を前にして、内心だけで深いため息をつく。



 執事とは、余計なことは口にしない生き物である。




 だから何も言わない。


 何も言わないが。


 ほんの少しだけ、主君の良識を心配した。






     ◇◇◇






 だが、その数時間後。


 アルフレッドは、自分の認識を改めることになる。






 執務室。


 侯爵家の帳簿が山のように積まれた机。


 ルーカスは椅子へ深く腰掛け、面倒そうに書類へ判を押している。





 その向かいでは。


 インユーが一冊の帳簿を真剣な表情で読み込んでいた。




『……ここ。』



 細い指が、一か所を指す。



『この数字、おかしい。』


「ん?」


『港の税率が去年のままになってる。新しい税率なら、こっち。』




 さらさらと計算する。


 暗算だった。


 羽根ペンを走らせると、瞬く間に正しい数字が並んでいく。




 アルフレッドは思わず目を見開いた。



『あと、この積荷。』


『利益じゃなくて損失になってる。記入する欄、逆。』


「……本当だ。」


『この船も。』


『こっちは数字の写し間違い。』

 


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 帳簿をめくるたびに誤りを見つけていく。


 しかも、そのどれもが的確だった。


 横で見ていた会計係が、青ざめた顔で頭を抱える。




「も、申し訳ございません……!」


『大丈夫。誰でも間違える。』



 インユーは責めることなく、柔らかく微笑ん

だ。



『次から、ここを先に確認するといいよ。』


「は、はい!」



 その笑顔だけで、震えていた会計係の肩から力が抜ける。

 




 アルフレッドは思わず感心した。


 数字に強いだけではない。


 人の扱いも実に上手い。





 だから、自然と口を開いていた。





「奥様。」


『はい?』


「失礼ですが……ご年齢を伺ってもよろしいでしょうか。」





 インユーはきょとんと瞬きをする。




『十八だけど。』



「…………。」



 アルフレッドは静かに目を閉じた。




 十八歳。


 十分に若い。


 だが、もっと幼く見えていた。


 東の国の神秘を垣間見た気がした。






 加えて。


 目の前の少女は、その年齢からは考えられないほど落ち着いていた。



 商売を知り。


 数字を知り。


 人を知っている。




 その姿に、アルフレッドは心の中でそっと主君へ謝罪した。



 

(坊ちゃま。)


(先日は失礼いたしました。)


(攫ってきたなどと、一瞬でも疑った私をお許しください。)


(……しかし。)




 ちらり、と机へ視線を向ける。


 帳簿を放り出そうとするルーカスの前へ、新しい書類を無言で積み上げる。




 ルーカスが嫌そうな顔をした。



「アルフレッド。」


「はい、侯爵様。」


「増えてる。」


「まだ半分でございます。」


「悪魔か。」


「恐れ入ります。」



 そのやり取りを見たインユーが、小さく吹き出した。






『ふふっ。』




 澄んだ笑い声が執務室へ響く。


 その瞬間。


 アルフレッドは確信した。


 この屋敷は、きっとこれから変わる。


 長く静まり返っていたグレイ侯爵家に、ようやく笑い声が戻ってきたのだから。



 




 アルフレッドは分かってしまった。


 ルーカスが、なぜインユーを側におくのか。



 インユーの首元に光るペンダント。


 それは。





 インユーを見る。


 賢く、愛らしい奥様。


 けど、少し鈍いとこがあるように思う。



 この二人が。


 真実に辿り着くのはまだ先のように思えた。





 -END?-



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