【1】シャンプーハットの怪
————怪異とは何処から来るのだろう。日常の何でもないところ、本能で恐いと感じたところ、それから……。
夕刊に目を通しながら、ずずっとカフェレスコーヒーをすする。
「微珪くん」
初見では確実に確実に読めない名前を呼んだのは海岩綵。俺の同棲中のカノジョである。
「何だ?綵」
こちらも絶対に読めないがそんなところもお揃いだと意気投合した仲だ。
「あのね……その、ご、ごめんなさい」
「えっ?」
俺、綵に謝られることでもしたか?そんなことをすれば同棲を許してくれた上司……もとい綵の父親に何を言われるか。因みに綵と言う名を付けたのはその父親ではない。
「あの……私、風呂入るの無理そう」
「……具合でも悪いのか?」
なら無理して入ることはないと思うが。
「いや、違くて」
「じゃぁ……どうした?」
「は……入るのが、無理で」
「んーと……その、何かあったのか?」
「ふ……風呂キャンって、知ってる?」
「まぁ」
幼少期の日本にはそんな言葉はなかったと思うが、大人になってから日本に来て5年だし。
「私……その、風呂キャン界隈なの」
「……」
同棲して半年。初耳だった。
「ごめんなさい……でももう、限界で」
ずっと我慢してきたってわけか。どうしてか逃げるようにうちに飛び込んできたカノジョに上司が同棲を許可したのは驚きだったが。
「何か原因があるんだろ?例えば……その、大学生活とか」
学部は違うが俺の職場である。出来ることもあるだろうし、上司に協力を仰ぐこともなくはない。
「……恐くて」
恐い……?
「でも……分からない」
綵は完全に俯いてしまう。
「じゃぁ浴室で嫌なところがあるとか……」
「……」
アタリ……なのか?海外生活が長かったとは言え、マンションは完全に日本仕様である。
浴室には浴槽もあり広々としている。
「見たら分かる……いや、分からないかもしれない」
「とにかく、見てみよう」
文化の差だとか言われたら元もこうもない。その際は生粋の日本人の母に国際電話をかけるか。
因みに俺にこの読めない名前をつけた母だ。父親が日本語の漢字の読み方にまだまだ疎かったため、止められなかったらしい。まぁ母はその後、後悔したようだし、海外に移住してしまったから別にいいが。
どこか脅えたように後ろを付いてくる綵を心配しながらも浴室の扉の前に立つ。
「ひょっとして虫でも出たか?それくらいなら捕るよ」
「……違くて」
うーん、じゃぁどうしたんだ?
恐る恐る、浴室の扉を開いてみる。そこは……。
「ご、ごめんなさい」
「綵?」
「分かってるの。私がおかしいんだって。だってお兄ちゃんもお父さんも、普通の浴室だって言うから……」
普通の浴室……か。
「こんなの、私が変なんだ」
「参考までに聞くが、綵の目には何が映ってるんだ?」
「……シャンプーハット」
「奇遇だな。俺もだ」
「……え?」
綵が顔を上げる。
「浴室の中がシャンプーハットのジャングルになってる」
「わ、私もなの」
「なるほどな。とにかく、調査してみよう」
「調査って、微珪くん」
「いいんだ。こう言うのは専門だからな」
靴下を脱ぎ捨て恐る恐る中に足を踏み入れる。
「待って、微珪くん」
「綵?」
「わ……私も、行く」
「平気か?」
少なくともこの中は湿気が蔓延っている。浴室独特の湿気だ。
「この湿気、苦手……だけど」
「俺も苦手だった頃があるよ」
「……海外ってシャワーだから?」
「いーや、まだ日本にいた……幼少期の頃の話だ」
シャワー室もまぁ湿気はあるが……何処か日本独特のものを感じるのは明らかだ。
「私も……子どもの頃から苦手だったの」
綵は靴下を脱ぐと、恐る恐る俺の後ろを付いてくる。
「感触は浴室のタイルなんだがな」
「……うん、でもここ、ジャングルだよ」
何がどうしてジャングルになったのか。しかもいたるところのシャンプーハットは何だ?
「そう言えばシャンプーハットで思い出した。日本にいた頃、母親が当たり前のようにシャンプーハットを被せてくるんだ」
「……分かる。私もお母さんがいた頃、そうだったよ」
「だよな。今じゃネットが普及して正しいシャンプーハットの使い方を写真や動画で見られるけど、昔はそうじゃない」
「正しい……使い方?」
「そうだな。あれを見た時は驚いた。でも当時は正しい使い方じゃなかったからこそ、あれを頭に付けられてシャワーを上からかけられても顔が濡れる」
「うん、垂れてきた水で息が出来なくって」
「むしろトラウマになるよ。まぁ今じゃぁ性能もデザイン性も上がったみたいだけどな」
そう語っていたその時だ。
シャンプーハットがぶるぶると震え出す。
「綵!一旦後ろに」
「ひぅっ」
完全に脅えてる。
————そして次の瞬間。
ビヂャアァァァァッと大量の水が降ってくる。まるで幼い頃のトラウマが蘇るように。
「あ……ぶぶぶっ」
綵が苦しげにもがく。
「綵!」
急いでここから逃げ……いや、でも何処に逃げればいい!?
