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三ヶ月後。
李家の商船は、ようやく西の王国へ辿り着いた。
長い長い航海だった。
海は広く、空は果てしなく、東の国を離れてから何度も朝と夜を越えた。
潮の匂い。
波の音。
帆を打つ風。
船の上で過ごす日々は、海賊船にいた頃を思い出させた。
けれど、あの時とは違う。
今のインユーは男装ではなく、李家の娘として船に乗っていた。
美しい衣を纏い。
髪を結い。
侍女を連れ。
嫁入りの荷を積み。
東の大国から西の王国へ渡る、ひとりの花嫁として。
◇◇◇
西の港は、東とはまるで違っていた。
石造りの波止場。
高くそびえる塔。
白い壁の建物。
遠くに見える王城は、陽光を受けて淡く輝いている。
港には王国の旗が掲げられ、女王の使者と兵士たちが整列して待っていた。
李家の商船が接岸すると、ざわめきが広がる。
「東の姫君だ。」
「あれが噂の娘か。」
「女王陛下がお迎えを命じた客人だ。」
囁き声が重なる中、最初に船を降りたのはユンジンだった。
東の衣を端正に纏い、いつものように静かな顔で一礼する。
続いて降りてきたインユーを見て、港の空気が少しだけ止まった。
淡い花色の衣。
長い黒髪。
黒曜石のような瞳。
西の人々には見慣れない東の美しさだった。
二人を迎え立つルーカスは、ひどく機嫌が悪そうな顔をしていた。
金髪が海風に揺れ、碧眼が港のざわめきを冷たく見渡している。
誰かが小さく「西海の悪魔」と囁いた。
インユーはそれを聞いて、少しだけ笑う。
◇◇◇
ユンジンは妹を王宮へ送り届け、女王への謁見を済ませると、本当にあっさり帰った。
あまりにも早かった。
別れを惜しむ時間すら、ほとんどない。
王宮の客間で茶を飲みながら、インユーは平然と言った。
『兄様は忙しいから。あの人が三日も留守にしたら、李家はいくら損失を出すか分からないもの。』
花嫁らしく美しい衣を纏った娘が、当たり前のように損失の話をしている。
ルーカスは無言でインユーを見た。
きっと、長居させなかったのは本人だ。
ユンジンは本当なら、妹が西の王国に慣れるまで滞在したかったはずだ。
それをインユーが止めた。
李家のために。
商会のために。
そして、兄が自分のために無理をしないように。
ルーカスは心の中で、少しだけユンジンに同情した。
本当に商魂たくましい。
そして、可愛げがない。
いや。
可愛げがないように見せているだけで、たぶん本当は寂しい。
そう思ってしまった自分にも、少し腹が立った。
◇◇◇
「明日、女王が謁見する。」
王宮の客間。
大きな窓からは、王都の街並みが見下ろせた。
白い石畳の道。
赤い屋根。
遠くに見える市場。
東とは違うすべてに、インユーは興味深そうに視線を向けている。
「それまでは休め。」
『うん。』
インユーの荷物は全て、王宮へ運ばれていた。
手配が驚くほど早い。
侍女が香りの良い茶を淹れる。
白磁ではなく、西の薄いカップ。
その形まで珍しくて、インユーは指先でそっと縁を撫でた。
『仕事が早いね。』
「王宮だからな。」
『王宮って、もっとのんびりしていると思ってた。』
「相手による。」
『ふぅん。』
インユーは茶を一口飲み、それからルーカスを見た。
この男は、女王とどういう関係なのだろう。
そういえば。
自分はルーカスのことを、ほとんど知らない。
西海の悪魔。
女王直属の海賊。
海の上では無敵の男。
強くて、口が悪くて、意地が悪くて、妙に面倒見が良い。
知っていることは、それくらい。
女王の話になると、ルーカスの機嫌は目に見えて悪くなる。
『ねぇ。』
「なんだ。」
『女王って、どんな人?』
その瞬間。
ルーカスが心底げんなりした顔をした。
インユーは少し目を丸くする。
あのルーカスが。
人を睨ませれば海賊も黙る男が。
たった一言で、こんな顔をする。
『……そんなに?』
