1’ー東の花嫁ー
1’
ルーカスが西の国へ戻ったのは、東の港を発ってからひと月ほど後のことだった。
黒帆の船は王都の港へ入り、積荷と書簡を降ろし、必要な手続きを済ませる。
交易は順調。
李商会との関係も良好。
東の大国との航路は、予想以上の利益を生む。
そう報告するだけなら、すぐに終わるはずだった。
だが。
「……は?」
玉座の上で、女王が目を瞬かせた。
長くウェーブのかかったプラチナブロンドの髪。
紫水晶のような瞳。
幼い頃から変わらない、整いすぎるほど美しい顔。
その顔が、今はひどく面白そうに歪んでいた。
「つまり、その子は東の大商家の娘で」
「ああ。」
「男装して、お前の船に乗り込んで」
「ああ。」
「しかもお前は」
女王はそこで一度、言葉を切った。
口元が震えている。
「気付かなかった?」
間。
ルーカスは無言で女王を睨んだ。
次の瞬間。
「あははははははははははっ!」
玉座の間に、女王の笑い声が高らかに響いた。
侍女たちが目を丸くする。
近衛兵までもが、ほんの少しだけ肩を揺らした。
最近、国境の不穏な動きや貴族同士の牽制で、王宮の空気は張り詰めていた。
女王がこんなふうに声を上げて笑う姿など、誰も久しく見ていない。
臣下としては、喜ぶべきなのかもしれない。
だが。
ルーカスはむかついていた。
とても、むかついていた。
思わず舌打ちが落ちる。
「笑いすぎだ。」
「だって、無理よ。」
女王は目尻に浮かんだ涙を指先で拭った。
「あなたが? あのルーカス・グレイが? 毎日同じ船に乗せておいて?」
「黙れ。」
「気付かなかった?」
「黙れと言ってる。」
「しかも歌わせていたのよね?」
「……。」
「毎晩?」
「……。」
「あははははっ!」
再び笑われた。
ルーカスは本気で帰りたくなった。
女王はようやく笑いを収めると、頬杖をついた。
紫の瞳が、きらりと光る。
嫌な光だった。
幼い頃から知っている。
この女が何か面白そうなものを見つけた時の目だ。
「会ってみたいわ。」
ルーカスは深いため息を吐いた。
「やめろ。」
「あら、まだ何も言っていないわ。」
「顔に出てる。」
「あなたこそ、随分顔に出ているわよ。」
「何がだ。」
「その子の話をしている時だけ、少し機嫌が悪い。」
「いつも悪い。」
「それとは違うわ。」
女王はふっと笑う。
昔からこの女は、嫌なところばかりよく見ていた。
「東の国は遠い。」
ルーカスは淡々と告げる。
「陛下が気軽に行ける場所じゃない。」
「そうね。」
「だったら諦めろ。」
「来てもらえばいいじゃない。」
にやり。
その笑みを見た瞬間、ルーカスは頭が痛くなった。
嫌な予感が、綺麗に当たる。
「インユーは李家の一人娘だ。」
「あら、名前はインユーなの?」
女王の目が細くなる。
ルーカスは黙る。
「綺麗な名前ね。」
「どうでもいい。」
「どうでもよくない顔をしているけれど?」
「黙れ。」
女王は楽しげに笑った。
ルーカスは低く続ける。
「李家は東の大国一の商家だが、ただの商家じゃない。あの家の当主は先帝の血を引いている。養子とはいえ、インユーは国同士の縁に出せるーーー身分だ…。」
言いながら、自分で気付いてしまった。
女王が何を考えているのか。
ルーカスはゆっくり顔を上げる。
女王は、ひどく優雅に笑っていた。
「くそったれ。」
「言葉が悪いわよ、ルーカス。」
「誰のせいだ。」
「失礼ね。私は国益を考えているだけ。」
自然と声が低くなる。
玉座の間の空気が、わずかに冷えた。
それでも女王は平然としている。
幼馴染というものは厄介だ。
この程度の殺気では、少しも怯まない。
「そうねぇ。」
女王は頬杖をついたまま、わざとらしく考える。
「どこの貴族がいいと思う?」
ルーカスは鼻で笑った。
「俺に聞くな。」
「あら、詳しいでしょう?」
「知らん。」
「お前、欲しそうな顔をしているもの。」
空気が止まった。
近衛兵が目を伏せる。
侍女が気配を消す。
ルーカスは無表情のまま、女王を睨んだ。
「誰が、あんなガキ。」
「十八でしょう?」
「ガキだ。」
「東では嫁に出してもおかしくない年よ。」
「西でも相手は選ぶ。」
「へぇ。」
女王の唇が、綺麗な弧を描いた。
「やっぱり欲しいのね。」
「違う。」
「そう。」
女王はあっさり頷く。
