7’
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王宮での生活は、忙しかった。
朝は西の言葉。
昼は礼儀作法や歴史、宗教、政治。
午後は舞踏や音楽、乗馬。
夜になれば、貴族たちが集う茶会や晩餐会、夜会へ顔を出す。
目まぐるしい毎日。
それでも、インユーにとってはどれも新鮮だった。
知らない文化。
知らない価値観。
知らない人々。
知れば知るほど、この世界は広く、面白くなる。
一か月後。
気付けば、東から輿入れしてきた公主の姿は影を潜め、西の大国の令嬢として誰もが認める立ち居振る舞いを身につけていた。
漆黒の髪は美しく結い上げられ、繊細な金細工の髪飾りが陽の光を受けて輝く。
淡い色のドレスは細い身体によく似合い、その歩き方には自然と品格が宿っていた。
教師たちは口を揃えて言う。
「覚えが早い。」
「筋がいい。」
その言葉に、インユーは照れ臭そうに笑うだけだった。
けれど、その一か月を振り返れば、一人の男の存在は欠かせない。
セドリック・フェイン。
ルーカスの海賊船では副船長だった男。
王宮では、常にインユーを気に掛けてくれた。
初めて招かれた令嬢たちのお茶会。
華やかなサロン。
大勢の貴族が集う社交会。
どれも右も左も分からない。
そんな時は決まって、セドリックが隣にいた。
「右にいるご婦人は伯爵夫人。」
「今こちらへ来る方は侯爵閣下だ。」
「笑顔で挨拶だけしておけば十分。」
誰にも聞こえない声で、そっと教えてくれる。
誰が誰なのか。
どんな人物なのか。
気を付けるべき相手は誰なのか。
自然なエスコート。
自然な気遣い。
おかげで、インユーは一度も恥をかくことなく、この一か月を過ごすことができた。
◇◇◇
夕暮れ。
薔薇が咲き誇る王宮の庭園を、二人は並んで歩いていた。
穏やかな風が吹き抜ける。
インユーはふと足を止めると、セドリックへ向き直った。
スカートの裾を軽く摘み、美しく一礼する。
『この一か月、本当にありがとうございました。』
その所作は、もう立派な貴族令嬢だった。
セドリックは少し目を丸くしたあと、苦笑する。
「最初はナイフとフォークを持つだけで戦いそうだったのにな。」
『……忘れて。』
恥ずかしそうに目を逸らす。
そんな表情だけが、一か月前のままだった。
『でも、本当に助かりました。』
『お茶会も、夜会も、社交会も……一人だったら、きっと何も分からなかったから。』
『セドリックが、いつも隣で教えてくれたから。』
『安心して過ごせた。』
飾らない、本心からの礼だった。
セドリックは照れ隠しのように頭を掻く。
「礼なんていいさ。」
「俺は案内役をしただけだ。」
しばらく歩く。
静かな時間が流れた。
やがて、インユーは昨日の出来事を思い出したように口を開く。
『そういえば……。』
『昨日、結婚相手が決まったって言われたんです。』
「ああ。」
『明日、女王陛下に呼ばれていて。』
『そこで正式に紹介されるそうです。』
小さく笑う。
『誰でもいいとは言ったけど……。』
『やっぱり少し緊張する。』
「するんだ。」
セドリックが可笑しそうに笑う。
『するよ。』
『相手のこと、何も知らないのだから。』
その返事にも、セドリックは面白そうに笑った。
ふと、セドリックが思い出したように言う。
「そういえば。」
「ルーカスたちも、戻ってきてるよ。」
『え?』
『そうなの?』
「ああ。」
その名前を聞いた瞬間だった。
自然と、一人の男の姿が頭に浮かぶ。
ぶっきらぼうで。
口が悪くて。
酒好きで。
女好きで。
それなのに、誰より面倒見のいい海賊。
ルーカス。
『そっか……。』
自然と笑みが零れた。
思い返せば。
あの男には、本当に世話になってばかりだった。
兄にことも。
輿入れの際も。
この国での全て。
何度助けられたか分からない。
いつか恩を返したい。
そう思う。
でも。
「そんなもん、いらねぇ。」
きっと本人は、そう言うのだろう。
容易に想像できてしまい、思わず小さく笑った。
けれど。
明日には結婚相手が決まって。
どこかの貴族へ嫁げば。
もう、あの海賊と顔を合わせることもないのかもしれない。
その考えが胸を過ぎった瞬間。
胸の奥が、ほんの少しだけ締め付けられた。
寂しい。
そんな感情が浮かんで、自分自身が一番驚く。
相手は海賊。
最初は、本気で斬ろうとしていた相手。
そんな男との別れを惜しむ日が来るなんて。
『……変だな。』
誰に言うでもなく、小さく呟く。
セドリックは、その横顔を静かに見つめていた。
そして、何気ない口調で続ける。
「…明日は、ルーカスがお前の付き添いをすることになると思う。」
『そうなの?』
「ああ。」
「俺もこれから忙しくなる。」
最後の一言だけ、ほんの僅かに棘が混じった。
だが、インユーは気付かない。
『そっか。』
『ーー改めて、本当にありがとう。』
もう一度、美しく礼をする。
一か月前には考えられないほど完璧な令嬢の一礼だった。
その姿を見つめ、セドリックはふっと笑う。
「……頑張れよ。」
ぽん、と優しく黒髪を撫でる。
兄が妹を励ますような、温かな手だった。
『うん。』
満面の笑みで頷くインユー。
その笑顔を見つめながら、セドリックは胸の内だけで小さく苦笑した。
——本当に、鈍い子だ。
その言葉だけは、最後まで口にはしなかった。




