アーベントタートルの境界紛争①
王都の空は、湿り気を帯びた重い鉛色に塗りつぶされていた。
内務省地方管理局管理課。
アンネリーゼの机の上には、先日のヴァルデック伯爵領での復興に関する最終報告書が整然と置かれている。しかし、その厚い束に手を伸ばす者はもういない。彼女の前には、より新しく、そしてより嫌な予感がする一通の封書が置かれていた。
中身を読み終えたアンネリーゼの眉間には、深い皺が刻まれた。
「……境界画定、ですか」
独りごちた言葉は、冷えた部屋の中で空しく消えた。
いつもアンネリーゼのつぶやきを拾い上げてくれるハインリヒは、ここ三日ほど別件で不在だった。
そのハインリヒから今回命じられたのは、北部の広大な盆地を挟んで対立する、二人の有力貴族の領地境界画定だ。西の広大な穀倉地帯を治めるローゼンシュタイン大公家と、東の資源豊かな山岳地帯を支配するハルデンベルク侯爵家。両家は、盆地中央に位置する肥沃な未開拓地の権利を巡り、数年前から一触即発の睨み合いを続けていた。
ドアが開き、ダニエルが静かに入ってくる。
「フォルマーさん、迎えに来ましたよ」
ハインリヒはダニエルにも手紙を出してくれていたようだ。
「内務省からの特命、聞きました。……北部のアーベントタールですね」
ダニエルが皮肉げに口端を上げた。
「あの盆地は魔の境界と呼ばれている。両家の私兵が交互に境界線を書き換え、農民たちはどちらに税を納めればいいのかも分からず、立ち退きを強いられている。軍の報告書では調整中の些事ですが、実際には、いつ本格的な武力衝突が起きてもおかしくない火薬庫ですよ」
アンネリーゼはハインリヒからの手紙をそっと置き、深い溜息をついた。
「些事で済んでいればよかったのですが。これは王国を二分する内戦の引き金になり得る。法に則って、両家が二度と異議を申し立てられない恒久的な境界を構築しなければなりません」
ダニエルは窓の外を見やり、雨雲渦巻く北の空を睨んだ。
「もし我々が、どちらか一方に有利な境界線を引けば、敗れた家は内務省を逆恨みして襲ってくるかもしれません。……かといって中立を貫けば、両家から『役立たずの官僚』として排除される。どうしたものやら」
アンネリーゼは立ち上がり、外套を纏った。
数日後、二人とダニエル配下の四人が到着したアーベントタートルは、荒涼とした空気で満たされていた。盆地を挟んで東西に陣取る二家の私兵たちは、互いを視界に捉えながら、武器を手に配置についている。
盆地の中央、かつての測量ポイントであるはずの巨大な岩標石は無残にも砕かれ、新しい境界線を示す杭が、何百メートルもずれた位置に乱立していた。
「見てください。これが彼らの正義の証拠です」
アンネリーゼが杭の並びを指差す。
「西の大公家は地質調査を改ざんして、本来の境界を東へ三キロ押し出しました。対する東の侯爵家は、用水路の権益を盾に、さらにその上を行く歪な境界を主張しています。両家の地図を重ねれば、そのズレだけで中規模な町が一つ消えてしまう計算になります」
ダニエルは周囲の森に潜む弓兵たちを察知し、長剣の柄に手を置いたまま警戒を強める。
「フォルマーさん、狙われています。……両家の斥候が、我々を境界線上で消し去るつもりだ」
「ええ、想定内です。……アレンス曹長、私の後ろを守って。いったん引きましょう」
アンネリーゼは、泥にまみれた古い測量台帳を広げながら、思わず深く溜息をついた。
仮設のテントの中は、雨音と、湿った紙のにおい、そして煮詰まったコーヒーの香りが充満している。彼女は冷え切った指先で、五十年分に及ぶ国境線の変遷図をなぞっていた。
「……信じられない。五十年で、ここまで線が歪むなんて」
彼女の声には、純粋な憤りと戸惑いが滲んでいる。
傍らで、ダニエルが警備の合間に差し出した熱いカップを受け取り、アンネリーゼは小さく微笑んだ。
「見て、アレンス曹長。この三十年前の図面と、今の図面。書き出しの基点になっている山の頂が、明らかに違う場所にあるの」
ダニエルは腕を組み、横から図面を覗き込んだ。
「つまり、意図的な改ざんですか?」
「ええ。最初はほんの数メートルだったはずです。西の大公家が耕作地を少しだけ広げたくて、地図の基点をずらした。翌年は東の侯爵家が、森の伐採権を主張するために、さらにそこから線を歪めた。……まるで、子供が落書きの上から落書きを重ねて、元の絵が分からなくなったような状態ですよ」
アンネリーゼはペンで二つの地図を重ね合わせた。重なるはずのない国境線が、まるで絡み合う蛇のように盆地の中をのたうち回っている。
両家は、何世代にもわたって担当者を懐柔し、都合の悪い資料を破棄させ、有利な正解を書き継いできたのだ。それはある意味で、非常に人間臭く、そして悲しい産物だった。
「法を盾に争っているけれど、彼らの持っている法そのものが、すでに砂上の楼閣だわ。誰も彼も、自分たちの領民を守りたいという大義名分はあるのよ。でも、そのために地図を捻じ曲げることが、結果として農民たちの生活をどれだけ不安定にしているか、なぜ気づかないのかしら」
ダニエルは、そんなアンネリーゼの横顔を少しだけ心配そうに見つめた。
「フォルマーさん、その事実は、両家にとって毒にも薬にもなります。これを公にすれば、地図を作成した役人たちは全員、職を追われるでしょうね」
「そうでしょうね。でも、個人を断罪しても解決しません。必要なのは二度と地図が書き換えられない仕組みを作ること」
彼女は立ち上がり、盆地の中央を指差した。
「アレンス曹長。もし、両家が争っているこの盆地全体を、どちらの領地でもない〝王国の直轄保留地〟として再定義するとしたら?」
ダニエルの目がわずかに細められる。
「それは、両領主から利権を剥ぎ取るということです。相当な反発が予想されますよ。一歩間違えれば、我々が暴徒の矛先にされる」
「それでも、これ以上流血を見たくないの。昨夜、村の子どもが境界線で道に迷って、私兵に槍を向けられていたのを見たわ。あんなの、国境を守るための領土なんて言えない。ただの、地図上の数字に殺されかけているだけ」
ダニエルはしばらく黙ってうつむいていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。
「了解しました。その計画、お供しましょう」
「ありがとうございます」
アンネリーゼは顔をほころばせた。その様子を見てダニエルはやれやれと肩をすくめる。
「ただし、相手は貴族です。綺麗事だけでは済みませんよ」
アンネリーゼは、ダニエルの目を見ながら頷いた。
そして早速、散らかった資料を再び集め始めた。
彼女が見つけたのは、五十年分の地図の改ざん履歴だけではない。それぞれの貴族が、過去に地図作成のために投じた資金の出所と、その時に得た不当な税収のリストだった。
「彼らにとって、領土は誇りかもしれない。でも、この帳簿を見せれば、それがただの負債の塊だと気づくはずです。……明日の朝、両領主をこのテントに呼び出しましょう。話し合いです。剣を突きつけるのではなく、現実を突きつけるの」
アンネリーゼは、インクで汚れた指先を拭うこともせず、決意を込めて窓の外の暗闇を見つめた。雨は少しずつ弱まり、雲の切れ間から月明かりが盆地を照らそうとしている。
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