ヴァルデック伯爵領の復興③
日が完全に落ちると、半分焼け落ちた代官所は底なしの氷河へと姿を変えた。
屋根の穴から容赦なく吹き込む夜風が、石造りの壁の中で冷たい渦を巻いている。窓枠はあるが、ガラスは暴動の際にすべて叩き割られていた。
次の街路へ向かうには遅すぎる。暗闇と雪に覆われた街道を進むのは、遭難しに行くようなものだった。
「さて、お役人様方の頭脳労働は終わりましたか。ここからは私の管轄です」
ダニエルが、大きな背嚢を下ろしながら立ち上がった。
彼は手早く部屋の隅の風が当たらない場所を見繕うと、瓦礫の中から使えそうな木片を集め、慣れた手つきで小さな焚き火を作った。煙が外に漏れすぎないよう、石で巧みに風防を組んでいる。
さらに、背嚢から分厚い軍用毛布を取り出し、アンネリーゼとハインリヒそれぞれに手渡した。
「寝床は石の床ですが、毛布と外套を重ねれば凍死は免れます。火には近づきすぎないように」
「助かるよ、ダニエル」
「護衛対象に死なれては私の経歴に傷がつきますからね」
軽口を叩きながら、ダニエルは小さな金属製の鍋に外の雪を詰め、火にかけた。雪が溶けて湯が沸くと、彼自身の水筒から微量の茶葉と、岩のように固い軍用パンを取り出した。
「配給量に余裕があれば、今頃もう少しマシな夜営食があったんですがね」
ダニエルはブリキのカップに熱い茶を注ぎ、固いパンと一緒にアンネリーゼに手渡した。
「ありがとうございます。……っ、かった!」
思わずかじりついたアンネリーゼは、歯が折れそうな衝撃に顔をしかめた。ダニエルが低く笑う。
「そのまま噛む奴がありますか。茶に浸してふやかすんです。軍隊じゃ、これでも温かいものが胃に入るだけで御馳走なんですよ」
「……なるほど、勉強になります」
言われた通りにパンを茶に浸して口に運ぶ。味気なく、わずかに焦げ臭い茶だったが、凍えきった内臓に染み渡る熱は、どんな高級料理よりもありがたかった。
ふと、窓の外からヒューという風の音に混じって、微かに赤ん坊の泣き声が聞こえた。
アンネリーゼはカップを握る手に力を込めた。
自分たちは毛布があり、火があり、明日にはこの村を出る。しかし、村人たちはこの絶望的な寒さの中、焼け残った納屋や壊れた壁の陰で、身を寄せ合って夜を越しているのだ。
「彼らは、毎晩これを……」
「ええ。そして冬はまだ続きます」
ダニエルは焚き火に細い木片をくべながら、静かに言った。
「戦場では、銃弾より先に寒さと飢えが人を殺します。敵の刃は避けられても、冷気は避けられない」
その言葉は、軍人として数え切れないほどの死を見てきた者特有の、静かで重い響きを持っていた。
アンネリーゼは毛布を引き寄せ、石の床に身を横たえた。底冷えする床の硬さが、容赦なく体温を奪っていく。
早く、早く予算を通して復興を始めなければ。
焦燥感と寒さで、彼女は浅い眠りと覚醒を何度も繰り返しながら、長い夜を過ごした。
翌朝。
全身の関節が悲鳴を上げるような痛みと共に目を覚ましたアンネリーゼは、ダニエルが淹れた白湯で無理やり体を温め、馬車に乗り込んだ。
目指すは、この領地の中心であり、領主の館がある街・ヘレンシュタット。
数時間後。到着した街の光景に、アンネリーゼは馬車の窓に張り付いたまま言葉を失った。
同じ領地内とは到底思えなかった。
雪かきが行き届いた石畳。家々の煙突からは生活を営む暖かな煙が立ち上り、通りには活気があった。広場では領主の手による大規模な炊き出しが行われており、長く伸びた列からは、温かいスープの湯気とパンの香ばしい匂いが漂ってくる。
鎮圧軍に食料を徴発された影響で、決して豊かな配給とは言えないはずだ。それでも、人々の顔に絶望の色はなかった。
「領主様は俺たちを見捨てなかったぞ」
「ああ。それに比べて、アルテンキリヒの裏切り者どもときたら。反乱なんて起こしやがって、自業自得だ」
「頭のおかしい異教徒どもめ。雪の中で凍え死ねばいいんだ」
通り抜ける馬車に向かって吐き捨てられた言葉に、アンネリーゼは背筋が凍るのを感じた。
これが、現実なのだ。
この領地を覆っているのは、建物の焼失という物理的な被害だけではない。国に忠誠を誓って耐え忍んだ者と反乱を起こした者という、修復不可能な感情の断絶だ。
隣に座るハインリヒは何も言わず、ただ静かにパイプを咥えていた。
領主の館は、小高い丘の上に建っていた。
通された執務室は、先ほどの底冷えする帳簿室とは打って変わって、赤々と燃える暖炉の火が部屋全体を優しく温めていた。かじかんでいたアンネリーゼの手足の感覚が、じんじんと痛みを伴って蘇ってくる。
しかし、そこは決して贅沢を貪るための空間ではなかった。
巨大なマホガニーの机の上には、アンネリーゼたちが目にした以上の高さに被害報告書が積み上げられている。
「監査官殿。わざわざ王都からご苦労なことだ」
書類の山から顔を上げたヴァルデック伯爵は、仕立ての良い上着を着ていたが、その両目は酷く血走っていた。頬はこけ、目の下にはどす黒い隈が落ちている。部屋に漂っているのは、高い酒の香りではなく、眠気覚ましのひどく濃くて苦い珈琲の匂いだった。
この男もまた、極限の疲労の中で領地を立て直すために戦っている実務家なのだ。アンネリーゼは無意識に姿勢を正した。
挨拶もそこそこに、アンネリーゼは先ほど書き直した『広域復興予算案』を提示した。アルテンキリヒの村人たちが隣村のインフラを使えるようにする計画だ。
