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4’


4’







控えの間で待つこと、しばらく。



 重厚な時計が、静かに時を刻んでいた。


 規則正しく揺れる振り子。


 高い天井へ響く、小さな時を告げる音。

 


 東で見慣れた水時計とも、李家で使われている柱時計とも違う。



 細かな金細工が施された大時計は、それ自体が一つの芸術品だった。







 窓から差し込む柔らかな陽光が文字盤を照らし、金色の装飾が淡く輝いている。



 インユーはその時計を眺めながら、小さく息をついた。







 王宮に来てから、様々な物を目にする。


 以前旅とは見る角度が違う。



 それだけで、全然別の色合いを生んでいた。



 建物も。


 家具も。


 香りも。


 衣服も。





 どれも東とは違う。


 違うからこそ、新鮮だった。






 ふと、どんな職人が作ったのだろう、と考える。


 これほど精密な細工を施せる職人は、王都に何人いるのだろう。


 材料はどこから運ばれてくるのか。


 東にも同じ技術はあるのだろうか。






 そんなことをぼんやりと思い浮かべた、その時だった。



 控えめなノックが部屋へ響く。






「女王陛下がお見えになります。」





 侍従が恭しく告げた。



 インユーは静かに立ち上がる。



 胸の前で手を重ね、衣の乱れをそっと整えた。





 隣では、ルーカスが椅子へ深く腰掛けたまま、小さくため息を吐いている。






「来たか。」




 その声音だけで、ひどく気が重そうなのが伝わってきた。



 思わずインユーは横顔を見る。





『……そんなに会いたくないの?』



「会いたくねぇ。」



『幼馴染なんでしょう?』



「だからだ。」



 即答だった。






 その返事が少し可笑しくて、インユーは口元を押さえる。



 ちょうどその時。



 重厚な扉が、ゆっくりと開いた。







     ◇◇◇







 現れたのは、やはり息を呑むほど美しい女性だった。



 陽光を溶かしたような、長いプラチナブロンド。


 紫水晶を思わせる瞳。


 雪のように白い肌。





 歩くだけで空気が変わる。


 華やかなはずなのに、決して派手ではない。


 まるで、一枚の絵画がそのまま歩き出したようだった。






「待たせたな。」



『女王陛下。』



 インユーは静かに一礼する。


 けれど、セラフィーナは柔らかく微笑み、片手を軽く上げた。






「今は謁見ではないわ。」



 その一言だけで、控えていた侍女たちが一斉に動き出す。






 白いクロスが広げられ。



 磨き抜かれた銀のティーポットが置かれ。



 薄い白磁の茶器が丁寧に並べられる。  



 花びらを思わせる焼き菓子。



 艶やかな果実のタルト。



 小さなサンドイッチ。



 宝石箱をひっくり返したような砂糖菓子。




 ひと皿ごとに季節の花が添えられ、その色合いまで計算され尽くしていた。





 やがて。



 紅茶が静かに注がれる。



 ふわり、と甘く華やかな香りが広がった。



 花の香り。



 柑橘の爽やかさ。



 その奥に、ほんの少しだけ蜂蜜のような甘い香りが重なる。






『……。』

  




 思わず見入ってしまう。



 茶器まで美しかった。


 東の磁器とはまた違う。


 光を透かすほど薄く、白く、繊細で。


 金彩が細く縁を飾っている。


 持ち手の曲線まで美しい。




 


『……綺麗。』



 ぽつりと零れた本音だった。


 セラフィーナはその言葉に、小さく目を細める。





「気に入った?」


『はい。』



 インユーは素直に頷いた。




『こんな茶器、初めて見ました。』



 そっと手に取り、重さを確かめる。


 驚くほど軽い。


 それでいて、不思議なほど手に馴染む。


 東の器とはまるで違う趣があった。





『本当に素敵です。』


「ありがとう。」

 


 セラフィーナは嬉しそうに微笑んだ。



 その笑みを見届けると、ゆっくりと振り返る。






「みんな、下がって。」



 護衛騎士が一瞬だけ戸惑う。




「ですが、陛下……。」



「ルーカスがいる。」

    