そして、あまりにも優雅に言った。
「海賊にはやる気はないわ。」
ルーカスの眉がぴくりと動く。
「貴族にやろう。」
紫の瞳が、妖しく光る。
「東の大国の花を。」
ルーカスは舌打ちを落とした。
乱暴に踵を返し、そのまま玉座の間を出ていく。
扉が大きな音を立てて閉まった。
残された女王は、呆れたようにため息を吐く。
「不器用な男。」
その声は、どこか優しかった。
◇◇◇
ルーカスは山積みの書類の中、船長室から海を眺める。
果てしなく続く、地平線の先に東の大国がある。
李雲景。
ルーカスは一人の商人を思い浮かべた。
ユンジンが、大切にしている妹をそう簡単に西へやるはずがない。
ルーカスはそう高を括っていた。
妹を守るためなら国も商会も敵に回しそうな男だ。
女王からの書簡を見せたところで、丁重に断る。
あるいは、条件を山ほど積み上げて時間を稼ぐだろう。
そう思っていた。
だが。
珍しく、ルーカスの勘は外れた。
数週間後、王宮へ届いた電報は、あまりにも短かった。
――準備に半年を要する。
それだけ。
「……。」
ルーカスの額に青筋が浮かんだ。
◇◇◇
一月後。
ルーカスは再び東の大国にいた。
隣にはセドリック。
場所は李家の屋敷。
相変わらず、腹が立つほど広く、腹が立つほど豪華だった。
庭では使用人たちが慌ただしく行き交っている。
布地。
箱。
書類。
何やら婚礼支度のようなものまで見えた気がして、ルーカスは余計に機嫌を悪くした。
「船長。」
セドリックが小声で言う。
「顔が怖いです。」
「いつもだ。」
「今日は特に。」
「黙ってろ。」
「はいはい。」
客間へ通されると、ユンジンはすでに待っていた。
以前より顔色は良い。
傷もほとんど癒えたようだった。
だが、左腕の動きにはまだわずかに硬さが残っている。
「遠路、ご苦労だった。」
ユンジンは静かに言った。
ルーカスは挨拶もそこそこに、女王の書簡を卓へ置く。
ユンジンは封蝋を確認し、内容へ目を通した。
しばらくして。
「準備には、あと三月もらう。」
短く告げる。
「船はうちのものを使う。」
「無事、送り届けよう。」
まるで積荷の話のようだった。
絹でも、茶葉でも、香辛料でも運ぶような口ぶり。
その対象が、インユーであるのに。
ルーカスの中で、何かが音を立てて切れかけた。
大切にしていると思っていた。
だから返した。
東へ帰した。
この家なら。
この兄なら。
あいつを守るだろうと思っていた。
それなのに。
「……なぜだ。」
低い声が落ちる。
セドリックが横で小さく息を止めた。
ユンジンはルーカスの殺気に気付いている。
それでも、怯むことなく苦笑した。
「今にも殴りかかってきそうだな。」
「答えろ。」
「短気だな。」
「答えろと言ってる。」
ユンジンはしばらく黙った。
やがて、静かに茶杯を置く。
「俺は強制していない。」
「……何?」
「むしろ、大変だった。」
思いがけない言葉に、ルーカスは眉を寄せた。
「何がだ。」
ユンジンは、どこか遠い目をした。
「父上をなだめるのが。」
沈黙。
セドリックが瞬きをする。
「父上?」
「ああ。」
ユンジンは淡々と続けた。
「李家の当主は、インユーを溺愛している。」
「見れば分かる。」
「分かるか。」
「屋敷中にあいつ用の菓子があった。」
「よく見ているな。」
「黙れ。」
ユンジンは少し笑った。
「父上は、インユーを十八になるまで手元に置いた。本来なら、もっと早くに嫁に出してもおかしくないのに。」
セドリックが思わず口を挟む。
「十八って、まだ子どもだろう。」
ユンジンは静かに首を傾げる。
「西の国のことは分からないが、東では家柄を考えれば十六でも遅い。」
「……。」
「……。」
ルーカスとセドリックは無言になった。
ユンジンは何事もないように茶を飲む。
「父上は嫁に出したくなかったんだろう。俺が貰っても良かったんだが。」
その瞬間。
ルーカスの視線が鋭くなった。
殺気が、さっきより濃くなる。
セドリックが心の中で頭を抱えた。
ユンジンは苦笑する。
「睨むな。」
「今、何と言った。」
「俺が貰っても良かった、と。」
「兄妹だろ。」
「血は繋がっていない。」
「……。」
「それに、東では珍しい話でもない。李家の血筋と財を守るなら、最も穏当な手段だ。」
