表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/23

2’

2’





三ヶ月後。


 李家の商船は、ようやく西の王国へ辿り着いた。




 長い長い航海だった。


 海は広く、空は果てしなく、東の国を離れてから何度も朝と夜を越えた。





 潮の匂い。


 波の音。


 帆を打つ風。




 船の上で過ごす日々は、海賊船にいた頃を思い出させた。



 けれど、あの時とは違う。



 今のインユーは男装ではなく、李家の娘として船に乗っていた。





 美しい衣を纏い。



 髪を結い。



 侍女を連れ。



 嫁入りの荷を積み。



 東の大国から西の王国へ渡る、ひとりの花嫁として。





     ◇◇◇





 西の港は、東とはまるで違っていた。



 石造りの波止場。


 高くそびえる塔。


 白い壁の建物。



 遠くに見える王城は、陽光を受けて淡く輝いている。





 港には王国の旗が掲げられ、女王の使者と兵士たちが整列して待っていた。


 李家の商船が接岸すると、ざわめきが広がる。





「東の姫君だ。」


「あれが噂の娘か。」


「女王陛下がお迎えを命じた客人だ。」






 囁き声が重なる中、最初に船を降りたのはユンジンだった。



 東の衣を端正に纏い、いつものように静かな顔で一礼する。


 続いて降りてきたインユーを見て、港の空気が少しだけ止まった。





 淡い花色の衣。


 長い黒髪。


 黒曜石のような瞳。



 西の人々には見慣れない東の美しさだった。






 二人を迎え立つルーカスは、ひどく機嫌が悪そうな顔をしていた。



 金髪が海風に揺れ、碧眼が港のざわめきを冷たく見渡している。





 誰かが小さく「西海の悪魔」と囁いた。



 インユーはそれを聞いて、少しだけ笑う。






     ◇◇◇





 ユンジンは妹を王宮へ送り届け、女王への謁見を済ませると、本当にあっさり帰った。



 あまりにも早かった。


 別れを惜しむ時間すら、ほとんどない。






 王宮の客間で茶を飲みながら、インユーは平然と言った。



『兄様は忙しいから。あの人が三日も留守にしたら、李家はいくら損失を出すか分からないもの。』






 花嫁らしく美しい衣を纏った娘が、当たり前のように損失の話をしている。




 ルーカスは無言でインユーを見た。



 きっと、長居させなかったのは本人だ。






 ユンジンは本当なら、妹が西の王国に慣れるまで滞在したかったはずだ。



 それをインユーが止めた。


 李家のために。


 商会のために。


 そして、兄が自分のために無理をしないように。





 ルーカスは心の中で、少しだけユンジンに同情した。



 本当に商魂たくましい。


 そして、可愛げがない。





 いや。


 可愛げがないように見せているだけで、たぶん本当は寂しい。


 そう思ってしまった自分にも、少し腹が立った。







     ◇◇◇








「明日、女王が謁見する。」



 王宮の客間。


 大きな窓からは、王都の街並みが見下ろせた。




 白い石畳の道。


 赤い屋根。


 遠くに見える市場。


 東とは違うすべてに、インユーは興味深そうに視線を向けている。




「それまでは休め。」



『うん。』





 インユーの荷物は全て、王宮へ運ばれていた。


 手配が驚くほど早い。




 侍女が香りの良い茶を淹れる。


 白磁ではなく、西の薄いカップ。


 その形まで珍しくて、インユーは指先でそっと縁を撫でた。




『仕事が早いね。』


「王宮だからな。」


『王宮って、もっとのんびりしていると思ってた。』


「相手による。」


『ふぅん。』




 インユーは茶を一口飲み、それからルーカスを見た。


 この男は、女王とどういう関係なのだろう。




 そういえば。


 自分はルーカスのことを、ほとんど知らない。



 西海の悪魔。


 女王直属の海賊。


 海の上では無敵の男。


 強くて、口が悪くて、意地が悪くて、妙に面倒見が良い。






 知っていることは、それくらい。



 女王の話になると、ルーカスの機嫌は目に見えて悪くなる。

  


『ねぇ。』


「なんだ。」


『女王って、どんな人?』



 その瞬間。


 ルーカスが心底げんなりした顔をした。





 インユーは少し目を丸くする。


 あのルーカスが。


 人を睨ませれば海賊も黙る男が。


 たった一言で、こんな顔をする。




『……そんなに?』



「そんなにだ。」



 ルーカスは懐から煙草を取り出した。


 火をつけ、深く吸う。


 吐き出した煙が、窓から入る光の中で白く揺れた。




 苛立っている。


 それはインユーにも分かった。






「インユー。」



『うん?』

 