そう言えばあまりにも泣く俺に母が言っていた。
「綵、口開けて息をしろ!」
「……あ……ぁ……はぁ……はぁ……息が」
「平気になったか。口に水が入るのを恐れて閉じると、鼻で息をしなきゃいけない。たが鼻で息をしようとも、次は鼻に水が入って呼吸が出来なくなるんだ」
「はぁ……はぁ……そう、かも」
「なら口を開けた方が、唇が傘になってくれる」
「そっか……そうだったんだ。私、いつも苦しくて水が入らないように口を閉じてたから。小さい頃はお風呂から上がったら、もう、倒れちゃって」
「そら酸欠にもなるよな」
気が付けば水は既に止んでいたが、俺たちは明らかにずぶ濡れだ。
「早く……出たいよ……もう」
「綵、辛かったな。俺も一緒だから、大丈夫だ」
「……がや、くん……うぅ……はぁ……はぁ……」
まずいな。呼吸が荒い。シャンプーハットのせいで過去の出来事がフラッシュバックしてるようだ。むしろこれはその逆……?
出口はないかと見渡せば、シャンプーハットが上からドバドバと降ってくる。
「うわ……っ」
何処をどうすれば抜け出せるんだ。
「……浴槽?」
その時、ジャングルの中に奇妙に白い箱を見付ける。
「綵、あれだ」
「浴槽……?いや……っ、やだよっ」
綵が俺の手を振りほどく。
「もうやだ、もうヤダ、お風呂なんて嫌だ!」
綵の声に呼応するようにシャンプーハットが勢いを増している。
————やっぱりこの世界は。
「外したいのか」
「……ぇ?」
「このシャンプーハット」
雨が降るように放り投げられるシャンプーハットはその象徴か。
「綵、思い出してごらん。このシャンプーハットの後、何をしたらお風呂が終わる?」
「えと……」
「シャンプーの後は何をする?」
「身体……洗う」
「その後は?」
「浴槽に、入れられる……んだよ」
「浴槽から出たら?」
「……上がれる?」
「そう、アガリだ。髪も身体もずぶ濡れならもう洗ったことになったろ?なら最後はあれだ」
「だけど……」
「大丈夫。俺も一緒だから」
「……微珪くん」
「俺も恐いよ。昔から水は苦手な方だった。浴槽も、プールも。沈むはずもないのに力が入らなくて、プールで溺れかけたこともある」
「私も……プールの授業は苦手」
「ほんとマジで。家族サービスとか言って流れるプールに連れて行かれた日には……」
「マジ恐怖……?」
「それな」
「ふふっ」
「綵?」
「……ううん、あのね。私……誰にも理解されないと思ってたから」
「綵……」
「だけど、微珪くんは私と来てくれたから」
「ああ」
「私も……行こうと思う」
その手は震えている。
「そうだな」
その分俺がしっかりと握ってやってやらないとな。
綵の手を引き、浴槽を覗き込む。
「湯は張ってない」
しかしこの浴槽、やけに見覚えがある。
「入るぞ」
「……ん」
お湯が張ってないことで綵も少し安心したのか、2人でその中に入った瞬間だった。
————目の前には見慣れた壁がある。
「帰ってきたんだ」
「うん……帰ってきた」
「もう普通の浴室だ」
「……元に、戻った」
「ああ」
「あれは何だったんだろう」
「……怪異、かな」
「微珪くんが研究してるやつ?」
「そうだ。そして今回の怪異は恐らく……綵のトラウマが生みだし異界と成り果てた。今回みたいなのは初めてじゃないんだろ?」
「うん……そのたびに、風呂キャンしたくて……でもお兄ちゃんに見つかると無理矢理入れられて……お風呂が終わるまで出てこられないから」
上司が彼女を家から出したのはそう言う理由からだろうか。
全く。トラウマにトラウマを重ねてどうする。
「あのな、綵。ひとついいことを教えてやる」
「……なぁに?」
「風呂ってのは全部終わるまで浴室にいなきゃいけないわけじゃない」
「え……っ」
「途中で浴室を出てもいいんだ。浴室が異界だってんなら、ほら、こうして」
浴室の扉を開けて綵を外に連れ出す。
「少しだけ、現世に戻ってくればいい」
「……!」
「ほら、少し楽になったろ?」
「……うん」
「今日が無理なら、身体を拭くだけでもいい」
「……入る」
「え?」
「入る……から。……て、微珪くんの側に……のに」
細微までは聞き取れなかったが。
「それならその、ゆっくりな。俺は髪乾かしてくる」
「……うん。微珪くんも濡れたのに……時間かかるかもしれない」
「平気だよ、すぐ着替えるし」
「ん……」
頷けば、俺はリビングで髪を乾かしに向かう。
「今度脱衣場用に椅子でも買うか」
勇気を出してくれた彼女のためにも快適にしてやらんとな。
それからお風呂から上がった綵に正しいシャンプーハットの使い方の動画を見せてやれば……驚愕していた。