 短い一言。



 それだけで騎士は口を閉ざした。




 ちらり、とルーカスを見る。



 本人は相変わらず、椅子へ気怠そうに座ったままだ。




 とても護衛らしくは見えない。



 それでも。



 女王がそう言う以上、誰も異を唱えない。





「承知しました。」



 一礼し、静かに部屋を出て行く。





 侍女たちも次々と下がり、最後に一人だけが壁際へ控えた。



 部屋に残ったのは。



 三人と、控えの侍女一人。



 それだけだった。



 静寂が落ちる。










 すると。



 ルーカスが足を組み直した。



 懐から煙草を取り出し、慣れた手つきで火を点ける。



 白い煙がゆっくりと立ち上った。



 セラフィーナは呆れたように眉を下げる。







「あなたね。」



「ん?」



「そのうち肺を病んで死ぬわよ。」



「その時はその時だ。」



「家門が泣くわ。」



「…知らん。」



「少しくらい控えたら?」



「嫌だ。」



「本当に可愛げがない。」



「アンタにだけは言われたくねぇ。」



「ふふ。」



 その笑い方には、先ほどまでの女王としての威厳はなかった。


 ただの幼馴染。


 長い付き合いだからこそ許される距離感。





「そういえば。」



 セラフィーナが紅茶を口に運びながら思い出したように言う。



「昔、煙草を全部隠したことがあったでしょう?」



「三日も口をきいてくれなかったわね。」



「根に持つな。」



「持つわ。」



「器が小せぇ。」



「悪魔が何か言ってる。」



「魔王に言われたくねぇ。」



 二人とも真顔だった。


 だから余計に可笑しい。





 インユーは思わず、ぽかんとしてしまう。



『……。』



 一国の女王。


 西海の悪魔。


 そう聞いていた。





 なのに。


 目の前にいるのは、子どもの頃から喧嘩ばかりしてきた友人そのものだった。




 ふと、二人を見比べる。



 金髪碧眼の青年。



 プラチナブロンドの美女。



 物語の挿絵に描かれていそうな、美しい二人。






 王子様と、お姫様。



 見た目だけなら。



 本当に。



 見た目だけなら。




『……。』



 インユーは心の中だけで呟く。



 残念。


 すごく残念。






「何考えてる。」




 ルーカスが煙草を咥えたまま視線だけ寄越した。



『見た目だけなら、とても素敵なお二人だなって。』


「だけ?」


『だけです。』




 少しも迷いなく答える。


 ルーカスは肩を竦めた。



「はっ。」





 鼻で笑われた。



 だけど。


 否定はしない。


 セラフィーナはとうとう吹き出した。

 



「あははっ。」


「その言い方、好き。」









 笑いながら手を振る。




「ごめんなさいね。」



 姿勢を正し、改めてインユーへ向き直る。


 




