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6’


6’





王宮での生活が始まって、数週間が過ぎた。


インユーは毎日、新しいことを覚えていた。




西の歴史。


礼儀作法。


食文化。


言葉。





そして――貴族たちが嗜む社交界の作法。


その日の午後は、舞踏会で踊るためのダンスレッスンだった。





高い天井の練習場。


磨き上げられた白い大理石の床に、陽光が大きな窓から降り注いでいる。


楽師が奏でる穏やかな旋律に合わせ、インユーは教師と向かい合った。





「はい、そこでもう半歩。」


「そうです。」


「……素晴らしい。」




教師は目を細める。



「飲み込みが本当に早い。」


インユーは少し照れたように笑った。


『そうですか?』


「ええ。」







教師は感心したように頷く。



「普通、この国の女性でも最初は足運びに苦労するものですが……あなたは違います。」


「軸がぶれない。」


「姿勢も美しい。」


「何より、身体の使い方を知っています。」





くるり、と一回転。



スカートが花びらのように広がる。


黒髪がふわりと揺れ、光を受けて絹糸のように艶めいた。




教師は思わず見惚れる。


「まるで……。」




小さく息を呑む。




「夜に舞う妖精のようですね。」



漆黒の妖精。






そんな言葉が自然と零れた。



インユーは困ったように笑うだけだった。


褒められることには、昔から慣れていない。





旅芸人だった頃も。


商家の娘になってからも。




歌えば褒められ。


踊れば褒められた。



けれど、自分ではそれが当たり前だと思ったことは一度もない。


だから教師の言葉も、





『ありがとうございます。』



そう小さく返すだけだった。


再び音楽が流れる。





一歩。


二歩。





軽やかに床を滑る。


その時だった。





ふと。


大きな窓の外へ目を向ける。




石畳の先。


王宮の正門近く。





陽の光を受けて輝く金髪が見えた。


見間違えるはずがない。




『……ルーカス。』





その瞬間。


身体が勝手に動いていた。





「インユー様?」


教師が呼び止める声も聞かず、


彼女はドレスの裾を持ち上げ、そのまま駆け出した。





「お、お待ちください!」


『ーー急用です!』



侍女たちの慌てる声だけが後ろから追い掛けてきた。








     ◇◇◇







王宮の正門。



馬車の前では出港の準備が進んでいた。




積み荷の確認。


兵たちとの短い打ち合わせ。



その全てを終えたルーカスは、御者へ軽く頷き、馬車へ乗り込もうとしていた。





その時だった。




『ルーカス!』


聞き慣れた声。





ルーカスは動きを止める。



振り返れば。




白い石畳を、ドレス姿の少女が懸命に走ってくる。





「……。」



一瞬。


本当に一瞬だけ。





思考が止まった。



見慣れた東の衣ではない。


この国の貴族令嬢が纏う、淡い藍色のドレス。




胸元は控えめながら女性らしい曲線を美しく見せる仕立て。



細い腰はコルセットでさらに引き締まり、



何層にも重なるスカートが走るたびに波のように揺れる。



黒髪との対比があまりにも美しかった。





……似合う。



それが最初に浮かんだ感想だった。


だが次の瞬間には、その感情を押し潰す。











「……。」




盛大にため息をついた。





「ヒールで走るな、バカ。」



呆れたような声。







その言葉を口にした瞬間。



ルーカス自身が眉をしかめた。



……なんだ今の。




どっかで聞いたことがあった。






まるで。


ユンジンみたいじゃねぇか。




無意識に出た兄のような台詞に、自分でも嫌気が差す。







もう一度、小さくため息を吐いた。



一方。





インユーは肩で息をしながら笑う。




『……はぁ……よかった。間に合った。』






「何の用だ。」



『海へ出るって聞いて。』



「海賊だからな。」





短い返事。



それだけ。





『……そっか。』

 

