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ザラント地方第七行政地区の飢饉②

 ベルクハイムから馬車に揺られ、アンネリーゼとハインリヒはまず、隣の市、ノイエヴェルダーに向かった。ノイエヴェルダーはこの王国の軍事拠点であり、優秀な軍人がこの街に集められていた。憲兵隊の本部へ向かうのだ。

 二人が、重い石造りの憲兵隊本部に足を踏み入れると、そこは暖炉の火の温もりと、男たちの汗や革製品、銃のオイルの匂いが立ち込めていた。

 ハインリヒが受付の憲兵に局長からの命令書をパッと提示した。

 

 「内務省から来た。我が任務の護衛として、最も優秀な兵を出せ」


 重々しい声で命じる。

 受付の憲兵はお待ちください、と言って奥の部屋へ下がっていった。

 しばらくすると、深緑色のジャケットを着た二人組が現れた。

 彼らのジャケットは襟や袖口が赤色で縁取られている。壮年の方の隊服には襟元や袖口に精巧な銀色の刺繍が施されていた。さらに肩に大ぶりのエポレットが乗っている。二本の銀色の平紐の上に金色の星が縦に二つ並んでいる。階級大尉だ。おそらく、憲兵隊の隊長だろう。

 大尉の隣にいるのはまだ若く、しかし、肩章は厚手の赤いフェルトできており、そのフェルトの縁を銀色の太いテープが四周縫い付けられていた。曹長だろか。年齢は三十過ぎのように見えるから、相当優秀のようである。


「課長殿。例の命令書の件、確かに承りました。我が憲兵隊は公明正大、お国のために全力を尽くしましょう。さて……今回、貴殿の護衛兼手足として、私が自信を持って選んだのが彼、アレンス曹長です」


 アレンス曹長は、一部の隙もない敬礼をする。

 

「ご覧の通り、まだ若く体力的にも我が隊で一番タフな男です。何より、軍人としての規律遵守心と正義感が人一倍強い。今回の行脚に出られるにあたって、これほどお誂え向きの男はおりません。少々融通の利かない堅物ですが、大いにこき使ってやってください」


 大尉が言い終わると一拍置いて、曹長が口を開いた。

 

「憲兵隊曹長のダニエル・アレンスであります。此度の地方監査、我が隊が道中の護衛を拝命いたしました」

 

「うむ、ご苦労。地方監察課長のハインリヒ・クラウゼだ。今回の監査先は少々きな臭い場所でね。君のような、現場をよく知る優秀な憲兵が護衛についてくれて心強いよ」

 

 ハインリヒは言い終えるとアンネリーゼに目配せをした。

 

「地方監察課の監察官、アンネリーゼ・フォルマーです」


 ダニエルはハインリヒに対して慇懃に敬礼をしていたが、その視線が、後ろに控えるアンネリーゼに移った瞬間、あからさまに不満のある顔をした。

 ハインリヒは彼の態度に対してだろうか、フッと鼻で笑った。

 

「小娘のお守りは不満かもしれないが君たちの任務は、私の手足となって動くことだ。さっそく出発の準備にかかってくれたまえ」


 ダニエルは表情を引き締め、踵をカンッと鳴らして直立不動の敬礼を取った。

 

「ハッ! 了解いたしました! 憲兵隊、これより監察課長閣下の指揮下に入ります! 命に代えても御身をお守りいたします!」

 


 狭い馬車のなか、気まずい沈黙の旅が始まりまった。

 車輪が荒れた路面を跳ねるたびに、木製の車体が軋んだ悲鳴を上げる。その狭苦しい空間に乗り込んで早々、ハインリヒはアンネリーゼの目の前へ、容赦なく新たな書類の束を叩きつけた。容赦のない衝撃音が、密室に重く響く。馬車が激しく揺れることなど、彼は一顧だにしない。

 

「フォルマー、ザラント地方の過去5年分の気候データと、周辺3地区の税収推移だ。到着までに頭に入れておけ」

「はい!」


 アンネリーゼは顔色一つ変えず、叩きつけられた束を手に取ると、猛烈な勢いでページをめくり始めた。

 めくられる紙の擦れる音だけが、車内の沈黙を刻んでいく。ペンを握り続けていた彼女の細い指先は、すでにインクで黒く汚れていた。

 ふと視線を感じて顔を上げると、向かいの席に座るダニエルが、こちらを値踏みするような目でじっと見つめ、眉をひそめているのが見えた。アンネリーゼはそれに表情を変えることもなく、すぐに手元の数字へと視線を戻す。

 ハインリヒがパイプに火をつけた。紫煙が狭い車内に広がり、独特の苦い香りが満ちる。彼は窓の外の流れる景色を眺めながら、ダニエルにだけ聞こえるような低い声でぼそりと呟いた。

 