ルーカスは黙った。
確かに。
二人は兄妹だ。
だが、血は繋がっていない。
ユンジンはインユーを大切にしている。
インユーもまた、ユンジンを心から慕っている。
事情を考えれば、そういう未来もあったのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥がひどく不快になった。
「だが、断られた。」
ユンジンは少し肩を竦める。
「インユーに。」
その声は淡々としていた。
けれど、ほんの少しだけ残念そう。
「……断った?」
「ああ。」
「なぜ。」
「利が少ない、と怒られた。」
セドリックが吹き出しかけた。
ルーカスは眉間に皺を寄せる。
ユンジンは小さく笑う。
「あいつは俺に向かって言ったよ。兄様と結婚しても、李家の中で金と血が回るだけ。外へ広がらない。商人としては無駄が多い、と。」
「……。」
「俺は少し、学をつけさせすぎたらしい。」
そう言いながらも、どこか誇らしげだった。
「ルーカス。」
ユンジンは、まっすぐルーカスを見た。
その目は、兄ではなく、商人のものになる。
「あいつは李家の誰よりも商人だ。」
釘を刺すような声。
「自分を李家が一番得する場所にやれ、と言った。」
ルーカスは何も言わなかった。
胸の奥に、苛立ちとは別のものが沈む。
「その点、この話は、インユーが飛びつかないはずがない。」
東の大国と、西の王国。
その間に正式な縁が結ばれれば、交易はさらに強くなる。
ただの商取引ではなく、血縁と誓約を伴う結び付きになる。
金が動く。
人が動く。
港が栄える。
両国の利益は、今まで以上に大きくなる。
インユーなら分かる。
いや。
誰よりも早く、その利を計算する。
「…父上は泣いた。」
ユンジンは淡々と言った。
セドリックが目を瞬かせる。
「泣いた?」
「ああ。見事に泣いた。」
ユンジンの目が、さらに遠くなる。
「お前を嫁にやるくらいなら交易などやめる、と言い出した。」
「当主が?」
「当主が。」
「それは……大変でしたね。」
「大変だった。」
ユンジンは真顔で頷いた。
「インユーは父上の前に帳簿を積み上げたよ。」
「帳簿?」
「過去半年の利益見込み、今後十年の航路拡大予測、西との関税交渉案、港湾整備費の回収計画、婚姻による信頼保証の利点。」
「……。」
「それを三刻、父上に説明した。」
セドリックは思わず遠い目をした。
「それは、泣きますね。」
「泣いた。」
ユンジンは深く頷く。
「父上は途中から、数字ではなく娘の顔しか見ていなかった。」
「でしょうね。」
「最後には、インユーに『父上、泣いても利は増えません』と言われていた。」
セドリックはとうとう口元を押さえた。
ルーカスも一瞬だけ、眉をぴくりと動かす。
笑いそうになったのを堪えた顔だった。
そういえば、インユーがグレイ海賊団の会計をしていた時、上手く金が回っていた。
頭の良いガキだと思っていたが。
「……あいつらしいな。」
「ああ。」
ユンジンは苦笑する。
「本当に、あいつらしい。」
その声は柔らかかった。
誇らしくて。
寂しくて。
少しだけ、手放したくないものを手放す人の声だった。
「だが。」
ユンジンはルーカスを見る。
「インユーは荷物ではない。」
静かな言葉だった。
「送り届けると言ったのは、商人としての言い方だ。だが、あいつを物のように扱うつもりはない。」
「なら、どこの貴族にやる気だ?」
「まだ決まっていない。」
ルーカスの目が細くなる。
「何?」
「女王陛下からは、候補を立てるとあった。だが正式な相手は決まっていない。」
「……。」
「インユーもそれを承知で行くと言っている。」
ユンジンは静かに続けた。
「西の国を見たいそうだ。」
その言葉に、ルーカスはわずかに動きを止めた。
「十分見ただろ。」
「交易の中心を見る。王都を見る。貴族を見る。港を見る。市場を見る。西の商人と直接話す。」
ユンジンは呆れたように息を吐いた。
「嫁入りより、そちらに興味がある顔だった。」
セドリックは苦笑した。
「本当に商人ですね。」
「そうだ。」
ユンジンは少しだけ目を伏せる。
「俺が育てた。」
そして、少し寂しそうに笑った。
「だから止められない。」
客間に沈黙が落ちた。
庭の向こうから、使用人たちの声が聞こえる。
