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翌朝。
インユーは夜明け前から侍女たちに起こされた。
湯で清められ、香油を髪へ馴染ませられ、白い肌には薄く粉をのせられる。
鏡の前に座らされた時には、まだ少し眠気が残っていた。
けれど侍女たちの手つきは容赦がない。
髪を梳かれ。
紅を差され。
幾重にも衣を重ねられ。
気付けばそこにいたのは、海賊船で刀を抜いていたインユーではなかった。
淡い翡翠色の漢服。
胸元には繊細な花の刺繍が施された斉胸襦裙。
肩から流れる薄絹の披帛は、歩くたびに水のように揺れる。
艶やかな黒髪は高く結い上げられ、金細工の歩揺と翡翠の簪が、わずかな動きに合わせて静かな音を立てた。
しゃらり。
しゃらり。
その音を聞くたび、インユーは少しだけ背筋を伸ばす。
侍女が満足そうに微笑んだ。
「本当にお美しいです、姫様。」
『……歩きにくい。』
「姫様。」
『はい。美しいです。ありがとうございます。』
慌てて言い直すと、侍女たちがくすくす笑った。
完璧な公主。
東の大国から来た、李家の姫。
そう見えるように仕立てられたインユーは、鏡の中の自分をしばらく見つめた。
まるで、誰か別の人間みたいだった。
◇◇◇
王宮へ向かう馬車の前に、ルーカスは待っていた。
いつもの黒いコートではない。
深い紺の礼装に、銀糸の刺繍。
金髪はきちんと整えられ、碧眼の鋭さだけがいつも通りだった。
海の上の悪魔ではなく。
王宮に仕える、一人の高位の男。
そんな姿だった。
インユーは思わずまじまじと見上げる。
『……貴族みたい。』
素直な感想だった。
ルーカスは心底うんざりした顔をした。
「やめろ。」
『似合ってるよ?』
「褒めるな。」
『褒めても嫌がるの?』
「嫌がる。」
『変なの。』
「王宮では黙ってろ。」
『それは無理。』
「知ってる。」
ルーカスは深いため息を吐いた。
この男でも、女王に会う時はきちんとするらしい。
そう思うと、少しだけ面白かった。
◇◇◇
王宮は、まばゆいほど煌びやかだった。
高い天井。
白い大理石の床。
金の装飾が施された柱。
壁には歴代の王たちの肖像が並び、長い廊下には香水と花の匂いが漂っている。
東の宮殿が静かな水墨画なら、西の王宮は光を集めた宝石箱のようだった。
大広間の扉の前で、ルーカスが腕を差し出す。
西の礼儀作法。
東の奥ゆかしい所作とは違う。
インユーは一瞬だけ戸惑い、それからそっと白い手を添えた。
「背筋。」
『伸びてる。』
「顔。」
『笑ってる。』
「余計なこと。」
『言わない。たぶん。』
「たぶんを消せ。」
『努力する。』
「……。」
ルーカスのため息と同時に、大きな扉が開かれた。
◇◇◇
広間には、数えきれないほどの貴族たちが集まっていた。
煌びやかな衣装。
宝石。
香水の香り。
扇で口元を隠しながら交わされる囁き。
視線。
値踏みする目。
探る目。
好奇心に濡れた目。
インユーはそのすべてを、柔らかな微笑みの奥で受け止めた。
東も西も変わらない。
人が集まれば、そこには必ず損得と噂がある。
李家の商談の席と、少しも違わない。
中央の玉座には、一際美しい女が座っていた。
プラチナブロンドの髪。
紫水晶のような瞳。
白い肌。
微笑んでいるのに、目の奥だけは底が見えない。
あれが西の大国が女王。
インユーは瞬時に理解した。
綺麗な人だ。
そして、怖い人だ。
ルーカスが魔王と呼んだ理由が、少しだけ分かった気がした。
玉座の前まで進み、インユーは優雅に膝を折る。
東の姫らしく。
けれど西の王宮で失礼にならぬよう、出発前、何度も教えられた礼を重ねる。
『お目にかかれて光栄に存じます。』
流暢な西の言葉だった。
広間がわずかにざわめく。
『李家が娘、リ・インユーと申します。』
深く頭を下げる。
玉座の女王は、少しだけ目を細めた。
「面を上げよ。」
その声は柔らかかった。
インユーはゆっくり顔を上げる。
女王は微笑んでいた。
「遠い東より、よく来てくれた。」
『痛み入ります。陛下のお招きを賜り、李家一同、身に余る光栄に存じます。』
「航海は長かったであろう。」
『はい。ですが、海は美しく、西の港も大変興味深く拝見いたしました。』
「怖くはなかったか?」
『以前、もっと騒がしい船に乗ったことがございますので。』
広間が一瞬だけ静まった。
ルーカスの眉がぴくりと動く。