「正式に名乗るわ。」




 紫の瞳が柔らかく細められた。





「セラフィーナ・エルドレッド。」  







「この国の女王よ。」









 そして、優しく笑う。



「でも、お茶会の間くらいは気楽にして。」


「セラと呼んでちょうだい。」




 インユーは少し目を丸くした。



『ですが……。』


「恐れ多いって顔ね?」



 セラフィーナは悪戯っぽく笑う。







「今はお茶会。」



「女王じゃなくて、一人のセラフィーナとして話したいの。」



 インユーは少しだけ困ってルーカスを見る。



 助けを求めるような視線だった。



 ルーカスは煙草をくわえたまま、短く言う。





「諦めろ。」



「一回言い出したら聞かねぇ。」



「そういう人だ。」



 インユーは小さく笑った。


 完全な呼び捨ては、やはり気が引ける。


 しばらく考えてから、柔らかく微笑む。





『……では。』


『セラ様。』



 一拍置いて呼ぶ。


 その響きに、セラフィーナは嬉しそうに目を細めた。




「うん。」



「それでいいわ。」




 そして微笑み返す。







「じゃあ私も。」



「インユー。」



 たったそれだけ。


 名前を呼び合っただけなのに。


 さっきまで感じていた距離が、少しだけ近付いた気がした。





セラフィーナは、そっとティーカップを持ち上げた。






「さぁ。」


「冷めないうちにいただきましょう。」


『はい。』




 インユーも片手で茶器を持ち上げる。



 薄い磁器は驚くほど軽かった。



 指先へ伝わる温もりまで心地よい。



 ふわり、と立ち上る香りを一度楽しんでから、静かに口を付ける。






『……。』



 一口。


 それだけで、黒い瞳がぱっと輝いた。





『美味しい……。』



 思わず漏れた声だった。


 東の茶とは全く違う。


 花のような華やかな香りが鼻へ抜け、そのあとを追うように柔らかな甘みと心地よい渋みが広がる。





 香りを楽しむためのお茶。


 そんな印象だった。





「気に入ってくれた?」


 

 セラフィーナが嬉しそうに尋ねる。


 インユーは何度も頷いた。

 


『はい。』


『とても優しい味です。』


『それに、この香り……。』



 もう一度ゆっくり香りを吸い込む。




『東のお茶とは、まるで違うんですね。』


「そうね。」


「西では、お茶そのものの味だけじゃなく、香りも楽しむ文化なの。」


『なるほど……。』


 


 インユーは感心したように頷く。


 視線は自然と卓上へ落ちた。




 紅茶。


 茶器。


 菓子。


 銀器。


 花。




 どれも一つひとつが美しい。


 けれど、それ以上に。


 全体として完成している。


 一つ欠けても、この空間は成り立たないのだろう。






『……素敵。』



 小さく呟く。




「何が?」


『全部です。』



 インユーは照れたように笑う。




『お茶だけじゃなくて。』


『器も、お菓子も、お花も。』


『みんな揃っているから、こんなに綺麗なんですね。』




 その言葉に、セラフィーナは少しだけ驚いたような顔をした。




「そう思った?」


『はい。』


『東でも、お茶を飲むことはあります。』


『でも、こんなふうに空間ごと楽しむのは初めてで……。』




 そう言いながら、小さな焼き菓子へ手を伸ばす。


 さくり。


 軽い音がした。


 口へ運ぶ。


 ほろり、と優しく崩れた。





『……!』



 今度は目まで丸くなる。




『美味しい……。』



 思わず頬が緩む。




『これ、何が入っているんですか?』



「発酵バターと蜂蜜よ。」



『発酵……。』



 聞き慣れない言葉だった。


 セラフィーナは微笑みながら説明する。



「牛乳から作るの。」


『牛乳から……。』



 インユーは興味深そうに頷いた。


 頭の中では、自然と東の材料が浮かぶ。


 似たようなものは作れるだろうか。




 味は変わるだろうか。


 そんなことを考えかけて。


 はっと我に返る。






『……。』



 いけない。


 また考え込んでいた。




 今日は商談ではない。


 お茶会だ。


 インユーは慌てて笑みを浮かべ直した。


 その様子を見ていたセラフィーナは、ふと口元を緩める。





「インユー。」


『はい?』


「来てくれて、本当にありがとう。」


『……。』


「あなたに会いたかったの。」





   

 あまりにも真っ直ぐな言葉だった。


 思わず言葉に詰まる。


 何かを試すようでも。


 探るようでもない。




 本当に、そう思っていたからこそ出た言葉。


 インユーは少し照れくさそうに笑った。





『ありがとうございます。』


『私も、お会いできて嬉しいです。』



 セラフィーナは満足そうに頷く。


 そして、紅茶を一口飲んでから尋ねた。





「でも。」


「少し心配だったのよ。」


『何がでしょう?』


「不安じゃなかった?」


「家族と離れて。」


「こんな遠い国へ、一人で来ること。」




 部屋が静かになる。


 窓の外では、小鳥の鳴き声だけが聞こえていた。





 インユーは答える前に、もう一度紅茶を口へ運ぶ。


 ゆっくり味わう。



 

