【2】にごり湯と記憶
————怪異とは、一度遭遇するとまた遭遇する。種類は変われども何か引き合うものがあるのではと思われる。
「ただいま」
「お帰りなさい!微珪くん!」
先に帰宅していた綵が顔を上げる。
「ああ。何だ、レポートか?」
「そ、そうだよ。英語の……そうだ飛騨牧助教、手伝って」
そう言ってパソコンの画面を向けて来る姿は可愛らしいが。
「悪いがお前の親父から、そう言うのは最低限にと言われているんだ。……あと俺の専攻違うし」
「専攻じゃなくてもペラペラじゃん!」
「そらぁ半分あっちで育ったからな」
「うう……飛騨牧助教のいぢわる」
「はいはい、その代わりお嬢さんは自分の力で勉学頑張ってますって伝えといてやるよ」
「お……お父さんに」
「ああ」
一応もう20歳とは言え、心配もしているみたいだからな。
「あ、そう言えば微珪くん」
「どうした?」
「微珪くんはお母さんが日本人だけど、苗字は飛騨牧なんだね」
「あー……それか。日本で生活するなら母親の日本の苗字をビジネスネームにした方が馴染みやすいと思ったんだ」
「無理無理!海岩より珍しいよ!」
「それは後から気が付いた。何なら父親の苗字の方が馴染みやすいと聞いた時にはズッコけたぞ」
「ええと……確かマーフィー、だったよね」
「そう」
「うん、マーフィーの方が馴染みやすいよ」
もはやお馴染みのネタにガックリくる。
まぁ講義の自己紹介ではまぁまぁウケるけどな。キラキラネームの由来を語るハメになるよりはましである。
「そろそろ夕飯の支度をするか」
「あ……お米炊いておいたよ」
「ありがとな。あとはおかずを作るよ」
「うん、あと、お風呂の準備もしなきゃ」
「ああ、こっちも用意するよ」
そう言えば綵がぱたぱたと駆けていく。
夕飯の準備を進め、今日も平穏に終わると思われたその時、事件は起きた。
「きゃあぁぁぁぁっ!!!」
「綵!?」
浴室から聴こえた悲鳴に急いで脱衣場に飛び込めば、そこには脱衣場用に設えられた快適な椅子がある。
そして浴室の向こうには案の定。
「またか」
あからさまに怪異である。
「綵はこの奥だよな」
その奥はにごりで悶々としており何も見えないが。
「前回の怪異からしてみて、これも恐らく綵のトラウマが関わっているのか?」
恐る恐るその先に足を踏み入れた瞬間嫌な感触がした。
「まさか……水の中か!?」
温度はぬるいくらいだが、さすがにこの格好で入るわけには。
急いで服を脱ぎ、脱衣場に用意しておいた遊泳スーツを身に着ける。
「備えあれば憂いなしってな」
これもその備えである。しかし……。
「ここを進むのか」
思い出すのはプールでの出来事。
どうしてか身体が動かなくなり、沈んでいく。
その向こうの景色はまさにあの日の歪んだ光。
「いや……この向こうに綵がいるんなら、行くべきだ」
何を迷っている。
ねっとりと絡みつく感触に嫌悪を抱きつつも、その中に飛び込む。
果たしてこの中で息が出来るのか。
「う……っ」
覚悟していた感覚とは裏腹に、突然の南国の空気に息が楽になる。
「ここは……」
いつ以来だ。あれは確かあっちで飛び級で博士号を取って……日本に旅行に来た時だ。
「綵は何処にいるんだ……」
こんな南国のビーチの何処に……。そもそもここが彼女のトラウマと関連あるのかどうかすら分からない。
「綵!」
呼んで見ても返事がない。
誰もいないし、ただ延々と海岸線が続くだけ。
「……あの中、か?」
訝しげに見つめたのは打ち寄せる……波。
進めということか。
「恐れるな。マーフィーの意味は海の戦士だろ」
恐る恐る水の中に足を付ければ。ひんやりと懐かしい感触が一瞬にしてぬるく、そしてにごり湯のように染まる。
「何だこれ」
「……」
「今、声が……」
「……ん」
「綵!」
ばしゃばしゃと湯を掻き分け声の元に向かう。
その時、指が見えた。
「あそこか!」
腰のあたりまで湯が押し寄せるとともに脚に抱く不快感。
「う……っ」
これは彼女のだけじゃない。俺のフラッシュバックも含んでる。
ふらついた衝動でおかを振り返れば、そこには懐かしい南国がある。
「大丈夫だ」
鋭く腕を伸ばしか細い手首を掴み引き上げれば、水着姿の彼女が姿を現す。
「ぶは……っ、けほ……、ごほ……っ」
「綵!」
「や、……ん、微珪くん……」
「しっかりしろ、大丈夫か」
「……が……頭……押さえて……」
「まさか誰かに沈めさせられたのか?」