「俺を悪魔だと、お前は言っていたな。」




 唐突な言葉に、インユーは少しだけ瞬きをした。





 そして、初めて出会った日のことを思い出す。



 黒い船。


 恐ろしい噂。


 金髪碧眼の海賊。


 兄を傷つけた相手だと思い込み、刀を抜いて斬りかかった。





 あの時は、本当にそう思っていた。


 この男は悪魔だと。




 けれど今は違う。


 インユーは困ったように笑った。







『ごめんね。』



 素直な声だった。




『今は、そんなふうに思ってないよ。』






 ルーカスはわずかに眉を動かした。


 その顔は、嬉しそうではなかった。



 むしろ。


 さらに機嫌が悪くなったように見える。


 ルーカスは煙草を灰皿へ乱暴に押し付ける。




「悪魔でいい。」


『え?』


「信頼だの信用だのされるより、よほどマシだ。」


『なに、それ。』


 インユーは思わず笑った。




『人に信用されるのが嫌なの?』


「嫌だな。」


『変なの。』


「変で結構だ。」








 けれど次の瞬間。



 ルーカスの碧眼が、まっすぐインユーを射抜いた。




 冗談を言っている顔ではなかった。



 インユーの笑みが、少しずつ消える。





「いいか。」



 低い声だった。



「俺が悪魔だとしたら、あいつは魔王だ。」


『……女王が?』


「ああ。」





 ルーカスは言い切った。




「綺麗な顔で笑う。優しい声で話す。正しいことを言う。誰より国を愛している。」




 そこまで言って、ルーカスは一度言葉を切る。



「だから厄介だ。」



 インユーは黙って聞いていた。


 



