5’
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しばらく、穏やかな時間が流れていた。
紅茶の香り。
甘い焼き菓子。
窓の外に広がる西の庭園。
セラフィーナは楽しげにインユーの話を聞き、インユーは初めて見るものに静かに目を輝かせていた。
ルーカスはその横で、煙草を片手に黙っている。
まるで最初からそこにいる置物のように無愛想だったが、時折インユーが珍しい菓子に目を輝かせると、ほんのわずかに視線を向けた。
そんな中。
「そうそう。」
セラフィーナが、ふと思い出したように呟いた。
「インユーの結婚相手だけど、まだ決めかねているのよ。」
『……え?』
インユーは思わず瞬きをした。
『まだ、決まっていないのですか?』
「ええ。候補はほとんど絞ったのだけれど。」
セラフィーナは困ったように頬杖をつく。
「決定打に欠けるのよねぇ。」
柔らかな笑み。
けれど、その奥に少しだけ意地の悪い色がある。
今日会ってから見た中で、一番“魔王”らしい顔だった。
ルーカスはそれを見て、心底げんなりした顔をする。
「その顔やめろ。」
「どの顔?」
「面白ぇこと思いついた時の顔だ。」
「失礼ね。」
セラフィーナはくすくす笑う。
「私は真剣に悩んでいるのよ?」
「なお悪い。」
インユーは二人のやり取りを見て、小さく笑った。
セラフィーナは改めてインユーへ向き直る。
「だから、もう少しだけ待っていてくれる?」
インユーは静かに頷いた。
『もちろんです。』
『私には、急ぐ理由はありませんから。』
「ありがとう。」
セラフィーナは優しく微笑む。
それから、ふと首を傾げた。
「でも、あなたの希望も聞いておきたいわ。」
『私の、希望ですか?』
「ええ。」
セラフィーナは指を折る。
「年齢差はどれくらいがいいとか。」
「顔の好みとか。」
「性格とか。」
「役職とか。」
「文官がいい、騎士がいい、商才がある人がいい、とか。」
「何か一つくらいあるでしょう?」
インユーは真剣に考えた。
目を伏せて、茶杯を見つめる。
その様子はあまりにも真面目で、セラフィーナは少し期待した顔になった。
やがて。
インユーは静かに口を開く。
『一つあるとすれば。』
「ええ。」
『西と東にとって、一番良い相手でしょうか。』
あまりにも迷いのない答えだった。
セラフィーナは一瞬、言葉を失う。
それが難しいから悩んでいるのよ。
そう言いたげに唇を開きかけたが、結局言わずに苦笑した。
「…あなた、本当に無欲ね。」
『そうですか?』
インユーは不思議そうに首を傾げる。
『私は欲だけで、ここまで来ましたが。』
淡々とした声だった。
ルーカスは煙草を咥えたまま、心の中で思う。
それな。
この女は無欲ではない。
むしろ、かなり欲深い。
ただ、欲しがるものが普通の娘と違うだけだ。
宝石でもなく。
地位でもなく。
甘い愛でもなく。
交易路。
信用。
利。
“李家のために。”
そして、それは自分のためでもあるのだろう。
セラフィーナはふっと笑った。
「あなたみたいな子、好きよ。」
その声は優しかった。
「あなたを臣下に迎えられること、嬉しく思うわ。」
インユーは少し驚いたように目を丸くした。
それから、ふわりと笑う。
『ありがとうございます。』
花のような笑顔だった。
ほんの一瞬、部屋の空気が柔らかくなる。
セラフィーナはその笑顔を見つめ、ますます楽しそうに目を細めた。
「ねぇ。」
『はい。』
「でも、本当に他にはないの?」
『ありませんね。』
「顔の好みも?」
『特には。』
「年齢は?」
『政略に支障がなければ。』
「性格は?」
『李家と西王国に不利益をもたらさない方なら。』
「可愛げがないわねぇ。」
『よく兄様にも言われます。』
インユーはにこりと笑う。
セラフィーナは肩を震わせた。
「でも、今まで誰かを好きになったことくらいあるでしょう?」
その一言だった。
インユーの指先が、ほんのわずかに止まる。
茶杯の縁に触れていた白い指が、一瞬だけ動きを失った。
それは本当に小さな反応だった。
けれど、セラフィーナは見逃さなかった。
ルーカスも。
何気なく煙草を吸っていた手を、わずかに止める。
「あら。」
セラフィーナの紫の瞳が、楽しげに細められる。
「あるのね。」
インユーはすぐにいつもの表情へ戻った。
けれど、少しだけ困ったように笑う。
『……昔の話です。』
「昔でもいいわ。」
セラフィーナは身を乗り出した。
まるで恋物語を聞きたがる少女のようだった。
「私もあるもの。」
『セラ様も?』
「ええ。」
セラフィーナはあっさり頷く。
そして、煙草を吹かしていたルーカスを指差した。
「この馬鹿が好きだったわ。」
『……え?』
インユーは思わずルーカスを見る。
ルーカスは心底嫌そうな顔をしていた。
「余計なことを言うな。」
「昔の話でしょう?」
「今、十分不愉快だ。」
「相変わらず失礼ね。」
セラフィーナは楽しそうに笑う。
けれど、その笑みはすぐに少しだけ静かなものへ変わった。
「でも、本当に昔の話。」
紅茶の水面を見つめる。
「私は国と結婚したの。」
穏やかな声だった。
「王になったその日から、誰か一人と添い遂げることはできなくなった。」
