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9’

9’





 いつぞやのお茶会と同じような空気だった。


 丸いテーブルには香り高い紅茶と焼き菓子。


 窓から差し込む午後の日差しが部屋を柔らかく照らし、穏やかな時間が流れている。





 違うのは。


 今日は、インユーの未来を決める話だということだった。




 セラは一枚の大きな地図を机へ広げる。



 羊皮紙いっぱいに描かれた西大国。



 王都を中心に街道や河川、港町が細かく記されている。







「あなたの嫁ぎ先は、ここよ。」




 白い指先が、一つの港町を指した。


 その瞬間。


 インユーは思わず息を呑む。





『……。』



 見覚えがあった。


 忘れるはずがない。


 まだサクラとして旅をしていた頃。




 自分を助けてくれた、貴族の青年。


 金色の髪。


 澄んだ青い瞳。


 物語から抜け出してきた王子様のように優しく笑う人。


 そして――。


 彼は、海賊に攫われた。


(あの人がいた町……。)






 胸の奥が、鈍く痛んだ。


 あの青年は、もういない。


 殺されたか、売られたか。






 生きていたとしても、無事であるはずがない。


 そう思っていた。






 だからこそ、思い出すことすら避けていたのに。


 こんな形で、またその場所に戻ることになるなんて。







 インユーは小さく息を吐いた。


 セラはそんなインユーの表情に気付かないまま、説明を続けた。






「王都から馬車で一日ほどの港町よ。」


「何かあればすぐに王都へ来られる距離だわ。」




 地図の上を指先がゆっくりとなぞる。







「なるべく早く出発してちょうだい。結婚式は向こうで挙げてもらうわ。」


『はい。』


「事情があって、最近まで王国が代わりに治めていた領地なの。」



 少しだけ真面目な声音になる。




「最近、ようやく本人が統治する気になったわ。」



 セラは肩を竦めた。





「だから、やることは山積みだと思う。」


「あなたも支えてあげてね。」




(……大変そう。)



 王国が代わりに治めていたほどだ。


 きっと複雑な事情があるのだろう。


 インユーは小さく頷いた。





『はい。頑張ります。』



 セラは満足そうに微笑む。







「何か質問はある?」



 一つだけ。


 ずっと気になっていたことがある。






『あの……。』



「なぁに?」



『お相手の方は、もう領地にいらっしゃるんですか?』













 その瞬間だった。






 しん――。











 部屋から音が消えた。










『……?』



 返事がない。


 インユーはぱちぱちと目を瞬かせる。





(あれ……?)





 聞いちゃいけないことだった?




 そんな不安が頭をよぎる。




 隣ではルーカスが何事もなかったように煙草へ火をつけていた。




 紫煙がゆっくりと立ち上る。





(ルーカスも知らないのかな。)




 そう思って横を見る。





 目が合った。



「……。」


『……。』


「…………。」



(なんで黙るの?)







