10’
10’
王宮の正門前。
白い石畳の広場には、一台の黒塗りの馬車が静かに待機していた。
荷物はすでに積み込まれ、御者も出発の準備を終えている。
「行くぞ。」
ルーカスが短く言った。
インユーは小さく頷き、その後ろを歩く。
嫁ぐ。
その事実は理解している。
けれど、まだ実感はない。
相手は海賊で。
女王直属で。
しかも侯爵。
何度考えても、情報量が多すぎた。
そんなことを考えながら馬車へ近付く。
その時だった。
「グレイ卿。」
後ろから穏やかな声が響く。
二人が振り返ると、そこにはセドリックが立っていた。
いつも通りの柔らかな笑み。
『あ。』
インユーは思わず声を漏らす。
ルーカスは目線だけ上げた。
「セドリック。」
「見送りに来たよ。」
それだけで十分だった。
長年一緒に海へ出てきた二人。
余計な言葉はない。
「後は任せた。」
「ああ。」
短いやり取り。
それだけで話は終わる。
どうやら、ルーカスが船を離れている間は、これまで通りセドリックが船を預かるらしい。
(……そういえば。)
この男は副船長だった。
当たり前の話なのに。
改めて考える。
(この貴族も海賊。)
(しかも副船長。)
頭が痛くなってきた。
海賊を率いる侯爵。
それを当然のように認める女王。
やっぱり、この国は何かがおかしい。
(嫁ぎ先……。)
(思ったより何倍も黒い。)
(早まったかもしれない。)
インユーは遠い目をした。
そんな表情を見て、セドリックは苦笑する。
「そんな顔しなくても。」
『……。』
「まぁ、その反応も分かるけどね。」
否定しない。
否定できないらしい。
インユーはますますげんなりした。
「そうだ。」
セドリックは思い出したように、小さな布袋を取り出した。
淡い色の布で作られた可愛らしい袋。
「はい。」
『?』
「みんなから。」
少し照れくさそうに笑う。
「結婚祝い。」
その一言で。
インユーの胸に、船で過ごした日々がよみがえった。
甲板で大笑いしていた船員たち。
ガレット。
シリウス。
料理番のおじさん。
見張り番の青年。
船医のオズ。
毎日騒がしくて。
毎日賑やかで。
最初は敵だったはずなのに。
気付けば、どこか家族のような存在になっていた。
短い旅だった。
それでも。
今となれば。
あれはあれで、悪くなかった。
確かに、大切な時間だった。
『……みんなが?』
「うん。」
『……ありがとう。』
自然と笑みがこぼれる。
インユーは大事そうに両手で受け取った。
けれど。
(……軽い。)
思っていたよりずっと軽い。
何が入っているのだろう。
首を傾げた、その時だった。
ルーカスは御者と出発時間について話し始める。
少しだけ距離ができた。
その隙を見計らったように。
セドリックがすっと近寄る。
「インユー。」
小声だった。
耳打ちするように囁く。
「たぶん、それ必要になると思うよ。」
『?』
「船長。」
一拍置く。
「体力、化け物だから。」
『…………。』
「インユー、小さいし。」
爽やかな笑顔のまま。
「頑張れ。」
『…………。』
数秒。
思考が止まる。
それから。
意味を理解した瞬間。
『っっっ!?』
耳まで真っ赤になった。
慌てて袋を開ける。
ころり。
小さな陶器の瓶。
高級そうな軟膏。
見なくても分かる。
説明されなくても分かる。
『~~~~っ!!』
勢いよく袋を放り投げようとする。
「待った。」
セドリックが慌てて止めた。
「捨てるな。」
『捨てる!!』
「高いから。」
『知らない!!』
「みんなの気持ちなのに。」
『なおさら捨てるっ!!』
でも。
ここは。
王宮の正門前。
衛兵もいる。
侍女も歩いている。
こんなものを放り投げるわけにもいかない。
『……っ。』
捨てられない。
持ちたくもない。
行き場を失った布袋を握りしめたまま、インユーは恨めしそうにセドリックを睨みつけた。
その顔を見て、セドリックは肩を震わせる。
「ふふっ。」
『……。』
「グレイ夫人。」
『…..。』
「仮面、とれてる。」
神秘的で落ち着いた姫君はどこにもいない。
そこにいるのは、真っ赤になって怒る十八歳の少女だった。
『……誰のせい。』
「僕じゃない。」
『あなた。』
「船員たち。」
『止めなかったでしょう。』
「面白そうだったから。」
『最低。』
「ありがとう。」
『褒めてない。』
そこへ。
「何を騒いでる。」
低い声が割って入る。
話を終えたルーカスが戻ってきていた。
「いや。」
セドリックは笑いを堪えながら肩を竦める。
「結婚祝いを渡しただけ。」
「そうか。」
ルーカスはインユーの手の布袋を見て、小さく頷いた。
「あぁ。」
そして一言。
「使え。」
『使わないっ!!』
広場中に響くほどの大声だった。
衛兵が思わず振り返る。
侍女が口元を押さえる。
ルーカスは一瞬だけ目を瞬かせると、小さく口角を上げた。
「その元気なら問題なさそうだ。」
『何がっ!!』
インユーの悲鳴と。
セドリックの笑い声だけが、王宮前にいつまでも響いていた。