女王の唇が、わずかに弧を描いた。
「ほう。」
『そのおかげで、少しばかり海に慣れました。』
悪びれない淑やかな笑み。
貴族たちの間に小さな笑いが起こる。
女王は楽しげにルーカスを一瞥した。
ルーカスはものすごく嫌そうな顔をしていた。
「西の言葉も見事だな。」
『交易のために学びました。言葉が分からぬままでは、良い品も良い縁も逃してしまいますので。』
「商人の娘らしい。」
『はい。李家の娘ですので。』
その答えに、女王はますます面白そうに笑った。
広間の貴族たちは、すっかり東の娘に目を奪われていた。
美しいだけではない。
礼儀正しく、言葉も巧みで、怯えない。
珍しい花が、ただ飾られるためではなく、自ら根を張る意思を持っている。
そのことに気付いた者から順に、視線の色が変わっていく。
「後ほど、茶でもどうかな。」
女王が軽く言った。
だが、その場の誰もが理解した。
これはただの誘いではない。
女王が、この東の娘を近くで見たいと言っている。
つまり、気に入ったということだ。
インユーは微笑み、静かに頭を下げる。
『喜んでお受けいたします。』
◇◇◇
謁見の時間は、それほど長くはなかった。
ほんの短い挨拶。
軽い世間話。
数度の受け答え。
けれど、それだけで十分だった。
インユーは女王に気に入られた。
ルーカスには、それが分かってしまった。
厄介だ。
本当に厄介だ。
女王が面白いものを見る目をしていた。
あの目は駄目だ。
絶対にろくなことにならない。
◇◇◇
謁見を終えた二人は、別室で待つように言われた。
案内された部屋は、庭に面した小さな客間。
白い壁。
金の装飾。
大きな窓。
東の屋敷とはまるで違うが、静かで落ち着く空間ではある。
インユーは椅子へ腰を下ろすと、ふう、と小さく息を吐いた。
歩揺が揺れて、しゃらりと鳴る。
『お人形みたいに綺麗な人だった。』
素直な感想だった。
ルーカスは深いため息を吐く。
「見た目に騙されるな。」
『騙されてないよ。』
「今の顔は騙されてる顔だ。」
『綺麗だと思うのと、信用するのは別でしょう?』
「どうだかな。」
ルーカスは窓辺に立ち、腕を組んだ。
礼装姿なのに、態度は完全に海賊だった。
『女王と仲が良いの?』
「良くない。」
『でも、幼馴染なんでしょう?』
「最悪のな。」
『最悪の幼馴染。』
「そうだ。」
『ふふ。』
「笑うな。」
インユーは口元を手で隠した。
東の姫らしく淑やかに。
けれど目元は完全に笑っている。
ルーカスはさらに機嫌を悪くした。
『でも、少し分かった。』
「何が。」
『あなたが魔王って言った意味。』
ルーカスの碧眼がちらりと向く。
インユーは窓の外へ視線を移した。
『優しそうに見えるのに、少しも隙がない。笑っているのに、何を考えているか見えない。』
「分かったなら近付くな。」
『お茶に誘われたのに?』
「断れ。」
『今さら?』
「腹が痛くなれ。」
『仮病は信用を落とすから嫌。』
「面倒な商人だな。」
『李家の娘だから。』
ルーカスは頭が痛そうに額を押さえた。
この後のお茶会。
ひどく気が重い。
女王は必ず仕掛ける。
インユーは必ず返す。
そしてどちらも、楽しむ。
想像するだけで最悪だった。
『ルーカス。』
「なんだ。」
『私、変じゃなかった?』
ふいに落ちた声は、少しだけ小さかった。
ルーカスは顔を上げる。
インユーは指先で袖を整えていた。
堂々として見えた。
完璧な姫に見えた。
けれどここは異国で、周りは知らない人間ばかりで。
平気なはずがない。
ルーカスは少し黙ったあと、短く答えた。
「変じゃない。」
『本当?』
「ああ。」
少し間を置いて。
「…よくやった。」
インユーの黒い瞳が、ぱちりと瞬いた。
それから、花がほどけるように笑う。
『……ありがとう。』
「礼はいらねぇ。」
『また取る?』
「取らねぇよ。」
『本当?』
「疑うな。」
『信用するなって言ったの、あなたでしょう?』
ルーカスは言葉に詰まった。
インユーは楽しそうに笑う。
その笑顔を見て、また深くため息を吐いた。
王宮の外では、鐘の音が響いている。
この後、女王との茶会が始まる。
東から来た花と、西の魔王。
その対面を思うと、ルーカスは本気で逃げ出したくなった。
だが、逃げるわけにはいかない。
インユーがこの王宮で最初に嵐へ踏み込むなら。
せめてその隣にいるくらいは、してやらなければならなかった。




