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ザラント地方第七行政地区の飢饉①

 朝一番の地方管理局は、紙の匂いがする。

 半紗紙、インク、蝋。まだ火の入ったばかりの暖炉から漂う薪の香りが、それらに混じる。

 王都ベルクハイムの中央官庁街。その一角に建つ灰色の石造りの建物へ、アンネリーゼ・フォルマーはいつも通り始業の三十分前に出勤した。

 廊下はまだ静かだ。

 宿直の書記官が眠そうにあくびを噛み殺し、警備兵が軽く会釈を返す。

 

「おはようございます」

 

 アンネリーゼも小さく頭を下げ、自席へ向かった。

 机の上には、地方から届いた報告書の束が積まれている。

 北方第一行政地区。

 西部運河管理局。

 東方辺境州。

 赤い封蝋、青い封蝋、緑の封蝋。部署ごとに色分けされた封を順番に外し、内容を分類していく。

 特別な作業ではない。

 地方監察課の文官なら誰でもやる仕事だ。

 だからこそ、多くの者は流れ作業で済ませる。

 アンネリーゼは良くも悪くも真面目、つまり要領が悪かった。

 先輩たちのように数字を見過ごすことが、どうしてもできない。

 一枚目、二枚目、三枚目。

 昨日までに読んだ過去三年分のデータ、その記憶と今目の前にある数字を脳内で突き合わせる。指先がインクで黒く汚れるのも気づかなかった。

 ふと、手が止まる。そして何度も同じ行をなぞっている。

 

「うーん……おかしい」

 

 東方にある第七行政区。

 人口、前年比一・八%増。

 徴税額、前年比増減なし。

 収穫量、平年並み。

 それなのに、飢餓救済の申請人数だけが、三倍になっている。

 報告書にはこう書かれていた。

 

『原因は備蓄倉庫に霜が降り、イモや小麦が腐敗してしまったことと考えられる』

 

 アンネリーゼは眉をひそめる。

 記入ミスだろうか。数字と文言に齟齬がある。

 

「フォルマー」

 

 低く落ち着いた声がした。

 顔を上げると、地方監察課長、ハインリヒ・クラウゼが立っていた。

 五十を前にした男は、分厚い書類の束を抱えたままアンネリーゼの机を見下ろす。

 

「もう来ていたのか」

「おはようございます、課長」

「その顔は、また数字とにらめっこか」

 

 アンネリーゼは少しだけ困ったように笑った。

 

「いえ、そういうわけではありません」

 

 報告書を差し出す。

 

「この報告書、なにかミスがあるようなんです」

 

 ハインリヒは黙って紙を受け取ると、一瞥しただけで返した。

 

「現地は飢饉だと言っている」

「はい」

「なら飢饉なのでは?」

 

 ハインリヒの瞳が試すように、すがめられる。

 

「そうかもしれません。でもそれなら色々と辻褄が合わないんです」

 

 課長は腕を組んだ。

 

「根拠は?」

「収穫量と税収は数字上は平年通りなのに、飢饉の原因に〝備蓄〟倉庫の作物がダメになったと書いてあります。平年通りの収穫量があったのに、それが原因で救済申請が急増するのは、おかしくないでしょうか。そんなにいくつも数字や文言を書き間違えるものですかね?」

 

 数秒間ハインリヒは黙り込んでいたが、やがて小さく息を吐く。

 

「……だからお前は向いている」

 

 そう言ってから、いつものように続ける。

 

「だが、推測だけでは役所は動かん」

 

 アンネリーゼは視線を落とした。分かっている。

 正しいことと、証明できることは違う。

 まして行政は、誰か一人の勘で動く組織ではない。

 

「証拠を持ってきます」

「どうやって?」

「現地へ行きたいです」

 

 クラウゼは目を細めた。

 地方監察課の若手文官が、自ら現地調査を願い出ることは珍しくない。

 だが、その理由が数字に齟齬があるから、という者は、アンネリーゼ・フォルマー以外に一人もいなかった。


「よし、行くぞ。1時間後に出るから支度しろ」

「護衛憲兵の派遣要請書類と出張申請の書類がまだ準備できていません」

「今回は俺が書く」

 

 ハインリヒはサラサラと公文書用の半紗紙にペンを滑らせる。

 

「フォルマー。これを上の階の局長室へ直接持っていけ。給仕を待つな、走れ。『緊急・飢饉査察』だと叫んで、秘書を押しのけてでも局長の机に叩きつけてこい」

「はい!」

 

