ノルトマルク王国の貨幣税
むせ返るようなカビの匂いと、暗がりを走るネズミの足音。
山積みになった麻袋から、茶色く変色した麦がサラサラと零れ落ちている。
零れ落ちた麦の粒は、湿気を吸って粘土のように重たい。指先で潰すと、中からは黒い粉が滲み出し、鼻をつく酸っぱい異臭が漂った。
「帳簿の上では小麦一トンでも、ここに着く頃には虫が湧いて三割は減る。残りの七割も、雨漏りと湿気で半分が家畜の餌行きだ」
「税を捨てるんですか……!」
息を呑むアンネリーゼの横で、倉庫番が吐き捨てるように言った。
「全部は食えん。運ぶ馬の餌代にも、保管する倉庫の修繕費にも金がかかる。……銀貨ならネズミに食われる心配はないんだがな」
ハインリヒは鼻を覆うようにハンカチを当て、忌々しげにカビた麦の山を睨みつけた。
「見ろ、フォルマー。これが我が国の旧態依然とした穀物税の正体だ。国家の富が、倉庫の中でただ腐っていくのを待っている」
彼の声には、非効率なシステムに対する実務家としての強烈な苛立ちが滲んでいた。
机の上には、王国全土から集められた分厚い帳簿が山のように積まれていた。
アンネリーゼは手元の計算尺と羽ペンを忙しく動かし、巨大な集計表にインクを走らせていく。
領地から納められる穀物税の総収量。
それを現在の市場価格で銀貨に換算した、本来の価値。
そこから、村から都市部へと運ぶ馬車と護衛にかかる莫大な輸送費を引き、さらに巨大なサイロを維持するための保管費と、ネズミや湿気による腐敗・損耗率を容赦なく差し引いていく。
カリカリという乾いたペンの音が止まり、アンネリーゼは最後に弾き出された二つの合計額を見比べた。
一つは、現在の〝現物納税〟による実質的な国家の純利益。
もう一つは、すべてを直接銀貨で徴収する〝貨幣納税〟に切り替えた場合の予測利益。
その差額を見た瞬間、アンネリーゼは小さく息を呑んだ。
「……信じられません。貨幣税に移行するだけで、国庫収入が一割以上も増えます」
向かいの席で資料をめくっていた若い財務官が、我が意を得たりとばかりに顔を上げ、喜々として答えた。
「その通り!」
彼は立ち上がり、熱を帯びた声でアンネリーゼの手元にある集計表を指差した。
窓から差し込む陽光が、無機質な机の表面で鋭く反射している。ここでは倉庫のような生命の腐敗臭は皆無だが、代わりに、整頓された紙束が乾燥しきったインクと、羊皮紙や半紗紙が独特な匂いを放っていた。
「現物は動かすだけで金食い虫になる。だが、貨幣ならば馬車十台分の小麦が、たった一つの革袋に収まるのです。一割の増収どころか、無駄な中抜きや経費を省けば、それ以上の富が直接国庫を潤すことになる。これこそが近代国家の血流ですよ」
アンネリーゼは帳簿に並ぶ、寸分の狂いもない美しい数字の羅列を見つめた。
倉庫で嗅いだあのむせ返るようなカビの匂いも、腐った麦の山も、この紙の上には存在しない。すべての無駄が削ぎ落とされ、理路整然と、完璧な計算式のもとに国家の富が増えていく。
「……本当に、美しい数字ですね」
アンネリーゼは感嘆の溜息をつき、静かに羽ペンを置いた。
「第一に腐敗による目減り。第二に莫大な輸送費。第三に都市部の倉庫不足。そして第四に、各地方による品質のばらつき……。現物による徴税は、もはや近代国家の財政基盤として限界を迎えています」
太陽の光が差し込む清潔な会議室で、財務官の声が響き渡る。
「よって、すべての徴税を原則として貨幣へと移行します。金貨は腐らず、銀貨は輸送費を劇的に縮減する!」
宣言が終わると同時に、近代化を信奉する若い官吏たちから一斉に拍手が湧き起こった。
アンネリーゼも思わず手を叩く。倉庫の惨状を見た直後の彼女にとって、それは魔法のように完璧で、合理的な解決策に思えた。
「とても合理的ですね。これで無駄がなくなります」