しかし、ざっと目を通した伯爵は、鼻で笑って書類を机に放り投げた。
「却下だ。アルテンキリヒの連中を隣村に行かせるだと? 隣村の連中が暴動を起こすぞ」
「ですが伯爵、このままではアルテンキリヒの住民は冬を越せません」
「知ったことか」
伯爵の冷徹な声が、暖炉のパチパチという音をかき消した。
「彼らは国に牙を剥いた反逆者だ。監査官殿、外の炊き出しの列を見たか? 彼らは鎮圧軍に麦を奪われながらも、私を信じて耐え忍んでくれた誇り高き領民だ。私は為政者として、彼らを裏切るわけにはいかない」
伯爵は身を乗り出し、血走った目でアンネリーゼを射抜いた。
「限りある予算を、反乱に加担した村の再建に回せば、今度はこのヘレンシュタットの民が暴動を起こす。だからアルテンキリヒには最低限の予算しか回せないし、橋も水車も鉱山の復旧に直結する箇所以外はすべて後回しだ。……為政者として、私の計算のどこが間違っている?」
アンネリーゼは生唾を呑んだ。
間違っていない。彼が掲げているのは領地全体を存続させるための、血を吐くような生存戦略だ。為政者としての完璧な正義がそこにあった。
アルテンキリヒを救いたいというのは、単なる王都から来た小娘の感傷に過ぎないのではないか。予算が足りない以上、誰かを切り捨てるしかないのではないか。
俯きかけた彼女の視界の端で、ハインリヒが静かに煙を吐いた。
——だから、見捨てるな。
アンネリーゼはぐっと眉根を寄せた。そうだ、私は監査官だ。感情で戦うのではない。数字と法律で戦うのだ。そう思い直し、拳をきつく握った。
アンネリーゼは震える息を静かに細く吐き出し、伯爵の目を真っ直ぐに見返した。
「おっしゃる通りです。為政者として、ヘレンシュタットの民の感情を逆撫でするべきではありません。彼らを裏切れば、統治体制そのものが崩壊します」
「分かればいい。ならばそのくだらない書類を……」
「ですから、アルテンキリヒを救済するのはやめましょう」
伯爵が怪訝そうに眉をひそめる。
アンネリーゼは手元の報告書を引き寄せると、羽ペンを取り出し、『被災民救済措置』という項目に迷いなく二重線を引いた。
「代わりに、アルテンキリヒの住民三百名を、王国の特例法に基づく〝鉱山復旧のための臨時労働小隊〟として帳簿上、再登録します。鉱山は国益に直結する重要インフラですから、これなら国庫から全額予算が下おります。十年ほど前ですが別地方で前例があります」
「……なに?」
「そして、隣村の水車や鍛冶屋は、彼ら反逆者に貸し出すのではありません。国家事業である鉱山復旧の拠点として、国が一時借り上げるという名目に変更します。国が施設を利用するのですから、隣村には国庫から正当な施設使用料が支払われます」
ペンの走るカリカリという音が、静かな執務室に響いた。
「これならば、隣村の住民は裏切り者を助けるのではなく、国に施設を貸して利益を得ることになります。ヘレンシュタットの民も、反逆者たちが労働という罰を受けているのだと納得するでしょう。伯爵の顔に泥を塗ることなく、結果としてアルテンキリヒの民が凍死することも防げます。……監査官として、私の提案のどこかに不備はありますか?」
アンネリーゼは書き直した書類を、伯爵の目の前へと滑らせた。
伯爵はまじまじとその書類を見つめ、やがてアンネリーゼの顔を見た。その沈黙は、永遠のように長く感じられた。
やがて、伯爵の張り詰めていた肩からふっと力が抜け、疲労の色が濃い顔に、かすかな笑みが浮かんだ。
「……見事な言葉遊びだな」
「言葉遊びではありません。行政手続きです」
「ふっ……違いない。現場の泥を被らない王都の役人など、無能ばかりだと思っていたが」
伯爵は机の引き出しから自身の認印を取り出すと、アンネリーゼが書き換えた書類の末尾に、重々しい音を立てて判を押した。
「たまには、面白い書類を書く奴もいるらしい。……いいだろう。この計画書で進めてくれ」
その言葉を聞いた瞬間、アンネリーゼの体からどっと汗が吹き出した。膝の震えを悟られないよう、彼女は深く一礼して書類を受け取った。
館を出ると、すっかり日は落ち、冷たい夜風が火照った頬を撫でた。
「よくやったな」
背後から歩いてきたハインリヒが、短く労いの言葉をかける。
「……ただの、屁理屈です。帳簿の数字と名目をごまかしただけですから」
「それが俺たちの仕事だ」
ハインリヒは夜空を見上げながら、パイプに火を点けた。
「帳簿の上で名目を変えれば、対立していた人間同士が手を結ぶ理由ができる。数字一つ動かすだけで、隣村に流れるはずだったカネが被災地に落ち、何百人もの命が冬を越せる」
アンネリーゼは、自分の鞄に収められた分厚い報告書の束にそっと手を触れた。
王都から送られる巨額の金が、現地の役人の横領を防ぐだけでなく、行き場のない怒りや憎しみを越えて、正しく民の生活を繋ぎ直すために使われること。
「監査官のペンは、剣よりも多くの命を救う。……お前が今日、証明したことだ」
夜空には、凍てつくような星が瞬いていた。
アンネリーゼは冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、ベルクハイムへ向かう馬車へと歩き出した。
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