「そんなにだ。」
ルーカスは懐から煙草を取り出した。
火をつけ、深く吸う。
吐き出した煙が、窓から入る光の中で白く揺れた。
苛立っている。
それはインユーにも分かった。
「インユー。」
『うん?』
「俺を悪魔だと、お前は言っていたな。」
唐突な言葉に、インユーは少しだけ瞬きをした。
そして、初めて出会った日のことを思い出す。
黒い船。
恐ろしい噂。
金髪碧眼の海賊。
兄を傷つけた相手だと思い込み、刀を抜いて斬りかかった。
あの時は、本当にそう思っていた。
この男は悪魔だと。
けれど今は違う。
インユーは困ったように笑った。
『ごめんね。』
素直な声だった。
『今は、そんなふうに思ってないよ。』
ルーカスはわずかに眉を動かした。
その顔は、嬉しそうではなかった。
むしろ。
さらに機嫌が悪くなったように見える。
ルーカスは煙草を灰皿へ乱暴に押し付ける。
「悪魔でいい。」
『え?』
「信頼だの信用だのされるより、よほどマシだ。」
『なに、それ。』
インユーは思わず笑った。
『人に信用されるのが嫌なの?』
「嫌だな。」
『変なの。』
「変で結構だ。」
けれど次の瞬間。
ルーカスの碧眼が、まっすぐインユーを射抜いた。
冗談を言っている顔ではなかった。
インユーの笑みが、少しずつ消える。
「いいか。」
低い声だった。
「俺が悪魔だとしたら、あいつは魔王だ。」
『……女王が?』
「ああ。」
ルーカスは言い切った。
「綺麗な顔で笑う。優しい声で話す。正しいことを言う。誰より国を愛している。」
そこまで言って、ルーカスは一度言葉を切る。
「だから厄介だ。」
インユーは黙って聞いていた。
「悪人なら分かりやすい。欲に目が眩んだ貴族なら扱いやすい。海賊なら、斬ればいい。」
『……うん。』
「だが、あいつは違う。」
ルーカスの声が、さらに低くなる。
「国のためなら、正しい顔で人を駒にする。」
窓の外で、鐘の音が鳴った。
王都に響く、澄んだ音。
それが妙に遠く聞こえる。
「お前が賢いのも知っている。」
ルーカスは続けた。
「度胸があるのも知っている。」
『……。』
「だが、王宮は海じゃない。」
碧眼が細くなる。
「波は見えない。風も読みにくい。船なら嵐は空を見れば分かる。だが宮廷の嵐は、笑顔の下に来る。」
インユーは茶杯を置いた。
音はほとんどしなかった。
けれど、その指先に少しだけ力が入っている。
「いいか。」
ルーカスは静かに言った。
「ぜってぇ信用するな。」
『……誰を?』
「俺も。」
インユーは目を上げる。
「女王も。」
ルーカスは、まっすぐ告げた。
「この国の誰もだ。」
部屋の空気が静まり返る。
侍女たちは離れた場所で気配を消していた。
インユーはしばらくルーカスを見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
『ルーカス。』
「なんだ。」
『あなた、私を怖がらせたいの?』
「違う。」
『じゃあ、守りたいの?』
「……違う。」
即答にしては、少しだけ遅かった。
インユーはそのわずかな間を聞き逃さなかった。
黒い瞳が、ふっと柔らかくなる。
『そっか。』
「何がだ。」
『ううん。』
インユーは茶杯を両手で包んだ。
『忠告は聞く。』
そして、少しだけ笑う。
『でも、全部は疑わない。』
「おい。」
『だって、それじゃ商売にならないもの。』
ルーカスは眉間に皺を寄せた。
インユーは静かに続ける。
『信用しすぎれば騙される。疑いすぎれば取引にならない。大事なのは、相手が何を欲しがっているかを見ること。』
その声は、もう花嫁のものではなかった。
李家の商人の声だった。
『女王が何を欲しがっているか。貴族たちが何を守りたいのか。私が何を差し出せて、何を差し出してはいけないのか。』
黒い瞳が、真っ直ぐルーカスを見る。
『ちゃんと見極める。』
「……。」
『だから、そんなに怖い顔しなくていいよ。』