遠くで、誰かが桐箱を運ぶ音。
嫁入り支度。
旅支度。
そして、商談の準備。
そのすべてが、同時に進んでいる。
ルーカスは低く息を吐いた。
「……あいつは、貴族になど向いていない。」
「知っている。」
「王宮も向いていない。」
「知っている。」
「黙って夫の隣で笑う女でもない。」
「よく知っている。」
ユンジンは薄く笑った。
「だから面白いんだろう。」
ルーカスは黙った。
その沈黙を、ユンジンは見逃さなかった。
「ルーカス。」
「何だ。」
「妹を助けてやってくれ。」
静かな声だった。
だが、冗談ではないと分かる声だった。
ルーカスは鼻で笑う。
「嫁がせる相手に言え。」
「お前にも頼んでいる。」
碧い瞳が、鋭くユンジンを見る。
ユンジンも退かない。
しばらく二人は睨み合った。
先にため息を吐いたのはセドリックだった。
「……あのさ、まだ嫁入り相手も決まってないよね?」
「そうだ。」
「なのに、何でここで二人が揉めてるんですか。」
ユンジンは真顔で言った。
「何もかも、」
「気に入らないからだ。」
ルーカスも真顔で言った。
「同感だ。」
セドリックは天井を仰いだ。
「仲いいですね。」
「「良くない。」」
声が重なった。
客間の空気が、ほんの少しだけ緩む。
その時。
廊下の向こうから、軽い足音が近付いてきた。
ユンジンが一瞬で顔を上げる。
「走るな。」
まだ姿も見えない相手に向かって言った。
直後。
『走ってない。』
聞き慣れた声が返ってくる。
ルーカスの肩がわずかに揺れる。
襖が開く。
そこに立っていたのは、薄い春色の衣を纏ったインユーだった。
髪はゆるく結われ、白い頬にはわずかに紅が差している。
けれど、その黒い瞳だけは。
船の上で刀を抜いていた頃と、少しも変わらない。
『……ルーカス?』
インユーは目を瞬かせた。
『本当に来たんだ。』
「来たら悪いか。」
『悪くないけど。』
少しだけ笑う。
『ずいぶん機嫌が悪そう。』
「いつもだ。」
『うん。いつもだった。』
その返しに、セドリックが小さく笑う。
ユンジンは静かに言った。
「インユー。」
『なぁに?』
「客人だ。」
『分かってる。』
「言葉遣い。」
『……分かっております。』
インユーは淑やかに一礼した。
しかし顔を上げた瞬間、いつものようにルーカスをじっと見る。
『それで、何を怒ってるの?』
「怒ってない。」
『嘘。』
「……。」
『分かりやすい。』
ルーカスは舌打ちした。
インユーは楽しそうに笑う。
ユンジンはその笑顔を見て、ふっと目を細めた。
ああ。
やはり、行かせるのは寂しい。
けれど。
この妹は、もう自分の腕の中だけにいる子どもではない。
海を渡った。
悪魔の船に乗った。
そして、自分の意思で、さらに遠くへ行こうとしている。
ならば兄にできることは一つだけだ。
無事に送り出す。
そして、帰る場所を守る。
「インユー。」
ユンジンが静かに呼ぶ。
『はい。兄様。』
「三月後、西へ行く準備を進める。」
『うん。』
「だが、嫌になったらいつでも断れ。」
インユーは少し目を丸くした。
それから、柔らかく笑う。
『ありがとう。』
そして、まっすぐ言った。
『でも、行く。』
迷いのない声だった。
『李家のために。』
少し間を置く。
『それは、私のためでもある。』
ルーカスはその横顔を見つめた。
金と利を語る商人の顔。
兄に甘える妹の顔。
歌う時の花のような顔。
そのどれもが、同じ女のものだった。
厄介だ。
本当に、厄介だ。
ルーカスは乱暴に息を吐く。
「勝手にしろ。」
『うん。勝手にする。』
「殺されるなよ。」
『誰に?』
「貴族。」
『貴族ってそんなに物騒なの?』
「海賊より面倒だ。」
『ーーなら大丈夫。』
インユーはにこりと笑った。
『海賊船で少し鍛えられたから。』
その言葉に、セドリックが吹き出す。
ユンジンは頭を抱える。
ルーカスは、ほんのわずかに口元を緩めた。
ほんの一瞬。
けれどインユーは、それを見逃さなかった。
『今、笑った?』
「笑ってない。」
『笑った。』
「笑ってない。」
『ふふ。』
「調子に乗るな。」
『乗る。』
いつかと同じやり取り。
けれど今度は、三人分のため息が重なった。
窓の外では、東の庭に春の風が吹いている。
遠い西の海へ向かう支度は、もう始まっていた。