 意味が分からない。










 一方。


 セラはというと。









「…………。」




 珍しく目を見開いたまま固まっていた。






 やがて。






 ぴく。


 ぴくぴく。



 こめかみが小さく震え始める。







「……あなたねぇ。」




 低い声だった。


 そのまま、ゆっくりルーカスへ顔を向ける。





「ルーカス。」


「……。」


「まさか。」


「……。」


「インユーに何も言ってないの?」







 返事はない。



 煙草を吸い終えたルーカスは灰皿へ押し付け、火を消しただけだった。




 堂々とした沈黙。


 悪びれる様子は欠片もない。



 それが余計に腹立たしい。









「信じられない……。」



 セラは額へ手を当て、大きくため息をつく。


 そして、少しだけ同情するような目でインユーを見た。







「インユー。」



『はい?』



「あなたの結婚相手は。」





 すっと。


 ルーカスを指差す。




「このバカよ。」



『…………は?』










 一瞬。




 本当に時間が止まった。



 セラは淡々と続ける。












「ルーカス・グレイ侯爵。」





「西大国最大の港を治める、グレイ侯爵家の当主。」


「古くから続く名門で、代々、王国海軍の将軍や提督を数多く輩出してきた家柄よ。」



「血筋は申し分ないわ。」







 一呼吸置く。



「事情があって長い間、爵位は空席だったの。」


「最近ようやく、この男が継ぐ気になったのよ。」








 ちらりとルーカスを見る。






「問題があるとすれば。」



「この男の性格くらいかしら。」






 ルーカスは否定もしない。



 セラは呆れたように肩を落とした。



 インユーの頭の中では。







 海賊。





 侯爵。





 結婚。





 夫。





 その四つの言葉が、ぐるぐると回り続ける。






 そして。



 不意に。



 あの日。



 何の前触れもなく奪われた口づけを思い出した。






『ーーーっ。』




 かぁっと頬が熱くなる。



 耳まで真っ赤だった。








「あら。」





 セラが楽しそうに笑う。



 ルーカスはそんなインユーを見て鼻で笑った。






「変な顔。」






『だ、誰のせいよっ!!』




 勢いよく立ち上がる。




『なんで教えてくれなかったの!?』



「聞かれなかった。」



『分かるわけないでしょ!!』




 ばんっ、と机を叩く。









『なんで海賊が貴族やってるのよ!!』









 セラが吹き出した。






「インユー、逆よ。」



『え?』



「貴族が海賊をやっていたの。」





『〜っ!!もっと意味分かんない!!』



「どっちでもいいだろ。」






 ルーカスは立ち上がる。





「ーー女王が言った通りだ。」



「やることは山積みだ。」






 そう言って右手を差し出した。



 自然で、美しい所作。



 それは長年、貴族として身につけた者だけができる仕草だった。








 インユーはその手を見つめる。






 腹は立つ。



 文句も山ほどある。



 けれど。




『……もう。』




 小さく頬を膨らませながら、その手を取った。



 ルーカスが口元だけで笑う。


 


「意外と聞き分けがいいな。」

 


『全然よくない。』



「そうか。」




 まるで堪えていない返事だった。




「行くぞ。」




 セラは優しく微笑む。



「また会いましょう。」





『…..はい。』


『ありがとうございました。』





 深く頭を下げる。


 二人は部屋を後にした。





     ◇◇◇





 王宮の長い回廊を歩く。



 向かう先は客間ではない。



 王宮の外。







 新しい土地へ向かう旅が、もう始まっている。


 インユーは隣を歩くルーカスをじろりと睨み、小さく東の言葉で悪口を零した。



 


『笨蛋。』

(ばか。)



『骗子。』

(うそつき。)



『坏家伙。』

(嫌なやつ。)



『混蛋。』

(ろくでなし。)



『大坏蛋。』

(最低な男。)




 ぶつぶつ。


 ぶつぶつ。






 止まらない。



 すると、不意に。





「最後のは違う。」



『……え?』




 インユーが足を止める。


 ルーカスは前を向いたまま歩き続ける。





「さっきのは”最低な男”じゃない。」



『…………。』



「“とんでもない悪党”の方が近い。」



『………………。』



 

インユーの目がみるみる大きくなる。



「あと二つ目は”詐欺師”じゃなくて”うそつき”って意味で使ってるだろ。」



『……。』



「発音少し違うよな。」



『…………。』


 







数秒。


 完全な沈黙。












『な、なんで分かるの!?』



 思わず西の言葉で叫んでいた。


 ルーカスは肩を揺らして笑う。





「毎日お前に悪口言われてれば、嫌でも覚える。」



『言ってよ!!』



「聞かれなかった。」



『それ便利な言葉じゃないから!!』





 今度は本気で頭を抱えるインユー。



 その姿を見て、ルーカスは珍しく声を立てて笑った。










 海から吹く風が二人の間を通り抜ける。



 ルーカスは遥か西の空を見つめ、小さく呟いた。







「帰るか。」



 一拍置いて。






「グレイ領へ。」







 潮風が金色の髪を揺らし、インユーの黒髪を優しくさらっていく。




 サクラとして始まった旅。



 そして。



 インユーとして歩む、新しい物語が、静かに始まろうとしていた。

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