アンネリーゼが目を輝かせて隣を見ると、ハインリヒもまた、深く、力強くうなずいていた。
彼の顔には若者のような熱狂こそないが、その表情はようやくこの国も前へ進む、という実務家としての確かな安堵と賛意に満ちていた。
数ヶ月に及ぶ激しい議論の末、ついに法案は可決された。
大理石の柱が立ち並ぶ議事堂の天井は高く、人の吐息さえも遠くへ吸い込んでしまう。磨き上げられた床に響く足音は、まるで歴史という名の巨大な歯車が、重たい音を立てて噛み合わさるかのような錯覚を覚えさせた。
豪奢な議事堂の奥深くで、重厚な羊皮紙に王国の国璽が打ち下ろされる。
それは、古き良き、そして泥臭く非効率だった徴税制度が終わりを告げた瞬間だった。
『王命により、本年より王国全土において、現物による納税を廃し、原則として貨幣による納税を開始する』
通達が内務省と財務省のフロアに貼り出された途端、若手官僚たちの間からどよめきと歓声が上がった。書類の束が宙に舞い、誰もが興奮した面持ちで互いの肩を叩き合っている。
「ついにやったぞ! これで我が国も近代化の仲間入りだ!」
「無駄だらけの非効率な時代は終わったんだ。これからは、穀物の代わりに銀貨がこの国を巡る!」
官庁街は、新しい時代の幕開けを祝う熱気に包まれていた。アンネリーゼもまた、拍手の手を止められなかった。あの薄暗い倉庫で腐敗していく麦の山を思い出し、それが綺麗に片付く未来を想像すると、胸の奥から静かな感動が込み上げてくる。
自分は今、この国が正しく前へ進むための、歴史的な瞬間に立ち会っているのだと思うとこんなに感慨深いことはなかった。
祝祭の余韻が残る官庁街を抜け、二人は家路についていた。
外の風は思いのほか冷たかった。夕闇が石造りの建物を塗りつぶしていく。窓から漏れる灯りは暖かそうだが、そこに住む市井の生活の音は、今日に限ってはなぜか聞こえてこなかった。
静か空気が、熱狂した頭をゆっくりと冷ましていく。石畳を歩く靴音だけが、等間隔に響いていた。
「……本当に、いい制度ですね」
アンネリーゼは、まだ胸に残る高揚感を噛み締めるように、隣を歩く上司を見上げて言った。
ハインリヒは歩みを止めず、懐からマッチを取り出すと、慣れた手つきでパイプに火を点けた。夕闇の中に、紫色の煙がふわりと溶けていく。
「ああ。そうだな」
ハインリヒの返事は短かったが、そこには彼なりの確かな安堵が滲んでいた。彼は若手官僚たちのように手放しで歓喜するような男ではない。だが、誰よりも帳簿の不備と現場の無駄を憎む実務家として、この改革の重みを痛感していた。
「旧態依然とした穀物税は、もうとうに限界だった」
ハインリヒは夜空を見上げ、深く煙を吐き出した。
「虫に食われ、雨に打たれ、倉庫で腐るのを待つだけの税など、国家の体をなしていない。……これからは数字が正確に国庫を潤し、無駄な経費が削られる。制度としては、間違いなく正しい一歩だ」
彼の横顔は、長年の重荷を下ろしたように少しだけ穏やかだった。
その言葉に、アンネリーゼも深く頷く。
「はい。これで王国は、もっと良くなりますね」
「ああ。そうだな」
空の端に少しだけ残っていた茜色が、冷たい藍色に静かに飲み込まれていく。
パイプから吐き出されている紫煙その中空へ溶けていくのをアンネリーゼは歩きながら見つめていた。
かすかな熱を帯びた紫の煙は、意思を持つように緩やかな螺旋を描きながら、静まり返った大気の中を上へと立ち昇る。しかし、光を失いゆく周囲の空気に出会うと、そのたおやかな輪郭はたちまち曖昧にほつれていった。
紫から沈んだ灰へ、そして見えない影へ。
宵闇の中へ煙は音もなく滲み、混ざり合い、やがて何事もなかったかのように溶け落ちていった。
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