「……っ」
綵の目が見開かれる。
「……の」
「綵?」
「分からないの。でも記憶にあるの。誰かが……私の頭を押さえて……それで苦しくて……」
「大丈夫だ。もう俺が助けに来たから」
「……ん……うん」
「だから帰ろう」
「……でも、どうやって」
見渡す360度、にごり湯が張りめぐされている。
「だが何がどうなってこんなことに……?こうなる前に何かあったのか?」
「その……お湯を張ろうと思って」
「お湯……?その、てっきりそう言うのは苦手かと」
「その……いと思ったの」
「ん……?」
「スキンケア用の入浴剤、いいと思ったの……って、んも、ぶと……思って」
後半があまり聞き取れないのだが。しかしながら彼女は怪異を招きながらも前向きに向き合おうとしているのだ。
「そうか、頑張ったんだな」
ぽすんと頭に手を乗っけてやれば、堰が切れたかのようにわんわんと泣き出す。
記憶にもない頃にやられた傷はどれだけ恐ろしかったのだろう。
「大丈夫だ、そんなことはさせないから。安心して入りな」
「……うん」
ふわりと抱きしめてやれば安心したように泣き止む小さな身体。
いつの間にか海は拓けていて、俺たちの足の下にはまっすぐな砂浜が伸びている。
「綵、あそこが出口だ」
「出口……」
そこは見慣れた扉ではない。使い古されたような年季の入った扉だ。
「あの扉、見覚えがあるの」
「どこで見たんだ?」
「……実家、ううん、そのひとつ前の家」
「幼い頃に暮らしていた家ってことか?」
「そうだと……思う。お父さんとお母さんが離婚した後、引っ越したから」
「綵は一度母親に引き取られたのか」
「……うん。でもその後、お父さんが引き取ったから」
一度母親が親権を獲得して父親が取り戻したってことか。しかし圧倒的に母親が有利とされる日本で何故そんな逆転劇が?
「とにかく、今はここを出よう」
「そう、だよね。どうしてだろう……あまり長くここにいたくないの」
それでも耐えているのはこの砂浜が……あの時の旅行の記憶が助けてくれているのか。
俺たちは扉に足を向けて歩き出す。あそこを越えれば、現世に戻れるのだ。
「ひきゃ……っ」
「綵!?」
綵が何かに足を取られたかのように倒れ込む。
その脚には……砂の手?いや……泥と化した手がザバンと湯を掻き分けて出現する。
「放せ!」
流木をぶつけ、無理矢理泥の手を引き剥がせば泥の手の先の巨大な顔が悲鳴を上げる。
巨大なそれが湯飛沫を上げて倒れれば、どうしてか湯は透明に変わりつつある。このにごり湯も何かの暗示だったってことか……?
例えば何かから守っていた。それはもちろん、アレだ。
「綵!急ぐぞ!」
「いや……ぁ……あれ……」
「綵!」
「いやあぁぁぁぁっ!」
「く……っ」
このままじゃ埒が明かない!綵の身体を抱き上げ、出口に向けて走る。
『オオオォォォッ』
巨大なそれは綵を逃すまいと追いかけてくる。
間に合え……間に合え間に合え間に合え!
その時湯嵩が上昇する。
「まずい……溺れ……」
違う、これは。
最後まで残っていた白いにごり湯が、俺たちを出口に押し出す。
「うわあぁぁぁぁっ!」
「きゃあぁぁぁぁっ!」
ドボン。
鈍い音と共に、俺たちは浴槽の中にいた。
「このにごり湯」
「入浴剤……」
「そうか……これが守ってくれていたんだ」
「どういう事……?」
「ヒノキだ。この入浴剤の匂いはヒノキだよ。ヒノキには古くから魔除け、厄除けの効果があると信じられてきた」
「悪いものから守ってくれた?」
「そうなるだろうな。……しかしその」
「微珪、くん?」
「何故水着を」
「微珪くんこそ」
「今回の異界に入るためにあったほうが良かったからだが……綵は」
「……もうすぐ、夏だから」
「まぁ、そうだな」
「着てみたい……って、プールも苦手なのに、変なの」
「別にプールに入るのだけが楽しみじゃないさ。海辺で旨い飯を楽しむのも楽しみ方のひとつだろ?」
「海辺……」
「ああ。もうすぐ夏なんだし、思い出くらい作ったっていいだろ?付き合ってるんだからさ」
「うん……!微珪くんと一緒に海、行きたい!」
「そんじゃ、夏の予定は立てるとして……腹が減ったな」
「ふふっ」
綵が思わず吹き出す。
「取り敢えず、飯にしようか」
「うん」
2人では些か窮屈な浴槽を出、見慣れた浴室の扉を開ければ。俺たちは現世に還って来たのだと改めて実感するのだった。