 それから、静かに部屋を見回した。


 白い壁。


 西の絵画。


 磨き上げられた家具。


 美しい茶器。


 異国の香り。





 どれも初めて見るものばかりだった。


 黒い瞳が柔らかく細められる。






『……私は。』




 穏やかに笑う。




『この景色を見たかったんです。』


「景色?」


『はい。』


『李家の娘として、私が見てみたかった。』




 少しだけ照れたように笑う。





『本で読むのと、自分で見るのでは違いますから。』




 セラフィーナは静かに頷いた。


 インユーは続ける。



『王宮も。』


『貴族の方々も。』


『こうして、お茶をいただく時間も。』





 ひとつひとつ、丁寧に言葉を重ねる。



『全部、初めてです。』


『だから、とても新鮮で。』


『見ているだけで楽しいんです。』



 その笑顔もまた、本当だった。




 純粋な好奇心。


 異国への憧れ。




 そんなふうにも見えた。


 けれど。

 



 セラフィーナは何となく気付いていた。


 この娘は、ただ「珍しい」で終わる子ではない。




 見たものを、ちゃんと覚える。


 聞いたことを、ちゃんと考える。


 そして、李家のために動く筈だ。




 そんな目をしている。


 だからこそ、余計に面白かった。





「……ふふ。」



 セラフィーナは笑う。


「やっぱり。」


『?』


「あなたに会いたいと思った私の勘は、間違っていなかったみたい。」





 インユーは首を傾げる。




『勘、ですか?』


「ええ。」




 紫の瞳が悪戯っぽく細められた。





「あなた、見たものを全部覚えようとしているでしょう?」





 その一言に。


 

 インユーは少しだけ目を丸くした。


 図星だった。


 ほんの少しだけ。




 けれど、それを表情には出さない。


 

『そういう性分なんです。』

 



 柔らかく笑うだけ。


 その答えに、セラフィーナもそれ以上は追及しなかった。




「素敵な性分ね。」


「知らないものを知ろうとする人は、私は好きよ。」



 ルーカスはそのやり取りを黙って眺めていた。



 煙草の煙がゆっくりと立ち上る。


 セラの機嫌が、やけにいい。


 嫌な予感しかしない。



 けれど今は、何も言わない。


 黙って紅茶を一口飲み、静かに二人を見守っていた。







しばらくの間。


 部屋には穏やかな時間が流れていた。


 紅茶の香り。


 窓から吹き込む柔らかな風。


 庭で揺れる木々の葉擦れ。




 東の茶席とは違う。


 けれど、不思議と心が落ち着く空間だった。





 セラフィーナはティーカップをソーサーへ戻し、ふとインユーを見つめる。



「ねぇ、インユー。」


『はい、セラ様。』


「さっき。」


「この景色を見たかったって言ったでしょう?」


『はい。』


「それは、どうして?」




 問い掛けは穏やかだった。


 尋問ではない。


 本当に知りたい。


 そんな響きだった。





 インユーは少しだけ考える。


 言葉を選ぶように、茶器へ視線を落とした。




『……兄様によく言われるんです。』


「お兄様に?」


『知識だけでは商人になれない、と。』






 小さく笑う。



『どれだけ帳簿を読んでも。』


『どれだけ相場を覚えても。』


『実際に見て、触れて、話してみないと、本当の価値は分からないって。』



 その言葉に、セラフィーナは静かに耳を傾けた。





『だから。』


『李桜雨として、見てみたかったんです。』


『西の大国を。』



 そう言って、もう一度部屋を見回す。


 壁に飾られた油絵。


 細工の美しい銀器。


 窓から見える庭園。


 紅茶から立ち上る湯気。


 どれも異国の空気をまとっていた。










『本には書いてありませんでした。』





『この紅茶が、こんなに良い香りだなんて。』





『お菓子が、こんなに軽い食感だなんて。』





『お庭が、こんなふうな色彩を放つなんて。』





『人が、こんなふうに笑うなんて。』





 最後の一言に、セラフィーナは目を細めた。




「人?」


『はい。』



 インユーは照れたように笑う。




『最初、この国の人は、もっと怖い方ばかりだと思っていました。』


「ふふ。」









 セラフィーナが吹き出す。




「誰のせいかしら。」



 視線だけが、隣へ向く。


 ルーカスは煙草を咥えたまま知らん顔をしていた。






『最初に会ったのが、ルーカスだったので。』



「でしょうね。」



 セラフィーナは肩を震わせる。





『悪魔だと思っていました。』


「今は?」

  