「アレンス曹長。お前さんの頑丈な身体は頼りにしているが……彼女の頭脳も、うちの課の立派な武器でね。現地に着いたら、互いの足を引っ張らないように頼むよ」


 アンネリーゼの耳には、その言葉がはっきりと届いていた。視線は書類に落としたままだが、ハインリヒの口元が不敵に歪むのが視界の端に映る。それを受けたダニエルが、微かに顎を引き、背筋を正した気配が伝わってきた。

 ノイエヴェルダーからザラント地方へ向かうにつれ、車窓の景色はどんどん荒涼としていき、気温も下がっていく。明るかった太陽は沈み、星々が瞬いている。窓の隙間から入り込む風が、アンネリーゼの指先をじわじわと冷やしていく。

 長く狭苦しい旅も、そろそろ終わりそうだった。



 馬車から一歩踏み出した瞬間、肺に流れ込んできたのは空気ではなくガラスの破片のようだった。吸い込むたびにのどの奥がピリピリと焼け付くように痛み、吐き出す息は白く濁っていて今にも凍り付きそうだった。

 第七行政区の最も大きな村に入る。この村の役場に第七行政区長がいて、全ての帳簿が揃っているはずだ。

 村には生き物の気配が感じられなかった。風がぼろ小屋の隙間を吹き抜ける、鋭い音が耳に付く。

 アンネリーゼ達が歩を進めると凍り付いた雪がギチギチと軋むような音を立てた。

 広場に並ぶ村人たちは、まるで雪原につきたてられた黒い墓標のようだった。誰一人として身動きせず、声を交わすこともない。ただ凍てついた泥の中に足を埋め、ぼろきれを幾重にも巻き付けてうずくまっている。

 憲兵に囲まれた役人を迎える彼らの視線は虚ろで、冷気そのものよりも冷たく、アンネリーゼ達の分厚いコートを射抜いていた。

 彼らの様子を見たアンネリーゼは確信したが、口調は推測に留めた。

 

「課長、この村が本当に税収も収穫量も下がっていないのであれば、行政による搾取が行われている可能性が高いのでは?」

 

 ハインリヒが肯定も否定もせず不敵に笑う。

 

「そうかもしれないが、どうだろうな。よし、お前の仕事の始まりだ」

「まずは彼らに話を聞いてみます」

 ハインリヒに宣言するとアンネリーゼは村人の元へ踏み出した。手前にいた婦人に話しかける。

「すみません、お話を聞きたいんですが」

「ハッ、女の役人に話すことなんてないよ。何ができるってんだい。そんなことより配給を持ってきな」

「その配給のためにお話を聞きたいんです」

「そんなもん、話さなくてもわかるだろ!? ここにいるみんな飢えてるんだよ! さっさと帰って食べ物を持ってきな」

 

 まるで歯が立ちそうになかった。確かに彼女たちは今、飢えている。アンネリーゼとしても救済措置を取りたいのは山々だった。しかし、それにはストーリーがいる。

 アンネリーゼは小さく息を吐いて、ハインリヒの元へ戻った。

 

「まずは役場に行って帳簿を調べたほうがいいかもしれません」


 ハインリヒは鷹揚に頷いた。


「いいだろう。ところで曹長、何か考えがあるのか?」


 ダニエルは俯いていた顔を上げ、はい、と静かに答えた。


「役場であれば比較的安全かと考えます。私以外の5名をこの場に残していっても良いでしょうか?」

「ああ、そうだな、構わない」


 アンネリーゼは内心で首を傾げた。役人を嫌っている村人の前に憲兵を置き続けるのは刺激するだけではないだろうか。

 しかしハインリヒのことだ、何かを考えた上で許可しているのだろう。

 ダニエルは5名を円状に集めて何事かを小さく命じた。

 5名はそれぞれ店で違う方へ小走りで去っていった。


「良いのですか?」

「ああ、彼は現場をよく知っている。こういう時どうすればいいか、彼の中で定石があるんだろう。さ、我々は役場に向かうぞ」


 二人の元へ駆け足で戻って来たダニエルを加えて、三人で広場の一角に構えられた役場へ向かう。

 広場の半ばまできたところで、区長らしき恰幅のいい男が役場から飛び出してきた。

 この寒い中、汗をかいているようだ。三人の前まで来ると彼は早口で捲し立てた。

 

「いやー、監査官の皆様、出迎えが遅れ申し訳ございません。第七行政区長のトーマス・ベッカーです」

「内務省地方管理局監査課のクラウゼだ。こちらは監査官のフォルマー、憲兵のアレンス曹長だ」

 

 アンネリーゼは一礼し、ダニエルは敬礼をした。ベッカー区長はペコペコと頭を下げている。

 

「では、中に入れていただこうかな。寒くてかなわん」


 ハインリヒが強い口調で促した。

 ベッカー区長は汗を拭きながら、はい、と小さく返事をして役場まで先頭になって歩き出した。


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