インユーは少し寂しそうに笑った。




それでも、その笑顔は花が咲くように明るい。



この娘は。



どこへ行っても、人を安心させる笑顔をする。






東から来た花嫁。



今では王宮中の誰もが彼女を歓迎していた。



貴族たちは競うように話し掛け、



夫人たちは可愛がり、



若い貴族たちは皆、視線を向ける。




この国のどの家門だって欲しがっていた。




美貌。


教養。


品格。




そして、人を惹きつける不思議な優しさ。



全部持っている。







……面倒くさい。


本当に。



そう思った時だった。


















ルーカスの視線が止まる。




細い首元。




ドレスには到底似つかわしくない、小さな銀色のペンダント。




かなり古い。





何度も磨かれた跡がある。














「……それ。」





インユーはきょとんとした。





『これ?』





ルーカスは黙って頷く。




インユーはペンダントを指先で摘まみ、困ったように笑った。







『先生にも言われちゃった。』


『このドレスには合わないって。』





小さく肩を竦める。

 


『いつもは服の中に隠してるんだけど……今日は首元が開いてるから、見えちゃうね。』



そう言って、ゆっくり蓋を開いた。









中には。


押し花が一輪。







長い年月を経て色は失われ、




もう何色だったのかも分からない。

   







けれど。


ルーカスは知っていた。




その花が何だったのか。  









忘れるはずがない。



あの日。



まだ幼かった異国の少女へ渡した、小さな花。









まさか。



まだ持っていたとは思わなかった。













『お守りなんだ。』






インユーは照れくさそうに笑う。











『大切な人にもらったから。』
















ルーカスは何も答えなかった。



何も言えなかった。





ただ静かにペンダントを見つめ、



やがて視線を逸らす。















その青い瞳の奥で、



何かが静かに決まった。







「……。」








何も言わず歩き出す。





『待って。』



インユーが呼び止める。







ルーカスは振り返らない。



それでも足だけ止めた。







『ルーカス。』





柔らかな声。







『色々、ありがとう。』



『気をつけてね。』





その言葉が。



どうにも、くすぐったい。







だから。



誤魔化すように言う。




「お前のそばに、セドリックを置いていく。」





『……え?』




思わず目を丸くする。






「俺はしばらく帰らねぇ。」 



「アイツは元貴族だ。」



「王宮の連中とも話が合う。」



「誰もいねぇよりマシだろ。」






意味を理解したインユーは、慌てて首を横へ振る。




『そんなの駄目だよ。』


『副船長じゃない。』


『船が困る。』




「困らねぇ。」



即答だった。





『でも……。』


「決めた。」



短い一言。


反論を許さない声音。






インユーは苦笑する。


最近。


本当に。




ルーカスは、ユンジンに似てる。


違うところがあるとすれば――。


ユンジンは一応、最後には妹の話を聞いてくれる。





だが。


この男は。


最初から聞く気がない。







『……横暴。』



小さく呟けば、



「知ってる。」


とだけ返ってきた。






そこへ。


「船長。」



聞き慣れた穏やかな声が響く。


セドリックだった。



「出港ですね。」


「ああ。」



ルーカスは親指でインユーを示す。




「こいつ、見張っとけ。」


「間違っても魔王にこれ以上近づけるな。」




セドリックは吹き出しそうになる。



あの女王を魔王呼ばわりする人間など、



世界中探してもルーカスくらいだろう。






「承知しました。」



笑いを堪えながら頭を下げる。







「ーーー進路は?」


そう尋ねると。






ルーカスは短く答えた。



「……北だ。」






その一言だけで。


セドリックは全てを悟った。






一瞬だけ目を見開き、



それから穏やかに微笑む。



「…そうですか。」



その声には、驚きよりも安堵が混じっていた。








「気をつけて。」


「ああ。」




それだけ言い残し、


ルーカスは馬車へ乗り込む。




 

車輪が静かに回り始める。


遠ざかる馬車を見送りながら、



  

インユーはのんびりと呟いた。




『ルーカスも忙しいね。』


あまりにも呑気な一言だった。





セドリックは思わず笑ってしまう。



『どうしたの?』


「いや?」



首を横に振る。


「何でもない。」




そう答えながらも、


彼の視線は、北へ向かう馬車を追い続けていた。








船長が向かう「北」。


それは、ただの航路ではない。


長年、胸の奥に閉じ込めていた過去へ向かう旅だ。





ルーカスは、ようやく決めたのだ。


――終わらせるために。


そして、本当に守りたいものを守るために。





セドリックは誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。


「……ようやく、か。」


その言葉は夏の風に溶け、誰の耳にも届くことはなかった。

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