インユーは黙ってその言葉を聞いた。
西の大国の歴史。
若くして王冠を戴いた女王。
即位までの争い。
それらを思い返す。
セラフィーナがそういう選択をした理由は、少しだけ分かる気がした。
セラフィーナは、また柔らかく微笑む。
「だからね。」
「せっかくあなたが結婚するなら、なるべく希望に沿いたいの。」
そして悪戯っぽく笑った。
「私は教えたのだから、あなたも教えなさい。」
「フェアじゃないでしょう?」
インユーは少し困ったように笑う。
逃げられない。
そう悟った顔だった。
「恋したこと、あるのでしょう?」
静かな問い。
インユーはしばらく黙った。
そして、遠い昔を思い出すように目を伏せる。
まだ、旅芸人として生きていた頃。
舞台の幕の向こう。
見知らぬ港町。
夕焼け。
粗末な舞台。
そして。
優しく笑ってくれた、あの人。
インユーの唇に、淡い笑みが浮かぶ。
『……あります。』
その声は、とても優しかった。
ルーカスの碧眼が、わずかに揺れる。
セラフィーナはぱっと顔を輝かせた。
「あら!」
「どんな人だったの?」
楽しそうに聞いてくる。
インユーは懐かしむように、少しだけ遠くを見た。
『優しい人でした。』
静かな声。
『物語に出てくる、王子様みたいな。』
ルーカスの指先が、ぴくりと動いた。
煙草の灰が、灰皿の縁に落ちる。
セラフィーナは楽しげに微笑む。
「素敵ね。」
「その人とは、どうなったの?」
無邪気な問いだった。
インユーは笑顔のまま、茶杯を持ち上げた。
ゆっくりと紅茶を一口飲む。
さっきまで甘く華やかだった香りが。
少しだけ、苦く感じた。
茶杯を置く音は、とても静か。
インユーは柔らかく微笑んだまま、口を開く。
『もう、たぶん死んでいます。』
部屋の空気が止まった。
セラフィーナの笑みが、静かに消える。
ルーカスは動かない。
ただ、碧い瞳だけがインユーを見ている。
インユーは、まるで何でもない話をするように続けた。
『海賊に、殺されました。』
静かな声だった。
涙もない。
怒りもない。
けれどその静けさが、何よりも深く胸を刺した。
窓の外では、庭の花が風に揺れている。
甘い紅茶の香りは、まだ部屋に残っていた。
なのに。
さっきまであれほど明るかったお茶会の空気だけが、遠いところへ消えてしまった。
◇◇◇
お茶会は、穏やかな空気で終わりを迎えた。
最後の紅茶を飲み終えると、セラフィーナはティーカップを静かにソーサーへ戻す。
「そうだ、インユー。」
『はい、セラ様。』
「結婚相手が決まるまで、しばらく時間があるでしょう?」
『はい。』
「その間、王宮で西の文化を学んでみない?」
インユーは少し目を丸くした。
『学ぶ、ですか?』
「ええ。」
セラフィーナは穏やかに微笑む。
「家庭教師を付けるわ。」
「歴史や礼儀作法、言葉……。」
「あなたが西で暮らすことになっても困らないように、一通り教えてもらうといい。」
『……。』
インユーは一瞬だけ驚いた顔をしたあと、ふわりと笑った。
『ありがとうございます。』
『ぜひ、よろしくお願いします。』
「そう言ってもらえて嬉しいわ。」
セラフィーナも優しく笑う。
ルーカスはそのやり取りを黙って眺めていた。
結婚相手の話より。
西の文化を学べることの方が嬉しそうだ。
そんな花嫁候補も珍しい。
◇◇◇
王宮の長い回廊を歩く。
窓から差し込む夕陽が、白い石畳を淡く染めていた。
『家庭教師かぁ。』
インユーがぽつりと呟く。
『楽しみ。』
その声は、思わず零れた本音だった。
『西の歴史、もっとちゃんと勉強したかったんだ。』
『本だけじゃ分からないことも、きっと沢山あるよね。』
嬉しそうに笑う横顔。
ルーカスは静かにその姿を眺める。
その姿を見ていて、不意に昔のことを思い出した。
初めて会った日。
黒髪を短く切り、男の格好をして、一人で海へ出たインユー。
兄を探すため。
自分へ刀を向けた。
憎しみに満ちた黒い瞳。
何度返り討ちにしても、翌日にはまた斬りかかってきた。
兄しか見えていない。
そんな娘だと思っていた。
だから。
今日聞いた話は、少し意外だった。
『……いました。』
少し照れたような笑顔。
『優しい人でした。』
『物語に出てくる、王子様みたいに。』
あんな顔をするとは思わなかった。
恋の話など、一度もしたことがない。
色恋には興味がない、ただのガキだと勝手に思っていた。
けれど違う。
インユーも十八歳の娘だ。
好きな相手がいても、何もおかしくない。
そして。
『もう、たぶん死んでいます。』
『海賊に、殺されました。』
その言葉だけが、妙に胸へ残っていた。
静かな声だった。
泣きもせず。
恨みもぶつけず。
ただ、事実を話すように微笑んでいた。
あの笑顔が、どうにも忘れられない。
ルーカスは小さく息を吐く。
自分の知らないインユーがいる。
その当たり前の事実が、思っていた以上に胸へ引っ掛かっていた。
『ルーカス?』
隣から声がする。
いつの間にか立ち止まっていたらしい。
インユーが不思議そうにこちらを見上げていた。
『どうしたの?』
ルーカスは静かに視線を逸らす。
「……何でもねぇ。」
『そう?』
「行くぞ。」
『うん。』
また二人は歩き出す。
夕暮れの回廊へ。
足音だけが静かに響いていた。




