ヴァルデック伯爵領の復興②
夕刻、代官所の帳簿室は蝋燭の光で黄色く染まっていた。
机の上には、異なる紋章の押された帳簿が三冊並んでいる。
徴税台帳、戸籍簿、避難者一覧。
「……おかしいですね」
底冷えする石造りの部屋に、アンネリーゼの呟きが白く濁って溶けた。古紙とカビの匂いが染み付いた帳簿をめくる度、かじかんだ指先が微かに震える。彼女は独り言のように呟いた。
「ヨハンさんが三人います」
ハインリヒがパイプの煙を吐きながら、目だけを向けて、そうか、と答えた。
「調査してきます!」
代官所を出ると、冬の冷たい風が焼け跡を吹き抜けていた。
村の中央にあった井戸では、何人もの村人が桶を手に列を作っている。井戸は半ば崩れ、かろうじて汲み上げられる水を皆で分け合っていた。
アンネリーゼは帳簿を抱えたまま、一人の老人へ歩み寄る。
「失礼します。監査官です。お名前を教えていただけますか」
老人は桶を地面に置き、小さく会釈した。
「ヨハン・ミュラーです」
アンネリーゼは徴税台帳を開く。
「……ありました。ヨハン・ミュラー様」
「今年の税は払えんかった。家も畑も焼けてしまってな」
老人は苦笑した。
「避難はされていましたか」
「娘夫婦の村へ。昨日戻ってきたばかりじゃ」
アンネリーゼは頷き、今度は井戸の脇でパンを配っていた若い役人へ向かった。
「配給記録を見せてください」
役人は木札を差し出す。
そこには乱雑な字で、『ヨハン爺 一』とだけ書かれていた。
「この方ですね」
「ええ」
「ヨハン・ミュラーさんですか」
役人は首を傾げた。
「名字までは知りませんよ。村じゃ皆、『ヨハン爺さん』です」
「確認はしないのですか」
「今日、飯を渡す人数が分かれば十分ですから」
アンネリーゼは静かに配給簿を閉じた。
さらに代官所へ戻る途中、徴税係の男を呼び止める。
「こちらのヨハン・ミュラーさんですが、避難中も徴税台帳には載せたままだったのですね」
徴税係は怪訝そうな顔をした。
「当然です」
「避難していたのですよ」
「納税義務は消えませんから」
男は台帳を指さした。
「土地を持っている以上、納税者です。今いるかどうかは関係ありません」
「では、配給は」
「配給係に聞いてください。私の仕事ではない」
今度は配給係を見る。
「避難者台帳とは照合していますか?」
「いいえ」
「戸籍は?」
「見ません」
「徴税台帳は?」
「見る必要がありますか?」
その返事に悪意は感じられず、本当に必要ないと思っている顔をしていた。
アンネリーゼは代官所へ戻り、三冊の帳簿を再び机に並べる。
徴税台帳、戸籍簿、避難者一覧。
同じ村を記録しているはずなのに、それぞれが違う村を見ているようだった。
「……やっぱりおかしいですね」
後ろからハインリヒの声がする。
「何がおかしい」
「誰も間違っていません」
アンネリーゼは四冊を見つめたまま答えた。
ハインリヒは静かに歩み寄り、三冊の帳簿を重ねた。
「そうだ」
彼は一番上の帳簿を指先で軽く叩く。
「同じ人間を、同じ人間として扱う仕組みがない」
アンネリーゼは焼け跡の井戸を思い浮かべた。
さっきまで話していた老人は、一人しかいなかった。
だが帳簿の上では、税を払う男であり、避難民であり、配給を受ける老人でもある。
どれも間違ってはいない。
それでも、そのどれもが老人そのものではなかった。
アンネリーゼは帳簿の山を見つめた。整然としているのに、同じ地図を別々の基準で重ねたようにどこか歪んでいる。
「……では、この村に必要なのは復興ではなく」
ハインリヒが言葉を引き取る。
「統合だ」
その一言に、アンネリーゼは首を傾げた。
「統合……ですか」
「帳簿を合わせるんじゃない」
ハインリヒは机の上の三冊を重ねた。
「人を合わせるんだ」
彼は最初に徴税台帳を開いた。
「去年の戸数は二十六戸。納税者は百四十二人」
次に戸籍簿。
「出生二名。死亡三名。婚姻一件」
避難者台帳。
「避難者百人」
最後に昨日の配給記録を写した紙。
「昨日のパンの配給は百六十八食」
アンネリーゼは紙を見比べる。
「百四十二人なのに、百六十八食……」
「そうだ」
ハインリヒは頷いた。
「徴税台帳では百四十二人。配給では百六十八人が食べている」
「二十六人、多い……」
ダニエルが腕を組む。
「役人ってのは、こんな数字ばかり眺めてるのですか」
「いや」
ハインリヒは首を振った。
「普通の役人は、自分の帳簿しか見ない」
その言葉に、アンネリーゼはそうだ、と頷く。
「徴税官は税しか見ない。戸籍官は戸籍しか見ない。配給係は今日の食料しか見ない」
ハインリヒは三冊の帳簿を軽く叩く。
「だから誰も嘘は書いていない」
「それでも現実とは違う」
アンネリーゼは静かに言った。
「そういうことだ」
