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3‘



3’






翌朝。


 インユーは夜明け前から侍女たちに起こされた。


 湯で清められ、香油を髪へ馴染ませられ、白い肌には薄く粉をのせられる。






 鏡の前に座らされた時には、まだ少し眠気が残っていた。


 けれど侍女たちの手つきは容赦がない。




 髪を梳かれ。


 紅を差され。


 幾重にも衣を重ねられ。


 気付けばそこにいたのは、海賊船で刀を抜いていたインユーではなかった。




 淡い翡翠色の漢服。


 胸元には繊細な花の刺繍が施された斉胸襦裙。


 肩から流れる薄絹の披帛は、歩くたびに水のように揺れる。


 艶やかな黒髪は高く結い上げられ、金細工の歩揺と翡翠の簪が、わずかな動きに合わせて静かな音を立てた。




 しゃらり。


 しゃらり。




 その音を聞くたび、インユーは少しだけ背筋を伸ばす。






 侍女が満足そうに微笑んだ。



「本当にお美しいです、姫様。」


『……歩きにくい。』


「姫様。」


『はい。美しいです。ありがとうございます。』


 慌てて言い直すと、侍女たちがくすくす笑った。





 完璧な公主。


 東の大国から来た、李家の姫。


 そう見えるように仕立てられたインユーは、鏡の中の自分をしばらく見つめた。


 まるで、誰か別の人間みたいだった。






     ◇◇◇






 王宮へ向かう馬車の前に、ルーカスは待っていた。


 いつもの黒いコートではない。




 深い紺の礼装に、銀糸の刺繍。


 金髪はきちんと整えられ、碧眼の鋭さだけがいつも通りだった。




 海の上の悪魔ではなく。


 王宮に仕える、一人の高位の男。


 そんな姿だった。





 インユーは思わずまじまじと見上げる。




『……貴族みたい。』



 素直な感想だった。


 ルーカスは心底うんざりした顔をした。




「やめろ。」


『似合ってるよ?』


「褒めるな。」


『褒めても嫌がるの?』


「嫌がる。」


『変なの。』


「王宮では黙ってろ。」


『それは無理。』


「知ってる。」


 ルーカスは深いため息を吐いた。




 この男でも、女王に会う時はきちんとするらしい。


 そう思うと、少しだけ面白かった。







     ◇◇◇







 王宮は、まばゆいほど煌びやかだった。


 高い天井。


 白い大理石の床。


 金の装飾が施された柱。




 壁には歴代の王たちの肖像が並び、長い廊下には香水と花の匂いが漂っている。


 東の宮殿が静かな水墨画なら、西の王宮は光を集めた宝石箱のようだった。





 大広間の扉の前で、ルーカスが腕を差し出す。


 西の礼儀作法。


 東の奥ゆかしい所作とは違う。



 インユーは一瞬だけ戸惑い、それからそっと白い手を添えた。




「背筋。」


『伸びてる。』


「顔。」


『笑ってる。』


「余計なこと。」


『言わない。たぶん。』


「たぶんを消せ。」


『努力する。』


「……。」




 ルーカスのため息と同時に、大きな扉が開かれた。







     ◇◇◇






 広間には、数えきれないほどの貴族たちが集まっていた。





 煌びやかな衣装。


 宝石。


 香水の香り。


 扇で口元を隠しながら交わされる囁き。


 視線。


 値踏みする目。


 探る目。


 好奇心に濡れた目。   






 インユーはそのすべてを、柔らかな微笑みの奥で受け止めた。

    



 東も西も変わらない。


 人が集まれば、そこには必ず損得と噂がある。

 

 


 李家の商談の席と、少しも違わない。


 中央の玉座には、一際美しい女が座っていた。




 プラチナブロンドの髪。


 紫水晶のような瞳。


 白い肌。


 微笑んでいるのに、目の奥だけは底が見えない。




 あれが西の大国が女王。


 インユーは瞬時に理解した。





 綺麗な人だ。



 そして、怖い人だ。    



 



 ルーカスが魔王と呼んだ理由が、少しだけ分かった気がした。

 