 アンネリーゼは申請書を引ったくるように受け取ると、廊下へ飛び出した。

 廊下では、いつものように制服を着た初老の給仕が、木箱に書類を積んでゆっくり歩いている。

 

「おい、小娘。廊下を走るな。書類は私が順番に……」

 

 咎める給仕の横を、アンネリーゼは緊急事態です、と叫びながらすり抜けて、普段は恐れ多くて近づけない局長室の重厚なマホガニーの扉を勢いよくノックした。

 扉が、内側から勢いよく開く。

 そこに立っていたのは、局長ではなく、眉間に深い皺を刻んだ初老の秘書官だった。

 

「騒々しい。ここは内務省の心臓部だぞ、地方監査課の小娘が何の真似だ」

 

 冷徹な声だった。ノルトマルク王国官僚の伝統を具現化したような、一分の隙もないフロックコートの着こなしに、アンネリーゼの足がすくみかける。廊下の奥からは、先ほど追い抜いた給仕が、あきれた顔でこちらを見ているのが分かった。

 しかし、彼女の右手には、課長から託された書類がある。左手を添えて、少し震えながらも差し出した。

 アンネリーゼはエイヤッと勢いに任せて捲し立てた。

 

「地方監査課より、緊急の申請です! ザラント地方にて深刻な飢饉が発生しております! 直ちに我ら監査課が現地へ赴くため、出発の許可および現地憲兵の護衛徴発命令を求めます!」

 

 秘書官の目が、一瞬だけ鋭く細められた。彼は申請書をひったくるように受け取ると、タイトルに書かれた『緊急・飢饉査察』の文字に視線を落とす。

 

「……クラウゼか。手順が違う。緊急とはいえ、まずは局次長のデスクを経て、午後の定時決済に——」

「その午後には、民が飢え死にするかもしれないのです!」

 

 口を突いて出た言葉に、アンネリーゼ自身が血の気が引いた。一介の新人監査官が、秘書官に口答えなど、本来なら即座に免職ものの不敬だ。

 廊下に、凍りつくような沈黙が流れる。

 秘書官は無言でアンネリーゼを睨み据えた。その目は冷酷そのもので、アンネリーゼは自分の心臓の音がうるさいほどに聞こえた。

 

「……通したまえ」

 

 部屋の奥、巨大な執務机の向こうから、重厚な声が響いた。

 局長その人だった。彼は眼鏡を外し、疲弊した、しかし恐ろしく光る眼でこちらを見ていた。

 

「秘書官、その書類をこちらへ。……おい、新人。クラウゼは今、何をしている」

「は、はい! 私が書類を届ける間に、出張の荷物をまとめております。一時間後の列車に飛び乗る手筈です!」

 

 局長はフッと短く鼻で笑った。

 

「相変わらずあの男は、動く時だけは宰相より早い」

 

 局長は申請書に素早く目を通すと、羽ペンをインク瓶に浸し、サラサラと驚くべき速さでサインを書き込んだ。そして、デスクの引き出しから、ノルトマルクの黒鷲の紋章が刻印された、ひときわ上質な白紙を取り出す。

 

「これが大臣から預かっている、全権委任の『憲兵護衛命令書』だ。現地の全憲兵は、これを持つ者に絶対服従せよ」

 

 局長は慣れた手つきで、その命令書に内務省地方管理局の赤い官印を力強く押し付けた。ガチャン、という重々しい音が、アンネリーゼの耳に心地よく響く。

 

「持っていけ。そして、ザラントの人々を飢えから救ってこい」

「はい! ありがとうございます!」

 

 まだインクの乾ききらない命令書と申請書の控えをひったくるように受け取り、アンネリーゼは回れ右をして再び廊下を走り出した。

 背後から給仕の、廊下を走るなと言っている、という怒声が聞こえたがもう関係ない。

 地方監査課の部屋に飛び帰ると、課長はすでに大きな革鞄を抱えてドアの前に立っていた。アンネリーゼの手に握られた黒鷲の紋章を見るや、ハインリヒは不敵にニヤリと笑った。

 

「上出来だ、フォルマー! 予定より5分早いぞ。さあ、行くぞ——監査官の仕事がどんなものか、現地で教えてやる」


 地方監察課は急な派遣が珍しくないので、職員は最低限の旅装を職場に置いている。その鞄を引っ掴んでハインリヒの後を追う。

 二人は、ベルクハイムの喧騒の中へと、激しい足音を立てて飛び出していった。

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