「悪人なら分かりやすい。欲に目が眩んだ貴族なら扱いやすい。海賊なら、斬ればいい。」


『……うん。』


「だが、あいつは違う。」





 ルーカスの声が、さらに低くなる。







「国のためなら、正しい顔で人を駒にする。」





 窓の外で、鐘の音が鳴った。


 王都に響く、澄んだ音。


 それが妙に遠く聞こえる。







「お前が賢いのも知っている。」




 ルーカスは続けた。




「度胸があるのも知っている。」



『……。』






「だが、王宮は海じゃない。」




 碧眼が細くなる。



「波は見えない。風も読みにくい。船なら嵐は空を見れば分かる。だが宮廷の嵐は、笑顔の下に来る。」






 インユーは茶杯を置いた。



 音はほとんどしなかった。



 けれど、その指先に少しだけ力が入っている。










「いいか。」










 ルーカスは静かに言った。










「ぜってぇ信用するな。」







『……誰を?』






「俺も。」






 インユーは目を上げる。








「女王も。」







 ルーカスは、まっすぐ告げた。








「この国の誰もだ。」








 部屋の空気が静まり返る。




 侍女たちは離れた場所で気配を消していた。




 インユーはしばらくルーカスを見つめていた。











 やがて、小さく息を吐く。









『ルーカス。』



「なんだ。」



『あなた、私を怖がらせたいの?』



「違う。」



『じゃあ、守りたいの?』



「……違う。」




 即答にしては、少しだけ遅かった。


 インユーはそのわずかな間を聞き逃さなかった。




 黒い瞳が、ふっと柔らかくなる。




『そっか。』



「何がだ。」



『ううん。』





 インユーは茶杯を両手で包んだ。




『忠告は聞く。』



 そして、少しだけ笑う。









『でも、全部は疑わない。』



「おい。」



『だって、それじゃ商売にならないもの。』





 ルーカスは眉間に皺を寄せた。



 インユーは静かに続ける。





『信用しすぎれば騙される。疑いすぎれば取引にならない。大事なのは、相手が何を欲しがっているかを見ること。』




 その声は、もう花嫁のものではなかった。



 李家の商人の声だった。





『女王が何を欲しがっているか。貴族たちが何を守りたいのか。私が何を差し出せて、何を差し出してはいけないのか。』



 黒い瞳が、真っ直ぐルーカスを見る。






『ちゃんと見極める。』



「……。」



『だから、そんなに怖い顔しなくていいよ。』



「元からだ。」



『知ってる。』




 インユーはふふっと笑った。



 ルーカスは舌打ちする。









『それに。』



 インユーは窓の外へ視線を向けた。



 西の王都。


 知らない街。


 知らない言葉。


 知らない人々。




 明日、この国の女王と会う。


 その先に、行く末がある。


 不安がないと言えば嘘になる。





 けれど。




『私は、ここへ売られに来たわけじゃない。』



 静かな声だった。





『李家のために来た。東と西のために来た。』






 少しだけ間を置いて。




『それから、私が見たいものを見るために来た。』








 ルーカスは何も言わなかった。



 ただ、インユーの横顔を見ていた。



 花嫁衣装を纏っているのに。



 まるで剣を持っている時のような顔だった。







 強くて。


 生意気で。


 危なっかしくて。


 目が離せない。




「……やっぱりガキだな。」



『今それ言う?』



「言う。」



『十八です。』



「十分ガキだ。」



『失礼。』



「事実だ。」



『ユンユンみたいなこと言う。』



「一緒にするな。」





 ルーカスが本気で嫌そうな顔をしたので、インユーは思わず笑った。



 その笑い声で、少しだけ部屋の空気が和らぐ。






 けれどルーカスはすぐに低く言った。



 

「明日、女王の前で余計なことは言うな。」



『どのくらいが余計?』



「全部だ。」



『それは無理。』 



「だろうな。」



『女王って、怖い?』



「怖い。」




 ルーカスは即答した。





『あなたより?』



「ああ。」



『へぇ。』




 インユーは少し楽しそうに目を細める。



「その顔をやめろ。」



『どの顔?』



「面白そうだと思っている顔だ。」



『思ってない。』



「嘘つけ。」



『少ししか。』



「少しでも駄目だ。」



 ルーカスは再び煙草を手に取ろうとして、やめた。


 代わりに深く息を吐く。






「インユー。」



『うん。』



「…逃げたくなったら、言え。」





 インユーの目が少しだけ見開かれる。



 ルーカスは視線を逸らしたまま続けた。





「王宮でも、貴族の屋敷でも、どこでもいい。」



「合図を寄越せ。」



「海に出れば、俺の領分だ。」



「逃してやる。」





 乱暴な言い方だった。



 けれど、その言葉の奥にあるものは分かった。


 インユーはしばらく黙っていた。


 そして、柔らかく笑う。





『ありがとう。』



『でも、大丈夫。』






 少しだけ意地悪く笑う。





『また、礼を取られたら困るし。』



 ルーカスの動きが止まった。




 インユーの頬も、言ったあとで少し赤くなる。



 あの夜の庭。



 軽い口づけ。



 思い出した瞬間、二人の間に妙な沈黙が落ちた。




「……忘れろ。」



『忘れない。』



「忘れろ。」



『嫌。』



「お前な。」



『だって、腹立つから。』




 インユーはぷいと横を向いた。




『いつか仕返しする。』



 ルーカスは碧眼を細める。




「できるもんならな。」



『する。絶対する。』



「楽しみにしてる。」



『その余裕、腹立つ。』



 また、いつものやり取りだった。





 東の海賊船で。


 李家の庭で。


 そして今、西の王宮で。


 場所は変わっても、二人の距離だけは妙に変わらない。





 けれど、明日からは違う。


 インユーは女王に会う。


 西の王宮に足を踏み入れる。


 貴族たちの目に晒される。


 そして、国と国の間に立つ。





 ルーカスは窓の外へ目を向けた。


 白い王城の向こうに、夕陽が沈みかけている。




 空が金色に染まる。


 その光を受けて、インユーの黒髪が淡く輝いた。





 ルーカスは低く呟く。




「……本当に、面倒なところへ来たな。」






 インユーは静かに笑った。



『うん。』



 怖くないわけではない。


 不安がないわけでもない。


 けれど。





『でも、自分で選んで来た。』



 その一言に、ルーカスは何も返せなかった。



 ただ、碧い目を細める。






 明日。


 この国で最も美しく、最も厄介な女が。


 東から来た花を見つめる。 


 そしてきっと、面白がる。




 ルーカスの胸の奥に、嫌な予感が沈む。


 それでも。


 インユーはもう、ここにいる。




 ならば。


 海賊にできることは一つだけだった。


 嵐が来た時に、船を出す準備をしておくこと。


 いつでも。


 どこからでも。


 攫えるように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