 インユーは少しだけ考えた。 



 ちらり、とルーカスを見る。



 ルーカスは面倒そうに煙を吐いただけだった。





『……悪魔じゃありませんでした。』


「へぇ?」


『口は悪いですし。』


「おい。」


『態度も悪いですし。』


「おい。」


『煙草も吸いすぎですし。』


「……。」


『すぐ人をからかいますし。』


「……。」


『性格も、あまり良いとは言えません。』




 セラフィーナが堪えきれず笑い出した。

  


「あははっ!」


「ずいぶん言われてるじゃない。」




 ルーカスは深いため息を吐く。




「全部聞こえてるぞ。」


『聞こえるように言いました。』


「可愛げがねぇ。」


『ルーカスにだけは言われたくない。』


「その台詞、どっかで聞いたな。」


「私も聞いたわ。」




 二人の声が重なる。


 インユーは思わず笑ってしまった。




 さっきまで少しだけ感じていた緊張は、もうほとんど残っていない。












 セラフィーナは微笑みながら、改めて尋ねる。



「でも、それだけじゃないでしょう?」





『え?』





「あなた。」





「さっきから、この部屋を何度も見ている。」









 インユーは少しだけ目を丸くした。







「絵も。」



「茶器も。」



「お菓子も。」



「侍女の動きも。」



「一つひとつ、とても丁寧に見ているわ。」









 穏やかな声だった。



 責めるような響きはない。



 純粋な興味。











『……癖なんです。』



 インユーは少し照れたように笑う。






『見ることが、好きで。』



「見ること?」



『はい。』



『知らないものを理解するのが好きなんです。』




 それは本心だった。





『見ていると。』



『どうしてこうなったんだろう、とか。』



『誰が作ったんだろう、とか。』



『そんなことばかり考えてしまって。』








 セラフィーナは頷く。



「例えば?」


 インユーは少しだけ困ったように笑った。






『このお茶もです。』




 そっとティーカップを見つめる。






『どうして、この香りになったんだろう、とか。』



『どうして西では紅茶がこんなに親しまれているんだろう、とか。』



『このお菓子は、どうしてお茶と一緒に出すようになったんだろう、とか。』



『……気付いたら考えてしまうんです。』





 そこで一度言葉を切る。






『父上に言われたことがあります。』



「何て?」



『物を覚えるだけでは足りない。』



『どうしてそうなったのかまで考えなさい、って。』





 セラフィーナは小さく微笑んだ。



 なるほど。



 そういう育て方をされた娘なのか。







『だから。』



 インユーは少しだけ恥ずかしそうに笑う。





『西へ来られて、本当に嬉しいんです。』



『毎日、新しいことばかりで。』



『見るもの全部が勉強になります。』




 その言葉には、飾りがなかった。



 セラフィーナはゆっくりと頷く。






「そう。」



 そして、少しだけ身を乗り出した。







「じゃあ。」


「もっとこの国を知りたい?」




 その一言に。


 インユーの黒い瞳が、ぱっと輝いた。






 ほんの一瞬。



 淑やかな李家の姫ではなく。


 新しい玩具を見つけた子どものような顔になる。



 けれど、それも一瞬だけ。



 すぐに姿勢を正し、穏やかに微笑んだ。

   




『……もし、ご迷惑でなければ。』




 セラフィーナは、その一瞬を見逃さなかった。





 可愛い。




 そう思う。



 この娘は欲がないのではない。


 むしろ、誰よりも貪欲だ。





 ただ。


 欲しいものが普通と少し違う。




 宝石でも。


 権力でも。


 名誉でもなく。



 

 知らない世界を知りたい。


 その知識を、自分のものにしたい。


 そんな目だった。


 セラフィーナはゆっくりと笑う。




 インユーの瞳の奥から、ユンジンと同じ物を感じた。


 あるはずのない、算盤の音が聞こえた気がした。






「迷惑だなんて、とんでもない。」



「むしろ、私が教えてあげたいくらいよ。」






 その笑顔を見て。


 ルーカスだけが、小さく眉をひそめた。





 まただ。



 セラが面白いことを思いついた時の顔。


 長い付き合いだから分かる。


 この笑顔のあとに、ろくなことは起きない。





 ルーカスは静かに煙草を揉み消し、深くため息を吐いた。

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