「だから現場へ行かなければならない」
窓の外では、焼け跡に立つ村人たちが井戸の瓦礫を運び出している。
子どもが桶を抱え、老婆が焦げた柱を一本ずつ片付けていた。
「帳簿には井戸一基損壊、としか書かれていません」
アンネリーゼが呟く。
「だが現実には、井戸が一つ壊れただけで村全体が水を失う」
「橋一基損失、と書けば橋が一本なくなっただけに見える」
ハインリヒは窓の外を見たまま続けた。
「だがその橋が市場へ続く唯一の橋なら、収穫物は売れず、医者も来られず、村は冬を越せん」
彼は振り返った。アンネリーゼを見る目は、お前も知っているだろう、と投げかけているようだ。
「行政は数字で仕事を始める。だが、数字だけで仕事を終わらせる役人は、一人前とは言わん」
アンネリーゼは焼け跡の村を見つめた。
報告書には、『井戸 一基損壊』としか書かれていない。
だがその一行の向こうには水を汲めず、洗えず、畑を耕せず、生き延びる術を失った何百人もの暮らしがある。そう、あの時彼女自身がが経験したように。
彼女は報告書の余白に、小さく書き加える。
『代替水源なし。復旧最優先』
その一行は、どの帳簿にもない情報だった。
「今回の復興事業に限り、復興台帳を追加で作るのはどうでしょうか」
「……復興台帳か、面白い。作ってみろ、使い物になるなら王都へ持ち帰る。アレンス曹長、手伝ってやってくれ」
その日の夕方、アンネリーゼは街の地図を机いっぱいに広げていた。
赤い印は焼失した家屋、青い印は井戸、黒い印は橋。そして、新たに書き加えた丸印は鍛冶屋、大工、粉挽き、水車守。
ハインリヒが覗き込む。
「まとまったか」
「はい」
彼女は胸を張って答えた。
「まず井戸を直します。次に鍛冶屋。そのあと水車です。家屋は順次再建します」
ハインリヒは何も言わず、一枚の紙を差し出した。
王都から届いた公文書だった。
『復興予算配分表』と題してある。
アンネリーゼは素早く目を走らせた。
「……え? 半分?」
「半分だ」
「申請額の……」
「半分だ」
彼女は思わず紙を持ち直した。
「これでは全部はできません」
思わず声が上ずった。アンネリーゼは紙を持つ手に力を込める。薄っぺらい羊皮紙の一枚が、鉛のように重く感じられた。予算が足りない。それはつまり、先ほど窓の外で瓦礫を片付けていた老婆や、泥だらけの子どもたちの顔に、冷たいバツ印をつけていく作業に他ならないのだ。
当然だ、とハインリヒの冷徹な答えが、彼女の葛藤を容赦なく断ち切った。
ハインリヒは煤だらけの椅子に腰を下ろした。
「反乱で荒廃した街はアルテンキリヒだけではない」
机の上には、ハインリヒが鞄から出してきた報告書が積まれている。
焼失した街、三。
被害人口、およそ三百六十。
橋の流失、五。
水車の焼失、十。
「国庫にも限界がある」
静かな声だった。
「だから役人は、救う順番を決める」
アンネリーゼは配分表を見つめた。
井戸を直せば、水車が後回しになる。水車を直せば、家が建たない。家を建てれば、鍛冶屋の炉が作れない。
どれも必要なのに、どれも足りなかった。
「……こんなの、誰かを見捨てることになります」
思わず漏れたつぶやきをハインリヒは否定しなかった。
「そうだ」
部屋が静まり返る。ダニエルは黙って地図を見ている。
「だから、見捨てるな」
アンネリーゼは顔を上げる。
「え?」
「切り捨てるのではない」
ハインリヒは地図の一点を指差した。
「考えろ」
隣の街だった。
「ここは被害が軽いな?」
「はい」
「水車も残っている」
「……あります」
「ならば、この村の穀物は隣村で挽ける」
アンネリーゼの目が開く。
「つまり、水車の再建は後回しにできる。」
「そうだ」
今度は別の場所を指差す。
「鍛冶屋は?」
「この村に一人だけです」
「隣村には?」
帳簿をめくる。
「二人います」
「ならば道具は貸せる」
アンネリーゼは急いで書き込み始めた。
『共同利用』
『広域復興』
『職人の派遣』
ハインリヒは初めて満足そうに頷く。
「ようやく、一つの街だけを見なくなった」
「復興とは街を元に戻すことではないんですね」
アンネリーゼは地図を見つめた。
「そうだ」
ハインリヒは窓の外を見た。
夕日に照らされた街道には、隣村から荷馬車がやって来ていた。
積まれているのは木材ではなく、パンだった。
「人は昔から、足りないものを融通し合って生きてきた」
荷馬車が村へ入る。
子どもたちが駆け寄る。
「役人の仕事は、その流れを邪魔しないことだ」
アンネリーゼはその光景を見ながら、静かに報告書を書き直した。
『復興対象 街 三』
その文字を消して、代わりに書く。
『復興単位 地域 一』
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