 玉座の前まで進み、インユーは優雅に膝を折る。






 東の姫らしく。




 けれど西の王宮で失礼にならぬよう、出発前、何度も教えられた礼を重ねる。








『お目にかかれて光栄に存じます。』






 流暢な西の言葉だった。



 広間がわずかにざわめく。






『李家が娘、リ・インユーと申します。』







 深く頭を下げる。




 玉座の女王は、少しだけ目を細めた。







「面を上げよ。」








その声は柔らかかった。



 インユーはゆっくり顔を上げる。



 女王は微笑んでいた。









「遠い東より、よく来てくれた。」







『痛み入ります。陛下のお招きを賜り、李家一同、身に余る光栄に存じます。』







「航海は長かったであろう。」








『はい。ですが、海は美しく、西の港も大変興味深く拝見いたしました。』









「怖くはなかったか?」








『以前、もっと騒がしい船に乗ったことがございますので。』



 広間が一瞬だけ静まった。





 ルーカスの眉がぴくりと動く。



 女王の唇が、わずかに弧を描いた。







「ほう。」





『そのおかげで、少しばかり海に慣れました。』





 悪びれない淑やかな笑み。



 貴族たちの間に小さな笑いが起こる。



 女王は楽しげにルーカスを一瞥した。




 ルーカスはものすごく嫌そうな顔をしていた。






「西の言葉も見事だな。」




『交易のために学びました。言葉が分からぬままでは、良い品も良い縁も逃してしまいますので。』




「商人の娘らしい。」




『はい。李家の娘ですので。』




 その答えに、女王はますます面白そうに笑った。





 広間の貴族たちは、すっかり東の娘に目を奪われていた。






 美しいだけではない。



 礼儀正しく、言葉も巧みで、怯えない。



 珍しい花が、ただ飾られるためではなく、自ら根を張る意思を持っている。



 そのことに気付いた者から順に、視線の色が変わっていく。











「後ほど、茶でもどうかな。」






 女王が軽く言った。



 だが、その場の誰もが理解した。



 これはただの誘いではない。








 女王が、この東の娘を近くで見たいと言っている。






 つまり、気に入ったということだ。



 インユーは微笑み、静かに頭を下げる。





『喜んでお受けいたします。』







     ◇◇◇






 謁見の時間は、それほど長くはなかった。



 ほんの短い挨拶。


 軽い世間話。


 数度の受け答え。




 

 けれど、それだけで十分だった。


 インユーは女王に気に入られた。



 ルーカスには、それが分かってしまった。






 

 厄介だ。




 本当に厄介だ。




 女王が面白いものを見る目をしていた。




 あの目は駄目だ。



 絶対にろくなことにならない。






     ◇◇◇






 謁見を終えた二人は、別室で待つように言われた。


 案内された部屋は、庭に面した小さな客間。






 白い壁。


 金の装飾。


 大きな窓。






 東の屋敷とはまるで違うが、静かで落ち着く空間ではある。






 インユーは椅子へ腰を下ろすと、ふう、と小さく息を吐いた。



 歩揺が揺れて、しゃらりと鳴る。











『お人形みたいに綺麗な人だった。』




 素直な感想だった。


 ルーカスは深いため息を吐く。





「見た目に騙されるな。」



『騙されてないよ。』



「今の顔は騙されてる顔だ。」



『綺麗だと思うのと、信用するのは別でしょう?』



「どうだかな。」




 ルーカスは窓辺に立ち、腕を組んだ。


 礼装姿なのに、態度は完全に海賊だった。





『女王と仲が良いの?』



「良くない。」



『でも、幼馴染なんでしょう?』



「最悪のな。」



『最悪の幼馴染。』



「そうだ。」



『ふふ。』



「笑うな。」



 インユーは口元を手で隠した。


 東の姫らしく淑やかに。




 けれど目元は完全に笑っている。



 ルーカスはさらに機嫌を悪くした。








『でも、少し分かった。』



「何が。」







『あなたが魔王って言った意味。』







 ルーカスの碧眼がちらりと向く。



 インユーは窓の外へ視線を移した。






『優しそうに見えるのに、少しも隙がない。笑っているのに、何を考えているか見えない。』



「分かったなら近付くな。」



『お茶に誘われたのに?』



「断れ。」



『今さら?』



「腹が痛くなれ。」



『仮病は信用を落とすから嫌。』



「面倒な商人だな。」



『李家の娘だから。』




 ルーカスは頭が痛そうに額を押さえた。






 この後のお茶会。



 ひどく気が重い。



 女王は必ず仕掛ける。







 インユーは必ず返す。



 そしてどちらも、楽しむ。



 想像するだけで最悪だった。




『ルーカス。』


「なんだ。」


『私、変じゃなかった?』




 ふいに落ちた声は、少しだけ小さかった。


 ルーカスは顔を上げる。




 インユーは指先で袖を整えていた。



 堂々として見えた。



 完璧な姫に見えた。









 けれどここは異国で、周りは知らない人間ばかりで。



 平気なはずがない。



 ルーカスは少し黙ったあと、短く答えた。




「変じゃない。」



『本当?』



「ああ。」



 少し間を置いて。



「…よくやった。」




 インユーの黒い瞳が、ぱちりと瞬いた。


 それから、花がほどけるように笑う。




『……ありがとう。』



「礼はいらねぇ。」



『また取る?』



「取らねぇよ。」



『本当?』



「疑うな。」



『信用するなって言ったの、あなたでしょう?』





 ルーカスは言葉に詰まった。



 インユーは楽しそうに笑う。







 その笑顔を見て、また深くため息を吐いた。



 王宮の外では、鐘の音が響いている。

 

   


 この後、女王との茶会が始まる。



 東から来た花と、西の魔王。






 その対面を思うと、ルーカスは本気で逃げ出したくなった。



 だが、逃げるわけにはいかない。



 インユーがこの王宮で最初に嵐へ踏み込むなら。



 せめてその隣にいるくらいは、してやらなければならなかった。

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