「元からだ。」
『知ってる。』
インユーはふふっと笑った。
ルーカスは舌打ちする。
『それに。』
インユーは窓の外へ視線を向けた。
西の王都。
知らない街。
知らない言葉。
知らない人々。
明日、この国の女王と会う。
その先に、行く末がある。
不安がないと言えば嘘になる。
けれど。
『私は、ここへ売られに来たわけじゃない。』
静かな声だった。
『李家のために来た。東と西のために来た。』
少しだけ間を置いて。
『それから、私が見たいものを見るために来た。』
ルーカスは何も言わなかった。
ただ、インユーの横顔を見ていた。
花嫁衣装を纏っているのに。
まるで剣を持っている時のような顔だった。
強くて。
生意気で。
危なっかしくて。
目が離せない。
「……やっぱりガキだな。」
『今それ言う?』
「言う。」
『十八です。』
「十分ガキだ。」
『失礼。』
「事実だ。」
『ユンユンみたいなこと言う。』
「一緒にするな。」
ルーカスが本気で嫌そうな顔をしたので、インユーは思わず笑った。
その笑い声で、少しだけ部屋の空気が和らぐ。
けれどルーカスはすぐに低く言った。
「明日、女王の前で余計なことは言うな。」
『どのくらいが余計?』
「全部だ。」
『それは無理。』
「だろうな。」
『女王って、怖い?』
「怖い。」
ルーカスは即答した。
『あなたより?』
「ああ。」
『へぇ。』
インユーは少し楽しそうに目を細める。
「その顔をやめろ。」
『どの顔?』
「面白そうだと思っている顔だ。」
『思ってない。』
「嘘つけ。」
『少ししか。』
「少しでも駄目だ。」
ルーカスは再び煙草を手に取ろうとして、やめた。
代わりに深く息を吐く。
「インユー。」
『うん。』
「…逃げたくなったら、言え。」
インユーの目が少しだけ見開かれる。
ルーカスは視線を逸らしたまま続けた。
「王宮でも、貴族の屋敷でも、どこでもいい。」
「合図を寄越せ。」
「海に出れば、俺の領分だ。」
「逃してやる。」
乱暴な言い方だった。
けれど、その言葉の奥にあるものは分かった。
インユーはしばらく黙っていた。
そして、柔らかく笑う。
『ありがとう。』
『でも、大丈夫。』
少しだけ意地悪く笑う。
『また、礼を取られたら困るし。』
ルーカスの動きが止まった。
インユーの頬も、言ったあとで少し赤くなる。
あの夜の庭。
軽い口づけ。
思い出した瞬間、二人の間に妙な沈黙が落ちた。
「……忘れろ。」
『忘れない。』
「忘れろ。」
『嫌。』
「お前な。」
『だって、腹立つから。』
インユーはぷいと横を向いた。
『いつか仕返しする。』
ルーカスは碧眼を細める。
「できるもんならな。」
『する。絶対する。』
「楽しみにしてる。」
『その余裕、腹立つ。』
また、いつものやり取りだった。
東の海賊船で。
李家の庭で。
そして今、西の王宮で。
場所は変わっても、二人の距離だけは妙に変わらない。
けれど、明日からは違う。
インユーは女王に会う。
西の王宮に足を踏み入れる。
貴族たちの目に晒される。
そして、国と国の間に立つ。
ルーカスは窓の外へ目を向けた。
白い王城の向こうに、夕陽が沈みかけている。
空が金色に染まる。
その光を受けて、インユーの黒髪が淡く輝いた。
ルーカスは低く呟く。
「……本当に、面倒なところへ来たな。」
インユーは静かに笑った。
『うん。』
怖くないわけではない。
不安がないわけでもない。
けれど。
『でも、自分で選んで来た。』
その一言に、ルーカスは何も返せなかった。
ただ、碧い目を細める。
明日。
この国で最も美しく、最も厄介な女が。
東から来た花を見つめる。
そしてきっと、面白がる。
ルーカスの胸の奥に、嫌な予感が沈む。
それでも。
インユーはもう、ここにいる。
ならば。
海賊にできることは一つだけだった。
嵐が来た時に、船を出す準備をしておくこと。
いつでも。
どこからでも。
攫えるように。




